イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

今も縄文時代も、信じる人と信じない人の見え方の差は?(ストレスを楽しむ 2/10)

2015-07-21 | 第一章「意識と知覚」

 長年勤めた会社を辞めてから、心理学を学ぶ学徒でもあるので、自分の知覚がどのように変わっていくのかとても興味があった。心理学の分野に、信じて見えるもの見えなくなるものを研究する分野があり、信仰ではないが、企業に勤めて毎日暮らすこともプチ・信仰といえないこともないので興味があったわけである。

 私の場合は会社を辞めて2-3年すると、良いにしろ悪いにせよ会社から抜けてきたようである(ちょっとへんな言い方だが)。会社に勤めると気にならないストレス曲線がある一方、やめると気になってきたり、反対に気になるストレス曲線が気にならなくなってきたりである。

 これは、就職の問題であるが、信仰の問題も基本は同じである。ただ、人間のこころを大きく占めるところがあるので、劇的変化を感じることも。日本の諺にもなっているが、「眼からウロコ」は聖パウロの体験から来ているが、イエスに対して敵対していたパウロが、ある日の体験で眼からウロコとなり、宗教的立場も劇的に変わる。そんなことがあるのだ。

 仏教にしろキリスト教にしろ、私は、個人的にそうした体験を聴いたり話したりしたが同じようである。劇的に信じて見える部分があり、逆に見えなくなるところがあるようだ。

 ストレスを楽しむ・・・こんなことを今回考えているのだが、ストレス自体も柱がある人とない人で感じ方が違うという理論がある。今、縄文時代の小説を楽しんでいるが、恐らく縄文時代でも何らかの信仰を持つことで変わる部分が当然あったのだろう。それは個人的体験という分野もあれば、成人式のようなイニシエーションの形式をとり集団的に行うものもあったと思う。一人前の成人になるということは、恐らくストレスをどこかで楽しむような、そんな部分もあったかもしれない。 

ストレスを楽しむ 2/10

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暑いです・・太陽を射りたい!(ストレスを楽しむ 1/10)

2015-07-20 | 旅・雑記帳

 縄文時代の祖先がどこから来たかという点で、その一つの北方ルートが現実味をおびているが、東北アジアのツングース系の民族にも伝わる神話で複数の太陽を一つにするために弓でいくつかの太陽を射って落とす神話がある。今読んでいる山口博著「万葉集の中の縄文発掘」では尖石遺跡(縄文中期)から出土した線刻画が、この系列の神話に近いのではとしているが、実に興味深い。

 ギリシャ神話でもヘラクレスが太陽神を射ようとする話があるが、かなり古い(アフリカ出立以前)時代にこうした太陽を射るという神話の原型があるのかもしれない。そして、その系譜が身近なところにあるのだ。

 しかし、毎日暑い。太陽ひとつでも持て余しぎみです。ちょっと最後の一つの太陽まで撃ち落としたい・・・そんな気分も。

 天体の中で、恐らく人類にとって最も影響力のあるものは太陽なのでしょう。その太陽を射る。なかなか大それた話です。

 この話を聴いた時、昔若いころに話題に出たニヒリズムという言葉を思い出しました。最高の価値が崩壊したときの状態、そんな状態がニヒリズムのようです。今の時代、一見最高の権威であった〇国憲法。それから、日本人の生命財産に深い関係がある原発問題のあつかい方。良いか悪いかは別にしてニヒリズムの時代のようです。ひょっとしたら、最後の太陽まで間違って射ってしまったのでしょうか。

 しかし、社会はとにかく、自分自身の中に太陽というか柱を持つことが大切なのでしょう。それがまずは大事なんでしょう、こんな時代でも。

ストレスを楽しむ 1/10

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春過ぎて夏来るらし白妙の・・・(五感・体感と縄文 10/10)

2015-07-19 | 第二章「五感と体感」

 昨日は、府中の勉強会で久しぶりに萬葉集などを使って、「生き甲斐の心理学」を深めたが、その中で女帝・持統天皇の次の歌をいろいろ味わった。

春過ぎて夏来るらし白妙の衣乾したり天の香具山

 百人一首にも取り上げられ、藤原定家などにも引き合いにだされた歌だが、縄文を意識している私には禊の思想が投影されているのではと、推察してしまった。持統天皇の生育史を拝見させていただくと、645年の乙巳の乱のときに生まれ、幼いころに祖父の石川麻呂が父(中大兄皇子)の謀略で惨殺され、母が病んでしまうという悲惨な事件があった。その後、天智天皇が崩御されてからは、夫、大海人皇子と壬申の乱を戦い政権を担う一翼となるが、その夫・天武天皇も崩御され、自分の一人息子草壁皇子を即位させるため、大津皇子を謀殺する。そして、政権を樹立してから、今や平城京より広大だったといわれる藤原京をつくり、その中の天の香具山の衣を歌うのがこの名歌である。

 当然ながら、天武天皇との時代(春)が過ぎ、罪悪感を感じさせる政治の時代が過ぎ、新しい時代(夏)を迎えるために、持統天皇は禊(ミソギ)をしたと思う。禊の習慣は古代では日本だけでなく一般的であり、この萬葉集でも、次の禊(ミソギ)の歌まである。

 君により言の繁きを故郷の明日香の川にしにゆく(万4-626)

 春過ぎての歌には、衣乾したり・・・で何故衣を乾しているのか、衣の性格は、などが長い年月の中で判らなくなっているが、私は持統天皇の生育史から考えて、少なくとも無意識の世界には禊の思想が隠れているのではと推察する。すると、このハレの歌が実にうつくしくなるように感じるのだ。

 万葉集以前。縄文時代のミソギは、推察するほかはないが、日本書紀などの三貴子の話などきちっと禊が載っていることからして、当然あったのだと思う。日本の神社も禊を意識されているのは当然だし、はだか祭なども残されており、おそらく数千年、時に数万年の禊の歴史があってもおかしくないと思う。

 ふと思ったが、夏は暑いので毎日のように、あるいは水浴などを含めるともっと頻繁に穢れをとる(ミソギ?)ことが多い。持統天皇の夏の時代。頻繁に吉野に通い祈ったことが日本書紀に記されているが、身体だけでなく心を禊、新しい時代を願ったのではないかな・・・と推察してしまう。これは、生き甲斐の心理学の理論から観ても理にかなっているのでは。

五感・体感と縄文 10/10

 

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縄文時代からの愛らしい触覚!(五感・体感と縄文 9/10)

2015-07-18 | 第二章「五感と体感」

 万葉集に出てくる古い言い伝えがありそうな歌。巻第13に多いようだが、今朝はそれを読んで妄想している。

 沼名川の 底なる玉 求めて 得し玉かも 拾ひて 得し玉かも あたらしき 君が 老ゆらく惜しも (3247)

 訳:沼名川の 底にあったこの玉は 探し求めて得た玉なのだ 拾い求めて得た玉なのだ そのようにすばらしい 君が 老いゆくのが惜しい (日本古典文学全集 万葉集3 小学館 387P)

 これは、糸魚川のヒスイを歌いつつ、何か御姫様が年をとらないように祈る(ヒスイの霊力を信じて)・・・そんな歌のようだが、あきらかに縄文時代を彩る翡翠(ヒスイ)にまつわる歌である。

 次の歌も、有名な東国・多摩川の歌だが、これもさらさらと布を晒すイメージと美しい女性が重なる。

 多摩川に さらす手作り さらさらに なに そこの児の ここだかなしき (3373)

 訳: 多摩川に さらす手作りの布の さらさらに どうしてこの娘は こうもいとしいのか (日本古典文学全集 万葉集3 小学館 453P)

 五感の中で、昨日の聴覚もそうだが、触覚もより心の底にふれるような感覚かなと思う。へんな話だが、胃カメラを飲む時に看護婦さんに若いころ手を握ってもらったことがあるが(恐怖で混乱したとき)、不思議に落ち着いたものだ。この二つの歌は、8世紀の萬葉集に収められた歌であるが、その起源・伝説は古いように感じる。ひょっとしたら、5000年前とかの、触覚・体感が言葉を通して繋がってきているのかもしれない。

五感・体感と縄文 9/10

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万葉集のリアル、時間を越えて伝わるもの!(五感・体感と縄文 8/10)

2015-07-17 | 第二章「五感と体感」

  もうじき台風も通り過ぎそうであるが、その後はまた暑さがぶり返すようだ。先日街を歩いていると、街路樹の百日紅がしっかり花をつけていた。今年の夏。やりたいことは山ほどあるが、まあ、無理をしないで自然体でいきたい。

 さて、今日は8月末の四ツ谷勉強会の準備をしていたが、萬葉集などの和歌を中心に勉強内容を決めていければと計画している。当然ながら、私の頭は縄文時代が抜けないので、萬葉集が縄文時代を探る一級の資料であることが判ってきたこともあり、また、心理学の面でも俳句・連句療法という分野があるので、繋げて楽しみたいと思っている。日本では古来から歌を大切にし、かつては武士の時代など戦いに行く前に、連歌や茶を認めることが大事にされていた。こころの健康という面で興味ある内容になればと思う。

 そもそも、最近ある人から、企業の研修でストレスを話題にすることが多くなったと聴いた。考えてみれば、わたしもかつては、ストレス解消といえば、酒やたばこ、レジャーくらいしか思いつかなかった。しかし、臨床心理の知恵は、暗い感情を重視し、それを味わったり、その背景の理想と現実を探ったり、理想と現実のギャップの解釈をいろいろしたりすることで、健全にストレス曲線を真逆の幸福曲線に変えたりするのである。このあたりの理論は、幼稚園から大学、あるいは家庭や職場でも教えてくれない。寂しい限りだ。

 話は変わるが、聴覚と文学ということで、小泉八雲の「日本の面影 小泉八雲」(100分de名著)の録画を昨晩観た。これまた、聴覚と文学ということで、興味深かったが、萬葉集にも同じように聴覚が大事な働きをしている歌がある。有名なところでは、元明天皇の作といわれる、次の歌だ。弓の弦の音が不安(恐怖かも)をかきたてる歌だ。

ますらをの鞆(とも)の音すなりもののべの大臣楯(おほまへつきみたて)立つらしも

 視覚による知覚はいろいろあるが、聴覚に働きかける文学は実に奥が深い気がする。この元明天皇の歌も、その不安感が1300年以上の時間差を通してリアルに伝わるようなのだ。現在国会で揺れている安保法制の問題も、何となく元明天皇の不安感に繋がるようでぞくっとする。

 これは、縄文と直接つながるわけではないが、高橋虫麻呂の歌の中に縄文時代?に遡るような古い習慣などを研究されている方もいるようで、時間を隔てた縄文のリアルが万葉集の中にあるのかなと妄想しわくわくしてしまう。これは夏休みの宿題として楽しみたい。

 五感・体感と縄文 8/10

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