イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

犬は15,000年のお友達!

2007-11-15 | 第十章「今ここでの恩寵」

 狼が人間と生活するようになり犬となったのは、東アジアで15,000年前ごろらしい。丁度そのころに、現世人類は定住という新しい生活を始めたようである。

 犬のDNAの研究から、そんなことも判るらしい。虱のDNAからは現世人類が衣服を着はじめた時期が7万2000年前ということが推定できるようである。

 このところ、こんな風に時折物思いに耽り、昨日記した「5万年前」を読みながら感動している。「ムー大陸から来た日本人再び」(竹内均著、徳間書房)、「日本語はいかにして成立したか」(大野晋著、中公文庫)、「遺伝子で探る人類史」(ジョン・リレスフォード著、講談社)、そして「モンゴロイドの道」(科学朝日編、朝日新聞社)なども拾い読みしている。

 読んでいる間は、頭は数万年前である。家族も、様子を見て少々諦め気味である。

 そんなことで、寝不足気味で本を読んでいるのだが、仔犬のコナツや親犬のノコが、時々やってきては、足元で遊んでいる。

 マルチーズは、恐らくヨーロッパ人が持ち込んだ犬であるが、マルタ島で長年飼われて珍重されてきた犬でもある。室内犬の歴史も古いのか、不思議なことに毛が抜け変わらない。人間の髪の毛と同様に、どんどん伸びる。従って、定期的にカットを娘がしている。

 人間の髪が、どんどん伸びるようになったのは、髪を手入れするようになったために、遺伝子的に変化したからと「5万年前」にある。すると、マルチーズの毛も同様に、ペットとして順応するために遺伝子的に他の犬と異なる、進化を遂げたのかもしれない。もし、ご存知の方がいらっしゃれば是非教えて欲しい。

 いずれにしても、人間のペットである犬は、人間との生活の為に、遺伝子まで変化している可能性が高い。そして、15,000年前と同じように、飼い主に忠実な動物として生活している。最近、ペットといっしょにお墓に入る人の事情が、テレビで放映されていたが、人と犬とはそこまで深い繋がりがあるようだ。

 私も、若い頃は宇宙人に憧れたことがあったが、今は人類の<今ここ>の友達である犬の方に興味が完全に移った。犬と人間の共生を考えることは、愛や命を考える上で参考になるようだ。

 人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします!


源流を求め今を考える!

2007-11-14 | 第十章「今ここでの恩寵」

 秋の公園は美しい。府中の森で見つけた池に、注がれる小さな滝。そして、そこから広がる波紋。

 今ここで、を考える旅に出たはずなのに、何故か過去を、しかも人間の源流を求める旅に出たようである。U先生から薦められた、「5万年前」(ニコラス・ウェイド著 イースト・プレス1,785円)はヒトゲノムから読み取れる、恐るべき人類の歴史を、判りやすく書いた本である。

 それまでの、人類の苦難の歴史もあると思うが、約5万年前に東アフリカの、約5,000人の集団から旅立った少数集団が、現代の人類の源流であるという仮説がある。

 過酷な環境から、命を賭けて旅立った集団は、当時は健在だったネアンデルタール人やホモ・エレクトスの古人類と戦いながら、最終的には世界に広がって行く。

 源流を求める旅は、今ここにある、人間同士の葛藤や戦いを、別の視点から捉えなおしてくれる。身近な人との争いや、それこそ宗教に端を発すると報道される戦いまでである。

 そして、もうひとつ、今始めようとしている、個人の働きの意味である。

 生き甲斐支援の心理学・カウンセリングの普及活動も、ささやかな、ひとつの始まりと考えると、何か厳かな気持ちになる。これは、同志と私のことであるが、多くの方もそれぞれの貴重な、はじまりがあるように思う。

 冬に向かう、ある意味で寂しい時代かもしれないが、その先に、きっと何かがあるように思う。一人ひとりが持っている遺伝子の中に、私たちの共通の貴重な源流が隠されている。

  人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします!

 


こころの静けさ!

2007-11-12 | 第十章「今ここでの恩寵」

 50歳台後半に突入して、時々知力、体力その他の衰えを感じることがある。若い頃、30代、40代のころであれば、衰えていく自分を受け入れることは、恐らく出来なかったと思う。

 今の自分は、意外と静かにそういった自分を受け入れ始めているところがある。人生の秋、そして冬。死。

 勿論、私はカトリック信徒であるので、死の先に春を想うところがあり、日本人の平均的な死生観でないかもしれない。ただ、老いは、今まで出来ていたことが出来なくなるという、世界であることは変わりがなく、やはり何処か寂しいものである。

 ただ、その事実を静かに受け入れるとき、何かが見えてくる気がする。

 人生の盛時に、華々しい自他共に認める成果を出すことで、満足することも良いと思うが、朝目覚めることが出来て感謝、ご飯を食べて感謝、お風呂に入ってまた感謝という世界もあると思う。

 ハナミズキは春に美しい花を咲かせるが、今は秋に赤い実をつけ、どこか重厚な葉を落とす様が好きである。秋のハナミズキを味わえる今に感謝である。

  人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします!

 


他人が知ってて自分が知らない自分!

2007-11-11 | 第十章「今ここでの恩寵」

 今週は、他人が知ってて自分が知らない自分、をいろいろ勉強した。自分のことは自分が一番知っている、ということもある意味で真実だと思うが。長年自分を、ずっとやっている中で、自分の一部分(大部分?)が何かの拍子で見えなくなったり誤解しがちであることも真理であると思う。

 見えなくなる理由のひとつに、心理学用語で自己概念というものがある。自分はこうであると思い込むことであるが、それが間違っていると、いろいろ悩んだりする原因になる。例えば、私は長らく自分は整理整頓が上手だと思っていたふしがあったが、実は整理整頓が下手なのである。

 整理整頓の上手な人は、仕事の終わりにきちっと整理整頓の習慣があるが、私は仕事の終わりにきちっと整理整頓ができない。従って時間が経つと、だんだん散らかり、混乱の状態になってくる。そして慌てて整理整頓を強いられる。それでは本当は整理整頓が下手なのだが、どこか上手だと思い込んでいたふしがあった。

 注意され、ある程度努力したので、できるようになったと思い込む錯覚は怖い。状況が変われば元の木阿弥になることは多いのに、自分はこうだという思いは変わらない。

 自分はこういう人間だというリストを作ってみよう。50項目ぐらい書いてみよう。そしてそれを信頼できる人にみせてみよう。その中に、「そうかしら?」といわれていることがあれば、ちょっと見栄を捨てて研究する価値はある。

 意外とその研究の中で、自分を苦しめていたちょっとずれた自己概念を発見できるかもしれない。

  人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします!


雨が降っても槍が降っても・・・

2007-11-10 | 第十章「今ここでの恩寵」

 継続は力だと思うことがある。石の上にも3年という言葉があるが、確かに実感できる。先日、カウンセリング勉強会を、3年前に開始したときのメンバーで行ったが、しみじみと3年間の意味を実感した。

 自営の職業につく場合についても、知人から3年が重要だと教えられた。2年で断念するケースが多いとのことである。知人は3年目で芽が出たそうである。

 3年間、同じことを継続するということは確かに大変だと思う。建前だけでは、継続できない。本音が伴ってはじめて継続できるのではないかと思う。

 自分の本音は、判っているようで意外と判らない。金銭、名誉、・・・そんなフィルターが絡むので、意外と自分の本音をつかむことは難しい。

 自分は何のために生きているのかと自問自答する。生きがいは何だろうかと、もう何回も自問自答した問いを出してみる。

 雨が降っても、槍が降ってもやり続けたいこと。もう一度考えてみたい。

 人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします!