イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

美しい怒りを胸に納める・・今も縄文時代も (3/10 心理学の世界と縄文)

2022-09-11 | 第十一章「五感で面白おかしく」

「怒り」について考えている。特に神聖ともいえる怒り。私はカトリックなのであるが、美しい仏像など日本の宗教芸術を見るのが好きだ。穏やかのお顔の仏像もあるが怒る仏像もある。どこだったか奈良のお寺で曼荼羅図を見たが、その時たとえ怒りであっても、その感情の裏には神聖なものがあるように思った。純粋な怒りは美しいのではないだろうか。表面的な体裁を繕った言い訳がましい怒りなど、私を含めた凡人にある怒りと一線を画した怒り。魂(欧米では愛そのもので死ぬと身体から離れる生命体というような定義が多い)の怒りともいえるような。

また、怒りの中には何とも言えぬ自己愛の臭いがするような不健全な怒りもある。今の世の中、どうも美しい怒りが何か隠れがちで、どうも変な怒りが横行するような時代なのかなとも思う。アンガーマネジメントという言葉があるが、どこか違和感を感じる。

さて、このブログでも何回か語ったが、縄文土器の縄文中期の釣手土器の中に、優しい女神像(イザナミか)の何とも愛くるしいお顔で中の灯(カグツチのイメージを想像するが)が何とも印象的なのに、反対側に骸骨のような恐ろしい顔が描かれている土器がある。それはひょっとしたら激しい怒りの表情とも思えるが、それが女神の二面性を表していて聖なる意味合いがどこかに隠れているように感じてならない。このあたりは、最近「山麓考古 18」1995年、田中基先生の論文を読んでの感想だ。

もし、そうした釣手土器が、記紀に描かれているようなイザナミの黄泉の国の神話の一部を表しているとすれば、縄文時代にも神聖な怒りの概念があったとも言えるのではないか。

さらに、いくら神聖な怒りでも、それを放置することは危険であることは経験上言える。神聖な怒りの意味は非常に大事でじっくり考える必要はあるが、とりあえずそれを胸の中に収める(健康的に)必要があると思う。その一つが人類の知恵の防衛機制、フロイトの昇華が一番良いのではないか。それにはイザナミの黄泉の国の神話のように物語の構造をもつ。日本神話だけでなく、ギリシャ神話とか、世界の語り継がれた神話は神聖な怒りの処理のしかたにヒントを与えてくれる。

3/10 心理学の世界と縄文い

------------------------------------------------------

「縄文小説 森と海と月 ~五千年前の祖先の愛と魂~」

縄文中期の関東・中部地方を中心にした愛と魂の物語です。

入手方法

1.紙の本の入手については・・・

  四ツ谷サンパウロさんへ 定価(1,500円+税)送料別。

  電話:03-3357-8642(書籍・視聴覚)

    住所:〒160-0004 東京都新宿区四谷1-2  

 なお、国会図書館、八王子市図書館でも閲覧できます。

2.電子書籍版はアマゾンさんで、1000円で購入できますが、

  Kindle unlimitedなどの特典で無料でも読めます。 


       森裕行

 --------------------------------------------------------

 

 

 

 



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。