今日は11月22日。いい夫婦の日だという。日本のいい夫婦。いろいろあると思うが、古代の天武天皇・持統天皇のことを今朝は思い浮かべた。壬申の乱のときに戦友であったご夫婦だが、中でも、女帝の持統天皇のことを思いめぐらした。
来週行く伊勢神宮。第一回式年遷宮は持統天皇が行ったことに象徴されるように、その当時の影響は様々な面で現代にまで及んでいる。
たまたま、読んでいた歴史読本6月号に、「歴史のなかの伊勢神宮と出雲大社」という、新谷尚紀氏の論文があったが、その中に持統天皇の万葉集の歌が紹介されていた。
北山(向南山)に たなびく雲の 青雲の 星離(さか)り行き 月を離りて
このブログでも何回かとりあげたが、この歌は天武天皇が崩御されたときの哀歌。
この歌に出てくる北山は天智天皇の御陵ではという説(斎藤茂吉)があるとのこと。さらに、青雲は天武天皇を象徴していると思われるが、東の方角に向かうイメージが込められているのではと思ってしまう。
持統天皇は天武天皇が崩御されてから、藤原不比等に接近するが、藤原不比等も天智天皇の子供であったという説もある。それを仮定すると、この歌がますますがイキイキとしてくる。持統天皇が夫の死に際し、何を決意したのだろう。
因みに天武天皇の御陵は藤原京の真南にあるのだが、その位置は東経135度48分28秒で、この線上に天智天皇(天武天皇の弟、持統天皇の父)の山科御陵がある。
そして、太陽信仰は東西の線が大切なのだが、天武天皇の御陵(北緯34度28分7.5秒の真東に伊勢神宮(内宮 北緯34度27分18.00秒 外宮 北緯34度29分14.05秒)が位置する。当時の天文学等の技術にも驚くが、古代の太陽信仰に対する熱い想いにも驚嘆する。この東西の線は春分、秋分のときに太陽の通る道でもある。
持統天皇が、この哀歌を歌い、その後、極めて不安定な政権運営から藤原不比等と接近し律令制度を完成させていく。その中には甥の大津皇子を排したり、様々な辛いこともあっただろうがくじけなかった。持統天皇は、当時としては高齢の57歳のときに持統天皇は崩御される。そして、天武天皇と同じ御陵に合葬された。
日本の律令国家の思想は持統天皇の崩御されたあとも受け継がれ、今年は62回目の式年遷宮となる。ロジャースではないが、身に付いた思考や思想は(借り物ではなく実感をともなった)賛否両論はあるにせよ本当に強いと思う。
旅の意味③ 4/10