昨晩は、知人から教えていただいた蛍の名所?に立ち寄ってみた。暗闇の中で蛍が高く一匹飛んでいるのを観て感動したが、小川周辺で飛んでいる蛍はそれきり。でも、一匹でも素晴らしい蛍を観られたのは幸せだったと思う。
こうした体験。振り返ってみると、生き甲斐の心理学でいう体験過程の問題と重なっていることに気付く。
体験は、決して客観的なものではない。現象学的なロジャースの性格形成論の第一番目に次のような命題があるが。体験・経験を考える上での至宝だと思っている。
命題1:個人はすべて、自分が中心であるところの、絶え間なく変化している経験の世界に存在する。
蛍一匹を観て感動するという体験のきっかけは、はじめは自分の中の異物のような体験から始まった。特徴は、特に感情を伴うわけでなく、ふん・・そんなものか・・的なものである。
初めて蛍を見たのはどこだろうか、あまり記憶にないが、幼い頃に武蔵野の親戚の家に遊びに行ったときのようだ。その後、蛍を意識しだしたのは、時が随分経ち50歳代後半になってきてからだ。しかし、多摩動物公園の昆虫館の中で観ても、それで終わっていた。
それが、自然の蛍を見たいと情動が活発化してきたのは、遠野に興味をもったり、役小角の日本古来の山岳宗教に興味を持ってきた最近である。何となくバクとしていたものが、立ち上がってきたようだ。ただ、これが自分にとって何を意味しているのか、まだ良く判らない。
健全な体験は一般的に不思議な過程を辿る。ちょっと、自分の例を思いだしてみる。父も祖父も理科系だったので10歳代に国語を疎かにしたため、中学2年の時には国語の成績はクラスでも下の方になっていた。そんな私が、受験というきっかけで国語を勉強するようになり、さらに好きになっていく過程。これは自分にとっての貴重な健全な体験過程の原型だと思う。成績はまあ浮世のものであるが、浮世とは関係なく嫌いな人が好きになるとか、自分の生き甲斐を探索するなど、人生にとって大事なことで、私の原型は役立っているようだ。
ただ、こうした体験の物語は、自分だけで成るものではなく出会いがあって初めて成るところがあり、実に神秘的だ。
思えば、生き甲斐の心理学を学んでいく過程そのものも、学生時代の心理学との出会い、創造工学との出会い、U先生との出会いなどである。
写真は、蛍ではないが、薬師池公園で移した写真である。撮ったときは気づかなかったが、蜘蛛の糸が何とも不思議な美を奏でていたのだ。感動的ですらある。
プロセススケールを考える 8/12