今の世の中、結構ドライである。選別もあり、XX格差あり、・・・かつての数十年前の甘えの構造社会はどこに?といった感じだ。その元凶は、欧米的なデジタル的、オンかオフといった思考がはびこっているかなと思う。もちろん、それも良い面もたくさんあるのだが。
幸福に関しても、幸福の数値目標的な思考をするのが当たり前のようなところがあるのではないか(かつての私もそういう傾向が強かった)。しかし、人生はいろいろある、突然のXX, 時には自分の死をまじめに考えざるを得ないときもある。そのときに、幸福の数値目標的アプローチは見事に破たんしてしまう。お金も名誉も家庭も仕事も、いったい死に対してどういう意味があるのだろうとか。
そもそも、数値目標を達成したところで幸福は得られるのだろうか?数値目標に向かって走っているときはいい。なんとなく潜在している劣等感でさえ、社会性をおびた幸福の数値目標に向かって努力しているときは、それなりにバランスがとれて心地よいものだ。ときに他者を蹴落とし、ときに自分の感性を無視し・・・それでもなんとかやってこられるうちはいい。
雑巾の水を絞る。それなりに水がとれるものだ。しかし、もう乾いたぞうきんの水をしぼる虚しさ。数値目標の水のしずくはいかに?
先日、盛岡城址に行き啄木の詩碑を眺めた。
「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」
啄木は優秀な盛岡中学でカンニングをして退学になるそうだが、そのころの心境を追憶しているのだろうか。
彼の有名な句で、私の好きな歌もある。
「友が皆 我より偉く 見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻と親しむ」
石川啄木は、ある意味で幸福の数値目標を追求しつつ、破たんする中(経済、結婚・・・)で、もう一つの世界を見た人だと思う。
この世的には、数値目標は大切だ。しかし、命は決して数値目標だけでない。真善美の世界・・・みずみずしい感性の世界が別にもある。それは、アナログの世界であり、数値目標の世界の住民であれば見えなくなりがちの「ほどほどの世界」かもしれない。
十五の心の青空は・・・お金をくれるわけでもない。名誉を回復してくれるわけでもない。
フェルマーの最終定理を解き明かすまでに真理の研究に参加した人の多くは、この世的には何の価値もほとんど(今のところ)残していない。
キリストやブッダもこの世的に何の価値があるかといえば無いといえるかもしれない。
幸福の数値目標で疲れたとき、啄木ではないが、別の幸福の感情の世界を思い出すといいかもしれない。別の価値の世界がひらけるかもしれない。
愛の心理学 1/10