イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

不意をつかれるのも糧だったり。(ありのままになる 2/10)

2015-10-07 | 第七章「光と復活体」

 昨日は、久しぶりに好天に恵まれた江の島の近くの腰越での勉強会を楽しんだ。ところが、なんと忘れ物をしたため、いつものように海岸の散歩もできず、海は道端で見たこの写真だけだった。

 しかし、この写真、海辺に近い位置からとったいつもの景色と違い、江の島が実にまじかに迫る景色。え?と驚いてしまった。いつのまにかできた腰越のイメージが一変してしまった写真だった。

 これは景色のイメージだが、突然のことというのはある。某国の首相は国連で外国人記者から突然想定外の質問を受けたそうだ。そして慌てたとも伝えられる。想定質問を答弁する人が考えるというのはどの世界でも当たり前だと思うが、あらかじめ質問が決まっていて、それ以外だと答えられないというのは俄かに信じられない話である。しかも時節柄誰でも質問しそうな問なのに。

 まあ、世の中、自己概念と違うことが起こることはままある。そして、それを困ったことだと考えることもあるが、この年になって俯瞰して考えてみると、意外に大切な一歩を始めるためのきっかけになっていたりする。つまり糧となっているのである。

 そして、思う。最近自分はどうなのか?糧を拒否しているのではないか?

 次の命題11の(a)(c)はこの場合糧なのだろう。(c)でもいいではないか。

命題11:いろいろの経験が個人の生活において生起すると、それらの経験は、

    (a) なんらかの自己との関係へと象徴され、知覚され、体制化されるか、

    (b) 自己構造との関係が全然知覚されないので無視されるか、

    (c) その経験が自己の構造と矛盾するので、象徴化を拒否されるか、もしくは、歪曲化された象徴化をあたえられるか、のいずれかである。

ありのままになる 2/10

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