「隣る人」を昨日観た。日本カトリック映画賞の授賞式もあり、刀川監督や菅原理事長の鼎談まで聴かせていただき、いろいろ考えた。
8年かけて「光の子どもの家」という児童養護施設を画いた映画であったが、人間にとって基本的な命題。他人を支援するとは何かを考えさせられた。こんな言い方はちょっと変だが、変な言い方になるのは、恐らく自分の中でもまだ消化できない問題があるからだろう。
私も28年、普通のサラリーマン?をし。その後で、U先生の影響もあるがグループリビングを目指したことがある。その為に、5年間福祉の勉強をしたり、実際の仕事として障がい者の当時者運動の施設で働いたり、老人ホームで働いたりもした。勿論U先生の「生き甲斐の心理学」(臨床心理学がベース)を学びつつである。
他人に寄り添うこと。それは、何も特殊なことではないが、福祉や医療等の世界では、それを仕事とする一方で自分の生計をたてる一面をもつ。他人も大切であるが自分も大切。この綱引きがあるのだ。そして、当然だが組織や法律などがあり運用されている。この中で、他人に寄り添うことの意味がバクとしてくる。
これは、家庭でも同じだ。子どもを育てる。介護をする。肉親だからといって、やはり自分とは違う他人でもある。他人も大切であるが自分の大切。この綱引きの中で、何かがバクとしてくる。
さて、U先生から学んでいる「生き甲斐の心理学」。これは、日本人の為のカウンセリング理論でもあるので、支援者の役割も当然定義されている。それは、シンプルに「被支援者の自己実現を援助する」・・・である。生身の人間の自己実現を援助するとは何だろう。比較文化論や比較宗教学を基盤とした世界に通じる人間観の一つとしては、人間は身体と心(臨床心理学の対象)と魂(宗教・哲学の領域)からなるである。そういう、不思議な存在としての人間の自己実現を支援するのだ。
魂を持つ人間とは何だろうか? いろいろ理論があるが、魂を愛そのものと考えるのが私は好きだ。そして、愛そのものの魂をもつ人間を支援するとは何だろうか。
自分と血縁関係もない人に、自腹を切って支援する保育師や施設長。常識という一線を越えてしまう理由は神秘的だ。
支援すること 1/8