「生き甲斐の心理学」の勉強会を八王子や多摩でもう8年続けているが(次の秋以降は、もっと新しい方をお呼びしたいと考えている)、その中で、「嫌いな人」の話が結構出てくる。苦労されている方も多いと思うが、私もその問題には昔から関心が高い。
人は初めて他人に会うと、瞬間的に好きか嫌いかの感情を持つらしい。感情を意識に上げやすい人とそうでない人がいると思うが、いずれにしろ好悪の感情はどこかで働き、人はそれに翻弄されたりする。そして、通常はその好悪の感情はなかなか変わらない。心理学の教科書に載っている、だまし絵で一つの絵に、一枚の絵が老婆に見えたり美女に見えたりする絵がある。そして、いったん老婆に見えるとなかなか美女には見えないのが人間の常だ。
嫌いな人を避けて生きることができればよいが、しがらみで避けられないこともある。仕事のしがらみ、組織のしがらみ、血縁のしがらみ・・・そして、自分が嫌っている嫌いという原初感情を抑圧・抑制しつつぎこちなく対応したりする。しかし、感情はリアルであり、他人から見ても結構判るものである。物事が上手くいかないのは当たり前である。
さて、今回は嫌いな人が好きになっていく過程をちょっと考えてみよう。実は、「一房の葡萄」は熟読すると、そういう物語であるかもしれないと気付く。時間のある方は次をお読みいただければと思う(短い時間で読める児童文学です)。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000025/files/211_20472.html
この短編の中に出てくる登場人物は、日本人の僕と、西洋人の友達ジム、そして西洋人の若い女教師である。そして、「僕」がジムに感じている感情はどうか。
小説の冒頭には、ジムが身体が大きいとか二つ上だとかという説明はあるが抱く感情はよく判らない。そううち、ジムが素敵な絵具を持っているのに絵が下手だと書いてあり、何か嫉妬とか劣等感(嫌いの感情がベース)をもっているようだ。
それが、絵具が欲しくなってくる情動の中で、ジムへの疑惑感(これも嫌いの感情がベース)が沸き起こってくるようだ。暗い感情が亢進していき、最後に絵具を盗んでしまう。
絵具を盗んでから、物語はそれが見つかり、若い先生の部屋に少年たちに言いつけられに行くように急展開する。ジムが怒りの中で事実を話し、「僕」は後悔の中で泣く。その後、若い先生の適切な対応(心理療法に必要かつ十分のロジャースの6条件など)で、意外にも明るい感情も現れ、「僕」とジムの和解が成立していく。ただ、当初ジムに持っていた原初感情がどう変わったかは、はっきりわからない。若い女教師が主題なので、また当初のジムに対する感情が激しいものではなかったので、そんなものかもしれない。
最後に、「僕」の感情の変化を考えるうえで、大事なロジャースの命題2を次に挙げたい。
命題2:有機体は、場に対して、その場が経験され知覚されるままのものに、反応する。この知覚の場は、個人にとって実在(reality)なのである。
客観的な事実というより、その人がどうとらえたかがリアリティであり、人類70億人が今いるとすれば、70億とおりのリアリティとその反応があるのだと思う。
また、感情はリアリティそのものだと思う。
みんなの性格形成論 3/10