昨晩放映された「平清盛」の録画を先ほど見たが、今回の信西の死を描いた平時の乱は良かった!視聴率は、余りぱっとしないと聞いているが、感動した。
信西は、恐らく当時にあって類まれな奉仕の心のある政治家だったのだろう。また、「生き甲斐の心理学」でいうところの、自己実現を真面目に考え、逃げることなく自己の本音に生き、悔いを残さず死んだ。そう思う。しかし、当時の世にあって、それを好意的に理解している人はごく少数。等価変換創造論を開発された故・市川亀久弥氏の言葉を借りれば「Creative Minority」で、平治の乱に出てくる多くの人(公家や武士)とどこか違う人だった。ドラマでは、一般庶民が信西を慕い祈っている場面があったが、実際はどうだったのだろう。同時代の多くの人からは全く評価されなかったのではないかと思う。
さて、Creative Minorityといっても、特別な人ではないと私は思う。「生き甲斐の心理学」でいつものように考えてみると、いろいろな切り口で考えられるものの、今日は防衛機制の「逃避」で思索してみたい。
逃避: 現状が苦しいので、他のものに心的エネルギーを出して現状の苦しみを回避すること。
今観た、平清盛。平治の乱も、信西の政治改革の中で、ある意味被害者になった武士や公卿は、信じられないように妄想的謀略にうつつを抜かす。
こういう私も、人のことは言えず、重大な逃避をたくさんしている。コンピュータゲームで気を紛らしたり、あるときは仕事で気を紛らしたり、そんな感じである。そして、40歳台後半のある日、自分のありのままの姿を観た。そしてそれから、自分の本音や感情、五感の大切さに気が付いたようだ。恐らく、それまでは自分を見ることから逃避していたのだろう。では、それが自分の力かというと、そうでもないようだ。それができたのは自分を越えるSomething Greatのお蔭と言って良いような気がする(私はカトリック信徒なので神とか聖霊というのが当てはまるが・・)。
とはいえ、逃避する癖は昔とあまり変わらないかもしれない。ただ、生き甲斐の心理学を通して逃避の存在を知ったのが違うところに過ぎない。でも、それも重要。ここ一番の局面というのは、人生の節目に必ずおとずれるようだ。平清盛が熊野詣の時でさえ、鎧兜を離さなかった家貞ではないが、いざという時があるのだ。そういった時に間違いないためにも、逃避という心の仕組みをより理解し、心の眼を曇らせないようにしたい。私は自分をCreative Minorityとは全く思わないが、自分の人生は本質的に自分で見つけるものであり、時に逃げてはいけない時がある。
活発に生きる 10/10