数年間に知人と還暦祝いを兼ねて全国から集まろうというアイデアが、実現化され京都に集まることになった。それで、この機会に奈良を訪れたいと思っていた。
臨床心理学を勉強すると、日本神話や日本文化の深層を知りたくなるようだ。そして、この何年間か、京都や奈良に旅行することが多い(一年に一度か二度)。若いこいころに関西で5-6年暮らしたことがあったが、若いころは奈良や京都といっても、何か表面的な関心に流れてしまっていて、○○に行ったころがある。という記憶はあっても、魂が喜ぶというような実感がないようだ。
これは、いったい何だろう?年をとってくると、やはり死が近づいてくるという実感が出てきたり、歴史も何か、血の通ったものになってくるようだ(私の場合だが)。みなさんは如何でしょうか?
さて、奈良に行きたいという欲求はあったものの、忙しさにかまけて、どこに具体的に行くのかということを直前まで明確化していなかった。紅葉がきれいだとか、さまざまな情報が入ってきても、どこに行くかという具体的なことが決まっていない。そんな中、twitter(facebookやmixiにも)に≪奈良に行く≫とつぶやいた。
そうすると思いがけず沢山反応を頂いた。ちょうど紅葉もきれいだし、最近は天候も良いのもあったかもしれない。メールをいただいたりもし、だんだんどこに行くかが明確になってきた。それに伴い、こころの負担というか漠とした不安が、明確に形をもつようになってきたようだ。
傾聴は、ロジャースの理論を取り入れることが多いと思うが、共感、受容、純粋と一致が大事にされる一方で積極的傾聴法にあるように、感情の明確化や繰り返し等の、ちょっとテクニック的なことも大切にしている。
何か漠とした不安を、やさしく明確になるように言語化する。ちょうど今回の奈良についてのつぶやきについて、読者のみなさんがつぶやいたようにである。
twitter等のつぶやき。何か、傾聴による癒しに似ている。
傾聴力 9/10