40歳前半だったころであろうか、当時の仕事場が西新宿で、十二社の神社の前をいつも通っていた。
ある早朝、神社を通り過ぎるときに、いつもは誰もいない神社に、熱心に一人の男性が祈っているお姿があった。何を祈っているかは当然判らないが、その姿に何か神聖さを深く感じたものだ。
自分以外の他人を、私たちは自分のように、知ることはできない。ただ、偶然他人の本音にぶつかることがある。そして、その方の世界(生育史があり、個性があり・・・)をひたすら理解しようとすると、何か神聖なものに触れ、畏れを感じる時がある。ちょうど神社の前で祈っていた人に覚えた感覚のように。人はものではなく、魂をもった存在だ。
自分の浅い理屈の世界では、賛同できなくとも、その人の世界の一端(ほんのちょっと)を理解し、そしてもう一つ深く納得することはできる。このようなことを、心理学用語で他者受容というのだろう。
他者受容は理屈では教科書に書いてあるとおりであるが、その受容感覚とはどんなものか、そんなことをふと思った。理論はむなしいが。実感は嬉しいものだ。日常の中で受容する体感を意識してみると、良い訓練になるかもしれない。
他者受容は、深くほめるための必要条件の一つだと思う。勿論、他者受容があっての信頼。ということでもある。
写真は、鎌倉、鶴岡八幡宮境内。このお話では直接関係ないが、小学生のころから時どき訪れた神社で、きつい階段が好きである。
(感謝の領域<褒める>20/60)
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