+3Kの牛の如く

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大地を踏みしめて歩く。牛の如く。

ようやく下山

2009年11月03日 | 本州の山
伯耆大山の紅葉を堪能して辿り着いた所は、大神山神社奥宮(おおがみやまじんじゃおくぐう)であった。

伯耆大山は中国地方屈指の霊峰であり、修験の僧が海抜9百メートル超の大山の地に登り、そこに修験の場として簡単な遥拝所を設けるようになったのが大神山神社奥宮の始まりとされている。先日案内した「山ノ神」祠は遥拝所があった場所と言うことである。
「出雲国神仏霊場公式ホームページ」には「神体山の大山には主神として『大己貴命(おおなむちのみこと・大国主命の別名)』が鎮座し給うとされたが、仏教の隆盛による神仏習合思想の広まりとともに、大己貴命に地蔵菩薩を祀り『大智明権現』の称号を当てて神仏混合の神社として奉仕されるようになり、平安鎌倉期には三院百八十坊僧兵三千名とまで数えられるようになった。一方この地は冬期積雪が多く、祭事の遂行が困難なため麓に冬宮を設けて冬期の奉仕を行うようになった。明治時代になると神仏分離令により麓尾高の冬宮を本社とし、大山の宮から地蔵菩薩を除いて大神山神社奥宮とし、現在のようになった」と紹介してある。


大神山神社奥宮は、国内最大の権現造りの社殿ということで、写真のように長い長廊を有している。
奥宮の境内から一段下がった所には奥宮末社「下山神社」(しもやまじんじゃ)の社殿があった。
写真では柱の向こうに見える社である。

境内から神門を見たところである。下る頃ほら貝を吹いてくる遍路姿の人がいた。

その後、日本一と言われる「自然石を敷きつめた700メートルの参道を下り、大山寺経由で登山口に戻った。
明治時代に大神山神社を分離した大山寺は「奈良時代に成立した山岳信仰の霊場であり、養老2年(718年 )に金蓮上人が草庵をむすび地蔵菩薩を祀ったことが起源と伝わる。平安時代に入って天台宗が統括するようになり、西日本に於ける天台宗の一大拠点となった。寺の住職である座主は比叡山から派遣され、ここでの任期を勤めた後、比叡山に戻って昇格するという、僧侶のキャリア形成の場となった。」とウィキペディアに記されていた。
丁度我々が通ったころは、10月24日大山寺大祭の日に当たり、山伏の修験問答や天地四方新谷を放つ儀式「採灯大護摩法要」が行われた後であった。
登山口を後にして、宿泊場所である出雲市のキララコテージに向かった。

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