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金魚のひとりごと

縁日ですくってきた金魚も大きくなりました

父の言葉…再掲

2010年09月12日 | 回想

新聞を開くと…
「県少年の主張大会」のブロック大会のことが載っている

そういう時季なんだなあ~


今から数年前…
長男が中三の時、地区の弁論大会に出場したときの原稿  再掲




 父は、僕たち家族を養っていくために無理をして働いています。
父の体は無理をしないと働けない体なのです。右半身の運動麻痺、左半身の感覚麻痺だけでなく、手の震えなどたくさんの障害が父を苦しめています。
それに、仕事の内容も力仕事で、普通の人がしても大変なことをこなす父は、どれだけ大変なのだろうと思います。朝の七時前に家を出て、夜の七時近くに家に帰る父の作業着はいつも汚れていて汗でびっしょり濡れています。

 僕は受験を前にしたこの一年、自分の歩む道や進学する高校についていろいろ悩んでいました。高校の一覧表を手に机に向って一時間も二時間も考えたことがありました。
 そうして考えていると、父はよく僕の部屋へ入ってくるのでした。最初は部屋を眺めて
「いい部屋だなあ。」と決まって言うのでした。
それから父は僕に進路のことについて聞いてくるのです。僕は、父にも母にも悩んでいることなんて一言も言っていないのに、まるで父は、すべてを知っているかのように、僕の悩んでいたことをズバリと言い当てるのです。父はうまくしゃべれない時があります。言葉が出ないのだそうです。
「上の高校に行ったからといっていいというわけではないよ。かといってしたのよ、うーんと、んー。」
話の途中で言葉が出なくなり、口を開けたり閉じたりして、必死に父は話しかけてきます。

 六年前のあの日、朝ドタドタッとリビングに駆け込んできた父は、そのまま倒れました。
ふらつく足で何度も壁に当たり、父はようやくリビングにたどり着いたのでした。初めは冗談だと思ってしまい、本当のことだと分かった時は、ショックが大きかったです。やがて救急車で父は病院へ運ばれていきました。
 父は命を取り留めました。父が車いすに乗るところを見て僕は事の重大さを知ったのでした。
父は入院中に毎日メモをとっていました。その手帳をのぞいてしまったことがありました。
手帳の初めに「あさ、倒れて、救急車で病院へ」という文字。
父はとても達筆でしたが、手帳に書かれた文字はそうではありませんでした。しかし、必死にリハビリに励む父の姿と重なって、とても美しく感じたことが今でも心に残っています。

 父と話し終え、父が部屋から出て行くと、僕はまた机に向かうのでした。病気を乗り越えて、今の生活にたどり着いた父の言葉一言一言から僕はエネルギーをもらいます。そして心の中に抱いていた、中学校の国語教師になりたいという夢が、父の言葉でより大きく固いものとなるのです。

 中学校の国語教師になる事は、たやすいことではないでしょう。しかし、父のように、コツコツ努力を積んで僕は夢を叶えます。
 父の「素直な心と丈夫な体」という言葉を心の糧にして。





  長男は教育関係の大学に進学し、大学2年生になった
  これからどんな人生を切り拓いていくかは…わからないけど…
  ただ丈夫な体と素直な心があれば大抵のことは乗り越えられるし
  元気で生きていってほしい…と願っている





12月17日‥

2009年12月17日 | 回想

今日は‥
家族の誕生日でもないし
結婚記念日でもない
記念日とは決していわないけど‥忘れる事のできない日です

できることなら
あの日より、もっと前に帰って
もう一度やり直してみたい‥


あの日から今日で丸10年になります

長かったような‥
あっという間だったような‥



1999年12月17日(金)

いつもどおりの朝が始まる
午前7時頃、朝飯を食べて一服を終えたときのことだった
(当時は煙草を吸っていたので‥)
『ガギッ!』と体のどこかで鈍い音がしたような気がした
このまま椅子に座っていてはいけない、
どこか別の場所に移動しなければいけない、
トイレに行きたいこともあってか何故かそんな風に思った

食卓をはなれ洗面所にいき歯を磨く

その時どんな症状だったのかは詳しく憶えていないが
普通ではないことは確かだった‥
後ろのほうがもよおしてきたので、
あわてていたというか、ササッと歯を磨いたという感じだった
その後トイレに駆け込んだ
何かおかしい‥‥

水を流して立ち上がろうとした時、異変に気づいた

普通に立ち上がれない

何度も扉や壁に体をぶつけて
もがいてみるが普通に立ち上がれない
天と地とが逆さになってしまったようだ


何とかなだれ込むように茶の間に倒れこんで
「どこか切れたみたいだ‥」と、言葉を発したことは憶えている


小1と小3の息子も茶の間にいたが、
突然父親が倒れこんできてびっくりしたことだろう

金妻に救急車の手配をしてもらう

意外に冷静だったかもしれないが、体がおかしいということには変わりが無い
その時の状況もあまり憶えていない

救急車がやってきて、担架で運ばれる


病院でいろいろ検査をしてもらい、すぐに集中治療室へ

病名は『脳幹出血』 

医者からは「出血も少なくて運が良かった‥‥」と言われたそうです



自由にならない身体で
「なんで俺が‥‥」
というのが正直なところで‥‥今でもそんなふうに思っている

後遺症として、
左半身は感覚麻痺
(しびれが続き、特に左手、左腕、首、頭が強く感じる 
 汗のほとんどは左半身からで、温度感覚はない)
右半身は運動麻痺
(右利きだが、右手が自由には動かせない バランス感覚も悪い)


以前の仕事にも復帰できずにリハビリの生活になりました



そんな時にブログの世界を知り
自分の病気のことでも記そうと思った

でもブログやHPで後遺症があっても病気に負けないで
前向きに努力している方がたくさんいることに驚かされ
自分の症状なんかは大した事がないと思い知らされました


今も後遺症はありますが、
仕事もして何とか家族を支えて生きています
いや、家族に支えられて生きています

家族には本当に不安な思いをさせてしまって
特に金妻には将来的な面でも
経済的な面でも多大な心配を与えてしまいました

あまり先のことはわかりませんが
これからも家族のためにも何とか生きていこうと思っています

そして、つまらないブログですが
なんとかマイペースで続けていきたいと思っています
これからもいろいろとよろしくです


後で聞いた話ですが‥
担架で運ばれる時、救急隊員が玄関前の庭に
足を踏み入れていいか、聞いたそうです
玄関前の庭にはチューリップの球根を植えたばかりですが
担架を出すにはそうするしかなかったそうです

救急隊員の足跡はいつまでも深く残っていましたが
雪がとけて春になると、踏みつけられても負けなかった
綺麗なチューリップがそこから咲いたそうです




     うっすらと雪化粧‥日中には消えていました‥




丸5年になりました‥

2009年11月19日 | 回想

今朝は冷え込みも厳しく、あたりに霜が降りていた
まわりの山にも雪が降り白化粧している



街路樹の葉も落ち 寒々とした景色になっている




5年前‥
ブログの世界なるものを知り、興味半分で足を踏み入れた
初のブログタイトルは「今日 会社を休みました。」だった
何もわからなかったけど、とりあえずは‥病気や後遺症のことでも
書ければいいかなぁ~という軽い気持ちだった

その後、病気に立ち向かっている人から勇気をもらい
いろいろな分野で頑張っている人から元気をもらった



ある人のブログには知り合いの方がコメントを寄せられ
その開設者が病気で亡くなったことを報告してくれた
その人のブログは今も生き続けているが、コメントを返してくれる人はいない


せっかくコメントを交換できるようになったのに
突然、何の前触れもなくブログを辞められた方もいた

これからのことや身のまわりのことが忙しくて休まれている方もいる
ご丁寧にその事情を報告してくださる方もいる

みんな、それなりの事情を抱えて一生懸命に生きている



金魚のひとりごとも丸5年になり、これが932件目の記事になる
平均すると2日に1記事の割合になるだろうか‥
  そんなに更新しているだろうか‥?

更新も不定期で内容も乏しいブログですが
相変わらず左の人差し指でキーボードをたたいている

これからもこのブログは何とか続けていきたいと思っている


もしも‥万が一のことがあって‥
このプロクを続けることが困難になったら‥
ちゃんとご挨拶したいと思っているし
できない事情があれば、家族からでも報告してもらいたいと願っている

なんてね‥


さあ、寒さに負けないで頑張りましょう 


帰らざる日のために‥

2009年10月29日 | 回想

今朝ラジオから懐かしい歌が流れてきた

生まれてきたのはなぜさ 教えてぼくらはだれさ
遠い雲に聞いてみても なにも言わない
だから探すんだきみと でかい青空の下で
この若さをすべてかけていいなにかを
愛する人がいるなら 求めるものがあるなら
なんにも怖くはないさ そいつが青春
涙はこころの汗だ たっぷり流してみようよ
二度と戻らない今日のために

生きてることってなにさ 走ってゆくのはどこさ
風は寒く笑いながら ほほを打つだけ
だからしるすんだきみと 荒れ果てた土の上に
この力をすべてこめた足跡を
愛する人がいるなら 求めるものがあるなら
なんにも怖くはないさ そいつが青春
燃えてる夢をいのちを のこらず使ってみようよ
二度と戻らない今日のために

愛する人がいるなら 求めるものがあるなら
なんにも怖くはないさ そいつが青春
涙はこころの汗だ たっぷり流してみようよ
二度と戻らない今日のために



帰らざる日のために
テレビドラマ「われら青春」の主題歌
このレコードは買わなかったが
挿入歌の「ふれあい」は購入して聴いていた


当時は青春ドラマや学園ドラマが花盛り‥
というか、年齢的にもぴったりだったのかもしれないが夢中になって見ていた


俺は男だ!   1971.2.21~1972.2.13
飛び出せ!青春 1972.2.20~1973.2.18
われら青春!  1974.4.9~1974.9.29
俺たちの勲章  1975.4.2~1975.9.24
俺たちの旅   1975.10.5~1976.10.10
俺たちの朝  1976.10.17~1977.11.13
俺たちの祭  1977.11.20~1978.4.30
ゆうひが丘の総理大臣  1978.10.11~1979.10.10


ドラマで流れる挿入歌も素敵な曲ばかりで
記憶にいつまでも残っている


なんにも怖くはないさ そいつが青春‥
最近は怖いものが増えてきたような気もするが‥
今も青春真っただ中‥のつもりです


「帰らざる日のために」いずみたくシンガーズ



案山子‥

2009年09月22日 | 回想
もうすぐこの辺でも稲刈りの時期を迎える
そういえば‥
田んぼに昔ながらの案山子を見かけることが無くなったような気がする


そして、この歌を思い出した


        
           案山子   作詞・作曲 さだまさし

      元気でいるか 街には慣れたか
      友達出来たか 寂しかないか お金はあるか
      今度いつ帰る

      城跡から見下せば蒼く細い河
      橋のたもとに造り酒屋のレンガ煙突
      この町を綿菓子に染め抜いた雪が
      消えればお前がここを出てから
      初めての春

      手紙が無理なら 電話でもいい
      “金頼む”の一言でもいい
      お前の笑顔を待ちわびる
      おふくろに聴かせてやってくれ

      元気でいるか 街には慣れたか
      友達出来たか 寂しかないか お金はあるか
      今度いつ帰る

      山の麓 煙吐いて列車が走る
      凩が雑木林を転げ落ちて来る
      銀色の毛布つけた田圃にぽつり
      置き去られて雪をかぶった
      案山子がひとり

      お前も都会の雪景色の中で
      丁度 あの案山子の様に
      寂しい思いしてはいないか
      体をこわしてはいないか

      手紙が無理なら 電話でもいい
      “金頼む”の一言でもいい
      お前の笑顔を待ちわびる
      おふくろに聴かせてやってくれ

      元気でいるか 街には慣れたか
      友達出来たか 寂しかないか お金はあるか
      今度いつ帰る

      寂しかないか お金はあるか
      今度いつ帰る




この春から長男はひとり暮らしをしている
きっと金妻も母親としてこんな気持ちなんだろう

えっ‥金魚は?
もちろん‥それなりに父親として気にはかけている‥
“金頼む”なんていわれたら、どうしよう‥なんてね(笑)



金魚も昔、ひとり暮らしをしていて
両親にはいろいろと心配をかけてきた


親になってみて、長男もひとり暮らしを始めて
あの頃の両親の気持ちがわかるような気がする‥



親とすれば、どんなことでも何とかするから
よけいなことを心配しないで、ただ元気に暮らしてほしい‥





案山子  さだまさし










46年ぶり‥

2009年07月22日 | 回想


日本の陸上では46年ぶりとなる皆既日食が今日見られるという

46年前‥といえば、金魚もまだこの世には生まれていない‥

ん!?最近、廊下じゃなくて老化が進んだのか
自分の歳もあやふやになってきているので‥
まあ、小さいことは気にしないで元気に生きていきましょう!


本県では午前11時頃に太陽の約6割が欠ける部分日食が見られるという

天気も曇り空なのであまりわからないかもしれない




そういえば‥
息子たちが幼い頃、現像後の感光したフィルムをつかい
メガネもどきを作ったことがある








これは危険な日食メガネということで、
太陽を見てはいけません‥と言われているが

この時は何を見ていたのか
この頃は何があったのか‥‥写真を見ても思い出せないでいる





地位、肩書き‥

2009年03月17日 | 回想

そういえば
地位とか、肩書きで
こんなことを思い出しました


その昔、「巨人の星」なるアニメがあった
主人公 星飛雄馬は極貧の環境だったが
進路希望用紙に父一徹が書いた高校は
学力も高く、金持ちが通う青雲高校
いろいろな葛藤もあったが
お坊ちゃま高校の青雲高校に入学すべく
飛雄馬は面接試験に臨んだ

ブルジョワ親子ばかりが集う待合室
つぎはぎのあたった制服にざわつく面接官たち

面接で父の職業のことを
「僕の父は‥日本一の日雇い人夫です」と
堂々と述べていた





金魚が退院して
以前の職場に復帰した時‥もうずっと前のことだけど
そうそう、初日に当時の小渕首相が倒れて
入院したというニュースも飛び込んできたっけ‥


早く職場に戻ればなんとかなる‥と
焦っていたのかもしれない

なんとかなるどころか
以前と同じ仕事はできない現実があった

右手ではペンも持てないし
左手で書いた字は決して達筆ではない
(以前は達筆?で会社の書きものもしていた‥)

取引先との商談とかでは電話は欠かせないが
言葉に詰まることもあり、
上手く話せない金魚は
受話器を取るのも躊躇してしまうようになった

最初はまわりの人も
いろいろ気遣ってくれたかもしれないが
前のようにはできないとわかると
それなりに戸惑いもあっただろう

会社としても‥
上司としても‥
これまではすぐにやれた人間が
半分もできないとわかると‥
それなりの対応があったかもしれない

冷たい視線を感じるようになってしまった

民間企業は決して慈善事業をしているわけではないのだから
給料を同じようにもらっていれば
前と同じようにと期待するのは当然のこと

もちろん、自分の努力、頑張りも必要だけれど
どうにもならないということもある‥

焦っていたかもしれない

自分の今の力では思うようにはできないし
まわりの視線も特別なものを見るように感じていた


そして、自分で決断した


もしも、公務員(安定性)とかだったら
石にかじりついてでも、
今のところにとどまろうとするかもしれない

ちょっと休んで、それなりにリハビリをして
立ち上がりたいと思う
たとえ、土方をしても、みんなを路頭に迷わすことはしない
なんて‥金妻に言ったと思う


その後、いろいろなことがいっぱいあって


何とか今の職場にお世話になって
それなりに生きている、いや生かされている


はじめて会う人は
何のこだわりも持っていないし
普通の人との違いも感じないかもしれない

もしも、以前の地位と肩書きにこだわっていたら
こんな風には生きられなかったかもしれない


たまには体調不良で休んじゃうこともあるけど
ゆっくり休んで
また、立ち上がっていこうと思う

さあ、明日も頑張らなきゃ~


美しいノート

2009年02月08日 | 回想
先日、
長男が受験対策に必要な本があるということで
隣町の大型書店へと足を運んだ


広い店内‥
金魚も彼方此方歩き回り立ち読みをしてみた

「東大合格生のノートはかならず美しい」

聞いたことはあるが、手にしたことはなかった

長男は東大を目指しているわけではないから
必要ではないが‥パラパラっと立ち読み



そういえば‥

高校1年生の時
病気のため入院した時があった
必然的に学校も休むことになった

その時に
クラスメートが授業に遅れないようにと
ノートをとってくれていた

夏休み前だったのに
あまり勉強は得意?ではなかったので
すでに授業には遅れていた‥(笑)
そんなこともあり
ほとんどノートは新品同様だった


後日、そのノートを受け取って
クラスメートに感謝すると同時に

“こりゃ~とってもダメだ!”と正直思った

ノートは美しかった

自分の勉強だけでも大変なのに
要点をまとめて書いてあった
赤や青のボールペンも使い読みやすいもので
ノートは美しかった

美しいノートを書いた人は
東大にはいかなかったようだけど
それなりの大学に進んだようだった


金魚はただ板書を書き写すだけで
時々は睡魔に襲われて
読み取れない文字(記号)が並んでいたりするのに‥


2学期になり
美しいノートを参考に
ちょっとでも勉強をすれば良かったのだけれど‥

相変わらず睡魔は襲ってくるし
ノートにはごはん粒や汁の跡も登場するようになった

美しいノートにするには
それなりに才能が必要なんだ‥と強く思ったものだ




長男は必要な書籍が手に入ったようだった

最後の追い込み‥頑張れよ!



続 お父さん?!

2008年12月11日 | 回想

ストーリーは忘れてしまったけど
高校3年の時、文化祭で演劇をやったことは憶えている

子ども役も
ライバル役も
父親役も
母親役も

当然のことながら、登場人物は全員同級生

子ども役にはちょっと小柄で可愛い人が選ばれるだろうし
父親役は貫禄があるというか、年の割には老けた人になるだろう


で‥‥

金魚が演じたのは当然のことながら“父親”役

どうせ当時から老けて見られるし、
そのまんまでも父親に見られるからなぁ~


衣装も
制服のワイシャツとズボンにネクタイを着けただけの簡単なもの
先生の背広を羽織ってたかなぁ~


登場シーンはちょっとだけだったけど
見ている友人から

「よっ!○○、待ってました!」と声をかけられ

笑いをこらえるに必死だったことをかすかに憶えている

その時の登場人物や裏方で撮った写真が手元にある

それにしても
坊主頭の父親なんているか?

いちおう部活は引退したかもしれないけど
髪の毛は急には伸びないからなぁ~

別に髪型でお父さん役になったわけではないけど‥



その後、本当のお父さんになったけれど‥
その役割は‥まだ果たしていない‥これからです!

お父さん?!

2008年12月08日 | 回想

学生の頃の話‥

下宿の先輩と後輩の3人で共同で食事をした時期がある

それぞれに独立した部屋も流し場もあるのだが
夕食のときだけ3人がひとつの部屋に集まって食べるというものだった

一応、順番に食事当番なるものも決めて
食事当番が中心となり、当番の部屋の鍋や食器を使った
ご飯もひとり分だけ炊くよりも美味しいし
料理のレパートリーもちょっと広がった気がするが
結局は台所にたって
飯の準備するのも面倒というのが、本音だろうか

食材費は3人で出しあい
買い出しにも3人で出かけた


スーパーのかごをもって、3人で買い出しに出かけた時のこと

“今晩は何にしようかな‥”

これといって、豪華な料理がおでましになるわけではない

彼方此方みまわして、簡単で安い食材をさがしている時のことだった


売り場でウインナーを焼いているマネキンさんがいて
爪楊枝に刺したウィンナーをお客さんに試食させていた


ちょっと太った、声が大きいおばさんだった


“美味しいですよ”

“お父さんもどうぞ食べてみてください!”


自分の目の前に爪楊枝がさしだされていた

自分じゃない!

これは何かの間違いだ!

自分は無視して前に歩いた


先輩と後輩が後ろで腹を抱えて笑っていた

“あら、お父さんじゃなかったの‥”

マネキンのおばさんの声も後ろで聞こえた

自分はお父さんじゃない!

まだ、結婚もしていないし、大学生だ!

その当時は20歳ごろじゃなかったかな‥
そうは見えないかもしれないけど‥

先輩と後輩はしばらく笑っていた

その話が瞬く間に笑い話として友達に広まったのは言うまでもない



そういえば
高校の時にお父さんになったこともあった(続く)