【銅鐸の用途】
銅鐸の型式の変化との関連でその用途について考えてみたい。弥生時代中期前半に朝鮮半島から伝わった朝鮮式小銅鐸は高さが数センチから10センチ程度で吊り手としての鈕がつき、さらに音を鳴らすための舌もついている。そしてこの朝鮮式小銅鐸をモデルに国内で作られた小銅鐸あるいはその後に大型化していく銅鐸には文様が施されるようになる。
国立歴史民俗博物館発行の「銅鐸の世界」には、朝鮮式小銅鐸をさらに遡る中国の銅鈴は人の腰につけて使っていた、あるいは犬や馬の頸や馬車につけていた、とある。犬や馬につけるのは現代でも犬の首輪に鈴をつけたりしているのと同じであろう。家畜を飼い馴らすため、あるいは家畜の居場所がすぐにわかるようにするため、などの用途が考えられるが、人の腰につけるとはどういうことだろうか。「銅鐸の世界」はさらに、銅鈴が前6世紀に朝鮮半島に伝わったときには、司祭者が身体に着け、神懸かりの状態になるのを助けていた、と続ける。朝鮮式小銅鐸はシャーマンが使う祭器であるということだ。これが弥生中期の初めに日本に伝わったということは、それをモデルとして国内で作られた小銅鐸あるいはその後に大型化していく銅鐸も祭器として認識されていたということになろう。
シャーマンが身体に着けて神懸りの状態になるのを助ける、というのはどういう姿であろう。想像するに、衣服の腰紐に小銅鐸をぶら下げて神に語りかけながら激しく身体を揺すると小銅鐸は激しい音を鳴らす。もしかするとぶら下げる小銅鐸はひとつでなかったかもしれない。この激しい音によって神懸り状態に入りやすくなるのだろう。あるいはその姿が神懸ったように見えたのだろう。神に念じながら激しく踊る姿は天の岩戸に隠れた天照大神を外に出すために踊る天細女命を彷彿とさせる。朝鮮半島から伝わった朝鮮式小銅鐸はその大きさを維持したままの小銅鐸と、次第に大型化するいわゆる銅鐸に分かれるのであるが、前者については伝来当初と同じような使われ方が続けられたのだろうか。また、後者はなぜ大型化し、文様や装飾が施されるようになったのだろうか。観念的な話になってしまうが次のように考える。
縄文時代以来、日本列島では自然物や自然現象を崇拝する自然崇拝が行われていた。その対象は、天空、大地、山、海、太陽、月、星、雷、雨、風、樹木、森林、水、火、岩石、さらには動物など、あらゆるものに及んでいた。その自然崇拝が発展して、この世のすべてのものには霊魂や精霊が宿る、その万物に宿る精霊を崇拝するという精霊崇拝が定着していった。
弥生時代に入って広がっていった稲作を基盤とした農耕中心の社会は集団生活を生み出し、さらには生活の安定をもたらした。耕作地の開拓や水路の確保、田植えや刈り取りといった農作業など、集団の構成員が互いに協力しなければ農耕中心の集団生活は維持できない。そこには自ずと秩序が求められ、集団を統率するいわゆるリーダーが自然発生的に生まれることになる。リーダーは集団に平和と安定をもたらすため、あるいは集団の平和と安定を脅かすものを忌避するために先頭に立つ。あるときは戦闘の場で、またあるときは祈りの場で。リーダーはシャーマンでもあった。精霊崇拝に基づく祭政一致による統治である。シャーマンは神や精霊と交流することによって神託や預言を伝達したり、呪術的な祭祀を行ったりした。つまり、万物に宿る精霊と人々との仲介役を果たすのがシャーマンであった。
祭器としての銅鐸あるいは小銅鐸はそのリーダーがシャーマンとして祈りの場で身に着けて使用した。この段階では、シャーマンであるリーダーと祭器が一体となって呪力を発揮した。しかし、その祈りはうまく行くこともあればそうでないこともあった。そこでリーダーや集団の構成員は祭器を大きくすればより呪力が高まり、的確な神託を得ることができると考えたのではないか。つまりシャーマンと祭器が切り離されて祭器そのものに呪力を認めるようになっていった。そして祭器である銅鐸は大型化が図られると同時に装飾や文様が施されるようになった。大型化によって音響性や遠くからの視認性が増し、装飾や文様は銅鐸に造形美とともに神秘性をもたらした。この段階の銅鐸は「聞く銅鐸」と言われているが、すでに「見る」要素をも含んでいた。
シャーマンたるリーダーは銅鐸を用いて何を祈ったのであろうか。前述の通り、集団に平和と安定をもたらすため、あるいは集団の平和と安定を脅かすものを忌避するために祈ったと考えるなら、銅鐸による祈りは豊穣の祈りであった可能性が高いだろう。太陽、雨、風、大地などに宿る精霊と交わり、豊穣のための自然条件が整うことを祈った。あるいは豊穣を阻害する自然災害(台風、水害、旱魃、冷害など)が起こらないことを祈った。さらに、もしもそういう状況に陥ったときにそれを収めるために祈った。銅鐸は農耕祭祀のための祭器であるという通説の通りだと思う。
祭器としての銅鐸がその呪力を高めるために大型化する流れの中にあって、小銅鐸は若干の文様を伴うものはあったが基本的にはそのサイズを維持しながら関東地方にまで伝播した。古墳時代前期まで残ったとされる小銅鐸が最後までシャーマンの祭器として使われ続けたとは考えにくい。銅鐸が祭器として大型化を始める段階で、一方の小銅鐸は祭器としての利用から勾玉や管玉のようなリーダーの威信を示す装身具としての利用に変化していったのではないだろうか。早い段階としては弥生中期前半の木棺墓(福岡県嘉麻市の原田遺跡)、ほかにも弥生後期前半の方形周溝墓(福岡県築紫野市の立明寺遺跡)や後期後半の木棺墓(静岡県袋井市の愛野向山Ⅱ遺跡)、弥生後期の土壙墓(千葉県君津市の大井戸八木遺跡)、同じく後期の木棺墓(千葉県袖ケ浦市の文脇遺跡)、古墳時代前期の方墳周溝(千葉県市原市の草刈遺跡H区)など、墓あるいはその付近から出土する例が見られることがその証左である。
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銅鐸の型式の変化との関連でその用途について考えてみたい。弥生時代中期前半に朝鮮半島から伝わった朝鮮式小銅鐸は高さが数センチから10センチ程度で吊り手としての鈕がつき、さらに音を鳴らすための舌もついている。そしてこの朝鮮式小銅鐸をモデルに国内で作られた小銅鐸あるいはその後に大型化していく銅鐸には文様が施されるようになる。
国立歴史民俗博物館発行の「銅鐸の世界」には、朝鮮式小銅鐸をさらに遡る中国の銅鈴は人の腰につけて使っていた、あるいは犬や馬の頸や馬車につけていた、とある。犬や馬につけるのは現代でも犬の首輪に鈴をつけたりしているのと同じであろう。家畜を飼い馴らすため、あるいは家畜の居場所がすぐにわかるようにするため、などの用途が考えられるが、人の腰につけるとはどういうことだろうか。「銅鐸の世界」はさらに、銅鈴が前6世紀に朝鮮半島に伝わったときには、司祭者が身体に着け、神懸かりの状態になるのを助けていた、と続ける。朝鮮式小銅鐸はシャーマンが使う祭器であるということだ。これが弥生中期の初めに日本に伝わったということは、それをモデルとして国内で作られた小銅鐸あるいはその後に大型化していく銅鐸も祭器として認識されていたということになろう。
シャーマンが身体に着けて神懸りの状態になるのを助ける、というのはどういう姿であろう。想像するに、衣服の腰紐に小銅鐸をぶら下げて神に語りかけながら激しく身体を揺すると小銅鐸は激しい音を鳴らす。もしかするとぶら下げる小銅鐸はひとつでなかったかもしれない。この激しい音によって神懸り状態に入りやすくなるのだろう。あるいはその姿が神懸ったように見えたのだろう。神に念じながら激しく踊る姿は天の岩戸に隠れた天照大神を外に出すために踊る天細女命を彷彿とさせる。朝鮮半島から伝わった朝鮮式小銅鐸はその大きさを維持したままの小銅鐸と、次第に大型化するいわゆる銅鐸に分かれるのであるが、前者については伝来当初と同じような使われ方が続けられたのだろうか。また、後者はなぜ大型化し、文様や装飾が施されるようになったのだろうか。観念的な話になってしまうが次のように考える。
縄文時代以来、日本列島では自然物や自然現象を崇拝する自然崇拝が行われていた。その対象は、天空、大地、山、海、太陽、月、星、雷、雨、風、樹木、森林、水、火、岩石、さらには動物など、あらゆるものに及んでいた。その自然崇拝が発展して、この世のすべてのものには霊魂や精霊が宿る、その万物に宿る精霊を崇拝するという精霊崇拝が定着していった。
弥生時代に入って広がっていった稲作を基盤とした農耕中心の社会は集団生活を生み出し、さらには生活の安定をもたらした。耕作地の開拓や水路の確保、田植えや刈り取りといった農作業など、集団の構成員が互いに協力しなければ農耕中心の集団生活は維持できない。そこには自ずと秩序が求められ、集団を統率するいわゆるリーダーが自然発生的に生まれることになる。リーダーは集団に平和と安定をもたらすため、あるいは集団の平和と安定を脅かすものを忌避するために先頭に立つ。あるときは戦闘の場で、またあるときは祈りの場で。リーダーはシャーマンでもあった。精霊崇拝に基づく祭政一致による統治である。シャーマンは神や精霊と交流することによって神託や預言を伝達したり、呪術的な祭祀を行ったりした。つまり、万物に宿る精霊と人々との仲介役を果たすのがシャーマンであった。
祭器としての銅鐸あるいは小銅鐸はそのリーダーがシャーマンとして祈りの場で身に着けて使用した。この段階では、シャーマンであるリーダーと祭器が一体となって呪力を発揮した。しかし、その祈りはうまく行くこともあればそうでないこともあった。そこでリーダーや集団の構成員は祭器を大きくすればより呪力が高まり、的確な神託を得ることができると考えたのではないか。つまりシャーマンと祭器が切り離されて祭器そのものに呪力を認めるようになっていった。そして祭器である銅鐸は大型化が図られると同時に装飾や文様が施されるようになった。大型化によって音響性や遠くからの視認性が増し、装飾や文様は銅鐸に造形美とともに神秘性をもたらした。この段階の銅鐸は「聞く銅鐸」と言われているが、すでに「見る」要素をも含んでいた。
シャーマンたるリーダーは銅鐸を用いて何を祈ったのであろうか。前述の通り、集団に平和と安定をもたらすため、あるいは集団の平和と安定を脅かすものを忌避するために祈ったと考えるなら、銅鐸による祈りは豊穣の祈りであった可能性が高いだろう。太陽、雨、風、大地などに宿る精霊と交わり、豊穣のための自然条件が整うことを祈った。あるいは豊穣を阻害する自然災害(台風、水害、旱魃、冷害など)が起こらないことを祈った。さらに、もしもそういう状況に陥ったときにそれを収めるために祈った。銅鐸は農耕祭祀のための祭器であるという通説の通りだと思う。
祭器としての銅鐸がその呪力を高めるために大型化する流れの中にあって、小銅鐸は若干の文様を伴うものはあったが基本的にはそのサイズを維持しながら関東地方にまで伝播した。古墳時代前期まで残ったとされる小銅鐸が最後までシャーマンの祭器として使われ続けたとは考えにくい。銅鐸が祭器として大型化を始める段階で、一方の小銅鐸は祭器としての利用から勾玉や管玉のようなリーダーの威信を示す装身具としての利用に変化していったのではないだろうか。早い段階としては弥生中期前半の木棺墓(福岡県嘉麻市の原田遺跡)、ほかにも弥生後期前半の方形周溝墓(福岡県築紫野市の立明寺遺跡)や後期後半の木棺墓(静岡県袋井市の愛野向山Ⅱ遺跡)、弥生後期の土壙墓(千葉県君津市の大井戸八木遺跡)、同じく後期の木棺墓(千葉県袖ケ浦市の文脇遺跡)、古墳時代前期の方墳周溝(千葉県市原市の草刈遺跡H区)など、墓あるいはその付近から出土する例が見られることがその証左である。
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