古代日本国成立の物語

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銅鐸の考察⑧(聞く銅鐸の埋納)

2020年04月12日 | 銅鐸
【聞く銅鐸の埋納】
 弥生中期末から後期初頭にかけて古い銅鐸が埋納され、その後、弥生後期後半に新しい銅鐸が埋納され、銅鐸の時代は終焉を迎えた。銅鐸が埋納された理由については諸説ある。
 銅鐸埋納を祭祀と関連づける説として有名なのが土中保管説である。平時は地中に埋納して保管し、祭祀の際に取り出して使用したが、やがて祭祀や信仰の形が変化して銅鐸が使用されなくなり、埋められたまま忘れ去られたという説である。また、ムラの境界に埋納して邪悪な者の侵入を防いだという境界守護説もある。さらに大規模な風水害や干ばつなど、通常の祭祀では収めることができないほどのムラの一大事にあたって、銅鐸が発揮し得る最大の呪力に期待して最終手段として埋めたとする説もある。
 一方、銅鐸の埋納を祭祀と関連づけない考えとしては、政治的な社会変動により不要なものとして埋納したという説がある。この説によると破壊銅鐸の説明も容易となる。また、銅鐸祭祀を行わない外敵が攻めて来たために土中に隠匿したという説があり、この外敵を北部九州の集団とする考えが根強く主張されている。
 銅鐸が埋納された理由はこのように諸説あるが、私はその理由をひとつに求めることに無理があるように思う。とくに古い銅鐸の埋納はいくつかの要因が重なった結果と考える。そのもっとも大きなものとして近藤義郎氏の説を挙げたい。氏は銅鐸祭祀の廃絶について「共同体の成員を一つにむすびつけていた祭祀における呪的媒体が、司祭権を支配の手段として自己の掌下におさめた首長の神性のもとに、不要物と化したことをしめす」とした。私は次のような事態を想定しているのでこの考えに説得力を感じる。(ここで言う「共同体」を前述の「ムラ」と同義と考えて、以降は「ムラ」と表現する)

 稲作に基づく農耕共同体(ムラ)が存続していくためにはリーダーの存在が必要であり、そのリーダーはシャーマンとして万物の精霊と通じることによってムラを統治した。当初、シャーマンは媒体となる銅鐸を身に着けてその銅鐸と一体となって精霊と通じたのであるが、呪力をより高めるために媒体である銅鐸の大型化が図られた。銅鐸が大型化したことでシャーマンが身に着けることができなくなり、樹木などに吊るすようになった。これによってシャーマンと媒体である銅鐸の一体性が解除されて、銅鐸そのものに呪力を認める意識が進んだ。銅鐸はムラの象徴となり、安定した集団生活の拠り所となった。それまでは銅鐸を媒体とする前提で、リーダー自身が持つ精霊と通じる力の大きさが重要であったが、その力が銅鐸側に委ねられることになり、リーダーは呪力そのものから解放された。そしてリーダーはその銅鐸の管理や祭祀そのものを司る立場となり、これによって司祭権というものを手中に収めた。
 弥生時代のある時期に、集団に対する指導力を一元的に発揮するリーダーが司祭権を手にすることによって実質的な首長制が確立していった。この首長制の確立によって、縄文以来の精霊崇拝という信仰の形態が首長霊崇拝や祖霊崇拝へと変化していった。そのために銅鐸による農耕祭祀が徐々に廃れていくこととなった。これが特に古い形式の銅鐸が埋納されることとなった最も大きな要因ではないだろうか。

 次に大きな要因として考えられるのが、ムラの統合である。列島に稲作が広まると各地に稲作を基盤とするムラが生まれた。各ムラは自らが栽培、収穫したコメを消費するとともにムラ内に蓄えていった。それは不作の年に備えて、あるいは他のムラとの交易のためでもあった。また、生活が安定することでムラの人口が増えて新たな耕作地を開拓する必要にも迫られた。農耕生産性はムラによって差があり、その差は自ずとムラ間の貧富の格差となって表れる。また、新田開発や灌漑工事においては近隣のムラとの間で利害衝突が起こることもある。利害調整が不調に終わることもあれば、そもそも利害調整という面倒な手続きを踏まないムラも出てくる。貧富の格差や利害衝突の結果、ムラどうしの争いに発展し、こうした争いの結果としてムラの統合が進んでいく。貧しいムラが豊かなムラに支援を求めて、自発的にその支配下に入っていくこともあったろう。いずれにしても、支配される側が保有していた銅鐸は支配する側に譲渡するか、もしくは自ら廃棄あるいは埋めてしまった。前者の場合はムラの統合が進むにしたがって銅鐸が一か所に集まることになり、その後の複数銅鐸の埋納につながることとなった。また、この要因の派生パターンとして、他の地域から進出してきた銅鐸祭祀を行わない集団によって吸収される場合もあったかも知れない。

 北部九州、とりわけ玄界灘沿岸地域においては弥生時代前期から中期にかけて甕棺墓が盛んに作られた。そして、福岡県の吉武高木遺跡では弥生時代中期初め頃の甕棺墓から剣・鏡・勾玉といういわゆる三種の神器が見つかるなど、早くから階層分化に基づく首長霊祭祀が行われていたと考えられている。中期以降も福岡県の須玖岡本遺跡、三雲南小路遺跡などで大量の鏡を含む青銅器が副葬されていたことが確認され、階層分化と首長クラスの存在が想定されている。また、有明海沿岸部においても、銅鐸そのものが見つかった吉野ヶ里遺跡でさえ、弥生中期に築かれたとされる大規模な墳丘墓から銅剣が副葬された甕棺墓が見つかり、多数の祭祀用土器が出たことから、祖霊祭祀が行われていたと考えられる。
 このように北部九州エリアでは銅鐸祭祀を行っていた地域に先駆けて首長霊あるいは祖霊に対する信仰が定着していたと考えられ、この勢力が東へ進出したことによって銅鐸祭祀から祖霊祭祀や首長霊祭祀への転換が促された側面も少なからずあるだろう。また、これらの勢力が銅鐸祭祀のムラを支配下に置いたことがあったかもしれない。しかしそのことをもって、北部九州勢力が中国・四国から畿内地方を武力で席巻、あるいは制圧して銅鐸祭祀集団を軒並みその支配下に置いていったと考えるには無理がある。北部九州勢力が採用していた甕棺墓という墓制がそれ以外の地域でほとんど見られないのだ。

 弥生時代中期の初め頃に朝鮮式小銅鐸が日本に伝わって以降、日本独自の発展を続けた銅鐸であるが、弥生中期の終わり頃から後期の初めにかけて、精霊崇拝から首長霊崇拝・祖霊崇拝へ、という祭祀形態の変化や、ムラの統合、銅鐸祭祀を行わない勢力の進出など、いくつかの要因が複合的かつ同時並行的に起こった結果、銅鐸を必要としない、あるいは保有できない状況が生まれたと考える。その結果、弥生中期末から後期初頭にかけて各地で古い形式の銅鐸が埋納されることになったのではないだろうか。(「ムラ」の統合が進んだ結果、より広範囲に勢力を拡大した共同体を、以降は「クニ」と呼ぶこととする。)

 紀元前1世紀頃に書かれたとされる中国の史書である「漢書『地理志』」には「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国と為す」とあり、弥生中期の段階で日本国内が100余りのクニに統合されていたことが記されている。





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