後ろ髪を引かれながら江田神社をあとにして次の目的地である新田原(にゅうたばる)古墳群へ向かいました。本当は江田神社の次は蓮ヶ池横穴群へ寄りたかったのですが、時間的に厳しくなるだろうと思ってあきらめました。ちなみにこの蓮ヶ池横穴群は6世紀後半から7世紀前半、つまり古墳時代の終わり頃に造られた横穴群で、これまでに82基の横穴墓が確認されています。敷地内に「みやざき歴史文化館」があり、こちらも見てみたかったのです。
※横穴は「おうけつ」ではなく「よこあな」と読みます。「竪穴(たてあな)」に対する「横穴(よこあな)」です。宮崎にはこの地方独特の地下式横穴墓がありますが、これも「ちかしきよこあなぼ」と読みます。
さて、新田原古墳群は宮崎県児湯群新富町と西都市右松にある4つの古墳群(塚原古墳群、石船古墳群、山之坊古墳群、祇園原古墳群)の総称になります。またまた話は横道にそれますが、児湯郡といえば第12代景行天皇が九州を征討したときに訪れたところです。天皇は熊襲を討つために大分から宮崎に南下し、高島宮を仮宮としてこの地で留まったあとに子湯県に旅しました。そのときに「是の国は真っ直ぐに日の出る方に向いている」と言ったことから、それ以来、この地を「日向」と称するようになった、と日本書紀に書かれています。
一ツ瀬川左岸にある海抜70mほどの新田原台地の上に円墳、前方後円墳、方墳など大小あわせて207基が確認されており、1944年(昭和19年)に国の史跡に指定されました。国道219号線(春田バイパス)をひた走り、東九州自動車道の西都インターを過ぎたところを右折してバイパスを降ります。 さらに一ツ瀬川にかかる橋を渡って左折、道なりにぐいーんと坂道を上っていくと急に視界が開けて、平地が広がるあちこちにお椀を伏せたような盛土が見えてきます。台地の上に広がる古墳群を実感します。
田園の中の細い道を走っていると小さい建物と案内板が建っているのが見えたので、そちらにハンドルを切りました。駐車場があり、どうやらここがこの古墳群の中心施設のようです。といっても建物はただのトイレでしたが。それでは順に見て行きましょう。
新田原古墳群の説明板。
4つの古墳群のうち、この説明板の立つ場所が祇園原(ぎおんばる)古墳群で、その説明板が別に立てられていました。
祇園原古墳群の中で4番目に大きい百足塚古墳。
墳長が約80m、後円部の高さが約6mで、出土品の特徴から古墳時代後期前半の築造とされています。
横穴式石室が発見されたのに未踏査となっています。これだけ詳しく調査しているのに、なぜ埋葬主体を発掘しなかったのか不思議です。
前方部左後方から。
墳丘のテラス部と周堤には1,000体にもおよぶ形象埴輪が並んでいたと考えれ、そのうち西側の周堤に確認できた60体が復元されていました。(写真左側に見えます)
百足塚古墳の陪塚。後円部の北西部に2基、前方部の東側に1基が確認されています。
青い空と白い雲に田園と古墳の緑色が映えて爽やかな夏の風景です。
時間があれば他の古墳も見て回りたかったのですが、あたりを車でぐるっと回るだけにして次の目的地である都萬神社へ向かいました。
※横穴は「おうけつ」ではなく「よこあな」と読みます。「竪穴(たてあな)」に対する「横穴(よこあな)」です。宮崎にはこの地方独特の地下式横穴墓がありますが、これも「ちかしきよこあなぼ」と読みます。
さて、新田原古墳群は宮崎県児湯群新富町と西都市右松にある4つの古墳群(塚原古墳群、石船古墳群、山之坊古墳群、祇園原古墳群)の総称になります。またまた話は横道にそれますが、児湯郡といえば第12代景行天皇が九州を征討したときに訪れたところです。天皇は熊襲を討つために大分から宮崎に南下し、高島宮を仮宮としてこの地で留まったあとに子湯県に旅しました。そのときに「是の国は真っ直ぐに日の出る方に向いている」と言ったことから、それ以来、この地を「日向」と称するようになった、と日本書紀に書かれています。
一ツ瀬川左岸にある海抜70mほどの新田原台地の上に円墳、前方後円墳、方墳など大小あわせて207基が確認されており、1944年(昭和19年)に国の史跡に指定されました。国道219号線(春田バイパス)をひた走り、東九州自動車道の西都インターを過ぎたところを右折してバイパスを降ります。 さらに一ツ瀬川にかかる橋を渡って左折、道なりにぐいーんと坂道を上っていくと急に視界が開けて、平地が広がるあちこちにお椀を伏せたような盛土が見えてきます。台地の上に広がる古墳群を実感します。
田園の中の細い道を走っていると小さい建物と案内板が建っているのが見えたので、そちらにハンドルを切りました。駐車場があり、どうやらここがこの古墳群の中心施設のようです。といっても建物はただのトイレでしたが。それでは順に見て行きましょう。
新田原古墳群の説明板。
4つの古墳群のうち、この説明板の立つ場所が祇園原(ぎおんばる)古墳群で、その説明板が別に立てられていました。
祇園原古墳群の中で4番目に大きい百足塚古墳。
墳長が約80m、後円部の高さが約6mで、出土品の特徴から古墳時代後期前半の築造とされています。
横穴式石室が発見されたのに未踏査となっています。これだけ詳しく調査しているのに、なぜ埋葬主体を発掘しなかったのか不思議です。
前方部左後方から。
墳丘のテラス部と周堤には1,000体にもおよぶ形象埴輪が並んでいたと考えれ、そのうち西側の周堤に確認できた60体が復元されていました。(写真左側に見えます)
百足塚古墳の陪塚。後円部の北西部に2基、前方部の東側に1基が確認されています。
青い空と白い雲に田園と古墳の緑色が映えて爽やかな夏の風景です。
時間があれば他の古墳も見て回りたかったのですが、あたりを車でぐるっと回るだけにして次の目的地である都萬神社へ向かいました。