彦中三八ブログ 

彦島中学校を昭和38年3月に卒業した同期生のためのブログ。 掲示板「彦中昭和38年卒同期会」にもお立ち寄りください。

再訪したい米塚

2010年05月28日 23時12分32秒 | 全国各地
車で下る途中、時々米塚(こめづか)は見えました。お、かわいい山だと
思いました。牧草地の中にあるそれは小さな火山です。とりまく牧草地にも
米塚にも木は一本も生えていません。

それは上質な絵本の世界から抜け出てきたような光景でした。
日本では見かけることがない「絵」ですか、日本にあるのです。

僕は助手席から米塚を写そうかと思いましたが、運転する友人が米塚が
しっかり見える所で停めるよと言っていたので、カメラには手をのばしませんでした。


で、友人が停めてくれた所は米塚がどーんと見える場所でした。
それはそれでいい場所で、静かにたたずむ米塚を間近に見ることができて、
色々とイメージが湧いてきて良かったのですが、写真を撮るには近すぎました。
広角側で米塚がおさまるのがやっとでした。


二枚の写真で、パノラマにするとこんな感じです。
ても、伝えたいイメージの三分の一ぐらいしか表せていません。
しまった! 途中、もっと遠くから、もっと上からの写真も撮っておく
べきだったとちょっと後悔しています。




ネットで捜した写真二枚です。こんな感じなんですよね。いいでしょう!
この二枚の写真が撮られた季節は、緑が濃いので、夏だと思います。

いつの日か再び阿蘇を旅行する機会があれば、再訪してみたいところです。

by K

竹の子島探検記 島内編

2010年05月25日 21時44分53秒 | 彦島各地訪問

西南側の海岸に通じる道です。十歳の頃、それぞれがそれぞれの地区で遊んだ
裏山の道はこんなだったよね。


笹のトンネルができていたりするんだ。おいちゃん達はこんな道を歩くだけで
胸キュンだったよ。


竹の子島金刀比羅社です。福浦町の金刀比羅本社の末社になります。僕達はそれぞれに
お賽銭を上げ、島内をよそ者が断りなく通る非礼のお許しを願いました。


金刀比羅さんの隣には墓もありました。昔はどうか分かりませんが、お寺さんは
ないようです。


前も紹介しましたが、赤煉瓦のきれいな壁、今回は斜めから撮ってみました。


竹の子島にも「団地」はあるのです。七件分の区画があり、六軒が建っています。
この一角だけ、面する道路も広く、建てられた家もそれぞれに今風で、ちょっと
別空間って感じです。


「台場鼻潮流信号所」です。点滅の「点」の時に撮ったのですが、バックの空が
明るく、逆光で見えにくいですね。ここには明治の初期に建てられた灯台も
あったのですが、つい最近撤去されています。後悔先に立たずですが、撤去前に
来たかったですね。


潮流信号所のすぐ隣のこの電柱から六連島に送電する電線が海底に埋められて
いるのだそうです。


そして、ここが六連島に向かう水道管のスタート地点だそうです。ここは
島の中央部にあります。

電気も水道も、竹の子島経由で六連島に配られているのですね。
六連島で電気が使えるようになったのは、僕が高三の頃だったように記憶
しています。

前回、写真を載せた馬島の水道にいたっては、六連島から供給されるように
なったのは、ほんの数年前だったそうです。「長生きして、良かった!」と
島の古老が喜ばれたそうですよ。

by K

竹の子島探検記 外海側から見える景色編

2010年05月23日 21時10分47秒 | 彦島各地訪問
この探検隊に参加した還暦突破おじさん達にとって、六連島や馬島は
西山海水浴場から見える姿が基本なのです。

竹の子島から見ると予想以上に大きく見えることに驚きました。


左の小さな島が、和合良(わごら)島で無人島です。右側の島が馬島です。
馬島は江戸時代、小倉藩の馬を飼育していたので、馬島と呼ばれるのだそうです。



左が馬島で、右が六連島です。六連島の後にうっすらとちょこっとだけ見えるのが
蓋井島です。竹の子島からだと、六連島と蓋井島は重なって見えるのです。
また馬島と六連島の間には見えない線が引かれています。島の間わずか300mの
水路に県境という線が引かれています。


六連島もほんと近く見え、ためしに光学18倍で写してみました。


若松の埋立地にある風車と、手前は浚渫船です。


こんな船、初めてみました。LPG(液化天然ガス)運搬船のようです。


一時間後ぐらいにLPG船が接岸しているのを発見。そうか、あそこがLPGの
集積基地なのかと分かりました。


パイロット船がぶっとばしていました。パイロット船はいつも高速で
移動しています。何故なんでしょう。


関門海峡から航路は竹の子島と六連島の間にあるらしく、大きな船が間近に
横切って行きます。この船も初めて見た船です。「SECO MARU」セコマル?
日本の船かと思いましたが、


違うようです。船尾をズームすると太極旗とハングルが見えました。
韓国の船のようです。

それにしても見かけん船やのーと話していたのですが、数日後分かりました。
テレビの地方ニュースで門司港、韓国間のフェリー再開を知らせていました。
我々が見たのは、再開のための試験運転だったのでしょう。

by K

竹の子島探検記 生き物編

2010年05月22日 12時20分55秒 | 彦島各地訪問
今回は竹の子島で見かけた生き物の紹介です。

[ホオジロ]

ホオジロも関心を持ちだすと、結構いるものなのですね。今までも
いたのでしょうが、僕の目に留まらなかっただけだったようです。
ホオジロは一旦鳴きだすと、動かずに数分は鳴き続けますので、撮影は簡単です。

[ウミウ]

この辺の海には、沖に浮かぶイカダや瀬を探せば、そこには大抵ウミウがいます。
後は若松の埋立地です。

[キアシシギ]

人間を見ると、ピー~、ピー~と大きめな鳴き声で警戒音を出して逃げ、
2、30メートル離れた所に降ります。


名前の由来は黄色い足であることが、すぐに分かります。

[キョウジョシギ]





撮っている間は、ちょいと派手めな鳥だとは思っていたのですが、京女鴫とは
思っていませんでした。
こんな時期にもいんの? 北国に帰る途中下車なんでしょうね。

[ウミウシ]

潮が引き、瀬の水たまりに残されたウミウシです。20㎝強はありました。
このウミウシ、つかんでグラグラゆらすと、紫色の液を出すんだって。
知ってました?


ほらね、赤紫色の液体をこれでもかというぐらいに出しましたね。
これも敵から身を守るための行動なんでしょうか?
さすがNa君は漁師の子! ネイティブな知識を一つ授かりました。

by K

竹の子島探検記 海岸編

2010年05月21日 23時46分15秒 | 彦島各地訪問
リタイア組3人とウィークデイが休日の時もある一人、計四人で先週の木曜日に
竹の子島に行ってきました。下の地図を見てください。小さな島です。
彦島と橋で繋がっている島でありながら、彦中同期生は竹の子島へは案外訪ねて
いないのです。

竹の子島は西山小学校、玄洋中学校の校区です。同級生に竹の子島に住む人が
いれば、訪ねることもあったのでしょうが、校区が違うと、どうしても疎遠に
なります。今回の竹の子島探検隊の四人は竹の子島の外海側に行ったことがある
人は、一人もいません。それで、探検隊の結成となった訳でございます。

行ってみて、竹の子島は素晴らしいところが満載の島でした。
で、今日は海岸編のご報告です。


最初は島の西南部の海岸に行きました。この辺の海岸の風景は先にアップした
「彦島西山町の海岸線」とちょっと似ている感じでした。


遭難してここに打ち上げられたご遺体が発見されたのでしょう。碑なんでしょうか、
墓なんでしょうか、石碑がありました。明治十二年と記されていました。
子細に見ているのはNa君とNo君です。

崖の最上部は波による浸食を受けていず、オーバーハング状態になっています。


結構広い棚になっているところもありました。この辺だけはNo君、若い頃
釣りに来ていたそうです。


この辺の崖は西山町の海岸の崖とちょいと似ていて、それよりもちょいと
穏やかな感じでした。

われら探検隊は9時半より行動を開始しましたので、まだ潮が満ちていて
海岸沿いに東北に進むことができませんでした。やむなく一旦内海側に
戻りました。


住民の方に教えていただいて、たどり着いたのがこの浜です。
この砂浜が泣けてくるほどいいのです。昔の西山海水浴場と同じきめ細やかな
砂なんです。ただ、打ち寄せられたゴミには目を瞑らなければいけませんよ。
海をへだてて、東アジアの隣国がある限り、少なくとも半世紀は我慢しなければ
なりません。


瀬も沖に向かってまっすぐに伸びています。こういう瀬が三カ所ぐらいあります。
六連島や馬島も近くに見えます。


崖も地層が違うようです。


砂岩系統なんでしょうか、海水による浸食の形が穏やかで女性的です。
この自然の造形美、四人ともそれぞれに「彫刻みたい」と言っていました。
僕は見た瞬間は欄間の彫刻みたいと思ったのですが、こうしてパソコンの
モニターで見ると、サクラダファミリアの外壁のようだと、言っても共感
してもらえるかもしれない美しさでした。


また、オーバーハングの崖がありましたので、大きさを表すためにカメラを
持ってきていなかったNa君が皆に指名され、モデルになっています。


島としては小さいのだけど、様々な光景を見せてくれました。


それと、海の水がきれい! すこぶるきれいでした。

by K

今年も彦島福浦町の金比羅例祭

2010年05月20日 04時25分00秒 | イベント・出来事・生活
去年も紹介しましたが、福浦町の金刀羅大礼祭りは素晴らしい。
生き生きしている祭りです。今年も行ってきました。


いくら若いといっても、御神輿の担ぎ手の若衆の人達は、お祭りの翌日は
体の節々が傷んでいるはずです。朝から御神輿を延々と担ぎっぱなしで、
町内を練り歩くのですから。

氏子の家の前では地面すれすれに御神輿を下げ、左右に大きくゆらし、
「せーのっ!」の掛け声と共に御神輿を頭上高く上げます。
御神輿の下を通ると、向こう一年間無病息災に恵まれるとのことです。
下を通る氏子さんもニコニコしています。

朝から何百回も御神輿の上げ下げをしながら、夕刻五時過ぎまで練り歩き、
最後に海に突入するのですから、若い人達のスタミナに感心します。




御神輿が差し上げられるのを待っているおばあさん、かなりの高齢の方だと
お見受けしましたが、御神輿に同伴するお祭りの役員の人に声を掛けられて
いました。
「△△のおばちゃんやないのお。久し振りやねえ、元気そうやねえ、
 会えて嬉しいわー」
こういうこともお祭りならではの光景ですね。


やがて御神輿は神社下の階段の所までたどり着き、ひとしきり練った後、
「海じゃあ!」「山じゃあ!」の掛け声をあげながら、前後に引っ張りあいます。
祭りのために降りてきた神様は、海の方に行きたがっちょるから、「海じゃあ!」で、
いや山の方に行きたがっちょるから、「山じゃあ!」の意味だと思います。

昭和三十年代までは、福浦湾の海岸線は整備されていなかったので、この場所から
「山じゃあ!」「海じゃあ!」を繰り返した後、海に突入していたと思います。


で、今は数十メートル離れた所に移動して海に突入するのです。

御神輿が海に突入する方に移動したので、僕も移動しました。撮影のベスト
ポジションには人が満載で、割り込める余地はありませんでした。

こんな感じです。そういえば海に突入するクライマックスの一時間まえぐらいから、
なんだか高そうな一眼レフ一式を持ったグループがいました。
彼らの熱心さには感服します。いい写真を撮るために、一時間以上その場所から
離れずに待っているのですからね。

僕の写真は「ついで」です。お祭りの雰囲気を五感で味わいたくて、うろちょろ
します。貧乏性なのでしょう。余裕があれば、ついでに撮るって感じです。

以下、クライマックスの海に突入後のジャンプあれこれです。

これ、標準です。[技術点8.0 芸術点8.0]


これも[技術点8.0 芸術点8.0]


ちょっとピントが合っていませんが、飛んでいる人の表情が楽しそうです。
[技術点8.0 アピール度9.5]


着水に失敗! [技術点2.0 パフォーマンス度9.5]


これは技術点・芸術点共に高得点なのですが、祭りの衣裳を着ていないところから
みると、すでに担ぎ手を経験している先輩でしょう。


今年は海に突入は二回でした。海から上がってきた若衆の顔は、達成感でしょうか
安堵感でしょうか、笑顔がいいのです。


年配の方には、ハハ疲労感が出ていますが、「最後までやったっけーな」という
満足感が感じられますね。お疲れさまでした。


海から御神輿が上がると、後は餅まきがあるのみなので、帰る人も多いのですが、
僕は神社の階段下に戻りました。
そこは静寂そのもの、神主さんの祝詞がかん高く響くのみです。
茶髪の若者だって、頭を垂れています。


この神主さんの祝詞が実にいいのです。祝詞の意味は全く分かりませんが、
その声のかん高さが、寂しく、あるいは厳粛な雰囲気で祭りの終りを
告げているのです。神様が兜山の森に戻っていくんだと実感させられます。

祝詞が終り、神主さんたちが階段を上り始めると、年配の人達が「おい、神さん
帰られたぞ」と若者達に言い、お祭りの終りを告げていたのが印象的でした。

いいですね! 福浦町のお祭りはいいですね!
僕は彦島で生まれ育ちましたが、どうせなら福浦町で生まれ育ちたかったです。

若者のイニシエーションとしては、最高のお祭りではないでしょうかね。


最後は餅まきです。これもいいですよね。最近、餅まきも少なくなっています。
餅まきって、幼少年期の思い出として、結構強烈に残ってますからね。

by K

鱒淵ダム湖

2010年05月18日 18時22分23秒 | 動植物・自然

以前にも載せた鱒淵ダム湖です。
右側が福知山に続く山並みです。


紫川を堰き止めたダム湖なので、川みたいに橋がかかっています。
この橋を通ると片道が4km位に短くなります。


楓の並木道です。


え~~と、何という名だっけ?
思い出しました。「あぶみ草」でした。
馬具のあぶみと云う言葉がなかなか出て来ませんでした。


「あぶみ草」のアップです。


へびではありません。
きれいなトカゲですが、全身を写させてくれませんでした。


この花は知っています。
「オドリコソウ」です。


この花の名前はカミさんに教えてもらったけど、今は思い出せません。
名前を調べて載せると良いのでしょうが、時間がかかるので、
取り合えず無名のまま載せます。   byT

第二十五利丸見学

2010年05月17日 15時46分26秒 | イベント・出来事・生活

第二十五利丸です。


船尾側から撮ると、水門の近くに繋留されていることがよく分かります。


ブリッジ傍から船首側を移しました。


同じく船尾側です。


後尾の甲板には予備のスクリューが置かれていました。




見張り台のあるマストと後方のブリッジです。


マストのある部分の甲板です。


捕獲した鯨を船腹に繋ぎとめるためのフックです。甲板は相当いたんでいます。


僕らが帰る頃になると、船上に上がれるのが最後だとテレビで知った人達が
多く来られて、盛況になっていました。

by K

懐かしい下関の写真

2010年05月11日 22時15分29秒 | イベント・出来事・生活
第二十五利丸の資料室には、鯨と下関に関連する年表があり、年表の上には
その年代の写真が飾られていました。
ちょっと元々の写真が粗いのですが、気になる写真が二枚ありましたので、ご報告。


外浦の以前の水族館も懐かしいのですが、


僕が驚いたのは、この林兼産業の鯨のネオンです。
このネオンのことは、全く忘れていました。写真を見ることによって、「そういえば、
あったような・・、いや、確かにあった!」と、おぼろげから確信に変わっていく
驚きでした。


これも、そうです。旧下関球場も懐かしいけど、「まるは通り」はもっと胸キュン
です。


旧大洋漁業本社は去年までありましたので、どうってことないのですが、
その手前の「まるは通り」が懐かしいですよね。
大宅壮一か誰かが、昭和三十年代の「まるは通り」を見て、戦後の闇市の雰囲気が
未だに残っていると書いていたような記憶があります。

by K

懐かしい彦島の写真

2010年05月10日 05時00分00秒 | イベント・出来事・生活
第二十五利丸(としまる)のそばに併設されている資料室は、漁業と下関に
関連する資料が展示されていますので、自然、下関漁港関連の写真が
多いのです。下関漁港といったら、本村町と老町が隣接していますので、
ありし日の懐かしい町の姿が写りこんでいました。


これは懐かしい写真だ。本村に住んでいた当時のわが家まで写っています。
W君の家は煙がじゃまして見えないかな。
本村小学校は南側に新校舎ができていますので、昭和32年以後の写真ですね。


これは以前にこのブログか掲示板の方にアップした本村小学校の航空写真です。


懐かしの「二冷」です。この「二冷」、いつ頃ぶっ壊したのでしょうか。
僕は本村小学校の時、写生となるとこの「二冷」とバックに風師山を描くのが
定番でした。


老町にあった「一冷」の前身だろうけど、この建物の記憶はありません。


田の首の林兼造船第三工場の写真もありました。この角度だと、海上の船の高い所から
撮ったのでしょうね。

by K

みなと祭り

2010年05月09日 17時32分49秒 | イベント・出来事・生活
大和町に繋留されている第二十五利丸(としまる)の船内見学が、この日曜日で
終りになることを知って、見学に行ってきました。
利丸のそばに併設されている資料室に懐かしい写真が展示されていましたので、
報告いたします。

「みなと祭り」の写真です。懐かしい!の一言です。
蛍光灯の写り込み等があって、ちょっと見づらい点、ご容赦を。


大洋漁業の旧本社前だと思います。


運転席の外側で手を振っているおじさんのメガネは、はじめは余興用のメガネに
見えたのですが、どうもおじさんが普段からかけているメガネのようです。
でも楽しそう。


甲冑姿の武士が馬に乗っています。こんなのもあったのですね。
(青色は写り込みです)


駅前もにぎやかです。


「やまみ」の雲丹も山車を作っています。ちょっと金のかけ方が足りないぞ。


飛び魚だ。こっちでは「アゴ」と呼びましたよね。(今もアゴで通じます)


この鯛はよくできていますね。

見ている人も参加している人も楽しそうで、いいですね。

僕はガキの頃から、行進だのパレードだの、見る人と参加する人がはっきり別れている
お祭りは、あまり興味が持てなくて、「みなと祭り」は本土まで渡って見てはいません
でした。彦島本村町に本社があった林兼造船の山車が、家の近くを通っているところを
見た記憶しかありません。

でも、林兼造船の山車の拡声器から流れる「漁港節(♪魚市から♪)」を聞くと、
無条件に「祭りだ!」と楽しくなっていました。思えばいい唄だったんだ。

そうか、各企業の山車が下関駅中心に集まり、パレードをしてこんな楽しい
雰囲気だったのかと思い、僕も写真を見つつ楽しくなりました。

ほんと、楽しそう。いいね! いいんだけど、ちょっと考えてしまいます。
「昔の光、今いずこ」と土井晩翠の世界に入っちゃいます。

写真から判断すると、「みなと祭り」の頭は一応下関市だろうけど、
「みなと祭り」の総経費の八割ぐらいの費用は、大洋漁業を筆頭とする
企業が出費していたんでしょうね。

でも、企業の栄枯盛衰のスパンは30年ぐらい。人は80年生きるのにさ。
あれだけ楽しかった「お祭り」が、企業中心のお祭りだと、栄枯盛衰の
「衰」を見ざるをえないのですよね。祭りというハレ空間なのに、「衰」を
見てしまうのです。これは寂しいよね。

ま、とにかく、当時の賑わいぶりが分かる写真で良かったです。

by K

草千里の馬

2010年05月02日 06時37分02秒 | 動植物・自然
草千里も良かった。
日本人って、南方系と北方系の混血だから、祖先のイメージを固定しにくいと
思うんだけど、「草原」はかなりの確率で、現代の日本人のDNAにも刻印されている
ような気がする。

旅行先を選ぶ際、「女子に高原、外れなし」っていうのが、僕の勝手に作った格言。
女子は感性に素直なので、草原・高原の良さを即座に感得する。
高原に誘う方が、一流ホテルのディナーや、ブルガリのバッグのプレゼントより
喜ばれるかもしれないよ。

男だって、じっと草原を見つめているうちに、数々の幼い理の世界のバリアが
ほどけてきて、「ああ、この景色いいなあ」と感じ入ることもあるし、ふいに
現れた草原の光景に、幼い「理」が間に合わなくって、「ドキッ」としてしまう
こともあるんだ。

ま、とにかく日本人は高原や草原を見ると、心が洗われるような気分になるんだと思う。


草千里はそんなに広い草原ではないのに、伸びやかな清澄感がある草原でした。


インターネットで探すと、上手な人の写真がどーんとあると思いますので、
写真はこの一枚にしておきます。


草千里の一角に、観光用の馬が繋がれていまして、馬のお尻が一列に並ぶ様を
撮ると、構図的に面白いかもと思い、近づきました。


繋がれている馬たちの側にくると、僕を近づけさせたのは、馬たちの「お尻」
だけではないことに気づきました。
馬たちの「静寂」です。馬たちは微動だにしないのです。
それが静かなる「気」を発して、僕を呼び寄せたのでした。


馬は寂しいのでしょうか? 悲しいのでしょうか? こんな所に繋ぎやがってと
すねているのでしょうか? 諦念か? 馬語で哲学をしてんのか?
何も考えていないのか? 何も考えないことが色即是空で、空即是色だと
悟ってしまったのか?


見入る少女も僕と同様に、何かを刻印されたに違いありません。
いつ、どこでというのは憶えていないが、小さい頃大きくて静かなお馬さん達を
見たというおぼろげな、おぼろげだけどリアルな記憶として彼女の胸に残るのでしょうね。

ちなみに右端の馬は頭を下げていますが、この馬は花粉症か風邪のようで、
首を上下させながら、シュルシュル、フルフルと鼻を震わせていました。

by K