この宇宙の、絶対的要素!
「あなたは存在している」
「一は全、全は一」
「与えるものを受け取る」
「変化は常に起こっている」
あなたは「いま」「ここ」に「在る」!
こんにちは。
クリスマスの喧騒も一段落ですね。あとは思い残すことのないよう、
大晦日を迎えたいものです。
(年12回ある「みそかもうで」のなかで、今月は最も大事なのでお忘れ
なく!^^)
さて
日々、なにかと忙しく(と思い込んで)バタバタと雑に生きていますと、
「カミサマについて」
なんて考える機会も皆無でしょう。
初詣でさえ、僕らは季節感からか「なんとなく」で行ってたように思い
ます。
まあ、僕もこの「神との対話」でいろいろ知るまでは、以下に要約した、
WEBで見つけたひとのような感覚で居ましたから。
・・・・・・・・・・
自分は元々、宗教を信じない。
神社仏閣には歴史も感じるし素晴らしいとは思うが、神主さん・巫女さん・
お坊さんや僧侶といった職業の人たちは、どうも
「胡散臭く見える。」
目に見えないものを崇拝の対象とし、厄災から人々を守る超常的な力って、
「詐欺まがいだ。」
人の不幸や弱みに付け込み、精神的な安楽を与えることによって、信者を
増やしている。終末論があるのもそういったことに根ざしている?
ただ、こういった得体の知れないものを崇めることで、日々の暮らしが安息
に満ちるのであれば、それはその人にとっては重要なものであることも分か
る。
「ただ正直、個人的にはよくわからない。」
古くから皇室や幕府などの時の政権が重用したことから、それなりの説得力
はあるのだろうが、
「科学の今の時代にはどうなんだろうか。」
脈々と現代まで続く宗教というのはすごい、と感心するが、
「少し恐ろしい」
こういう内容を書くのは、世間一般的にNGな気がする。
日本ではともかく、世界では 宗教ネタはタブーの一つ だろう・・・・
・・・・・・・・
ああ、そうだろうね。
このブログも、世間からすると、タブーの類の記事を連ねています(笑)
「愛」「感謝」という言葉を前面に出すだけで、非常に「胡散臭い」「詐欺
まがいだ」とされる、この世界の常識。
それはもちろん、それらのキーワードで不当に稼いでいる連中が居る、と
いう認識から。
そして「愛」「感謝」は目に見えないので、調和に遠い状態では、どう
しても自分の中で「なんとなく」としか、捉えられないから。
なので、
「ただ正直、個人的にはよくわからない」
「科学の今の時代にはどうなんだろうか」
という感覚は分かる。そして同時に、それほど僕らは、「証拠」という概念
にしがみついて「いま」を生きている。
しがみつかないと、不安で不安でたまらない、そんな生き方をしている。
それが上に、最後に書かれた
「少し恐ろしい」
という感覚に繋がっているのは明白だ。
人間は、理解に証拠を求める。なので表面上、証拠としてははっきりしない
(ように見える)ものは、理解できない。
理解できないものに、不安を感じる。そして、その一切を否定する。
でも、あなた自身が常に
「不調和に在る」
「被害者(結果)として人生を生きている」
ことには、一切気付いていない。
そして気付こうとはしない。もしくは「気付けない」
大きな誤解から言うと、まず
カミサマ = 宗教 じゃない。
宗教とは、カミサマからお話を聞いた(と主張する)ひとが、弟子に伝言し、
その弟子たちが文章に起こし、それを勝手に「カミサマの言葉」とし、世間
に広める行為。
しかし、ひとから話されたことを、そのままの意味でストレートに伝え、
残すことは難しい。
直接的な「啓示」でさえも、ニールさん(神との対話)のように聞き手の
「フィルター」を通して表現するから。
これは、ひとに「自我」がある以上、仕方ないことです。
(・・でもだからこそ、この宇宙で「唯一」の、個性的な理解になるんです
けどね^^)
しかも、弟子から弟子へと、いわゆる「また聞き」を介して書物になったもの
も、多い。というか、それが大方。
代々伝えられるその間には、「理屈」というフィルターが分厚いひとに拠る
ときもあったでしょう。
ということはつまり、
最初の「カミサマから聞いた言葉」がもし、いくら正確な意図を含んでいた
としても、その後にその真意をくみ取ったつもりで書き連ねられた、のちの
世の文章が、いかに不正確なものか、ということが分かります。
その場の10人ほどの伝言ゲームでさえ、けっこうめちゃくちゃになるでしょ?
そう考えれば、
いま数ある「経典」と呼ばれるもの、それらがどれほど曲解に曲解を重ねられ
たものなのか、ということが分かります。
ひょっとしたら、あなたの「直感」のほうが、それら権威をまとった「経典」
よりも、「カミサマ」にほど近いのかもしれない。
でも、だからと言ってそれらをすべて否定したいんじゃありません。
なんども書きますが、世界は「黒か、白か」 では決してない!
そのなかには、たとえ少しでも、2000年を経過した今でも、使える概念はある
かもしれない。
それらは唯一、あなた自身の「愛」を基幹とした感覚で捉え、選択できる。
決して、エラいお坊さんじゃなく、あなた自身のハートが選び取るもの。
それらを、現代に合った意味に拡張し、そして、使えなくなった概念は、
勇気を持って捨て去る。
そうやって、多くのひとが「気付き」に至るまで、「宗教」は、ひとびとの
支えになればいいんじゃないか・・・と、そう思います。
宗教には、そういう役割があるのではないかと思います。
いずれ、個人個人が、「自分自身が、世界を成り立たせているすべてだった」
と気付けたとき、
初めて本当の意味で「NO宗教」な世界になるかもしれませんね。^^
「あなたは存在している」
「一は全、全は一」
「与えるものを受け取る」
「変化は常に起こっている」
あなたは「いま」「ここ」に「在る」!
こんにちは。
クリスマスの喧騒も一段落ですね。あとは思い残すことのないよう、
大晦日を迎えたいものです。
(年12回ある「みそかもうで」のなかで、今月は最も大事なのでお忘れ
なく!^^)
さて
日々、なにかと忙しく(と思い込んで)バタバタと雑に生きていますと、
「カミサマについて」
なんて考える機会も皆無でしょう。
初詣でさえ、僕らは季節感からか「なんとなく」で行ってたように思い
ます。
まあ、僕もこの「神との対話」でいろいろ知るまでは、以下に要約した、
WEBで見つけたひとのような感覚で居ましたから。
・・・・・・・・・・
自分は元々、宗教を信じない。
神社仏閣には歴史も感じるし素晴らしいとは思うが、神主さん・巫女さん・
お坊さんや僧侶といった職業の人たちは、どうも
「胡散臭く見える。」
目に見えないものを崇拝の対象とし、厄災から人々を守る超常的な力って、
「詐欺まがいだ。」
人の不幸や弱みに付け込み、精神的な安楽を与えることによって、信者を
増やしている。終末論があるのもそういったことに根ざしている?
ただ、こういった得体の知れないものを崇めることで、日々の暮らしが安息
に満ちるのであれば、それはその人にとっては重要なものであることも分か
る。
「ただ正直、個人的にはよくわからない。」
古くから皇室や幕府などの時の政権が重用したことから、それなりの説得力
はあるのだろうが、
「科学の今の時代にはどうなんだろうか。」
脈々と現代まで続く宗教というのはすごい、と感心するが、
「少し恐ろしい」
こういう内容を書くのは、世間一般的にNGな気がする。
日本ではともかく、世界では 宗教ネタはタブーの一つ だろう・・・・
・・・・・・・・
ああ、そうだろうね。
このブログも、世間からすると、タブーの類の記事を連ねています(笑)
「愛」「感謝」という言葉を前面に出すだけで、非常に「胡散臭い」「詐欺
まがいだ」とされる、この世界の常識。
それはもちろん、それらのキーワードで不当に稼いでいる連中が居る、と
いう認識から。
そして「愛」「感謝」は目に見えないので、調和に遠い状態では、どう
しても自分の中で「なんとなく」としか、捉えられないから。
なので、
「ただ正直、個人的にはよくわからない」
「科学の今の時代にはどうなんだろうか」
という感覚は分かる。そして同時に、それほど僕らは、「証拠」という概念
にしがみついて「いま」を生きている。
しがみつかないと、不安で不安でたまらない、そんな生き方をしている。
それが上に、最後に書かれた
「少し恐ろしい」
という感覚に繋がっているのは明白だ。
人間は、理解に証拠を求める。なので表面上、証拠としてははっきりしない
(ように見える)ものは、理解できない。
理解できないものに、不安を感じる。そして、その一切を否定する。
でも、あなた自身が常に
「不調和に在る」
「被害者(結果)として人生を生きている」
ことには、一切気付いていない。
そして気付こうとはしない。もしくは「気付けない」
大きな誤解から言うと、まず
カミサマ = 宗教 じゃない。
宗教とは、カミサマからお話を聞いた(と主張する)ひとが、弟子に伝言し、
その弟子たちが文章に起こし、それを勝手に「カミサマの言葉」とし、世間
に広める行為。
しかし、ひとから話されたことを、そのままの意味でストレートに伝え、
残すことは難しい。
直接的な「啓示」でさえも、ニールさん(神との対話)のように聞き手の
「フィルター」を通して表現するから。
これは、ひとに「自我」がある以上、仕方ないことです。
(・・でもだからこそ、この宇宙で「唯一」の、個性的な理解になるんです
けどね^^)
しかも、弟子から弟子へと、いわゆる「また聞き」を介して書物になったもの
も、多い。というか、それが大方。
代々伝えられるその間には、「理屈」というフィルターが分厚いひとに拠る
ときもあったでしょう。
ということはつまり、
最初の「カミサマから聞いた言葉」がもし、いくら正確な意図を含んでいた
としても、その後にその真意をくみ取ったつもりで書き連ねられた、のちの
世の文章が、いかに不正確なものか、ということが分かります。
その場の10人ほどの伝言ゲームでさえ、けっこうめちゃくちゃになるでしょ?
そう考えれば、
いま数ある「経典」と呼ばれるもの、それらがどれほど曲解に曲解を重ねられ
たものなのか、ということが分かります。
ひょっとしたら、あなたの「直感」のほうが、それら権威をまとった「経典」
よりも、「カミサマ」にほど近いのかもしれない。
でも、だからと言ってそれらをすべて否定したいんじゃありません。
なんども書きますが、世界は「黒か、白か」 では決してない!
そのなかには、たとえ少しでも、2000年を経過した今でも、使える概念はある
かもしれない。
それらは唯一、あなた自身の「愛」を基幹とした感覚で捉え、選択できる。
決して、エラいお坊さんじゃなく、あなた自身のハートが選び取るもの。
それらを、現代に合った意味に拡張し、そして、使えなくなった概念は、
勇気を持って捨て去る。
そうやって、多くのひとが「気付き」に至るまで、「宗教」は、ひとびとの
支えになればいいんじゃないか・・・と、そう思います。
宗教には、そういう役割があるのではないかと思います。
いずれ、個人個人が、「自分自身が、世界を成り立たせているすべてだった」
と気付けたとき、
初めて本当の意味で「NO宗教」な世界になるかもしれませんね。^^