人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

短 信(29)

2019-07-26 10:11:07 | スピリチュアル
〇祈ること
〇自分を愛し人を愛すること
〇謙虚であること
この三つがつねに出来れば、
その人は、光のなかにいます。

人は、光の世界の住者でありますが、
ますますその光がつよまって参る
ことでしょう。
このなかで、謙虚であることというのが、
一番むずかしいのでありますが、
とにかく、人間のいのちもすべて、
何一つ自分のものはないとおもえば、
自分は今、神様から、いのちを預けて
いただいているのだという気になって
参ります。

人は無一物なのです。
そこに、神様の愛が、光が、いっぱいに
入り込んでいるのであります。

肉のいのちを養うことは大事であります。
人の心も大事でありますが、それ以上に、
私どもは無一物で、この世に生をうけ、
光を受けて、生かしていただいているのだ
という感謝に生きることが、何より
大事なことなのであります。

この尊い事実に支えられて私どもは
生きているのだということを、心に
つよく刻んで、ともに、世界平和の
祈りをなしつづけて、参りましょう。
           合 掌
             昌 久

短 信(28)

2019-07-25 08:05:29 | スピリチュアル
御手紙拝見致しました。
祈りの同志にとって、祈りの他に、
大切なことがあれば教えて欲しい
という内容の御手紙かと思います。

世界平和の祈りをする、その次に
大事なことは、聴くということ
であります。

祈りと、聴くことは、実は一体
でありまして、どちらが第一、第二と、
順番をつけられるものではありません。

聴くということは、どういうことか
というと、まごころを込めて相手の
なかに入る、その気持ち、その心、
そして、その人を生かしめている
本心の光と一体となるということ
であります。
単に、相手の話している言葉を
聞くのではありません。

たとえば、私が「あ」といえば、
みなさん、五井先生が「あ」といった
ということはわかります。
けれども、私がどういう気持ちで、
あるいは、どういう言葉を次につなげて、
何を話そうとしているかを知ろう
とおもえば、自然、心を集中して、
私の出した言葉のひびきをききとろう
となさるでしょう。

聴くということは、この言葉の
ひびきを感じとることなのであります。

出された言葉の奥にある、その人
自身の心のひびきをたずねること
なのであります。
そうして、その心のひびきと、
きき手であるあなた自身の心のひびき
とが、同化し、一体となる、つまりは、
あなたのいのちと、その人のいのちとが
抱き合うということに他ならない
のであります。

すべての祈り、ことに、私どもの
世界平和の祈りは、神様が、私ども
一人一人の祈りをとおして、個々の
ひびきを感じ取って下さり、無限の愛の
光を流し込んで下さる……そしてまた、
光のシャワーを神様の愛によって
そそがれた私たちが、私たち自身のなかに
みちている神様の光を放射して、
いわば、光と光が交流し合う、愛と愛、
やさしさとやさしさとが交流し合うのが、
世界平和の祈りであり、統一である
のであります。

いいかえますと、この祈りをとおして、
神様は、つねに私どもの声を心を聴いて
下さっているということが、ここで言えます。
私どもは、つねに、神様の愛に抱かれ、
心に抱かれ、聴いていただける幸せの
なかに生きているのであります。

そこで、私どももまた、心を込めて、
聴くということが大事なのであります。
相手の表情、表面的な言葉にとらわれず、
相手をそのままに抱くということが
大切になって参ります。

祈りというものは、自己をそのままに
投げ出し、光となって、神の心を聴く
ということであります。
この祈りによって、聴くことのよろこびを、
十分に知らされている私どもの心は、
さらに寛やかになるために、(相手を
抱くために)やさしさと、素直さとを、
自分自身にたくわえてゆくことが
是非とも必要となってくるのであります。

神は無限の愛だと申し上げました。
その無限の愛を成り立たせているものは、
神のみこころの朗らかさと私どもに対する
無限のやさしさであります。

新約聖書のなかに伝道者パウロの
かきましたいくつかの手紙が入って
おりますが、そのなかの一つ
「コリント人への第一の手紙」
第十三章は、一般に愛の章とよばれて
おります。
つづめて申しますと、もし愛がなければ、
どんな言葉も行為も、無に等しいという
ことを、彼はここで述べているのであります。
この愛とは、やさしさであり、朗らかさ
でありましょう。

先ほど、私が述べました素直さへと、
これはまっすぐにつながってゆくもの
であります。

いかに社会的な地位があり、また、
富があり、名声があったと致しましても、
神を求める心において、謙虚さを
失った時、その人の光はにぶる
のであります。

そうして、神を求める心とは、教義に
述べた自分を赦し人を赦し、自分を愛し
人を愛す、ということにほかならない
のであります。

神は特別な世界、存在ではない。
神様をはなれて、私どものいのちの
活きづきはゆるされないのであります。
この神様は、かつて、一度も、私どもを
離れられたことがないのであります。

ですから、自分に人に、そうして神に
素直ということは、すなわち、人を
容れる心、聴く心と一つであるという
ことがいえるのであります。

どうぞやさしい心、素直な心を持って、
自分自身をやわらげ、またつよくし、
そのやさしさと素直さをもって心から
いろいろの人の話を聴いて下さいますように。

神様はどこまでもやさしい方
でありますから、あなたも、生き得る限り
やさしく、言葉に光をながすように、
言葉を粗末に出さず、言葉の奥にある
ひびきをたずねて下さるようにと
祈るものであります。

どうぞ、どこまでもやさしくあって
下さい。

世界人類が平和でありますように
          合 掌
            昌 久

短 信(27)

2019-07-24 08:09:47 | スピリチュアル
お手紙拝見致しました。
息子さんのこと、さぞ、ご心配だろう
と思います。
親であれば、誰しも、子どもの幸せを
願わない親はありません。

特に、自分のいのちにかえても、
とおもうのが、母の愛で、お手紙を
拝見しながら、私は、私の修行時代に、
心配そうにやせ切った私の姿をみつめ、
何とかして、私を、幸せに、平安に
してやりたいという願いにみちた母の
面ざしをおもいだしました。
わからないながら、私の苦しみを
かわれるならとおもっていてくれた
母の愛が、私をここまで導いて
くれたのだと思っております。
私はあなたの御手紙を拝見しながら、
母の愛と、その愛のはるかなる光源に
想いを馳せたのであります。

母の愛、また、すべての愛の源は、
神の愛であります。
神様は、一人一人を愛しみ、
いつくしんで、決してこれを捨てる
ということがありません。
あなたの息子さんも、神様の大切な
子どもなのであります。

そこで申し上げますが、決して、言葉を
出しすぎないように、あたたかく、
息子さんを見守り、息子さんの天命を
祈るということが、まず第一であります。

子どもというものは、どんなに
まごころが出ているとわかっていても、
自分の心をどうしようもない時、
はたからいろいろいわれますと、つい
反発してしまいがちになるもので
あります。
御心配でしょうが、どうぞ息子さんを
生かしているいのちのすこやかなる
ことを信じ、また、息子さんを信頼
されて、ただ黙ってしずかに見守る
ようになさってごらんなさい。
しずかなこころから、生まれるものは
多いと思われます。

そうして、すべての心の疲れを、
世界平和の祈りのなかに入れて、
日々、私をよんで下さい。
かならず参りましょう。

祈りは光、そしていのちであります。
あなたもまた息子さんも、ともに
永遠の祈りであるこの世界平和の
祈りのなかにとけこまれる光であり
いのちであります。

どうかかたく立って、愛深く、
御自分に、息子さんに対して
下さいますように。
           合 掌
             昌 久

短 信(26)

2019-07-23 12:14:06 | スピリチュアル
神様(かみさま)はどこにもいらっしゃる
のです。
 
大自然(だいしぜん)のなかにも、
あなたの心のなかにも。

あなたのいのちを考(かんが)えて
みて下さい。
このいのちはどこから来(き)たのかと・・・
              
いのちは神様からきています。 

あなたが嬉(うれ)しいと感(かん)じる、
かなしいと感じる、寂しいと感じる、
親切(しんせつ)にしてあげたいと
思(おも)う。
そういう気持(きも)ちをおつくりに
なったのは神様なのです。
そうして、神様という方は、いつも
あなたのなかにいて、 あなたという
人(ひと)を見守(みまも)っている
とてもやさしい方なのです。 

まだ、あなたは、ちいさいから、
よくわからないかもしれないけれど、
神様は、ずっとずっと、あなたの
なかにいて、もういろいろな所(ところ)
にいて、あなたのことも、みんなの
ことも、ニコニコしながらみている
ということだけをおぼえていて下さい。 

元気(げんき)でいらっしゃいね。
 
世界人類(せかいじんるい)が
平和(へいわ)でありますように
    昌 久(まさひさ)

短 信(25)

2019-07-22 13:41:45 | スピリチュアル
私は今筆を走らせながら、今度の
ことをどうあなたに謝まれば
いいのかと言葉を失っています。

あなたが、今回、受けた傷の深さは、
どういやしても、いやし切れるもの
ではないと、あなたの心の苦しみを、
ひびきのなかで受けとめて、涙が
とまらずにいるのです。 

あなたが受けた拒絶と、孤独は、
私にしかわからないだろう。
なぜなら、それは、素直な霊能、
霊覚を持ち、赤児のように神に素直な
人が受けた孤独であり、拒絶だからだ。
あなたが、否定されたことは、私が
否定されたことに他ならない。

けれども、私は、原稿をはじめとして、
一連のこの私の声を受け留め、正しく
判断し、かつ、会が、本当の意味で
発展してゆくためには、是非とも、
あなたという人を必要としたし、今も、
そして将来にわたって必要としている
ことにかわりはない。
それは、ただ単に、現世での私との、
また、会でのつながりというばかりでは
なく、神界を含めた真実の人間世界、
人智から神智へと移りゆく、本当の
大調和を目ざし、また実成を大目標
としておられる神の愛があなたという人を
選んだのです。

世界平和の祈りによって、だいぶん、
地球世界の波がかわったとはいえ、
心霊一如、肉の身のまま、霊人
であることを自覚する朗らかな空気へと
移行させるためには、思い切った神界の
英断が必要であったわけなのです。
実際、神界の一瞬のすぎゆきは、
地上での二、三年にあたっています。
だから、あなたの家で錬成会を向こう三年間
開くといっても、こちらでは、それらは
すでにおわって、いくつもの成果が出ている
といった具合なのです。
このことは、霊界に自由な霊身をはこぶ
ことのできるあなたなら、容易に納得される
ことでしょう。

けれども、はがゆいことに、現在は、
あの世をうつしたものでありながら、
波動があらいために、いくつ何十もの
業生の波を受けねばなりません。
およそ、あらわれというものは、それが
よいことであれ、悪いことであれ、現世で、
一つのかたち、あらわれとなる時には、
それにみあう抵抗を受けるものなのです。
まして、私が、はっきりした現われ方をした
などということについては、会自体の幾つもの
想いの枠があり、あなた自身にとっても、
私のひびきを感受しながら、会と会の
方たちとの間にたって、どれほど苦しみ、また
孤独におちいったことかと、真実
申しわけなくおもうのです。
しかし、それでも、人間の真性の目覚めの
ために、人類の限りない霊的進化(なぜなら
人間は霊そのものなのですから)のために、
私は、もう一度、地上に呼びかけねば
ならなかったし、それを、何の疑いも迷いもなく、
感受できるのは、あなたしかいなかったのです。
いや、今もいないのですよ。
でも、つくづく霊的ということについての孤独の
深さを考えるとため息がでますね。

それは勿論、どんな賜物も、神様からきている
もので、上下なんかあるはずはないんだけれど、
宗教という、神のみこころを伝え、また
体現してゆく世界では、その教祖や、指導者、
神に仏に、従っていった先覚者は、みんな
すぐれた霊覚を持っていた。
現代でも、宗教の本当の生命ーつまり、
人間のいのちが、大神様、宇宙神の
みこころに溶け入って、遂に愛の光の一筋と
なる生命を語るためには、こうしたすぐれた
霊覚を得た指導者を持っていなければ、
その宗教は、日ならずしてほろんでしまうんだ。

けれど、こういう霊覚を得ながら、
肉の身をまとい、肉体人間の
言葉(不自由な)を語ることが、
どれほど辛く、大変なことかは、これは、
経験した者でなければわからない。

神のひびきそのままを伝えたい気持ちに
幾度となくかられ、しかし、それはまだ
許されてはいないことなのだ。

神様は、生命を投げ出した私に、
私の悟る以前の個性を残して下さった。
だからこそ、私はどんな人とも、
肉体の私として、気軽に話ができたし、
地球全体、広く宇宙人類のために、
わかりやすく、真理の言葉をその人に
合わせて語ることができた。

現代という時代には、一時代前の
聖者的なおもかげを色濃くした教祖よりも、
およそ、人間らしい、教祖らしくない
教祖が、そして宗教の臭みのない宗教が
求められたわけだ。
そんななかで神我一体以後の私は、
実にさまざまな人に出会い、神の愛を
説きながら、その一方で真理を直裁に
語り切ってしまいたい気持ちにかられ、
孤独になり、そして、その孤独を
いやして下さったものは、ただ神の愛
であったのです。

だから、あなたがある人を介して、
私を訪ね、大法山の歌の不思議を
たずねてきた時、あなたのなかに、
本当にすぐれた霊能を感じ、同時に、
あなたのためにやり切れない思いに
おそわれたことを告白しましょう。
この人も私もおなじような孤独に、
苦しめられ、或る意味で、自分を神に
預けながら、ひとりになり切って
ゆかねば、道がひらいてゆかないのか
というのが、その時、私のおもったこと
であり、私のおよぶ限り、あなたの孤独は、
私が癒そうと瞬間に感じ切ったのでした。

霊能霊覚を持つ者の孤独は、他人よりも
はやく真理をしらされることであり、
そういった事実、状況を、他人が、
徹底的に理解しないというところに
生まれるのです。

おなじ肉体身でありながら、そして、
おなじ言葉を交わしながら、霊能を
得た人は、神の言葉を預かる預言者
としての役割を、肉の身と同時に
与えられていて、そのことが、その人の
人生を狂わせもし、またかなしみを
味わうことにもなってゆくのです。
これは、本当に不自由な、理不尽
きわまりないことです。
しかも、心ある宗教者は、これを耐え、
これをよしとしなければなりません。
なぜなら、それが、神のみ旨であり、
おおみこころを、地上にあらわすため
だからです。

私は、さっきから霊能霊覚といって
いますが、もとよりこれは、あなたの
霊能霊覚を指すのです。
そして、こうしたすぐれた霊能霊覚は、
何よりも、神様に素直な霊覚ということ
なのです。
宇宙万法の源である神の愛、千古よりの
真理につながる霊覚は、神に素直という、
ただこの一点からのみ与えられるもの
であります。
千の知識も、万の富も、それだけでは、
永遠のいのちの流れ、真実の人間の姿に
つながるものではありません。
たとえ、これらのものをすべて失っても
神につながるまっすぐな道は、素直に
神をしたう心、神を求め、そのみこころが、
完全に地上にあらわれることを祈り求める
心なのです。

神にすなおということは、ただやさしさ
ばかりでは成り立ちません。
やさしさの中に、本当のつよさが培われ
なければ、そのすなおさは、みがかれず、
また、永続しないのです。
神にすなおということをつらぬこうと
するのは、この世的には、だから大変至難な
ことなのであります。

現世に生きる以上、霊要素だけで、人が
生きてゆける筈はありません。
肉体を養うために、人間は喰べもし、
また飲みもしなければなりません。
そしてこの必要最小限の条件を満たす
ためには、人は社会の中で、職を得、
立場を得なければなりません。
宇宙神から分かれた神の分生命(わけ
いのち)である、本来の人間の
本心本体のかがやきが、こうした日々の
必要に迫られるなかで、いつしか霊波動、
精神波動よりも、物質波動優先となり、
業想念が渦まいて、光の子である真性を
失っていったのです。
こうしたことは、あなたには今更という
気もなくはないのですが、あなたが今、
おちいっている世界、孤独の世界は、
業想念におおわれた肉体人間の性質、
思いグセに他ならないからです。

あなた方の会といえども、神様の世界、
完全調和の世界からみれば、まだまだ
人間の業というものが、幅をきかせて
います。
在世中、会員のみならず、会員の家族
その他、私のところに訴えられる業の
波を、私は瞬間瞬間に世界人類が平和で
ありますようにという、祈り言のなかで
光にかえ、或いは人類の持つ想念の波を
浄めながら、それでもなお、業の波は、
情け容赦なく、私に押しよせてくる
という歎きを、詩にうたったことが
ありました。
あなたは覚えているでしょうか、勿論、
私は、人間の真性が光であることを
識っていますから、この歎きにとらわれる
ことはありませんでしたが、それでも、
一瞬、深く、その歎きは私をとらえ、
うたわずにはおかない気持ちへと私の心を
駆り立てたのです。

この人間世界が、人智から神智へと
むかうためには、肉体を脱いで自在身
となった神界の私と、救世の大光明団に
支えられている、会の二つながらの
働きが会長を助け、三位一体の愛の光
として、働かなければならない時期に
さしかかったのです。
あなたが両者から受けた、癒しようの
ない苦しみは、実は私がもし肉体の個我、
宗教者、教えをひらいた者の宿命として、
多くの人のなかで、霊覚のままに語る
ことを神から許されなかった私が、人間
としての孤独に押し流され、その禁を
破ったとすれば、容易に受けたであろう
苦しみです。

人は宗教に救いを求めながら、自らの
理解を超えた世界には、実に冷淡な
ものです。
そして、このうらやましさのなかには、
真の霊覚を得た者に対するうらやましさと、
及びがたしと敬して遠ざける想いと、平凡な
肉体人としての感情が入りまじっています。
奇跡がおこる、ありうるということを
頭のなかでは理解しても、事実目の前に
提出されると、これを拒む頑迷さから、まだ、
人類世界はいくらも脱皮していません。
そんななかで、世界平和の祈りの大光明に
守られて、宇宙神のみこころ深くまで、
祈りの階段を上ることのできるうちの会の
人たちは、まだしも、あなたは久遠の
神の光をあびているのです。

祈りが、真理が絶対であればあるほど、
その真理の相(すがた)に反した姿を
みせつけられること─これほどの
かなしみはありません。
いくら消えてゆく姿といっても、
なかなかにその傷がいつまでにいえますよ
という現世での、軽い人間同志の口約束の
ようにはゆかないでしょう。
なぜなら、その傷を負ったのは、あなたの
心だからです。
心というものが、かなしみにみたされた時、
どれほど人に対して、また、社会に対して、
その傷を癒すまで、固く己れを守り切るかは、
私はこれをよくよく知っているのです。

けれどね、あなたの間違っているところが
唯一つだけある。
なるほど、接しられた二人に代表される
やり切れない人間の業というものに、
あなたは沈んで、心を閉ざして
いるけれども、あなたの閉ざせる範囲は、
人間と、人間がつくった、社会まででは
ないか、神に対して、神の永遠の愛と
ゆるしに対して、あなたは心を閉ざした
のでしょうか、閉ざすことはできない。
そうではありませんか。
赤児のように純な神に素直なあなたの
たましいを、私は切なくおもうと同時に、
限りなく愛して抱いてきたのです。
今もなお抱いています。
私のというより、神への赤誠をまれな
賜物として与えられたあなたの天命と、
その天命に対する信頼とは、今度の
ようなことで、いささかもゆらぐことは
ありません。

会が味わうべき生みの苦しみを、あなたは、
両者からの、猛烈の反発拒絶という
かたちで受けて、消して下さったのです。
人を追いこんでおいてと思うかも
知れないけれど。
会が果たしてゆくべき役割は、まだまだ
大きく深いものがあります。
しかし、それも、神様にすなお、神智に
すなおという心があってはじめて成し遂げ
られるものであって、その資格を失えば、
会は、この深く大きな働き手としての
かがやきを失うでしょう。
二人の大きな個人の業生を、あの時消して
下さったと同時に、菩薩業としてのあなたの
祈りの使徒としての天命があらわれたのだ
と思って下さい。

私の流れ、働きは、7月にあなたが
彼女に会った時に、自ら断じたように、
こういう具体的な流れは、他にあらわれ
てはゆきません。
あなたの天命、彼女たち二人の天命は、
それぞれにちがったものです。
ちがったものでありながら、この三者は
一つの働きー神のみこころを地上に
あらわすということにおいて一つなのです。

統一の中でどうか、私によびかけて下さい。
神の智恵がつねにあなたを守られます
ように、あせる必要はありません。
          昌 久