生命とは、永遠の神の愛、宇宙神の
ふところ深く放たれている愛の光を本源
としたものであります。人間は、
この宇宙神から、ずっと分かれきたった
神の分生命(わけいのち)であるわけ
であります。
よく私どもが、おもいを消さなければ
消さなければ、とおもう。ね、宗教を
やっている人であれば、悪いおもいを
だしちゃいけないいけないとおもう。
それは、そのとおりなのですけれども、
何物にも、何事にも動かされないかがやく
生命いいかえれば、本心本体というものが
我々の奥にあって、つねに神様から愛の
光をいただいている。日々瞬々に、新生し
つづけているのが生命の本体だとは、
いけないいけないとおもっている人は中々
おもいにくいわけです。
そこで、それでは本当の生命、私が今
申しましたかがやく本心本体というものを、
どういう風に体得してゆくのかと
申しますと、それは祈りによって体得して
ゆくのであります。祈りによるほか、
本心本体を知る術はありません。
ところが「宗教」によって良心が鋭く
なっている人達は、自分の心の動きという
ものに敏感になっておりまして、少しでも、
神様に遠い思いが出てきたと
おもうとすぐに、その気持ちだけではなく、
自分自身をも否定してしまう。
これを、卑下高慢というのであります。
実は、この人達が、心だとおもっている
ものは、情でありまして、本心本体という
ものではありません。
情にとらわれていけないとおもい、
己れを否定する。
これをも業というのであります。
人間の本心本体と申しますものは、
まことにさわりのない、自由自在な神の光
そのものなのであります。この真実の光
そのものの自己に対面し、いのちにとけゆく
ために、祈り心があり、祈りがある
のであります。
こうした人をみちびいて参ります場合には
先ず、その人にむかって語るというよりも、
人間一般、人間の持っている思いグセという
ものに対して語りかけるという気持ちで、
話しかけた方がいいのであります。
そう致しませんと、目の前の相手に
むかって枠をはめることになり、それは、
生命が本来持っている自在さ、本心本体を
照らしている光明から離れる結果となる
からであります。
そうして、人間というものは、気持ちの
動きを或る一瞬とらえただけでは
はかれない程不思議な深い存在であり、
第一に、生命というものに、人が眼を
むけた時、おのずと、不思議さが、心の
底から湧き上がって参るんであります。
この、いつの間にか、おのずと、と
いうのが、神の光、いのちの流れの極みとも
いうべきもので、ふんわりと、祈りの座に
共にすわるうちに、その人は、すっきりと
した心持ちになり神の愛、いのちのすがたに
抱かれてゆくのであります。
このように、生命というものは、実に
霊妙な神のひびきを持っているもので
ありまして、生命に礼拝するとき、我等は、
しっかりと神のもとにある自分を感じ切る
ことができるのであります。
昭和61年10月10日
ふところ深く放たれている愛の光を本源
としたものであります。人間は、
この宇宙神から、ずっと分かれきたった
神の分生命(わけいのち)であるわけ
であります。
よく私どもが、おもいを消さなければ
消さなければ、とおもう。ね、宗教を
やっている人であれば、悪いおもいを
だしちゃいけないいけないとおもう。
それは、そのとおりなのですけれども、
何物にも、何事にも動かされないかがやく
生命いいかえれば、本心本体というものが
我々の奥にあって、つねに神様から愛の
光をいただいている。日々瞬々に、新生し
つづけているのが生命の本体だとは、
いけないいけないとおもっている人は中々
おもいにくいわけです。
そこで、それでは本当の生命、私が今
申しましたかがやく本心本体というものを、
どういう風に体得してゆくのかと
申しますと、それは祈りによって体得して
ゆくのであります。祈りによるほか、
本心本体を知る術はありません。
ところが「宗教」によって良心が鋭く
なっている人達は、自分の心の動きという
ものに敏感になっておりまして、少しでも、
神様に遠い思いが出てきたと
おもうとすぐに、その気持ちだけではなく、
自分自身をも否定してしまう。
これを、卑下高慢というのであります。
実は、この人達が、心だとおもっている
ものは、情でありまして、本心本体という
ものではありません。
情にとらわれていけないとおもい、
己れを否定する。
これをも業というのであります。
人間の本心本体と申しますものは、
まことにさわりのない、自由自在な神の光
そのものなのであります。この真実の光
そのものの自己に対面し、いのちにとけゆく
ために、祈り心があり、祈りがある
のであります。
こうした人をみちびいて参ります場合には
先ず、その人にむかって語るというよりも、
人間一般、人間の持っている思いグセという
ものに対して語りかけるという気持ちで、
話しかけた方がいいのであります。
そう致しませんと、目の前の相手に
むかって枠をはめることになり、それは、
生命が本来持っている自在さ、本心本体を
照らしている光明から離れる結果となる
からであります。
そうして、人間というものは、気持ちの
動きを或る一瞬とらえただけでは
はかれない程不思議な深い存在であり、
第一に、生命というものに、人が眼を
むけた時、おのずと、不思議さが、心の
底から湧き上がって参るんであります。
この、いつの間にか、おのずと、と
いうのが、神の光、いのちの流れの極みとも
いうべきもので、ふんわりと、祈りの座に
共にすわるうちに、その人は、すっきりと
した心持ちになり神の愛、いのちのすがたに
抱かれてゆくのであります。
このように、生命というものは、実に
霊妙な神のひびきを持っているもので
ありまして、生命に礼拝するとき、我等は、
しっかりと神のもとにある自分を感じ切る
ことができるのであります。
昭和61年10月10日