人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

ゆるされている生命(3)

2023-01-02 09:30:32 | スピリチュアル
       (前日からの続き)
苦労が一概に全部いいかというとそうではない
けれども、そうじゃなくって、それは何かというと、
自己ではない他己の生命、その人の立場
その人の気持ち、その人が何故そういうことを
言ったか、何故そんなふうに怒ったか、自分に敵対
したか、あるいは協力をしてくれたか、何故
あそこまで骨惜しみせずにあの人は生きることが
出来るんだろうかとか・・・。
それはやっぱり、相手の立場というものを想いやる
ということがないとやれないんですね。
で、その想いやるというのは、神様でもない限り、
自分の環境以外の事、自分の価値観以外の事を
分かる、理解してね、寄り添ってそして生きて
祈って、そうだなあと思いながら、共に生きる
というのはなかなか難しいんです。
           
それをやろうと思うとね、やっぱりどっかで苦しむ。
例えば病気になる。
父と息子がうまいこといかないとかですね。
嫁と姑が駄目になってるとか。
何か平和じゃない、そういう状況というものを
通して、ああ本当に大変だなあー、これは本当に
一緒にやっていくということは大変だなあー、家族
というものは重たいものだなあーとか、いろいろな
ことを身に染みる訳ですね。
そうすると、自分の身近でそういうふうな人を
見ると、あああの人も大変だろうなあーと、
同じような経験を持てば、やっぱりその時に、
我しらずその心が分かって寄り添える訳なんですね。
その時に、その人のために、ああ本当にあの人が
幸せになりますように、天命が完うされますように、
よろしくお願いしますというふうに言えるようになる。

ところが、悲しいことに人間というのは、自分の
経験以外の事というのは、そういう何か思い知ら
されるような事がないと、他の人の複雑な苦しい
辛い気持ちというのは、なかなか分からない
ように今なっている。

で、それを曇らされてるのは、もちろん大きく
言えば、肉体の我だけれども、その人その人の
環境や、お金があればあるで、お金が無いなら
無いで、あるにも無いにも何か不足が出てくる、
欲が出てくる。
いろいろなところで苦しむ。
そういうものがある訳なんです。
社会的な状況もある訳なんです。
それは霊の生命からいったら余分なもの
なんだけれども、だけれども、余分なものだ
といって、我々はそれを捨て去ることは
出来ない訳ですね。
その中で生きていかなきゃいけないから。

それではどうすれば良いかというと、やはり
祈りの中でね、祈りの時には、自分が何億
持ってるとか何とかいう、それは祈りの場所じゃ
ないですね。
祈りの時間というのは、神様と私の時間なんですね。
神様に私の心を開いていただく、そういう時間
なんです。
そうして、自分の本来心を解き放って行って、
そして、自分はこの世の中にあっては、
とてもじゃないけどたまらないような状況に
あるけれども、だんだん解き放って行くと、
ああ自分の中にも朗らかなものがあるなあー、
静かなものがあるなあー、神様ありがとう
ございます、と言える時に思える時に、神様と
一致することが出来る。
だからそれは、「世界人類が平和であります
ように」というあの祈り言の中に全部入ってる
訳ですね。
教義にありますけれども、個人も人類も
真の救いを体得できるものであるという
あの祈りですね。
あの祈りを唱える時に、我々というのは
目には見えませんけれども、自分の中にある
余分なものがその時パーッと掃除をされる訳
なんですね。
で掃除をしたところで、いろいろな経験を
積んでいって、そしていろいろな場所で、例えば、
支部じゃなくったって集会じゃなくったって、
宗教的なものを離れたってね。
いろんな人に会っていろんな立場の人の話を
聞くことがあるかもしれない。
悩みを聞くことがあるかも知れない。
そういう時に、どれだけ、祈りの場じゃ
ない所で、そういうことを無になって聞けるか
ということ、やっぱりそれが大事なんですね。
             (つづく)