人は、ふるさとびと

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三昧とは 真実の人間のよろこびを指す

2014-01-03 07:34:00 | スピリチュアル
        111 三昧について 
 宗教というものの極意は何かというと、神の
愛を知って、祈り心で生活するということ
であります。

 どんな時にも、神様が、守護霊守護神が、
我々を愛している、愛してみちびいて下さって
いるという事実に気付き、ここに深く心を
留める時、私どもは本当に深い大きな安心の
なかに抱かれるのでありますが、しかし、
いわゆる宗教三昧になって、この社会から、
人間からはなれた生活をすることは、
これは間違っているのであります。

 三昧ということを、世の中の人は、わき目も
ふらずに一つのことに没頭する、没頭して、
一種こうこつとした状態になり、まわりのものは
何もみえてこないという風にとっているようで
あります。

 いわゆるこうした意味での宗教三昧を、
私は厳しくいましめているのです。

 神様とともにあるよろこび、神様を愛する
よろこび、神様から愛されるよろこび、これらは、
神をしたう私どもにあたえられた至福では
ありますが、しかし、これがどんなに至福だから
といって、家族を無視し、仕事を放り出して、
世捨て人のように、ただ神様だけにひたり切る
という生活は、特殊も特殊というべきなので
あります。
 それは全くある限られた人にのみ神様が
あたえることでありまして、人は、人を離れて
生きることはしてはならないし、また出来ない
のであります。

 この人生と申しますものは、いつもいいます
ように、我々の修行場でありまして、人生の
さまざまな場面に出会って、我々は、人間が
誤って身につけてしまった業想念のおそろしさ、
人にやさしくし、やさしくされることの嬉しさ、
愛することのすばらしさなどを学んでゆくので
あります。
 そして、このみちびきは、あなた方の守護霊、
守護神の愛によるのでありますが、現実生活の
なかで、泥まみれになりながら、それでも、
誠実でありたい、やさしくありたい、愛したい
という心が自然に湧き上がってくる、まさに
その時を、三昧とよんでさしつかえない
のであります。

 三昧とは、法の世界、宇宙の大法である神の
愛とゆるしのこころにしっかりととらえられた
人間の本体、いいかえますなら、真実の人間の
よろこびを指しているのであります。
 神の愛と人の愛とがピッタリと一致した時、
その時、人に三昧境にあるということができる
のであります。ここには、ちっぽけな肉体人間の
小知才覚など、入り込むすきはありません。
 我というものが消えて、一切無、一切空となり、
光ばかりという世界なのであります。

 滝に打たれ、参禅をなし、食を断って、
いのちがけの修行の末に、人は、この法悦境を
えたものでした。
 けれども、現代の現実生活のなかで、これを
求めることが(いのちをすててかかることが)
どれ程むずかしく、実現不可能なことかを、
我々はよく知っておりますし、そうしたことを
祈り求めた末に、私に与えられたものが、
世界平和の祈りだったのであります。

 世界人類が平和でありますようにという
祈りは、救世の大光明霊団の光を受けて、
修行者が容易にのぼることの出来なかった
光一元の世界へと、私どもをみちびいて
くれるのであります。
 なお申しますならば、法の世界、三昧の
世界というものは、ゆらぐことなく、確かに
そこにある不動のものでありまして、私どもが、
誠実に、素直に、神を求めて、祈り心で毎日を
生きて参ります時、この三昧の光、神人一体
となった無礙の光は、私どもをとらえ、
覆い尽くすのであります。
 世界平和の祈りを行じつつ、毎日を神への
感謝に生きて参りましょう。