つねに新しくされてゆく
ということ
新しい自分にかわらされている
ということは
いいかえますと
つねに
古い自分を脱ぎ捨てている
ということであります
肉体人間の想念というものは
つねに
自分の境界線を
守ろうと致します
たとえば
それは
家族であったり
財産である
というような
目にみえるものばかり
ではなく
自分の心という
他者からは
見えることのない
ものも
必死になって
守ろうと致します
それが愛着から
仮にはじまったことである
と致しましても
それは
やはり
とらわれになり
こだわりになる
いうならば
自分でも
気がつかない間に
自ら業想念の
世界の渦のなかに
まきこまれていることが
多々
あるのであります
かぎられた
肉体界
また
肉体人間のおもいに
とらわれておりますかぎり
真に
自分があたらしくされてゆく
ということは
想起だにできない
ことでありましょう
これまで
幾多の聖者方が
この地上に降りて
道を切りひらかれながら
世界中の人々が
心をひとつにして
この肉体以上のものに
無理なく眼をむけるという
ことは
遂に成就されぬまま
時代はすぎていったので
あります
ところで
わたくしは今
あえて
祈りという
言葉を
用いなかったのでありますが
つねに新しくされる
ということは
ただ
肉体のおもいに
とらわれているだけでは
とうてい
かなうことでは
ありません
私どもが
真実
新生しつづけるためには
絶えざる祈りというものが
絶対に不可欠なので
あります
本来
人間と
申しますものは
その本体は
たとえ
無神論者であっても
また
唯物論者であっても
ずっと
その姿を
観じ
生命を
観じて参りますときには
等しく
みな
祈っているもの
なのであります
その本来の姿を
地上の
肉体界の
粗い波動のうちに
生きる間に
すっかり
忘れ果ててしまって
いる
というのが
現代の人間の姿なので
あります
人は皆
空を
飛ぼうと致しました
そして
その夢を実現するために
さまざまに
工夫がなされ
研究がなされた
のでありますが
同時に
そこには
敬虔な
祈り心
というもの
神を
また
自然を
この宇宙を
畏れる心
というものが
存在していた
のであります
憧れと畏れとが
交叉し
そこに
さまざまな科学が
あらわれることに
なったのでありますが
これらは
すべて
神のみこころに
よって
霊界の科学が
降ろされていた
というのが
真実のすがたなのであります
当時
科学と人類の進歩に
たずさわる人々は
はっきりと
意識して
これらのことを知っていた人は
ごく稀でしたけれども
その本心本体では
真実の姿を
諒解していた
ということが
いえるのであります
ところが
だんだん
世の中が
すすむに
したがって
人は
自分達の智恵と探求心が
科学を生み出した
と思いはじめ
畏れはじょじょに
失われて
いったのであります
そして
旧約聖書の
バベルの塔ではありませんが
もはや人間は
神を必要としない
というところまで
自分達自身を
追いつめて
業想念波動を
つよめてゆくこととなったので
あります
私は
人間が
神の分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)であって
業生ではない
ということを
身をもって
知っている者です
ですが
それは
あくまでも
自分達のいのちを
守らしめている
神の愛念に対する
絶えざる
感謝行
祈り
というものが
あってはじめて
業生ではない自分
光かがやく自分
というものも
あらわれてくるので
あります
人間は
ただ
お金をもうけるために
働いて
飲んで
喰べて
というような
単純な存在ではありません
肉体を持っている以上
肉体をいたわり
肉体を養っていくことも
大事な
ひとつの
つとめではありますが
それ以上に
さながらの生命に
生かされている自分
朗らかな光のいのち
としての自分を
みつめて
感謝して
生きてゆくこと
これが
何よりも
大事なことに
なってくるのであります
肉体の自分と
朗らかな自分とは
別の自分ではなくて
実は
明るく朗らかな
光にみちた
いのちのながれそのものの自分
というもの
つまり
本心の自分というものが
肉体の自分を導いて
いるのであります
そして
それは守護霊守護神
神の愛念に
よるのだ
ということに
気づかされるとき
ひとりでに
祈りというものが
私どもの唇を
突いて出ずには
いられないのであります
あるいは
この久遠のいのちの流れと
いうものの大元の世界へと
目を向け
あおぎみずにはいられないので
あります
人によって
その存在を
神と呼ぼうと
仏と呼ぼうと
あるいはまた
自然と呼ぼうと
宇宙と呼ぼうと
それは
自由でありますけれども
とにかく
人智というものを
はるかに越えた
大智慧
大円光
大愛の世界に
ぬかづいて祈って
参りますときに
人は
その身内の最奥にある
霊なるいのちと
呼応して
つねに新しくされる
自分
というものを感じてゆくことに
よろこびを覚え
古い自分を
その都度
脱ぎ捨ててゆくことに
何ら
こだわりを
感じなく
なるのであります
私はこれを
一切は消えてゆく姿
今おこっていることは
過去の自分自身があらわれて
そして消えてゆこうとしているのだ
だから
よいことにも
悪いことにも
とらわれずに
世界平和の祈りを
唱えつづけてゆけば
本当に
光ばかりの世界が
あらわれてくるのだ
と説きつづけて
参っているので
あります
私たちは
永遠の進化を
神のみふところのなかで
その光をいただきながら
遂げてゆく存在なのであります
一切
とどまるものは
ありません
しかし
つねに私どもを
つつむものは
神の愛であります
私どもは
こうした
無限の神の愛に
感謝しつつ
日々
世界平和の祈りを唱え
私どもの本心の光が
少しでも
この世界の
そして宇宙の
平和のために
役立つものとなるように
すごして参りたいもので
あります
平成2年3月10日
ということ
新しい自分にかわらされている
ということは
いいかえますと
つねに
古い自分を脱ぎ捨てている
ということであります
肉体人間の想念というものは
つねに
自分の境界線を
守ろうと致します
たとえば
それは
家族であったり
財産である
というような
目にみえるものばかり
ではなく
自分の心という
他者からは
見えることのない
ものも
必死になって
守ろうと致します
それが愛着から
仮にはじまったことである
と致しましても
それは
やはり
とらわれになり
こだわりになる
いうならば
自分でも
気がつかない間に
自ら業想念の
世界の渦のなかに
まきこまれていることが
多々
あるのであります
かぎられた
肉体界
また
肉体人間のおもいに
とらわれておりますかぎり
真に
自分があたらしくされてゆく
ということは
想起だにできない
ことでありましょう
これまで
幾多の聖者方が
この地上に降りて
道を切りひらかれながら
世界中の人々が
心をひとつにして
この肉体以上のものに
無理なく眼をむけるという
ことは
遂に成就されぬまま
時代はすぎていったので
あります
ところで
わたくしは今
あえて
祈りという
言葉を
用いなかったのでありますが
つねに新しくされる
ということは
ただ
肉体のおもいに
とらわれているだけでは
とうてい
かなうことでは
ありません
私どもが
真実
新生しつづけるためには
絶えざる祈りというものが
絶対に不可欠なので
あります
本来
人間と
申しますものは
その本体は
たとえ
無神論者であっても
また
唯物論者であっても
ずっと
その姿を
観じ
生命を
観じて参りますときには
等しく
みな
祈っているもの
なのであります
その本来の姿を
地上の
肉体界の
粗い波動のうちに
生きる間に
すっかり
忘れ果ててしまって
いる
というのが
現代の人間の姿なので
あります
人は皆
空を
飛ぼうと致しました
そして
その夢を実現するために
さまざまに
工夫がなされ
研究がなされた
のでありますが
同時に
そこには
敬虔な
祈り心
というもの
神を
また
自然を
この宇宙を
畏れる心
というものが
存在していた
のであります
憧れと畏れとが
交叉し
そこに
さまざまな科学が
あらわれることに
なったのでありますが
これらは
すべて
神のみこころに
よって
霊界の科学が
降ろされていた
というのが
真実のすがたなのであります
当時
科学と人類の進歩に
たずさわる人々は
はっきりと
意識して
これらのことを知っていた人は
ごく稀でしたけれども
その本心本体では
真実の姿を
諒解していた
ということが
いえるのであります
ところが
だんだん
世の中が
すすむに
したがって
人は
自分達の智恵と探求心が
科学を生み出した
と思いはじめ
畏れはじょじょに
失われて
いったのであります
そして
旧約聖書の
バベルの塔ではありませんが
もはや人間は
神を必要としない
というところまで
自分達自身を
追いつめて
業想念波動を
つよめてゆくこととなったので
あります
私は
人間が
神の分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)であって
業生ではない
ということを
身をもって
知っている者です
ですが
それは
あくまでも
自分達のいのちを
守らしめている
神の愛念に対する
絶えざる
感謝行
祈り
というものが
あってはじめて
業生ではない自分
光かがやく自分
というものも
あらわれてくるので
あります
人間は
ただ
お金をもうけるために
働いて
飲んで
喰べて
というような
単純な存在ではありません
肉体を持っている以上
肉体をいたわり
肉体を養っていくことも
大事な
ひとつの
つとめではありますが
それ以上に
さながらの生命に
生かされている自分
朗らかな光のいのち
としての自分を
みつめて
感謝して
生きてゆくこと
これが
何よりも
大事なことに
なってくるのであります
肉体の自分と
朗らかな自分とは
別の自分ではなくて
実は
明るく朗らかな
光にみちた
いのちのながれそのものの自分
というもの
つまり
本心の自分というものが
肉体の自分を導いて
いるのであります
そして
それは守護霊守護神
神の愛念に
よるのだ
ということに
気づかされるとき
ひとりでに
祈りというものが
私どもの唇を
突いて出ずには
いられないのであります
あるいは
この久遠のいのちの流れと
いうものの大元の世界へと
目を向け
あおぎみずにはいられないので
あります
人によって
その存在を
神と呼ぼうと
仏と呼ぼうと
あるいはまた
自然と呼ぼうと
宇宙と呼ぼうと
それは
自由でありますけれども
とにかく
人智というものを
はるかに越えた
大智慧
大円光
大愛の世界に
ぬかづいて祈って
参りますときに
人は
その身内の最奥にある
霊なるいのちと
呼応して
つねに新しくされる
自分
というものを感じてゆくことに
よろこびを覚え
古い自分を
その都度
脱ぎ捨ててゆくことに
何ら
こだわりを
感じなく
なるのであります
私はこれを
一切は消えてゆく姿
今おこっていることは
過去の自分自身があらわれて
そして消えてゆこうとしているのだ
だから
よいことにも
悪いことにも
とらわれずに
世界平和の祈りを
唱えつづけてゆけば
本当に
光ばかりの世界が
あらわれてくるのだ
と説きつづけて
参っているので
あります
私たちは
永遠の進化を
神のみふところのなかで
その光をいただきながら
遂げてゆく存在なのであります
一切
とどまるものは
ありません
しかし
つねに私どもを
つつむものは
神の愛であります
私どもは
こうした
無限の神の愛に
感謝しつつ
日々
世界平和の祈りを唱え
私どもの本心の光が
少しでも
この世界の
そして宇宙の
平和のために
役立つものとなるように
すごして参りたいもので
あります
平成2年3月10日