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新しい人類の思想(3) 「悉皆成仏」思想 あらゆる「いのち」を尊ぶ科学文明

2012-03-21 22:50:49 | エッセイ

以前、「森林の思考・砂漠の思考」と言う本を読んだ。
中東の砂漠地帯に起こったユダヤ教、キリスト教、イスラム教等西洋文明の一神教は、正に、この「砂漠の思想」である。
そして、日本を初めアジアモンスーン気候の森林地帯に起こった仏教や神道等の多神教は、この「森林の思想」である。
今、この「砂漠の思想」から「森林の思想」への転換が迫られている。
日本の国土が森林で覆われ、縄文人達が住んでいた頃、ヨーロッパ大陸もオークの森林で覆われていて、ケルト人達が住んでいた。
ところが、森での狩猟採取の他に、農業を始める人達が出てきた。
中東で麦作が、中国の長江で稲作が始まり、農業民族が生まれた。
この農業は次第に多くの人工を養うようになった。
そのため、他の地域にも広がりだした。麦作はメソポタミアだけでなく、エジプトにも伝わり、ナイル河畔にエジプト文明をもたらした。
アジアの長江河畔の稲作は、中国の雲南省や日本や東南アジアにも広がった。
こうした農業民族は、狩猟採取の縄文人やケルト人ほどではないにしても、まだ自然の太陽や川や大地や火等を敬う多神教民族であった。
(エジプト文明も太陽神ラーを崇拝し、中東の民も大地の神を、日本では天照大神を崇めた。しかし、森林は「森の民」ほど畏敬せず伐採した)
ところが、モーセにひきいられてエジプトを脱出して中東へ来たユダヤ民族は、エジプトと違って太陽など自然神を認めない一神教の、正に「砂漠の思想」そのものだった。
さて、ここでギリシアが登場する。
、北方から侵入したギリシア人は、周囲の農業民族達にはない自由で先進的な思想を持っていた。。また、自分達のギリシア神話では周囲の農業民族の大地の神々を化け物のように扱った。そしてプラトンに代表されるように神より、自分達、人間の理性を重視した。
このギリシア文化はアレクサンダー大王に引き継がれアジアに及ぶ大帝国を建てたが、大王の死と共に滅んだ。
その後、イエスが生まれ、キリスト教が誕生した。
ユダヤ民族の一神教的「砂漠の思想」は、このキリスト教に受け継がれた。そのキリスト教は、迫害されたが、やがて強大なローマ帝国の国境となった。
すると、ローマ軍の遠征と共にヨーロッパ全土に広がった。
それまで、ヨーロッバ全土に住んでいたケルト人達は、ローマ軍に追われ、西端のあいるランドに逃げた。
一方、日本では、森に住んでいた縄文人達は、弥生人達に追われ東北に逃げた。
こうして一神教的「砂漠の思想は、ヨーロッパ全土に長年キリスト教として君臨し、西洋文明の土代となった。
さて、ここからは、前回の内容をやや詳しく述べる事になるが、
こうしたキリスト教支配の「暗黒の中世」と言われる時代も、その殻を破るルネッサンスが起こると、人間中心の古代ギリシア文化が再評価され復興した。
そして、プラトンの理性中心の哲学も、デカルトに再発見され受け継がれて発展した。
さらに、この近代西洋文明は今までにない科学技術を発達させ、前回で述べたように、産業革命以後現在に至る大量エネルギー消費による大量生産、消費、廃棄のgnp成長重視の物質文明を築いた。
この近代西洋文明は、今までにも、その在り方を見直される機会もあった。
それは、ddt等の農薬による生態系破壊や人体への様々な公害を引き起こした事である。
それ等は、幸いな事に、良心的な一部の科学者等の渓谷や努力によって使用禁止や防止等の対策がとられた。
しかし、これらは補完的なもので、その根本思想は変わること無く、人間中心、白仁先進国中心と言う利己的な思想のままで、万物の「いのち」はすべて同じように尊いと言う思想ではなかった。
ここで、少し話題を変えて、戦争について考えてみよう。
人類は、「森の民」の時代は、小集団で離れて暮らし、戦いは無かった。
農業を始めて大きな集団生活をするようになると、争いや戦いで他人のいのちを奪うようになった。戦士の登場である。
ギリシア以前、エジプトが盛んな約3000年前、中東のヒッタイトに鉄の使用が始まった。
この鉄使用は、その後各地に広がり、農具として農業経済力を高めただけでなく武器としての武力戦力をも強大にした。
そして、多くのいのちを奪う戦争も起こすようになった。
中世の頃まで、戦士も騎士道、武士道としての誇りが有ったが、近代になるとそうした精神が無視され、科学的に如何に多く殺して勝利するかと言う「いのち」も物質と同じように見なすようになった。
それまでは、神を怖れ、死後の世界を信じると言う有神思想があったが、近代以後は無心思想、即ち唯物思想が大きく影響するようになった。
このようにして、近代西洋文明は、無神思想も加わって「いのち」を尊ばない思想を強め、多くの「いのち」を奪う事にも、集団として、心痛める事も失ってしまった。
さて、話を戦争から元にもどして、
最近、ようやく、現在の文明の行き過ぎに気付いて、「生物多様性条約」や「co2削減条約」等に世界的に取り組み始めたが、まだ今までの近代西洋文明の経済中心の世界志向の中では、完全な実現には相当年月がかかりそうである。

今回述べて来たように、人類の長い歴史を眺めてみると、次のように面白く要約できると思う。

「人類は、聖書にある「知恵のリンゴ」を食べた事によって、また、ギリシア神話の「パンドラの箱」を開けた事によって、それまでの平和な安らかな「森の民」としての生活を追われた。そして、苦しい労働や戦いの生活をするはめになってしまった。
しかし、その得た「知恵」を、長年、労働や戦いに負けまいと働かせる事によって道具や様々な便利な物を作り出して来た。
そして、その結果、今日に見られるように、昔の王様のような贅沢で便利な生活をできるように進歩させた。しかも巨大な人口の人々に齎し、今も地球全土の人々に拡大させつつある」

しかし、こうした知恵で得られた科学文明も、前回述べたように、このまま直線的に「人間中心」的に進めると、人間を初め地球上の全生物を滅亡させる道を進む事になってしまう。
ここで、「森の民」の時代や中世の科学技術以前の有機農業の時代にもどれと言う訳ではない。「森の民」の「いのち」を尊び、自然を尊ぶ思想や精神に学ぶ事が、現在の問題の唯一の解決の道であると言うのである。

進化の螺旋階段

永遠に存続する進歩の在り方とは、直線的でなく、螺旋(ラセン)的な在り方であると思う。
片方へ行き過ぎたら、反対側へ曲がり円を描くようにカーブする。上から見れば円を描いて循環しているように見えるが、円を描く度に、少しづつ上へ上がっていく。そうして螺旋階段を登るように進歩して行くのである。
こうして「歴史は繰り返す」と言われるように、人類史は、上から見れば、何度も繰り返すように見えるが、同じ場所ではない。
こうした螺旋状の在り方は、dnaや植物の芽の成長にもその姿が見られる。
人類史は、この螺旋的な繰り返しの周期は、数十年、数百年、数千年、数万年とあるだろうが、私は今回の人類の文明の変わり目はその中の3000年周期の変わり目であると思う。
(長くなったので中断 続く)



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