老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

1051;“恵んでやるのだから、ありがたく思え”

2019-04-11 12:41:38 | 老いの光影 第4章
銚子の海

“恵んでやるのだから、ありがたく思え”

実際にあった“生活保護”受給または辞退した話を書いていく

私事になるが
私が生まれた処は北海道の山村
車で40分位も走れば日本海に抜ける

農家に生れ、私は長男、姉と妹がいた
高校1年の冬 大黒柱である親父が大腸癌を患い入院
いまの医療ならば親父も長生きできたのだが
50年余り前の医療では望めもなく、人工肛門を造設
1年4ヶ月の余命告知(実際は1年8ヶ月生きた)
痩せ細り体重は40㎏を切った

母親は病院に寝泊まりし親父の看病

10町歩(10㌶)あり田畑を荒らすわけにもいかず
私は親に相談せずに 高校を休学
1つ年上の姉と私の二人で百姓をした

北海道は冷害が多く、3年連続の豊作はありえなかった(当時)
百姓をして初めて多額の借金があることを知った
その借金は田圃の農地改善や農機具の購入等の借入金だった
入院費もあり生活は苦しかった

生活保護を申請した。
なかなか決まらなかった
それは田畑があるから、という理由であった
農民にすれば田畑は米、馬鈴薯など作る上ではなくてはならないもの

町だったので北海道の地方の行政管轄は支庁制をとっていた
後志支庁生活保護担当者と何度も話をした
ようやく生活扶助、医療扶助、教育扶助(妹は中学生だった)の保護決定通知を受けた

生活保護担当者から
忘れもしない屈辱的な言葉 “恵んでやるのだから、ありがたく思え”、
と蔑むような言葉。

50年の時が経過し
生活保護に対する国民の意識は大きく変化した
どう変化したのか 今回はあえて避ける

私の過去ことを書きたくて書いたのではない
これから2回にわたり “生活保護”の現実のケースを通し
生活保護が正しく為されているのかどうか
憲法第25条でいう 健康で文化的な最低限度の生活とは なにか
人間として生きるに値する生活とは



いまでは過去の裁判になり忘れられている(本当は忘れてはならない)
朝日訴訟、堀木訴訟、という人間裁判があった


弱い者は生活保護を容赦なく打ち切られ
怒鳴るような大声を出す者は、主張が通り
生活保護受給内容やその額は「お手盛り」ではないか、と疑う

次回は ひとり暮らしの59歳の男性 元組員の話を書きます




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