平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

バルトの楽園その7 脱亜入欧しきれなかった日本。

2006年10月30日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

こちらは、先般から取り上げております、第一大戦中現職ドイツ海軍大臣博多で殺され、俘虜として収容されていた夫が自死した、博多版バルトの楽園、「ザルデルン夫人殺害事件」があった住吉・簑島側から、対岸の旧柳橋遊郭方向を見たものです。
ちなみに、左に写っている木造三階建ての建物は、決して、遊郭などではなく、博多では有名な高級料亭三光園です。
ちなみに、私も一度だけ行ったことがあります。
(参照:平太郎独白録 「バルトの楽園が福岡ではザルデルン夫妻の悲話・前編。」及び、平太郎独白録 「バルトの楽園が福岡ではザルデルン夫妻の悲話・後編。」

で、先日から申しておりますとおり、先般、「板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜」という本を読んだのですが、同時期に、塩野七生女史の「ローマ人の物語XIV キリストの勝利 」も読んでおりました。
これは、特に意味のあることではないのですが、昔と違い、なかなか、読書にいそしむ時間がない身としては、寸暇を惜しまねばならず、となれば、至る所へ、本を置いておかねば成らず、車の中、カバンの中は言うに及ばず、私が入る可能性があるあらゆるトイレにも置いてあります。
つまり、はええ話が、こっちのトイレかあっちのトイレかという違い・・・ということですね(笑)。

で、以前から感じていたことなのですが、この二つの本を読んで、改めて、思ったことがあります。
明治期、日本は脱亜入欧を宣し、近代化への道を歩み出したのでしょうが、そのとき、アジアを出て欧米に入る・・・と言ったのであれば、その為には、欧米文明の基礎知識となっている、「ギリシャ・ローマ文明」「聖書」くらいは、最低限、知識として、広く識っておかなければならなかったのではないか・・・ということです。

にも関わらず、日本人は技術的な物、制度的な物を取り入れることばかりに汲々とし、本質のところで、欧米人と価値観を共有することはできなかったと言え、それが、第一次大戦後講和会議で、「サイレント・パートナー」などという蔑称を頂戴する遠因になったと思われますが、この点で、この第一次大戦によって、当時、日本に俘虜として抑留されていたドイツ人たちに対する日本人との比較が、その辺を解き明かしてくれるかも知れません。

同著曰く、最初の国際条約であるハーグ条約を読み解くと、「ああ、ヨーロッパ人同士の戦争を想定しているな」ということがわかるそうで、それを端的に表している部分として、「宣誓解放」という制度があるそうです。
即ち、ドイツ兵俘虜が、「私はに誓って、このたびの戦争に二度と参加いたしません」と誓うと、その俘虜は解放されるのだとか・・・。
国内法制定されていれることが前提だそうですが・・・。)
実際、大正時代に、俘虜情報局というところが発行したドイツ人俘虜名簿には、ところどころ、線が引っばってゴム印が押してある部分があるそうです。
それが即ち、「宣誓解放」で解放された者の名前だとか・・・。
でも、これは、現代でも日本人には、なかなか、なじめない制度ではないでしょうか?
「こんな誓いで解放して良いの?」、「本当に守るの?」、「どれほどの拘束力をもつの?」・・・、ていうか、「そもそも、日本人は何に対して宣誓すればいいの?」・・・と。

つまり、この条約は「明らかにキリスト教徒同士、つまり欧米諸国間の戦争を前提とした条約である」・・・ということになるわけです。
なるほど・・・と。
この一事だけを採っても、日本人は、スーツを着て、ネクタイを締めて、脱亜入欧を宣したものの、根本的なところでは決定的に異邦人であったと言えるでしょう。

この点で、同著は、「日本では、裁判の場合の証言でさえ、ちゃんと誓っているはずなのに例の有名な『記憶にございません』という返答になるわけですから、(日本人の場合の)宣誓は (欧米人のそれとは)まったく違った意味を持つのだろう」と結んでおられました。
「例の・・・」という辺り、どうやら、ロッキード事件当時に書かれた論文だったようです。

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