平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

オリンピック招致その5 候補都市決定日にみるアクセス問題。

2006年08月31日 | 時事問題
親愛なるアッティクスへ

遂に、オリンピック国内招致都市決定しましたね。
まあ、なるようになったということでしょうか。
とにかく、東京に決まって良かったです(笑)。
福岡では、とにかく、荷が重かったですね・・・。

もっとも、元々、出来レースだっととは思ってたましたけどね(笑)。
だって、JOCの人たちって、どこに住んでるんですか?
愛着以前に、福岡に馴染みのある人なんて、殆ど、いないでしょうし、福岡市長にした所で、元々、市議上がりですから、中央への影響力なんて殆ど無いから、石原都知事からは、最後まで軽く見られてたし・・・。

ちなみに、8月30日は、あのクレオパトラが死んだ日だそうですね。
何とも、縁起がいい日です(笑)。
後は、まあ、頑張って下さい、東京都さん♡

まあ、福岡市の場合、福岡ソフトバンク・ホークスの本拠地、福岡ヤフードームもそうなのですが、アビスパ福岡の本拠地である博多の森球技場も、先日から、平太郎独白録 「オリンピック招致その3 その是非に見る日本のスポーツは見る物。」の中でも触れましたマリンメッセ福岡にしても、福岡国際センターも・・・、福岡市にある競技施設は、大半があまりアクセスが良いとはいえないんですよね。
(ドームなんかは、海沿いなので、道も限られてるから、大渋滞・・・。ドーム内の駐車場から出るだけで4時間かかったなどいう話も・・・。)
やたら、箱物を作ることには熱心なんですが、アクセスと言うことについてはあまり、思い至らないようで・・・。

そう言えば、以前、パ・リーグ会長さんが言ってましたが、「セ・リーグの球場は、どこも、結構、いいアクセスにあるのに、パ・リーグの球場は、どこも、アクセスがあまり良くない。大阪ドームの落成式に呼ばれたので、新大阪からタクシーに乗って、『大阪ドームまで』と言ったら、運転手さんから、『大阪ドームってどこにありまんの?』と・・・。で、地図見たり、色々、無線で探してもらったりして、やっと辿り着いたけど、『どうして知らないの?』と聞いたら、『わてら、そんなところ、行かしませんねん。』と。」だそうです。

思えば、上述の福岡ヤフードーム(↓)でも、地下鉄降りてから15分歩きですよ。
(もしくはバスですね。)

それから、西武ドームだって、結構、遠いし、千葉マリンスタジアムも遠いですよねー!
札幌宮城は知りませんけど。

それに対して、セの球場はアクセスいいですよねー・・・。

東京ドームなんて、地下鉄JRも・・・って盛りだくさんだし、神宮、横浜、甲子園、広島・・・、皆、それなりに然りじゃないですか。
ナゴヤドームは知りませんけど・・・。

で、話は戻りますが、オリンピックと言えば、私も、社会人になったばかりの頃、「東京オリンピックを覚えていない」と言ったら、結構、絶句されたものです(笑)。
それが今や、大阪万博オイルショック・・・どころか、バブルも知らない世代がいるわけですから・・・。

ちなみに、東京オリンピックの時、私は3歳
東京にいたなら、覚えてもいるのかもしれませんが、地方にいる身としては、まったく、覚えておりません。

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バルトの楽園が福岡では・・・その4 久留米俘虜収容所編。

2006年08月30日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

以前、平太郎独白録 「バルトの楽園が福岡ではザルデルン夫妻の悲話・前編。」と、同じく、平太郎独白録 「バルトの楽園が福岡ではザルデルン夫妻の悲話・後編。」で申し上げたことの続きなのですが、実は先般、平太郎独白録 「2位ゲット!と、バルトの楽園その1 板東俘虜収容所という本。」の中で述べましたように、第一次大戦中ドイツ兵捕虜収容所について書かれた大著、「板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜」を読み終えました。

ちなみに、ザルデルン夫人殺害事件の現場となった福岡市簑島ですが、現代の住居表示では、福岡市博多区美野島になっており、簑島という名前は、わずかに廃線になった国鉄の駅跡に残るのみです。


ちなみに、私は高校時代、これで通学していました。
当時の国鉄筑肥線です。

ちなみに、JR筑肥線自体は今でも残っているのですが、福岡市の中心部では、地下鉄が出来たときに廃止され、今では、福岡市西区から先のみで存続しており、一部は地下鉄に乗り入れております。

で、この本を読んで、私も初めて知ったのですが、映画「バルトの楽園」だけを見ていると、すべての収容所が、すべてにうまく円滑に運営されていたかのような印象を受けていましたが、やはり、現実にはそんなわけはなく、当時の捕虜たちが、後に、日本各地に設けられていた収容所のランキングを付けているそうなのですが、それによると、当然、ベスト1は言うまでもなく、「バルトの楽園」の舞台となった島の板東収容所ですが、では、ワースト1は・・・というと、これは、堂々、我が福岡県久留米収容所で、ここは、日本各地の収容所の中では、もっとも、人数が多く(次が板東収容所だったそうです。)、こちらは、「バルトの楽園」とは対照的に、後年、「日本のKZ」ナチス時代の強制収容所)とまで呼ばれていたほどだったとか。
所長 真甚三は、所長自ら、捕虜の将校に飛びかかり、これを殴り付けたとか。
この真甚三という人は、後に、大将となり、2.26事件のときには、青年将校に対し、「骨は俺が拾ってやる!」などと、散々、たきつけておきながら、クーデターが失敗した途端、「あれは、あいつらが勝手にやったことだ。」と言った人ですから、まあ、所詮はこの程度の人物なんでしょう・・・。

また、久留米収容所の所長は、他にも、捕虜たちから「ひどく恐れられた」真野少佐、続いて、ドイツから帰国した林銑十中佐が任命されています。
ちなみに、林銑十という人は、後に総理大臣にまで登り詰めたものの、在任中は目立った功績もなく、「何にもせんじゅうろう」と揶揄されて終わっています。
もっとも、彼も若い頃は、いい悪いは別にしても、独断専行での果断な対応をし、罪に問われそうなるや、白装束で乗り込む・・・などという、伊達政宗張りのパフォーマンスを見せたこともあったんですけどね。

いかに、人間、地位の上昇と能力は反比例していくか・・・の見本だったのかも知れませんが、真所長といい、真野所長といい、最後の林所長といい・・・、まあ、よくも、そういう所長ばかり、久留米に揃えたものだ・・・と。

で、このシリーズは、まだまだ、続く~のココロだ~♡

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福岡市 車転落事故に想う、まさに好事魔多し、自重すべし。

2006年08月29日 | 時事問題
親愛なるアッティクスへ

こちらの画像は、今月の初め頃、平日に仕事さぼって、海水浴に行ったときのものです(笑)。
もちろん、我が憩いの志賀島
でも、この辺の海も、昔に比べれば、随分と汚くなりましたねぇ。
私が学生時代までは、この辺は、まだまだ、キレイだったんですけど・・・。

以前、「日本人がサンオイルをつけて入るから、ハワイの海が汚くなった。」という話を聞いたときに、「嘘こけー、あんな広い海に人間がチョロチョロと油つけて入ったところで汚れるもんか。」と思っていましたが、この辺の海を見ると、確かにそれを実感してしまいます。

などと考えていたら、ふと、の声に気づき、改めて、辺りを見回したら、あれから、25年が経ったというのに、ここから見えている風景だけは昔のまま・・・。
思わず、往事と同じの中に立っている事に気づきました。
違ったのは、私の体重だけ・・・(涙)。

などという、くだらない感慨に浸っている場合ではなく、本題です。
去る25日、同じく、この志賀島と人工島との間にある「海の中道大橋」で、家族5人の乗った車が追突されて、海に転落し、幼児3人死亡した事故がありましたよね。
まず、この点では、私は、以前から、シートベルトというものも善し悪しだな・・・とは思ってました。

昔、私は軽トラの屋根の上に材木を積んで走っていたことがあったのですが、信号で止まって、ふと、ミラーを見ると、材木を縛ってない・・・(汗!)。
つまり、材木は何も固定されず、車の屋根の上に、置かれたままの状態でそこまで走ってきたわけですね。
「あ!」と気づいて、信号で止まっているうちに直さなければ動き出したときに材木が滑り落ちて、後続の車を直撃するかもしれない・・・。
そう思った私は、慌てて、車から降りて、ロープで縛らなければ・・・と思ったのですが、慌てているから、簡単なはずのシートベルトが外せないんですよ。
カチっと押せばいいだけのことを、焦っているから、それをするよりも、すり抜けようとするんですね。
でも、当然、座った状態で、それをすり抜けようとするのは至難の技で・・・。
しばらく、悪戦苦闘した挙げ句、結局、すり抜けられずに、ボタンを押して外しましたけど、こういう経験があったから、「もし、車が海に転落した場合」や、あるいは、「運転中に車が突然、炎上した場合」など、果たして、自分でシートベルトを外せるだろうか・・・?ということは、常々、疑問に思っていましたよ。

次に、私が思ったのは、この事件は、新聞の一面や、NHK全国ニュースのトップでも、連日、報道が為されていたという、一事故とは言えないほどの異例の扱いについてでした。
(さらに、福岡市長自らが葬儀に訪れ陳謝し、オリンピック招致決起大会も中止に追い込まれほどの波紋・・・。)
無論、私も子供がいる身。
一番、可愛い盛りでの事故でもあり、被害者の方のお気持ちを考えると、まったくもって言葉もありません。
加害者は、あまりに高く付いた「若気の至り」だったでしょう。

ただ、被害者もそうでしょうが、加害者市職員の方も、一旦、タクシーで帰宅し、それから車で出かけたそうですが、その段階で、そのちょっと後に、自分がそれほどの大事件の主役になっているなんて、考えてもみなかったのではないか・・・ということです。
翌朝は、いつものように「いやあ、昨日は楽しかった。」で、普通に目が覚めるはずだったのではないか・・・ということです。
まさに、好事魔多し。
つまり、加害者の若者の行為は多分に必然的な物であったとは言え、私が・・・、あるいは、私の子供が、いつ、同じように、重大事件の加害者とならないとは言い切れないということです。
軽くやったことが、あるいは、それほど、深く考えずに取った行動が、悲惨な大事故を引き起こす・・・。

「詰め寄るも かばうも共に 親心」 平太郎

で、実は、この話は、私にとっても、あまり、他人事ではないのです。
先日、歩いて帰っているとき、信号を渡っている途中で、信号が赤になったのですが、それほど、大きな道でもないことから、走らずに歩いていたら、いきなり、バイクに乗った兄ちゃんから、大声で「貴様!」と文句言われたので、こちらも、「何かぁ!」と言ったら、向こうも降りてきたので、その場で少し小競り合いになりました。
以来、この男の、あまりに、無礼な態度に、未だに怒り覚めやらず・・・

ちょっと前に、そういうアメリカ映画がありましたよね。
二人の男が、ある日、交通事故をきっかけに、片方は会社を首になり、その腹いせに、ネット犯罪で相手の預金を全額奪ったことで、奪われた方は特別な思い入れがある我が家が競売にかかり、その結果、家を無くした方がライフルで相手を狙う・・・という、どんどん、諍いがエスカレートしていくというストーリーでした。
(見てませんけど(笑)。)
私も、この男に対して、今度見かけたら・・・!などという考えが、頭をよぎっていますが、まあ、常識で考えて、それが、いい結果をうまないことはわかりきっているわけで・・・。

映画「仁義なき戦い」の第一作で、菅原文太演ずる主人公が、かつての仲間に言うセリフがあります。

「てっちゃん、わしら、どこで道、間違えたんかのぉ。」
当時、全共闘世代は、このセリフを聞くと、皆、自分たちに重ね合わせて、泣いたとか・・・。
これらの映画の主人公たちにしても、市職員の加害者にしても、私にしても、バイクの兄ちゃんにしても、皆然りです。
後になって、何で、こんなことになったんやろう・・・などと思っても、後悔先に立たず・・・です。
比較的、常識人のつもりだったんですが、少し、浮かれすぎてましたかね。
何事も、とかく、好事魔多し・・・。
軽はずみな行動はお互いに自重しましょう、御同輩・・・。

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ガラスのエース 平松政次投手に見る投手という稼業。

2006年08月28日 | スポーツ
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すみません。
二日酔いです。
まったく、頭がまわりません(泣)。

で、これでごまかします(笑)。
昨日の朝のワイドショー見てたら、張本勲氏と大沢親分がコメンテーターとして出ておられる番組があってました。
その中で、甲子園での早実駒大苫小牧決勝戦を見て、張本氏が、「投手というのは、それだけ孤独で大変な仕事ですよ。だから、あまり、性格のいい人はいませんけどね。」とコメントしておられました。
そう言えば、元V9巨人のスター選手だった高田 繁氏も、「投手という人種の人たちとは、お付き合いしたいと思わない。ただ、例外は小林 繁君くらい。」と言っておられたのを思い出します。
(その小林投手でさえも、子供の頃、メンコで負けたら、下駄で相手の頭を殴っていたとか・・・(笑)。)

思えば、昭和30年代の投手という人種の人たちの中では、そういう強烈な個性を見せたのは金田正一氏くらいで、杉浦忠、稲尾和久、村山実・・・と、皆、性格面で、それほど酷そうな人は見あたらなかったのに対し、昭和40年代になると、エコノミック・アニマルと揶揄された時代の到来そのままに、江夏豊、堀内恒夫、東尾収、山田久志、星野仙一、外木場義、木樽正明・・・と、まさしく、張本氏や高田氏の言うような気性の人たちが増えてきます。
そして、そんな時代を代表する投手の一人に、元大洋ホエールズのエース、平松政次投手がいます。

平松投手は、 「カミソリ・シュート」と呼ばれた切れ味の鋭いシュートを武器に、通算201勝を上げた好投手なのですが、反面、すぐに「肩が痛い」と言い出すとかで、「ガラスのエース」と陰口を叩かれた人でもありました。
でも、大事を取って、登板を回避するようなことは、今では普通にあることですし、何より、それで投げて、選手寿命を縮めるのは本人であり、であれば、それは責められないのでは・・・というように私には思えました。

ところが、後年、私は、「ガラスのエース」というあだ名の本当の意味を知ります。
この平松という人は、その、一見、優男風の容姿からは想像も付かないような危ない人物で、元巨人投手だった堀本律雄さんが大洋の投手コーチ時代に、「平松には投手コーチとして、本当に泣かされた。」として、当時のことを回顧しておられたのですが、「観客も少ないような試合で5回を終わって15-0などで勝ってたりすると、(つまり、勝利投手の権利が出来ると)突然、「肩が痛い」と言って、そのまま、家に帰ってしまう。こちらとしては、慌てて、四苦八苦して控え投手を継投して、終わってみれば、辛うじて2点差くらいで勝利しており、結局、「勝利投手平松」となっている。」・・・と。
驚くべき、エゴイストですよね。
まあ、張本さんの言を待つまでもなく、投手という、一人で矢面に立たねばならないような立場は、こういう人でないと務まらないのかもしれませんね。

ちなみに、広島の達川捕手が、まだ、駆け出し時代、打席に入った平松投手に対し、「平松さん、打たせて下さいよ。」とマスク越しに言ったところ、「うるせぇ!ザコ!」と一喝され、何も言えなかったとか・・・。

まあ、確かに、あまり、お近づきになりたい人たちではないようですね(笑)。

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博多駅前史 その6 戦前昭和編 東部区画整理組合

2006年08月26日 | 地域
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時代は、いよいよ、大正から昭和へと移ってきました。
そして、注目すべきは、この頃より、博多駅移転問題が俎上に上がり始めたことです。

まず、博多駅自体の流れを時系列的に著しておきますと、明治22年(1890年)に九州鉄道の駅として完成した博多停車場ですが、完成して10年も経たないうちに、早速、手狭になったようで、拡張の必要性が叫ばれるようになったとか。
で、明治42年(1909年)に、当時としては、天文学的とまで言われた12万円の大金をかけて一新され、拡張改築された二代目博多駅ですが、これまた、福岡市の発展に追いつけなかったようで、拡張から10年も経たない大正6年(1917年)には、博多駅移転拡張が新聞紙上にて提起されたのを受け、翌7年には、当時の福岡市長らが門司鉄道局へ博多駅移転の為の陳情を行ったものの、国鉄側からは、あまり、色よい返事はもらえなかったようで、それ以上の進展はみられなかったようです。
が、ともあれ、これが、この後、戦争を挟んで、46年間に渡って繰り広げられる博多駅移転区画整理の嚆矢となります。

で、この動きは一旦、忘れられたかに見えたものの、水面下では止むことなく続けられていたようで、ついに、昭和3年(1928年)5月、博多駅移転の為の、東部区画整理組合創立が決議され、昭和7年より、移転を見越した有志らによる区画整理に着手したようです。

このとき、当地(現博多駅前三丁目地域)でも、この東部区画整理に呼応してのことか、区画整理着手の前年の昭和6年、下人参畑町のうち、拙宅を含む一帯が、下人参畑町より分離して、新たに、福岡市東林寺町となっております。
ただ、分離したとは言え、町内の行事などはすべて、下人参畑町と一緒にやっていたと言いますから、実態はそれまでと何も変わらなかったようです。


(↑これは、東林寺町設立記念式典の際の横断幕です。発起人の中には、私の曾祖父の名前が見えます。)

その後、昭和9年に、同地では、土地の分譲が為されたと、登記簿には記載されております。
あるいは、分譲を契機に町が分離したのかも知れません。

(当時の登記簿は今と違って、納税台帳の一部ですから、必ずしも正確とは言い難いようで・・・。)
ちなみに、先述しましたように、大正12年に同地に転居してきた当家ですが、当時は建物は自前でも、土地は借地だったようです。
これは、何も珍しいことではなく、当時は、日本では、住宅というのは借地が一般的だったそうで、これを劇的に変えたのが、関東大震災だったそうです。
つまり、震災によって、家が倒壊すると、家ばかりか、借地権自体が消滅してしまうという事態に被災者が直面することになったからです。
このとき、分譲された理由の一つには、あるいは、そういった意識の変化があったのかもしれません。

で、その後、東部区画整理組合の関係者は、博多駅移転区画整理に向け、数多の陳情を繰り返し、その努力あって、ついに昭和18年、事業費774万円をもってする都市計画決定告示されるに至ります、しかし、折からの太平洋戦争の戦局の悪化と共に、区域決定のみで、結局、事業認可は得られないままに終わりました。

ということで、続きはまたまた、来週のココロだ~♡

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自民党次期総裁候補に見る総理大臣機関説 その2。

2006年08月25日 | 政治システム
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昨日の続きです。

安倍氏、麻生氏ときて、最後に、谷垣氏ですが、見識的には、私はこの人が一番、適任だろうと思います。
ただ、見識があれば適任かというと、これまた、難しいところで・・・。

かつて、故橋本龍太元総理は、「俺以上に実務に精通している奴はいない。」と豪語したと言いますが、しかし、総理大臣という物は、何も住民票の取り方にまで精通している必要はないわけで・・・。
つまり、総理大臣とは、「思考」の機関ではなく、「決断」の機関だということですね。

かつて、中曽根退陣後に総裁の座を争った安倍、竹下、宮沢・・・、つまり、安竹宮の中で、誰が一番適任か?と聞かれたある評論家は、「それはもう、宮沢さんですよ。三人の中では、一番の政策通ですから。」と答えてました。
このとき、私は、それを聞いて、「そうかぁ?」と思いました。
宮沢さんは、政策通であり、もの凄く頭の良い人とは聞いてましたが、自民党の四十日抗争のときも、一人だけ、修羅場を脱けて出張に行ってしまうような人でしたから、「政策通」であっても「胆力に欠ける」・・・というのが私の認識であり、であれば、そういう人が総理の座についても、「良い政策」を披瀝することは出来ても、それを実行することは出来ない・・・というのが、私の判断でした。
結果は・・・、どなた様もご記憶の通りで・・・σ(^_^;)。
ついでに言うと、宮沢さんが「平成の高橋是清」などと呼ばれて、総理経験者でありながら、再び、大蔵大臣に就任したとき、私の友人は、「これで景気はよくなる。」と言いましたが、私は、言下に、「それは有り得ない。」と否定しました。
このときの結果も、また、記憶に新しいところで、住専の処理に公金を投入することを表明したものの、国民からの猛反発をくらうや、急に・・・。
あのとき、宮沢さんが言ったことは正しかったと思いますよ。
納得は出来なかったけど、処理としては、一番、安上がりだったでしょう。
でも・・・という好例ですね。

この点で、今の小泉総理は、それが正しいかどうかは別にして、任期中、とにかく、決断してきましたよね。
だから、「好き」という人も多かった反面、「許せない」という声もそれなりに耳にしました。
しかし、決断を先送りし、自分の任期を何事もなく終えることも可能なのです。
かつて、ある任期切れ間近の防衛庁長官は、自衛隊機が民家に墜落したとき、「あと少しというのに落ちやがって!落ちるんなら、次の長官になって落ちろ!」と口走ったことがありました。
「好き」も「嫌い」もいないというのは、何もしてこなかった証拠ですよ。

谷垣さんのことは、余り知らないけど、私的には、宮沢さんと同じ臭いがするんですよね。
まあ、地位は人を育てると言いますし、また、地位と能力は反比例するとも言います。
まあ、結局は、その人の資質次第・・・ということになるのでしょうが。
谷垣さんに限らず、どなた様も、なお一層の飛躍をお祈りしたいものです。

余談ですが、地位と能力という点では、かつて、明治時代の医界の重鎮の言葉だったと思うのですが、「私も医者として、色々な人を看てきたが、地位が上がるに連れて能力も上がるという人は稀で、むしろ、大半が地位が上がると反比例して能力が低下する人が多い。ただ、二人だけ例外があった。陸奥宗光児玉源太の両氏である。この二人だけは、地位の向上に比例して、能力も高まった。」とか。
地位が上がると、人間、「失いたくない!」として、守りに入ってしまうんでしょうね・・・。

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自民党次期総裁候補に見る総理大臣論 その1。

2006年08月24日 | 政治システム
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実は、ここ数日、家族は里帰りしてまして・・・。
で、これまでだと、久々に独身に戻り、悪い遊びを・・・(笑)と行きたいところだったのですが、今年から、部活があるので居残りの長男と二人で夕食しなければならず・・・。
で、一昨日は回転寿司、で、昨晩はこれ(↑)でした。
冷や麦です。
友人曰く、福岡で一番美味しいという話でしたが、金額の方も、一昨日の回転寿司より高かったという・・・(^_^;)。

で、気を取り直しまして、本題です。
先日、次期自民党総裁候補者らによるポスト小泉に向けた所信表明があったそうですね。
今のところ、安倍晋三官房長官、麻生太郎外相、谷垣禎一財務相が出馬を表明しており、他にも河野太郎副法相、鳩山邦夫元労相も出馬に意欲を見せているとか・・・。
とは言え、ほぼ、安陪晋三さんで決定していると言われているようですが、この点で、主要三候補に対する私なりの感想と総理大臣論というようなものについて述べてみたいと思います。

まず、大本命のアベさんですが、私は彼の出馬には、ちょっと否定的です。
時期尚早というのが正直な感想でしょうか。
それは、かつての三角大福中安竹宮などの時代、こういった総理大臣候補と呼ばれる人たちは、そこに来るまでに、外務・財務・経産などを含めた閣僚経験に、幹事長などの主要党ポストの一つくらいは、きちんと経験していましたよね。
この点では、小泉さんにしても、総裁選に初出馬するまでには、大蔵政務次官を1回と、主要閣僚ではないにしても、大臣ポスト2回を経てきており、何より、ここまで、小泉さんには23年の議員キャリアがあったのに対し、安倍氏は13年の議員経験に官房副長官のポストと、多分に客寄せパンダ的に抜擢された感のある幹事長ポストを短期間と今の官房長官のポストを駆け足で経験したことしかないわけで・・・。
であれば、どうして、今、わざわざ、田中角栄氏を抜いての「戦後最年少での総理総裁」にする必要があるのか?ということです。
どうしても、ムリヤリ、周りから持ち上げられたという感が否めないのですが・・・。

彼が今、出馬する理由としては、彼の父、安倍晋太氏が総理総裁まであと一歩!というところまで行きながら、病に倒れたという記憶もあるでしょう。
また、彼自身、衆議院議員に当選後、再起不能と言われる大病を患い、長期に入院したという経験を持っているからかもしれません。
しかし、次の次でだめだったら、それはやはり、縁がなかったというだけのことなのではないでしょうか?
さらに言えば、総理になるのはいいけれど、総理になってから後のこと、日本国のことを考えるなら、今回は見送って、その間に、もう少し、経験を積んでから、挑むべきだ・・・と言うのが私の考えです。

次に、麻生氏ですが、この方は、選挙区は違うものの私と同じ地元福岡県の選出ですが、福岡県からの総理候補・・・ということについては、何か、微妙なところがあります。
と言いますのも、福岡県は、総理大臣ということでは呪われた地域でして・・・。
これまで、隣の山口県が歴代最多の総理大臣7人(アベさんで8人目?)を輩出しているのに対し、福岡県は戦時中のドサOサの時に1人出したものの、一転、戦後の東京裁判では文官として唯一の絞首刑になってしまうという運の悪さ・・・。
さらに、戦後、岸信介もこの人が居たら総理になれなかったとまで言われた、大物、緒方竹虎緒方貞子国際協力機構(JICA)現理事長は三男の嫁)や、鈴木善幸内閣の成立に辣腕を振るい一時は総裁候補の一人と言われた田中六助、さらには、週刊誌の記事以来、すっかり芽がなくなった観がある今の山崎拓元副総裁・・・。
まるで、「ツタンカーメンの黄金のマスク」みたいな地域ですよね・・・(^_^;)。
と言うことで、私としては、地元と言うこともあり、これ以上の論評は差し控えさせて頂きます(笑)。

ということで、続きはまた、明日のココロだ~。

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江戸時代の福岡ゴミ事情にみる環境循環型社会の現実。

2006年08月23日 | 歴史的教訓
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先日の日曜はここに居ました。
もっと天気が良ければよかったんですけどね。

で、そのせいか、翌日の明け方、寝ていたら、突如、もの凄く、足がつりました。
中学生くらいの頃、よくそういうことがありましたが、「それは背が伸びている証拠。」と言われてました。
今更、背が伸びてるようには思えないんですけどね・・・(笑)。

ところで、江戸時代、江戸エコロジーならぬ、エドロジーと言われるほどに環境循環型社会がうまく機能していたと言われていますが、少し、よく言われすぎのような気もします。
元来が、埋め立て地だけに、井戸から飲料水がとれず、水源地からはるばる木製の水道を引いて、井戸の下を通し、飲料水にしていたとかで、驚くほどに近代的な発想ですが、逆に言えば、それだけに、一旦、床下浸水するようなことになると、飲料水汚水が混じり、伝染病が発生する元になっていたとも言います。
現代では、世界に冠たる衛生大国・日本も、当時の衛生感覚は、この程度の物だったということでしょうか。

この点では、江戸時代の福岡博多もまた、同様で、博多も井戸水が出ないので、大正以前、まだ、水道が普及する前は、「水売り」が水を担いで売りに来ていたそうです。
今でも、博多は人口の割に、安定した水源が無い為、雨が降らないと、すぐに、渇水になってしまいます。
ゴミもまた然りで、紙でも布でも使えなくなるまでリサイクルして、初めて、捨てていたと言います。
(私が子供の頃までは、我が家も近い物がありましたけどね。)
しかし、それほどに、うまく循環し、機能していたはずの江戸時代も、時代が下り、江戸中期頃になってくると、ゴミ問題が浮上してきたと言われています。

筑前福岡藩の領主、黒田家は、関ヶ原後、筑前に入国すると、博多に入らずに、その東、福崎の地に城を築き、ここを福岡としたわけですが、(平太郎独白録 「博多祇園山笠に見る、福岡・博多、三都物語・その1。」参照。)同時に、博多の東隣にある石堂川(現御笠川)を防衛線に想定し、この川の西側(博多側)に、たくさんの寺院を配置しました。
当時、お寺というのは、広い敷地をもっていた為、兵隊集結都合が良く、さらに、戦闘になった場合には、墓石などが防御の役に立ったといいます。
まあ、いかにも、小銃程度しか想定していない時代らしいなと・・・。

で、この石堂川ですが、江戸時代には、二本の橋が架かっていたと言われています。
当時、橋の修理費用藩の負担だったそうですが、清掃を始め、洪水の監視など、橋の管理自体は博多の町方がやっていたそうで、ところが、この頃になると、橋のたもとには博多の人々が捨てる、たくさんのゴミが溜まるようになっていたとか。
ゴミは、普段はともかく、川が増水したときなどは、ゴミに堰き止められた水流が橋ごと押し流してしまう危険性がある為、『博多津要録』によると、享保19年(1734年)、付近の10町は連名で、「石堂口の橋の周辺にゴミを捨てないこと」を誓約した・・・などという記録が見受けられると言います。

これは、何もこの石堂川だけのことではなく、上述の『博多津要録』によると、享保4年にも、博多の西隣、つまり、福岡と博多の間に流れる那珂川でも、藩より、「川筋、不行儀にこれあり。川へちりあくた(塵芥)を捨てざるよう・・・。」という達示があったそうで、ここでも、町役人たちは連署して、ゴミを捨てないことを誓っているとか・・・。 
しかし、状況はあまり改善されなかったようで、元文4年(1739年)、問題解決の為に、当時、あまり、人も住んでなかった、いわゆる、「中洲」南端付近にゴミ処理場を作ったと言います。
ところがところが、寛保3年(1743年)には、川に捨てられたゴミが、水流をせきとめるための川柵(川に杭を打ち、木や竹を渡したもの)を壊す恐れが出てきたことから、藩はゴミを取り除くよう命じた記録が見受けられるとか。
今も昔も、博多人に公徳心というものはないようです(笑)。

で、「御町ちり捨所」が作られて12年後の寛延4年(1751年)、このゴミ処分場はすでに、満杯になっていたのか、この時点では、もはや、ゴミ捨て場ではなく、材木置き場になっていたようで、中洲中島町の商人が相応の地主銀を上納して拝領したという記録が残っているそうです。

つまり、現代のように無機物ゴミなどない、理想の環境循環型社会と思われていた江戸時代でも、実際には、しっかり、ゴミ問題が存在したと言うことですね。

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オリンピック招致問題その4 無駄金にならない的視点。

2006年08月22日 | 歴史的教訓
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気が付けば、子供たちの夏休みも終わりが見えてきましたね。
盆を過ぎたら、あっという間に正月だと言いますが、まったく、早い物です。
まさに、光陰矢のごとし 少年学成り難し 一寸の光陰軽んずるべからず、・・・・・後悔先に立たず(笑)。

で、いよいよ、2016年オリンピックへの、日本代表候補地決定まで、後、1週間余りになりましたが、今朝の朝刊には、「東京有利!」と大きく出てました。
でも、私的には、「実は最初から、東京に決まってた」ような気もしますけどね(笑)。
平たく言えば、出来レースだったような感がなきにしも非ず・・・で。
なぜなら、今の福岡市長は、九州大学卒市会議員上がりの人ですから、中央での影響力という点では・・・だったでしょうし、まあ、国会議員などを担ぎ出していたようですが・・・。
この点では、前市長(故人)は事務次官上がりでしたから、それなりに、中央での政治力はあったんですけどね・・・。

もっとも、福岡の招致という点は、私は、現実には、開催条件である7万人収容スタジアム建設一つをとっても、3万6千人程度しか収容できない福岡ソフトバンク・ホークスの本拠地、ヤフージャパンドームが、連日、超満員でもないことを考えると、やはり、その後の維持という意味で、かなり、無理があるように感じていました。(過去形!(笑)。)
ぜひ、東京都さん、このまま、がんばってくださいね。

で、そのオリンピックですが、東京になろうが福岡になろうが、実際にオリンピックが日本に来る可能性は極めて低いんだそうですね。
やはり、ああいう物の市場としては、アメリカという物は無視出来ない存在であり、何回かに一回はアメリカでやらないといけない・・・という風に暗黙で決まっており、アトランタから数えたら、次はアメリカで決定しているという話も聞きました。
(全回の候補地決定の時が、本来は、ニューヨークの順番だったそうですが、番狂わせロンドンが勝ってしまったのだとか。)
しかも、北京の次の次でしょう?
そうそう続けて、アジアに来るとも思えませんし、何より、石原都知事安陪晋三さんなど、近隣諸国から、あまり、いい印象を持たれていない人たちが、今後の招致活動仕切っていくことを考えたならば、到底、彼らが日本を応援してくれるとは考えられないなどとも言われていますよね。

となれば、東京が勝っても、福岡が勝っても、日本に来る可能性が少ないとしたら・・・、それは、まず、招致しないというのがベストでしょう。
しかし、こういう物は、諫早湾干拓工事然りで、いくら市民が反対しようとも、一旦、動き出すと、誰も止められないもののようです。
(実際、福岡市は、環境団体等の反対を押し切って博多湾に人工島を作りました。当時から、その先行きを危ぶむ声だらけだったにも関わらず・・・です。で、今、現実には、「ほら、言わんこっちゃない・・・。」ってことになってます(笑)。)
であれば、「東京と福岡、どちらが勝っても、オリンピックは日本には来ない」と仮定したならば、日本という視点から考えて、「より、ダメージが小さくて済むのはどちらか?」、つまり、「どちらが無駄金に成らずに済むか?」ということです。
そういう視点から見た場合、「巨費」を投じる以上、これはもう、宣伝広告費以外の何ものにもならないでしょう。
であれば、世界に冠たる国際都市「TOKYO」には、今更、その必要性は少ないように思いますが、その意味では、日本のイチ地方都市、「FUKUOKA」は多少、違ってくるでしょう。

かつて、プロシア(ドイツ)陸軍に、名将モルトケが登場してきたとき、諸外国の反応は「フー?モルトケ?」だったと言いますが、今、「フクオカ」オリンピック候補都市の中で名前が読み上げられたとなら、おそらく、世界の反応は、まさに、「フー?フクオカ?」、正確には、「Where is FUKUOKA?」でしょう。

私が、以前から、平太郎独白録 「オリンピック招致の是非に見る日本のスポーツは見る物。」の中などで、「福岡のオリンピック招致に関しては、大反対とは言わないけれど、どちらかというと反対」と言っていたのは、この意味です。
「トーキョー」と違い、宣伝広告というメリットは決して、少なくないと思います。
(招致出来れば、もっと、大きいのでしょうが、ただ、その場合は、出ていく物も、今の試算の比ではないでしょうね。明らかに、今の試算は、「このくらいだったらいいなぁ。」という希望が入った金額ですよ。)

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博多駅前史 その5 大正編

2006年08月21日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

これ、私の毎日の通勤路であり、私の子供の頃からの原風景です。
この手前の部分が、東領、奥の方、右手にあるひとつだけ高いビル辺りからが人参畑(上人参町)です。

ちなみに、実は、この一枚、もの凄いタイミングで撮れた物なんです。

どういうことかというと、これ、今朝撮ったものではなく、実はこれ、平日の、それも通勤時間帯なんですよ。
しかも、この場所、博多駅前の旧道でして、普段、この時間は、いつも、結構、渋滞しているところなんです。
特に、このときは、車の渋滞も激しく、人も自転車もあふれかえっていたのですが、私がシャッターを押した、まさに、この瞬間だけが、ご覧の通り、まるで時間が止まったかのように、人も車もキレーに消えた瞬間でした。
ということで、当然、この数秒後には、時間が動き出し、また、人と車が溢れかえる現実が戻ってきましたことを付け加えさせて頂きます(笑)。

ということで、土曜に平太郎独白録 「またまたワタクシゴトのタワゴトのご報告と告知です。」が急遽、割って入った関係で、この自己満足記事が本日になってしまいました次第です(笑)。
で、本題です。

大正12年に、あの、関東大震災が起こります。
このとき、福岡市では、「大字春吉」「人参畑町」に代表されるように、「役所上の住所」と、増殖を続ける「実際の住所」との相違、それに、増加する一方の人口ということを考えたならば、もし、福岡で同様の大震災があったなら、大変なことになる・・・という危機感を持った有志らにより、「福岡市住宅調査会」というのが組織され、住民把握の為の「福岡市民録」というのが作成されました。
そこには、町名ごとに分別された上で、番地と氏名ばかりか、職業、電話番号までもが記載されました。

で、現存するその市民録を見ると、上人参町78所帯、中人参町155所帯、下人参畑町68所帯となっており、職業では農業というのが少なく、殆どが米屋、大工、駄菓子屋、床屋・・・などの自営業者だったようです。
(この辺の構成は、私が子供の頃とあまり、大差ないように思います。)
ちなみに、なぜ、上と中は人参町で、下だけが人参畑町だったのかと、なぜ、南から順に、博多駅からも遠い順に、上中下なのかは謎です。
この後も、結構、上と中は同じ動きをしますが、下だけは一線を画したような動きがあるようにも思えます。
私の記憶では、決して、仲が悪かったとか、そういうことはなかったように思うんですけどねぇ・・・。

ちなみに、当家も、この年、市内中心部の方から、この、下人参畑町に移り住んできており、福岡市民録には私の曾祖父の名が記されております。
当時は借家だったといいますから、やはり、市内の高い家賃を嫌って、こちらの方へ移り住んできたものと思われます。

で、この頃より、ついに博多駅移転問題が俎上にのぼり始めることになります。
で、その後はまた、来週のココロだ~♡

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またまたワタクシゴトのタワゴトのご報告と告知です。

2006年08月19日 | 私小説
親愛なるアッティクスへ


↑今から、祝杯を挙げに中洲へ向かっています・・・って、うっそぴょ~ん(笑)。
なぜなら、今日の博多は台風の影響で大雨が降ってるからです。
風はあまり、大したことはなかったのですが、とにかく、雨がよく降りましたね。
(ていうか、舟で行かないし(笑)。)

で、なぜ、祝杯なのか・・・ということですが、実は、このたび、是非とも、ご報告させて頂きたいことがあり、筆(?)をとりました。

私儀、実は、先般、勿体なくも、忝なくも、「人形町サロン」様より、「論文を書いてみないか?」というお声を頂戴しておりました。
が、やはり、「論文」を書くとなると、とにかく、私には久しぶりのことでしたし、何より、過去の論者様方を拝見したら、私が昔書いたインチキ論文などでとは違い、見識在る方々ばかりの、至って本格的な論文ばかりであり、それを見た瞬間、思わず、「これは任に非ずだな・・・。」という感を強くしました。
実際、出来上がった物を見たところ、やはり、書生論の域を出るものではなく・・・。
正直、改めて、「これは、やはり、任に非ず・・・だな。」という感を強くし、論文ではなく、「読者の声」という短い読者感想文を出させて頂き、それで何とか、お茶を濁そう・・・などという不埒な考え(笑)を持ったのですが、それが、忝なくも、再度、「では、エッセイという形で著書のことでも書いてみて下さい。」との有り難いお言葉を頂戴しました。
(読者の声はこちら→人形町サロン -黒岩政経研究所 「読者の声」

で、まあ、それならば、何とかなるか・・・と思い、恐る恐る書いてみたのですが、選者様より、「よくできました」のお言葉を賜り、今般、晴れて、人形町サロン様の【 今月の識者 】の欄に識者でもないのに載せて頂く運びとなりました。
             ↓
人形町サロン - 黒岩政経研究所 「毛利輝元に見る危機管理」

勿体ないやら、忝ないやら・・・三拝九拝というところですが、とにもかくにも、お目通し頂けましたら、何よりの幸甚と存じます。
(取るに足らない私の略歴も、多少、出ております(笑)。ご興味がお有りの方はどうぞ。)

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冷麺談義

2006年08月18日 | その他
親愛なるアッティクスへ

昨日の昼はこれでした。
言わずとしれた、韓国冷麵ですね。
ただ、冷麵と言えば、東北では岩手が有名のようですが、同じ冷麵でも、こちらの物は、東北の物とは少し違うようです。
(この冷麵は、博多の冷麵の中でも、かなり、シンプルな方の物です。)

以前、秋田の友人一行と韓国へ行ったことがあるのですが、向こうで出された冷麵は、私にとっては、博多で普通に食べている冷麵でしたが、秋田の連中は、「え?これが冷麵?」と驚いてました。
例えて言うならば、見た目は、岩手の冷麵はところてん、博多の冷麵は糸ごんにゃく・・・ってくらいの違いでしょうか。

ちなみに、私は、元々、冷麵は食べたことはありませんでした。
何故かというと、全国的なものかどうかはわかりませんが、冷麵と言っても、店によっては、冷やし中華を冷麵と言うところがあり、冷やし中華は、私はあまり、好きではなかったからです。
10年ほど前でしょうか、ある友人から、「会社の別荘が湯布院にあるので行かないか?」という誘いを受け、男ばかりで行ったことがあります。
そのとき、先に着いた連中だけで、たまたまあった湯布院の焼き肉屋に入ったのですが、そこで、一通り、焼き肉を食べ終わった後で、友人の一人が冷麵を注文しました。
私的には、「えー、今から、冷麵なんか食うのかよ。」という感じだったのですが、少し分けてもらって食べてみたところ、「ムッチャ、うめえぇー!」・・・で、それから、しばらく、冷麵に、はまりまくりましたね(笑)。

でも、福岡市内でもかなり行きましたが、ここの冷麵を凌ぐ冷麵には未だにお目に掛かっておりません。
数年前、その焼き肉屋に満を持して行ったのですが、最後に冷麵を注文したところ、「今日は冷麵はないんですよぉ・・・。」という答え・・・。
「なんじゃ、そりゃあぁ・・・。」と、がっくりでした。
無論、湯布院と言えば、大分は豊後牛ですから、肉もうまかったんですけどね。
どなたか、今度、ご一緒していただけませんかね・・・。

で、冷麵中毒になっていた頃、福岡市内で、かなり、色々な店の冷麵に行ったのですが、中には、ところてんみたいな冷麵がありました。
後に、岩手に行ったとき、「これが一般的なこちらの冷麵だ。」と言われ、「ああ、そういうことだったのか。」と合点がいった次第でした(笑)。
これが、どういう違いに基づく物なのかはわかりませんが、あるいは、韓国では博多風冷麵が一般的だったところを見ると、の違いなのかも知れませんね。

ちなみに、私はもつ鍋中毒になったこともあります(笑)。

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400勝投手金田正一の偉業達成に見る時代背景

2006年08月17日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

これが、昨日の昼食です。
最近、こういうが付く物ばかり食べてるんですけど、一体、何するつもりなんでしょうか、ワタシ・・・。

ところで、元プロ野球投手で、金田正一という人物をご存じでしょうか?
金田一ではありません(笑)。)

以前、平太郎独白録 「藤田元司氏の逝去に想うチェンジアップの人間心理。」の中でもご紹介した通り、通算400勝、14年連続20勝、通算4490奪三振、通算365完投、最多奪三振王10回・・・等々、今でも、抜かれることのない数々の記録を打ち立てた、まさに、球史に残る大投手です。
我々の20歳くらい下の世代までは、名球会の会長で、ロッテの監督なども務められてましたので、当然のように、ご存じかと思いますが、今の若い方は、先般、巨人内海投手が「カネムラさんですよね?」などと言ったくらいですから、あるいはご存じないかも知れません。
1973年から1978年1990年から1991年にかけてロッテ監督を務め、1974年には日本一に輝いています。昨年のバレンタイン・ロッテの日本一は、実にこの時以来だったんですね・・・。)

往年の大投手も、まあ、若い方がご存じないのも無理ない話で、私の亡くなった父と同じ年ですから、当年とって73歳
(確か、今上天皇陛下も同じ年です。)
先日もオールスターゲームでちらっと画面の端でお見受けしましたが、年とられましたネー・・・。
(昔の引退する頃の映像なんかを見ると、ちょうど、今の清原のような感じですよ。)

この方の数々の大記録の中でも、やはり、燦然と輝くのは前人未踏通算400勝という大記録でしょう。
二位の米田哲也投手が通算350勝、3位の小山正明投手が320勝ですから、その記録の偉大さがわかると思います。
しかも、金田投手の現役時代というのは、まだ、ドラフト制の施行前ですから、彼がその大半の勝ち星を稼ぎ出した時代に在籍していた国鉄スワローズ(現東京ヤクルトスワローズ)は弱小も弱小、大洋(現横浜)、広島と毎年、最下位争いを繰り広げていたチームで、従って、400勝に対する一方の負け数、298敗というところにこそ、彼のこの数字の本当の凄さが顕れていると言われています。

ただ、この400勝ですが、実際には、国鉄スワローズというチームは、弱小であったがゆえに、逆に言えば、金田氏のワンマンチームであり、監督でさえも、彼には何も言えなかったのだとか・・・。
後に、西鉄ライオンズから移籍してきた豊田泰光氏が見た物は、「ああ、このまま行ったら、**投手に勝ち星が付くな・・・。」というときになると、いきなり、金田氏が、スタスタとマウンドに出て行き、慌てて、監督が投手交代を告げる光景だったとか・・・。
従って、自分に付くはずの勝ち星を盗られた投手もたくさんいるらしく、恨んでいる人間も少なくなかったとか・・・。
つまり、だからこそ出来た前人未踏の400勝だったと・・・。

似たような話は、江夏さんなどの場合でも聞きましたから、ある意味、プロというのは、こうでないといけないのかもしれません。
ただ、金田氏の場合は、酷いと言えば酷い話なのでしょうが、当時はまだ、日本全体が貧しく、自分と家族が生きていく為には、他人のことを顧る余裕はなかったという時代だったという、その辺の事情は考慮しなければならないでしょう。
金田氏のところも、妻子はもとより、両親、多くの弟妹、すべての家計が彼の双肩ならぬ左肩ひとつにかかっていたわけで・・・。
当時の選手は、多かれ少なかれ、似たようなことがあったそうで、同様のことは、あの、「打撃の神様」と言われ、V9巨人監督であった川上哲治氏にも見ることが出来るようです。
彼は、チームの打撃練習時間、10分間のうち、9分を一人で使ったと言います。
彼もまた、「家族を養っていくのに必死だった・・・」と、後年、述懐しておられました。
そういう時代だったのであり、この点は、現代人(?)がとかく、いうべきものではないのでしょうね。

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ヌレギヌは博多発!

2006年08月16日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

暑い日が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。
博多も、盆の間は、ご覧の通りの快晴でした。

ところで、「濡れ衣」・・・ってご存じですよね。

言うまでもなく、「ぬれごろも」・・・じゃなくって、「ヌレギヌ」ですね。
そう、いわゆる、「それは、俺じゃない!ヌレギヌだー!」ってやつ。
つまり、身に覚えのない罪を着せられることですね。

では当然、この「濡れ衣」という言葉は、博多発だということも知っておられますよね(笑)。

私、8年ほど前までは、福岡市東区の方に住んでおり、当時は、毎日、国道三号線が通勤路でした。
で、太宰府方面から来た国道三号線が海岸に突き当たり、大きく東、つまり、下関方面に向かってカーブしている場所があるのですが、その手前、御笠川沿いの歩道に石碑が建っているのが気になってました。
(ちなみに、このカーブ現象は、国道三号線に限ったことではなく、JR鹿児島本線、都市高速・・・etc、多かれ少なかれ、福岡の大動脈は、多くがこの辺りで90度曲がっております。
本州方面と、九州の奥地(?)を福岡を介して結ぼうと思うと、どうしても、こういう形になってしまうようですね。
ということは、本来、交通の効率性の問題からだけ言えば、福岡は、本州と九州を結ぶ、大動脈が通っているのはおかしい地域なんだと・・・。
実際、江戸時代の主要街道である長崎街道というのは、福岡を通らずに、門司から一直線に山の中を抜けて長崎へ向かっております。)

閑話休題(笑)。

でも、この場所、普段は交通量が多いところであり、気軽に車を止めて・・・という気にはなりませんでしたので、しばらく、「何かな?」と思って、通り過ぎておりましたが、あるとき、たまたま、交通量が少ないときがあり、立ち寄って、眺めてみました。
すると、そこには、「濡衣塚」と書いてあり、あの「ヌレギヌ」の語源となった物だと書いてありました。

ちなみに、「濡衣塚」とは・・・、『続風土記』に曰く、
「聖武天皇の御代(724~49)、佐野近世(さのちかよ)は筑前守として、妻と娘を伴い都から赴任して来た。
その妻は死去し、やがて迎えた後妻は、先妻の産んだ娘を亡き者にしようとたくらんだ。
後妻は漁師に色々と物をやって買収し、「娘が釣り衣を盗んだ」と告げるよう言い含めた。
佐野が娘を調べてみると、娘は夜具の上に濡れた釣り衣を重ねて寝ていた。
後妻にだまされていることを知らない佐野は、娘を殺した。
1年後、佐野の夢に現れた娘は2首の歌を詠み、父親に無実を訴えた。
佐野は初めて娘の無実を知り、出家して肥前の松浦山に住み松浦上人といわれた。」とか。
で、これより後、いわれのない罪を着せられることを、「濡れ衣を着せられる」と言うようになったんだそうです。

現在、濡衣塚には「福岡県指定有形文化財」という説明板があり、それには、「この石碑は板碑と呼ばれる中世の石造物で玄武岩の自然石を用いています。高さは165cmで梵字が正面の3箇所に太く刻まれています。康永3年(1344)の銘が刻まれており、南北朝期の板碑であることがわかります。」と記載されています。

で、最後になりましたが、本日、8月16日はこの「濡れ衣塚」の供養の日だとか・・・。
供養に行かれたら如何ですか、御同輩・・・。
あ、貴台様のは、「濡れ衣」ではなく、「身に覚え」でしたね、失礼・・・(笑)。

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博多駅前史 その4 時代は明治から大正へ編

2006年08月12日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

今、私の手許に、明治44年「福岡市の周囲」と題する新聞記事があります。
ここに、この頃になって、一気に発展し始めていた福岡市郊外の様子が記されているのですが、その中に、人参畑と付近のことについて記された一文があります。
農学校、農事試験場、測候所がある為であろうが、住吉に近い、人参畑東領辺りの発展も頗る注目する現状がある」と・・・。
また、「博多駅(旧)の拡張改築に伴い、駅に近い方の線路沿いには、紡績会社電灯会社などが建ち並び、料理屋なども出来てきた」と記されてましたので、どうやら、駅に近い方から発展していったようですね。
ついでに、人参畑ではないですが、付近の比恵というところの既述として、「この辺りは、元々、土着の者しかいなかったが、土木工事が盛んになったことから、各県から職人工夫が住みつき始め、市内の高い家賃を払うよりも、むしろ、少しの不便を辛抱して、片在所に寄寓しようという向きが多く」・・・という既述があります。
おそらく、人参畑も同様だったのではないかと思われます。

また、この記事の中には、以前、平太郎独白録 「バルトの楽園が福岡ではザルデルン夫妻の悲話・前編。」、並びに、平太郎独白録 「バルトの楽園が福岡ではザルデルン夫妻の悲話・後編。」の中で触れた、ザルデルン夫人殺害事件の現場となった貸家のことについて触れた箇所もあります。
曰く、「至って寂しい土地で、夜は強盗変質者が出て通行人を悩ませた簑島土堤に、一時、深野県知事が別荘を建て、転任後に売却しようとしたが、あまりに寂しいところなのと不便なのとで買い手が付かなかったが、それが対岸に遊郭が出来るとともに、以前、一坪20銭そこらだった櫨畑が、たちまち、五円十円で買い手が付くようになった。」と。
ザルデルン夫人殺害のわずか、6年前のことです。
警察も、随分、マシになっていたとは言え、交戦国とは言え、海軍大臣をこんなところに住まわせたよな・・・と。


↑ここがいわゆる簑島(現美野島)の土堤で、名前の通り、鎌倉時代には簑島という名の島だったようです。
もう、往時をしのばせる物はありませんが、一番、それっぽいところを撮ってきました。
私が子供の頃までは、うちと同様、普通の下町だったんですけどね・・・。

で、本題に戻ると、人口増加の一途を辿っていた人参畑地区ですが、大正11年6月1日、遂に福岡市に合併され、福岡市住吉町大字春吉字馬場添となります。
ただ、この住所はあくまで公式の物であり、実際には、やはり、「人参畑」と呼ばれていたようで、この時代になってくると、人参畑の人口も増えたことから、上人参畑町、中人参畑町、下人参畑町・・・と分裂、増殖を始めていたようです。
と言っても、住居表示法施行前のことですから、地主が分譲したら、勝手にそこに名前を付けて・・・と言う、今で言うところの、「実際の住所」は「大字藪田」だけど、「分譲時の通称」として、分譲元が「光が丘」とか「湊坂台」なんてのを付けられるような・・・、言うならば、登記上の「家屋番号」といったところだったようです。

ということで、やっと、大正編へ、れっつごーです。

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