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平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

忖度の有無に見る渋沢栄一と大久保利通の不幸なすれ違い

2022年01月14日 | 歴史的教訓
渋沢栄一は明治2年(1869年)、29歳のとき、明治政府より出仕命令を受け、大蔵(現財務)官僚となります。
で、その翌々年、大蔵卿(現財務大臣)に就任したのが、薩摩出身の大久保利通
西郷隆盛、木戸孝允と並んで維新の三傑に数えられる人物ですが、そもそも、三人中、薩摩から二人出ている時点で、大久保が明治草創期に果たした役割の大きさがわかるかと思います。
(本来のバランスを考えれば、薩摩から西郷、長州から木戸なら、もう一人はバランス上、土佐から出るべきで。)
つまり、渋沢が「日本経済」の父だとすれば、大久保は「日本政治」の父だと言えるでしょうか。


(↑大久保利通。見上げ気味に。忖度(笑)。)

ところで、渋沢が主人公の大河ドラマ「青天を衝け」での大久保役は、明らかに、栄一に一本取られてばかりの嫌な権力者・・・でしたが、そうなったのは、渋沢が大久保と反りが合わなかったという背景があるのでしょう。
(でも、大久保はNHKに影響力を持つと言われる麻生太郎・前財務大臣の高祖父。忖度は?(笑)。)

で、渋沢は後年、大久保について、「たいていの人は、いかに見識が抜きんでていても、おおよそ何を思っているのか窺い知ることができるが、大久保侯だけはとうてい測り知ることができなかった。これが何となく不気味で、侯を嫌な人だと感じさせた一因だった」と語っています。
この話は、逆に言えば、渋沢から見れば、ほとんどの上司が、彼の手のひらの上で遊んでいたということで、事実、明治後、彼の親分になる長州の井上馨などはとても心配性の人で、渋沢についたあだ名が「避雷針」だったと。
彼だけに井上の雷が落ちなかったからだとか。
つまり、井上が「あ!」となったときに、渋沢が「ああ、あれなら、そういうときのことを考えてこうしていますよ」と言えば、「おお!君は役に立つ男だなあ」となる。
だから、渋沢がどの上司からも重宝がられたのに対し、大久保だけが例外だったと。


(↑井上馨。だいぶ見上げ気味に(笑)。)

では、大久保の側から見ればどうだったかと言えば、これは、大久保方式と言うよりも薩摩方式なのでしょうが、薩摩人は「こいつは任せるに足る」と思えば、思い切って任せてしまうんですね。
(その好例が、日露戦争時に児玉源太郎総参謀長に一任した薩摩出身・大山巌司令官かと。)
したがって、伊藤博文大隈重信、岩崎彌太郎のような自信家は、大久保の所へ話を持って行きたがったと。
稟議書を提出すれば、「これだけか」「これだけです」「わかった」で話が済む・・・。
つまり、上司の意図を見抜いて、先回りして用意しておく渋沢と、任せた以上は、いちいち忖度しなくて良いという大久保の、不幸なすれ違いだったと言えるでしょうか。
                       平太独白

才人の母が言う「人生は長い、ゆっくり静養せよ」の理。

2016年10月14日 | 歴史的教訓
先日、取引先の若者が「体調不良のため静養しますので」と言って退職の挨拶に来ました。
あまり、多くは語りませんでしたが、彼を見ていて、ふと思ったことがあります。

フジテレビジョン(現フジ・メディア・ホールディングス)初代社長となった人に水野成夫がいます。
明治32年生まれ、旧制静岡中学(現・静岡県立静岡高等学校)から、旧制第一高等学校を経て、大正13年、東京帝国大学法学部卒業という経歴からわかるように、とにかく、才智の塊のような人でしたが、同時に、トップになったかと思えば最下位に沈むという学生時代の成績そのままに、その人生はきわめて毀誉褒貶の激しいもので、文学に凝ったかと思えば、一高時代は猛者として鳴らし、東大時代には共産主義運動に身を投じ、獄中で転向。
翻訳家・フランス文学者として「神々は渇く」でベストセラーとなったかと思えば、戦後は一転、経済同友会幹事、国策パルプ社長会長、フジテレビ社長、産経新聞社社長を歴任、財界四天王の一人とまで呼ばれるようになる・・・と。
でも、言いたいのはこの人の華麗なる遍歴・・・ではなく、そのお母さんの話。

水野が中学四年の時、例によって文学に耽溺した挙句、文学好きの友人らとともに五年生への進級試験をすっぽかして伊豆修善寺へ逃避・・・。
伊豆の自然に触れ、詩の朗読などをして過ごしていたが、元々が衝動的に思い立っての・・・、まあ、いつの時代にもある若者のノリで始めたこと。
あっという間に資金が底をついたことから背に腹は代えられず、やむなく水野が母に送金依頼の電報を打ったところ・・・、叱責の声が返ってくるかと思いきや、折り返し、母から多額の現金と共に「人生は長い、ゆっくり静養せよ」と書いた手紙が送られてきたとか。

「甘い!」と言われるかもしれませんが、私も五十代も半ばになり、自分の三十代から五十代までがあっという間だったこともあって、若者らには、「人生は短い、ボーっとするな、あっという間に老人になるぞ、急げ急げ」と、つい尻を叩きがちだったことに気づきました。
でも、人生のゴールがぼちぼちちらつき始めたオヤジと、まだまだ、先が長い若者を一緒くたにする必要はないんですよね。
若いうちは、何も根詰めて走るばかりでなく、必要とあれば、「人生は長い、ゆっくり静養せよ」もありだと思うんですよ。
無為に過ごす日々も長い人生の間では大切なことなんじゃないかなと。

ちなみに水野は、母の手紙を見て、思うところがあったらしく、五年進級の追試を受けた上で、日本中の秀才という秀才が集まる一高受験にその後の人生すべてを賭けようと考え、そのため、受験後は山のような参考書を宿の女中にやると、さっさと帰郷。
ところが、自己採点の結果はあまり芳しくないものであったこらしく、母に「不合格の可能性が高い。その場合は進学を断念して船乗りになる」と話したところ、母は一言、「男がそうと決めた以上、最後までやり通しなさい」と言ったと。
この辺り、如何にも明治という時代の空気ですが、要は「若者には休息する権利がある」ということなのでしょうね。
                      平太独白

「八重の桜」に見る会津人とアテルイの東国人の類似性

2013年04月05日 | 歴史的教訓
今年の大河ドラマ、「八重の桜」ですが、NHKも震災復興に対する福島県への気遣いからか、はたまた、昨年の苦い教訓からか、映像も、福島県への観光客誘致にくれぐれも支障がないように、とにかく、綺麗に描いてますよね。
毎回、作り手の細やかな「気遣い」が伝わってくる仕上がりになっていると思います。

ただ、その割には視聴率は今ひとつのようですが、この点は、やはり、題材が少し地味すぎたのかもしれませんねぇ。
最近の大河ドラマはすっかり女性の物になってますから、女性が主人公でないといけなかったのかもしれませんが、それでも、有名な会津女性は他にも山川捨松なんかもいたわけで・・・。
その意味もあってか、少し、主人公一族が良く描かれ過ぎな気もしますけどね(笑)。

もう一つ、思うのは、NHKは会津に対する気配りと同じくらい薩長にも気を遣ってますよね。
これは、ドラマを盛り上げる上では、一般的に良く知られたスターを登場させねばならない・・・という、制作上の意図もあるでしょうが、本音はNHKが、「会津人よ、もう、いい加減に薩長を許してやったらどうだ?」って言っているような気もするのですが(笑)。
ただ、おかげで、割りを食らっているのが、徳川慶喜と、福岡県久留米市出身、真木和泉こと、真木和泉守保臣のようです。
ちなみに、真木和泉は、私の高祖父と多少、関わりがあり・・・、と言っても、彼が自決した時、高祖父はまだ幼児でしたので、直接の関係があったというわけではなく、真木和泉の後任(?)の弟子だった・・・という、まあ、むりやり、こじつけたみたいな関係ですが(笑)。
その意味では、真木の方はともかく、高祖父の方は幼少期より、真木の話を聞かされて育ったかもしれませんね。

もう一つ、このドラマを見ていて思ったのは、京都に出てから、健闘が裏目裏目に出る会津人についてでして・・・。
まあ、この点は主役側ですから、ある程度、ひいき目に描かれているのかもしれませんが、やはり、この、負のスパイラルに陥る様は西国人の私が見ると、どうにも、「違和感」を覚えるんですよ。
同じ事は、先日、同じくNHKでやっていたドラマ、「アテルイ」を見ていても思ったんですが、何かが、西日本のそれとは決定的に違うんですよね。

うまく言えませんが、続きはまた後日。

親愛なるアッティクスへ
                                         平太独白

直江兼続のジンクスと普通に出てきた物が食べられる社会

2012年12月24日 | 歴史的教訓
直江兼続という人物がいます。謙信亡き後の上杉家の舵取りを任された人ですが、この人が50代の頃、自筆で3冊の少雑誌をまとめたそうです。
1冊めが「戦いに関する心得」を述べた「軍法」、2冊目が「漢文の文辞に関する物」を書き写した「文鑑」・・・と、ここまではさすがに文武に秀でた智将!と感心するのですが、なぜか3冊めは「秘伝集」という少々、怪しげなタイトル・・・(笑)。
この中には、「その日大事が起こるときには自分の影が見えない」とか、「小便をして泡が立たないときは、その日大事があると考えよ。泡が立っていれば心配はない」とか、少々、「???」と思うようなことも書かれているそうです。
(影が見えないというのは緊急入院の必要があるでしょうから、そりゃ、大事も起きるでしょうし、私なんぞは、若い頃は小便の泡がまったく立ちませんでしたが、不摂生を続けている最近では泡がなかなか消えません。心配ないって言われても、これはこれで逆に心配なんですけどね(笑)。)

この辺りは、現代でも、「政治家と大企業の社長は占いが好き」と言いますし、プロスポーツ選手などもジンクスを大切にすると言いますが、ましてや、当時は生命の危険と隣り合わせの日常・・・ですよ。
この本の後半には毒殺防止の為の心得などもあり、「毒のある膳」を前にすると、「持ってきた者は目に涙を浮べ、自分も涙目になって急に小便に行きたくなる」とか、「にわかに口が乾いて、唇がひりひりする」・・・など、思わず、当時、主に毒として使われていた物がどういう成分だったか想像がつくでしょうが、そう考えれば、我々、現代日本人が噛み締めるべきものは、普通に外食に行って、出てきた物を何の疑いもなく食べられる社会というものの有り難さ・・・なのかもしれませんね。

同書にはさらに、「口の中に脈がある。それと手の脈を取り合ってみよ。二つの脈が同時に打てば、どんな難儀があっても身に危険が及ぶことはない。これから合戦というときにも、このことによって生死を知るべきである。脈が同時に打ったならば、心を強くもって高名をあげよ。またそうでなければ用心して、きちんと慎むように。もしどちらかわからないときには、思いきって、討死にしようと思い定めて進め。意外にうまくいって高名をあげることもあるものだ」と。
口の中の脈・・・というのは私にはよくわかりませんが、これなどもあるいは消防士さんやレスキュー隊の人たちなどにはわかるのかもしれません。
要は、戦いを前にして平常心でいろ、狼狽えてるとかえって危ない・・・ということだと思いますが、興味深いのは人によって違うのではなく、同じ人でも、その時その時で、平常心でいたり、ビビったりしていたってことですね。

親愛なるアッティクスへ
                                         平太独白

「黒田家三代」「毛利輝元」増刷御礼

2011年03月19日 | 歴史的教訓
昨年末に、性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之の黒田家三代の葛藤と相克を描いた

「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」
     ↓
http://www.amazon.co.jp/dp/4779006325

を出版したと申し上げました。

さらに、その舌の根も乾かぬうちの今年1月下旬、道楽ついでとばかりに、関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた処女作、「傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯」を、

「毛利輝元  傾国の烙印を押された男」
      ↓
http://www.amazon.co.jp/dp/4779006333/

として復刻再出版致しました・・・ともご報告申し上げました。

が・・・、

それがこのたび、目出度く、この二作品が、ともに、
増刷決定!
ということになりました。
これもひとえに皆々様のお力添えの賜と、心より深謝御礼申し上げます。

(くどいようですが↑↑から購入できます(笑)。今回は結構、生活がかかっておりますので、どなた様もこれで息を抜くことなく、尚一層、ご精進のほど、宜しくお願い致します(笑)。)

ただ、私もまさか、12月下旬と1月下旬に発売した無名の作家が書いた物が、まさか、2月初旬に増刷されることになるとは思っておりませんでしたので、正直、驚いております。
まさか、こんなに早く完売してしまうとは夢にも思っておりませんでした。
(実は、先日、お買い求め頂いた友人から、「ネットで買ったら、『完売したので、入手にあと、1ヶ月くらいかかる』と言われた」という話を聞いていたのですが、なにぶん、販売状況や在庫状況などは私の方では、どうなっているのかは皆目わからず、私としては、以前もそういうことがあったもので、「ほんまかいな~」と思っていたのですが・・・。)
ということで、しばらくは入手にご迷惑をおかけすると思いますが、しばし、「予約」だけしておいて頂ければと思います(笑)。

まずもって、どなた様もお力添え、ありがとうございました。
心より、伏して、御礼申し上げます。
                                         平太独白

話の種にモンゴル式住居ゲルに泊まった肥前路 その7

2008年03月18日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

先週の続きです。

この鷹島という島ですが、行ってみて思いましたが、大きさの割には船が入れられるの数が多いんですよね。



(←元軍来襲時に日本側本営跡より睨む眼下の港。おそらく、往事にはここに元の大船団がひしめいていたのでしょう。)

最寄りの港としては、現在でも3カ所もの港からフェリーが出ているようですし、それ以外の港も含めると、繋留可能港はかなり多いのではないでしょうか。



(←鷹島守備隊本営跡に置かれた日本側現地軍司令官・少弐経資の像。戦死した経資の像は今も港を睨む。)

また、大船団の繋留港としては、広さもながら、その深さというものも問題になってくるでしょうね。
この点まではわかりませんでしたが、見た目的には問題なかったように思いましたが・・・。



(←鷹島で食べたアジ丼。鉄火丼のように鯵の刺身が乗ってくるのか・・・と思いきや、フライにされた鯵が乗ってきたときには、結構、新鮮な驚きを覚えましたよ。味の方も、見かけに似合わず(?)、まずまず、美味しかったですし・・・。)
で、鷹島に置ける元軍の最期に触れておくと、弘安4年(1281)、平戸島において友軍との再編成を終えた元軍は、捲土重来、再度、博多湾に侵入すべく鷹島沖へ移動を完了・・・。
無論、日本側も手をこまねいてみていたわけではなく、軍船による執拗な夜襲を敢行し、元軍に少なからぬ損害を与えるも、大打撃を与えるには至らず、両軍共に、にらみ合いのまま、運命の7月30日夜半・・・を迎えたところ、この夜、つかの間の静寂に包まれる両軍に、突如、激しい暴風雨が襲いかかり、特に、海上にいた元軍大船団は大打撃を受けます。
辛うじて生き残った兵士らも、日本軍の掃討作戦にあい、「日本遠征に参加して帰還しなかった者は、元軍(蒙漢軍と蛮軍)十万有余人、高麓軍七千余人」と伝えらるほどの損害を出し、「元寇」はここに終結します。
いわゆる、「神風」というやつですね。
ちなみに、この暴風雨については、最近、真鍋大覚九州大学工学部助教授が、興味深い推論を発表されましたが、曰く、中国南部の泉州湾の海底から引き揚げられた南宋時代の軍船を、風と波に対する船の復原力を計算した「船舶安全基準」にあてはめ、これをもとに、この船を沈没させるに足る台風の規模を計算したところ、結果は、「最大瞬間風速54.57m、中心気圧938ミリバール、毎秒25m」という暴風圏を持つ超巨大台風となったとか・・・。
やはり、神風だったのでは・・・(汗!)。

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革命は自らの欲望という名の熱で変質してしまうことがある

2008年03月11日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

「世間の、意外に利口なことにハッとするときがある」

・・・これは、私が師と仰ぐ兵法研究家・大橋武夫さんの言葉です。
抹香臭い説教と違い、生で会社経営されてこられた方の言葉だけに、大変、身近に感じ、まさに、生きた言葉だと思います。
この言葉のとおり、世間とは、それほど、愚かなものでもないと思います。
黒澤 明が、その名作「隠し砦の三悪人」の中で描いた百姓二人は、臆病強欲などうしようもない連中でしたが、三船敏郎演ずる侍大将の目を盗んで、ちゃっかりとの居場所を密告しに走ったところなどは、まさしく、その好例だったでしょうか。
マキャベリも言っています。
「大衆は抽象的なことにはまるで判断能力を有さないが、具体的なことになると、かなり的確な判断を下す」と。

ただ、私に言わせると、その利口な世間というやつは、同時に、必ずしも人格者ではないようです。
考えてみれば、人間の集まりから出来ているのが世間ですから、極めて人間臭いものをもっているのも当然なのでしょう。
世間というやつは、人と同じように、驚き、怒り、そして、嫉妬する。
(もっとも、当然ながら世間という奴は、いろんな要素をもっている以上、人間と一緒で、「いい奴」「悪い奴」で、簡単に線分けしてしまえるものではないようですが・・・。)

この点で、思い起こすのが、フランス革命における革命指導者の一人で「ジロンド派の女王」と呼ばれたロラン夫人です。
幼い頃から美貌才知に恵まれていたこの女性は、長じてよりはルソーの思想をよく理解し、熱烈な民主主義者となり、やがては議会の多数を占めるジロンド派黒幕的存在として、「ジロンド派の女王」と呼ばれるまでになります。
これにより、フランス革命勃発時には、その理論的指導者の一人として、これに参画しますが、やがて、革命の「熱気」「狂気」の様相を帯び始め、夫人の「理想と理論」「権力闘争」へと変質してしまい、ついには、夫人自身も「フランス人に自由を与えるのは早すぎた」という言葉と共に獄中の人となります。
そして、やがて、ギロチン台に上ることになった夫人は、今度は、「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか」との言葉を遺して刑場の露と消えるわけですが、これこそ、革命という物の持つ特質の一端がわかるように思います。

つまり、革命という物は、往々にして、「自ら発する欲望という名のにより、当初の理想理念などとはほど遠い物に変質してしまうことがある」ということです。
(革命が熱を帯びるのは、革命という物の本質が持たざる者持つ者に取って代わるという階級闘争である以上、やむを得ない話であると思います。即ち、「持たざる者」とは「持ったことがない者」であるとも言え、一旦、そういう人が持てる立場となったときには、「この機会に出来るだけ・・・」と考えがちなことから、その欲望際限なく膨張してしまうものだからです。)
古くは、始皇帝以後の項羽劉邦の覇権戦争・・・、近いところでは、日本の明治維新、また、ロシア革命におけるスターリン体制確立毛沢東文化大革命なども、この範疇に入るでしょうか。

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話の種にモンゴル式住居ゲルに泊まった肥前路 その6

2008年03月10日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

先週の続きです。

先週、「モンゴル村に行くところだ」・・・と先週申し上げましたが、この点では、福島県いわき市にあるスパリゾート・ハワイアンズ(かつての常磐ハワイアンセンター)も一緒みたいですね。
ここは、以前、平太郎独白録 : いわきの土産屋にみるまじめに働いても報われないの理でも申し上げましたように、私も、昨年の夏に子供連れで行ったのですが、このときは、ハード面に限ったならば、随分、充実しているし、近ければ何度でも来て良いんだろうけどな・・・という感を持ちましたが、聞けば、こちらも、はやはり相当寒いようで、プールはさすがに温水なのでしょうが、プールに浸かっていない部分は結構、凍えてしまうし、ましてや、「プールからプールへ移動するときは、殆ど罰ゲーム状態」だとか・・・。
私が行ったときは、真夏でしたので、良い部分しか見えてませんでした・・・。

で、そのモンゴル村を出た後、周辺の観光に行ったのですが、ここ、鷹島という島は、モンゴル村があることでもわかるように、もともと、かつての元寇の激戦地なんですね。
1274年文永の役では元軍の来襲を受け、島民2人が生き残ったのみという惨禍を受け、逆に、1281年弘安の役の折には、博多方面撃退された元軍が大陸から来る友軍と合流して体制を立て直そうとして、そのまま台風に巻き込まれ壊滅したと言われているところです。)
まあ、名護屋城倭寇の最後の親分みたいなものなら、こちらは元寇の終焉の地というところですかね。



元寇の遺跡自体は福岡にも、たくさんありますから別に珍しくはないのですが、行ってみたついでに廻ってみようという気になりました。
ただ私には、元軍がなぜ、そんなにこの島にこだわったのかがわかりませんでした。
まず、考えられるのが、体制立て直しために、元軍が、「この島を補給基地として確保する意図があった」・・・ということですが、こんな小さな島を占領したところで、到底、大軍を養うに足るだけの補給が確保できるとは思えません。
それに、食料はまだしも、航海で忘れてはならないのは、むしろ、水の確保だと思います。



この点は、現在もこの島には、「入江をせきとめて、中に溜まっている海水を、上から降ってくる雨水との比重差を利用して外に押し出して出来た日本初の淡水湖ダムである鷹島海中ダム」というものがあることからも、元々、安定した水源がない島・・・だったことが推察されます。
(もっとも、このダムは、「農業用水の確保」が主目的で作られたそうですが、いずれにしても、大軍を養うに足ほどの水の確保には疑問があります。)

また、来週辺りに続きます。

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「山座の前に山座なく、山座の後に山座なし」

2008年02月21日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

山座円次郎という人物をご存じでしょうか。

慶応2年(1866年)、筑前福岡藩の足軽の次男として福岡に誕生。
その後、藤雲館(現在の福岡県立修猷館高等学校の前身)、共立学校(開成中学・高校の前身)、東京大学予備門(旧制第一高等学校の前身)を経て、東京帝国大学法科を卒業後、外務省に入省。
特に東京大学予備門時代の同期生には、夏目漱石、正岡子規、南方熊楠、秋山真之らがおり、中でも、南方熊楠とはその後も親しく付き合っていたといわれています。

山座は、そのあまりの有能さゆえに、秀才揃いの外務官僚の中でも「山座の前に山座なく、山座の後に山座なし」といわれたほどであり、明治34年(1901年)には、郷土の先輩であった栗野慎一郎の後押しもあって、弱冠35歳にして外務省政務局長に抜擢されたものの、当時、明治政府の枢密院議長の地位にあった伊藤博文が、外交文書の全てに目を通し、山座の起草する外交文書が完璧なものであったにも関わらず、自己顕示欲が人一倍強い伊藤は、必ずどこか一箇所に修正を入れて返して来たため、かえって、弊害が生じることが少なからずあったらしく、困った山座は一計を案じ、伊藤が目を通すであろう外交文書には、伊藤であれば必ず修正するであろう部分を一箇所だけ故意に作っておいたといいます。
明治の元勲・伊藤博文でさえも、掌の上の孫悟空として扱っていたという、この一事だけでも、この山座という人の容易ならざる才能が見て取れるでしょうか・・・。

その後、山座は、日露開戦時には宣戦布告文を起草し、(それをロシア政府に提出したのが、当時の駐露公使だった栗野慎一郎。)終戦時には、小村寿太郎外相を助け、ポーツマス講和に尽力しています。
そう考えれば、外では栗野、内では山座という二人の福岡人が日本外交の中枢にいたわけですから、この点は、以前より、平太郎独白録 : 日露戦争と福岡人の奮闘に見る、男装の女傑と人参畑!などでも申し上げておりますように、金子堅太郎明石元次郎らと並んで、外交に置いても、福岡人の活躍があったことがおわかりいただけると思います。

ちなみに、山座円次郎は、郷土の先輩で嘉永4年(1851年)生まれで15歳年長になる栗野慎一郎の引き立てを受けたわけですが、同時に、明治11年(1878年)生まれで、山座より12歳の年少である後輩・広田弘毅(後の首相)を外務省に引き入れたことでも知られており、その意味では、栗野が山座を引き立て、山座が広田を引き立てた・・・といえるでしょうか。
この辺は、維新前夜に勤王派弾圧し、明治になってからは、「贋札事件」を起こして、唯一、廃藩置県前にお取り潰しに相当する処置を受けた筑前福岡藩出身者の想いが何となく、透けて見えるような気もします。
(ちなみに、外務省福岡人脈で広田の22歳後輩に当たるのが守島伍郎という人物ですが、この人は皮肉なことに、東京裁判において広田弘毅の弁護人を務めることになります。)

その後、山座円次郎は、大正2年(1913年)に駐中国特命全権公使となり、辛亥革命後の中国に赴任しますが、翌年の大正3年5月28日、48歳の若さで北京において死去・・・。
彼の死については、陸軍による謀殺説や、中華民国大総統・袁世凱による暗殺説も噂されていますが、いまとなっては真相は藪の中・・・でしょうか。

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「人生意気に感ず 功名誰かまた論ぜん」

2008年02月12日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

「唐王朝」というのは変わった王朝です。
「大唐」と呼ばれ、中国の歴史上、「牡丹の花」にも例えられるほどの繁栄を誇ったほどでありながら、創業者よりも二代目の方が有名な王朝なのです。
普通、二代目というのは、どうしても、創業者・徳川家康に置ける二代将軍秀忠のように、あくの強い創業者の陰に隠れてしまいがちなのですが、この唐王朝に限っては、その限りではありません。
二代目である太宗皇帝・李世民は、兄を殺し、初代皇帝である父を軟禁して、帝位についたほどにあくの強い人物であり、この点は、父にして鎌倉幕府初代執権、北条時政を追放し権力を掌握した二代目・北条義時を想起するでしょうか。

ただ、その李世民の治世は、「貞観の治」と呼ばれ、徳川家康も参考にしたほどに治世の理想とされています。
で、それほどの治世を補佐した重臣に魏徴という人物がいるのですが、この人は、元々、世民が殺した兄皇太子の側近だった人物であり、当時、皇太子に対し、たびたび、「早く李世民を殺すように」と進言していたとのことで、皇太子死去後、A級戦犯として断罪される立場となったものの、その能力を見込まれ、逆に、太宗皇帝の重臣として重用され、癇癪を起こした太宗を諫めたこと数多であったと言われています。
で、本日の表題は、その魏徴が詠んだ歌の一部です。

「人生意気に感ず 功名誰かまた論ぜん」

この話で思い出すのが、春秋時代の中国の故事です。
王を囲んでの宴の席で、余興として、灯りを消して飲もう・・・ということになったとき、暗闇に紛れて、誰かが王の寵姫の唇を盗んだ・・・と。
このとき、寵姫は機転を利かせて、その者のを付け、すぐに、王の側に駆け寄り、王に灯りを付けてくれるように注進したところ、事情を聞いた王は、「いや、皆、今宵は無礼講と言ったはず。これが、つまらぬ事を言ったようだが、皆、今宵は冠を外して飲むことにしよう」と言い、宴席は灯りを付けないまま、お開きとなった・・・と。
後年、王は大国・との戦いに大敗し、命からがら敗走を重ねる身となったところ、このとき、一人の戦士が現れ、全身に針鼠の如く、を受けながらも、王を安全なところまで逃がし、「なぜ、おまえはここまで・・・」と聞く王に対し、その戦士は、「実はあのとき、寵姫にいたずらをしたのは私でした。王の配慮のおかげで、満座の前でさらし者にならなくて済みました。私はいつか、この恩義に報いねばならないと思っていました」と言い残し、ついに息絶えたと・・・。

何かの浪曲でもありましたよね。
親分が祝儀の席に行かないものだから、やむなく、子分が代理として出席したものの、そうそうたる親分衆が集まる中で、肩身が狭い思いをし、さらに、続々と高額の祝儀金が発表されていくと、自腹なけなしの金1両を包んだのみだったその子分は、何ともいたたまれない気持ちに・・・。
ところが、自分の番で、読み上げれたのは「OO親分!金100両!」のコール・・・。
満座のどよめきに面目を施したこの子分は、同時に、心中、「いつか、この人の為に働かなきゃなるまい」と思う・・・と。

人生意気に感ず 功名誰かまた論ぜん・・・
(「人生なんてのは意気に感じるもの。功績や手柄などというのは誰か人が語ってくれ」:平太意訳)・・・と。
最近、こういうのを聞くと涙もろくなりました・・・。

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昭和46年の巣鴨プリズン解体と最後のA級戦犯・鈴木貞一

2008年01月31日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

最近、寝すぎ不眠が交互に来ているみたいで、昨日もウトウトと来て、さあ寝ようと思って、電気消したら、それから、眠れずに結局、また、四時までビデオ見てしまいました。
その中で、昭和46年放送のスガモプリズン解体という番組を見ました。
戦後26年、私が十歳のときですが、A級戦犯や、B・C級戦犯の遺族達がたくさん映しだされていました。

その中で、印象に残ったのが二つ。
一つは、上官の命令でアメリカ兵の捕虜を殺害したことで、死刑判決が下った一兵士の遺書が読み上げられ、そこで、ナレーションが「ソンム(でしたっけ?ベトナムで大量虐殺があったところ)でのジェームス中尉(?)に対する公判とは、随分違うように思えるが・・・」と言っていました。
もう一つは、A級戦犯の一人として、元企画院総裁 鈴木貞一と言う人が出ていましたが、終戦当時はまだ、結構若く、50歳くらいだったでしょうか?
(この放送当時は、おそらく80歳近かったと思います。)
かなり、気骨に溢れた方のようで、「連合軍が我々を裁く根拠がない。そう言ったら、彼らは『人民の名に於いて』とか言った。人民の名などという法的根拠はない。結局、戦争に負けたから、我々は裁かれるのだ」と言っておられました。

ただ、先の一兵士の話といい、今のアメリカの自己中心的交渉術など、結局はここに行き着くようにも思えますが、この点は、以前から、平太郎独白録 : 相手の足の裏を舐めても負ける戦はしてはならないなどでも述べております通り、私は「負ける戦はしてはならない」という考えを持っておりますから、その論で言えば、彼の罪は、「負ける戦を安易に始めた罪」であったといえ、彼の気骨は認めるとしても、この辺は、少し、ノーテンキにすぎるようにも思えます。

もっとも、鈴木翁は、こうも言っておられました。
「一度、頂点の舵取りを誤った者は二度とその職に付くべきではない」と。
だから、戦後、恩赦となって釈放された後も、一切の公職に付くことなく、野に埋もれたままとなったとか。
この辺の潔さには、いささか敬服するところもあり、この人物に興味をもちました。
(企画院総裁などというし、話もいかにも官僚的でしたので、内務官僚上がりか何かかと思っていたら、元軍人だったんですね。もっとも、情報戦・宣伝戦のエキスパートであり、実戦部隊での経験は余り無く、『背広を着た軍人』と呼ばれていたとか。)

鈴木 貞一
明治20年(1888年) 千葉県生まれ。
昭和4年(1929年)、石原莞爾・永田鉄山・東条英機ら陸軍中堅将校が結成した一夕会に参加。
その後、国際連盟脱退論や、御前会議での太平洋戦争開戦などを主張し、戦後、A級戦犯として、極東国際軍事裁判終身禁固の判決を受ける。
昭和30年(1955年)に仮釈放され、3年後、赦免。
平成元年(1989年)、100歳で没。
葬儀は、東京都杉並区の福相寺で営まれ、葬儀委員長を務めたのは、福田赳夫元首相であった。

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「季布の一諾」第二弾、偉大なる大ハーン、チンギス・ハーン!

2008年01月26日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

先週の続きです。

一諾を守る・・・ということの持つ、信用というものの力。
もっとも、それは、いくら最終決定権を持つ権力者とは言え、そう簡単な事ではありません。
一諾とは、一面、実行力という面も持っているからです。
あるいは、「決定権者になりさえすれば、そんなの簡単だ・・・。」と言われるかもしれませんが、昨日、申し上げました大久保利通にしても、田中角栄にしても、権力の座に着く前から一諾を守ってきたがゆえに、権力の座についてからは、権力信用というものが相乗効果を得て、それが誰にも打倒することが出来なかったという点では、まさに、運命的にまで強い「権威」というものを持ち得ることに繋がったのだろうと思います。
「今日から、決定権者になったから、約束を守るよ!」と宣言しても、信用という物は一朝一夕につくものではないからです。

一方で、そうは言いながらも、歴史上の英雄と言われた人たちを見てみると、どなたも、多かれ少なかれ梟雄的なところが有るようです。
必要と有れば、約束など破るのに、それほどの躊躇は持たない。
あるいは、約束など破っても、自分が強くなれば、相手は付いてこざるを得ない・・・という判断があったのかもしれません。
が、それらの古今東西、英雄と呼ばれる人の中で、一人だけ、信用という点で、異彩を放っている人物がいます。
それこそが、偉大なる大ハーン、チンギス・ハーンです。

チンギス・ハーンについては、今更、言うこともないでしょうが、彼の創設したモンゴル帝国は、旧ソ連に次ぐと言われる、空前版図を獲得したことでも知られてます。
晩年、幽閉中のナポレオンをして、「余の為したる事は、彼の偉業の前には児戯に等しいものであった・・・。」と言わしめたとか。
もっとも、モンゴル帝国の版図が最大になったのは、彼の死後であり、また、そのときには、事実上、帝国は分裂しており、厳密な意味での彼の帝国は、もっと、小さかったとは思いますが・・・。
で、そのチンギス・ハーンですが、彼だけは、どういうわけか、どのような苦境にあっても、どれほどに被害が大きくなっても、まさに、綸言汗の如し・・・で、一度、口にした言葉は絶対に実行したといいます。

「この城を落とす!」と宣言した後、攻城戦がうまくいかなかったときも、どれほどの犠牲を出してでも攻略したと言いますし、彼が「許す」と言った人間は、絶対に「許された」といいます。

さらに、この人物の尋常成らざるところは、自分もそれほどに一諾を守るものの、同時に、他人にも、その一諾を強制したことです。
1221年、バーミヤン攻略の折、ハーンの可愛がっていた孫が戦死したことで、激怒したハーンは、「この都市のすべての生き物を抹殺せよ!」と将軍に命令したと言います。
その将軍は、命令通り、住民はおろかも皆殺しにした後で、ハーンの入城を待って復命しているときに、その足許をネズミが一匹、駆け抜けていったことで、「命令違反」として殺されたか・・・。

また、逆に、戦いに敗れて帰ってきた将軍が、「今回は、装備不十分で、寒さに負けたのであって・・・。」と弁明しようとすると、ハーンは、「わかった。では、次回は春になって出撃しろ。」と言って、前回より多い兵を付けて送り出したとか・・・。
その将軍は、もう、死にものぐるいで戦ったそうですね。
それはそうでしょう。
彼の主君は、自ら、どれほどのことがあっても、一諾を守るということを見せつけている人間なのですから・・・。
これで、負けて帰ったら、彼は「約束を守らなかった人間」ということになり、その後に、何が自分を待っているかは、火を見るよりも明らかだったでしょう。

自らが、一旦、口にしたことは、どんなことでも守る代わりに、部下にも、それを遵守することを要求する・・・。
モンゴル軍が強かったはずです。
自分のところの大将が、戦争前に、「撤退しない」と言ったのであれば、この戦いには、「撤退」はないわけですから・・・。

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「季布の一諾その1 大久保利通・田中角栄に見る権威の淵源

2008年01月19日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

以前、ある会の申込書というか履歴書というか、そういう物を書いたことがあるのですが、その中に、どういうわけか、「信条」などという項目がありました。
事務局の方に、「信条なんか書くんですか?こんなの書かなくていいでしょう?」と尋ねると、「いえ、それが大事なんですよ。」との答え・・・。

でも、突然、信条なんて言われても・・・。
当時、ニューヨークメッツに居た「新庄」と書こうかと思いましたが、また、「不真面目だ!」などと怒られてもかなわないし・・・と思って、しばらく考えた挙げ句に出たのが、昔見た、エリザベス・テーラーモンゴメリー・クリフトの映画、「陽のあたる場所」の中のセリフ、「率直さは美徳である。」でした。
以来、この言葉は私の様々な信条欄に載るようになりましたが(笑)、もう一つ、私には、「座右の銘」的な意味合いで使っている言葉があります。
それが、「季布ノ一諾ニシカズ」です。

季布という人物に対しては、まあ、晩年は生身の人間らしいエピソードもあるようですが、ともあれ、「季布ノ一諾ニシカズ」とは、「彼が一旦、『諾!』と言ったことは、どんな物よりも価値がある!」と言われた・・・ということであり、言うならば、「約束を守りましょう・・・。」的な意味なのですが、こう言うと、若い人には煙たがられそうですが、そういう説教的な意味ではなく、私には、具体的な例として思い浮かぶことがあります。

明治以降の日本の権力者で、とかくの批判はありながらも、知恵者・くせ者・切れ者・・・といった多くの政敵が、それぞれに、様々な手段で挑みながらも、誰も、どうにも倒せなかった不倒翁とでも言うべき人物が2人います。
私には、この二人の強さと言うものは、「実力」・・・というものを通り越して、もはや、ある種、運命的ですらあったようにさえ思えます。
それほどまでに、誰も排除することが出来なかった2人の人物、それが、大久保利通田中角栄です。

大久保には、江藤新平、西郷盛らが、田中には福田赳夫、三木武夫ら、様々な個性が様々な手段で挑みましたが、結果的に誰も彼らを追い落とすことができませんでした。
大隈重信、中曽根康弘という人たちは、独特の臭覚で彼らに挑む不利を感じ取ったと言えるでしょうか・・・。)
で、しばらく経ってから、ふと、この二人に共通点があることに気づきました。
この二人の強さの秘密・・・、それこそが、「一諾を守る」ということだったように思います。
大久保は、OKの時は、「それは、御裁可になるでしょう。」という言い方をし、田中は、一言、「わかった。」と言ったといいます。
そして、二人が一旦、OKと言ったモノは、絶対に、実現したそうです。
それこそが、単なる権力者とは違う、この二人の、運命的にまで強い権威というものの淵源となっていたように思えます。

田中は、選挙になると、各地の首長のところへ直接、電話をかけ、「以前、陳情があったあれだが、やることに決めた。」とだけ言った・・・というのは有名な話ですよね。
「代わりに誰々を応援しろ。」などとは言わない。
ただ、「やる」
それだけで、事足りる・・・。
田中が「やる」と言うのは、絶対に「実行される」ということでもあり、空手形に終わる可能性がないという点で、他の権力者の「やる」とは、重みがまるで違ったわけで、これが、闇将軍と言われながらも、田中が求心力を持ち得た大きな要素だったと思います。

一方、大久保は、目を開けていたら、誰も、まともに顔を見ることが出来なかったと言われるほどに威厳があり、このことは、明治初期、維新の元勲の一人、木戸孝允が、自らが主催する会議で、いくら「静粛に!」と言っても、幾多の戦いをくぐり抜けてきた豪傑たちは、一向に静かにしようとはしなかったところ、遅れてきた大久保が着座すると、一瞬にして、水を打ったように座が静かになったとか・・・。
これなども、権威というものの本質を、よく物語ってくれているように思えます。

権威というものは、権力を持てば自動的に付いてくるものではない・・・。
「今宵!」と言ったら今宵ですぜ、御同輩・・・。

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ベトナム・カンボジアの旅 10 自国の誇りを捨てた国

2008年01月17日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

先日からの続きです。

まずは、こちらの看板(←)をご覧ください。
日本への帰途につく直前にホーチミン空港で撮ったベトナム語の看板です。
意味は、一目瞭然なのでしょうが、上に書いてあるのがベトナム語です。

これは、どうみても、アルファベッドですよね。
カンボジア国内では、アラビア文字みたいな独自の文字が書かれた看板を多く目にしましたが、ベトナムでは一切、そういう看板は見かけませんでした。
フランス語でしょうか?
おそらく、ベトナムにも、元々、カンボジア同様、独自の文字(もしくは、漢字)があったはずでしょうから、ベトナム人はフランスの支配を受けた時点でアルファベッドを国語としてしまったということであり、これ即ち、ベトナムは自国の文化を放棄したと言っても良いのではないでしょうか。

この点で、思うことがあります。
私は、最近、「今世紀中に世界中の言語は英語に集約されるのではないか」というよう感を持ち始めました。
今世紀末には、日本語などは、一部のマニアな人だけが使う方言になってしまう・・・と。
インドで、アメリカが夜の間の電話処理をしているという話は有名ですが、最近ではブータンまでもが国民にバイリンガル教育を徹底させた結果、ブータン人がブータンに居たまま、イギリス、オーストラリア、アメリカに電話してセールスを行っているとか。
この動きは、今後、ますます、途上国を中心に加速していくでしょう。
また、以前、デンマークに行った折りには、「本来の言語は英語ではないが、国民の殆どが普通に英語が話せる」ということでしたし、何より、イギリス・アメリカ世界帝国が二代続けて英語を国語としたことの意味は大きく、その最たる物こそ、コンピューターで使う言葉の殆どが英語となっていることでしょう。
その結果、外国を相手とする仕事ばかりか、学者研究者の世界などでも、普通に英語が話せることは、必要絶対条件を通り越して、当然の話になってきているようですし、それら、諸々を考え合わせれば、今世紀末には、世界中の言語の大多数は英語に集約されるのではないか・・・と思えるわけです。
(かつて、明治初期には、日本国内では日本語を捨ててローマ字にしてしまおう・・・等という者がいたとか、エスペラント語を普及させようなどという動きもあったでしょうが・・・。)

この点で思い出すのが、この旅から帰国してすぐに届いたアメリカの日系2.5世の親戚からの手紙と、世界中で問題になっているワーキング・プアの問題です。

これ以降が、やっと、本題なのですが、後は長くなりますので、また後日改めて・・・ということで。

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「呆けた毛沢東ほど始末が悪いものはない」の定義

2008年01月05日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

今月30日は、第二次世界大戦中、事実上の最高決定権者の地位にあったアメリカ合衆国大統領、フランクリン・デラノ・ルーズベルト が生まれた日だそうですね。
ただ、彼は、この大戦の最中に亡くなったことから、ノルマンディー上陸作戦や、ヤルタ会談でのソ連へのシベリア参戦要請などを始めとする、一連の決定は、果たして、正常な思考の元で為されたのか?ということが言われているようです。

ノルマンディ上陸作戦は、映画、「史上最大の作戦」でもよく知られている戦いですが、この作戦は、1944年(昭和19年)6月6日、敗色濃厚の感が強くなってきたドイツにとどめを刺すべく、連合軍によって為された、ヨーロッパ本土への強襲上陸作戦です。
ところが、実は、当時、相手方であるドイツ側には、もう一カ所、別の上陸予想ポイントがあったそうです。
それが、パ・ド・カレー地区です。
当時、ヒトラーを始めとするドイツ首脳も、ここを連合軍の上陸予想地区の第一に掲げ、実際に連合軍がノルマンディに上陸したときも、一部の司令官の中には、これをパ・ド・カレー上陸の為の陽動作戦だと思い込み、早期の反撃指示しなかったとさえ言います。
それほどに、パ・ド・カレーが重要視されたその理由・・・。
それは、「イギリス本土から大陸への最短距離である。」、「空軍・海軍からの支援が受け易く、港も確保し易い。」、「イギリスにとって脅威であったドイツ側のロケット兵器基地がある。」ということと、もうひとつ、何より、この地は、「ライン川からドイツの心臓部にかけての最短距離。」であったことです。

つまり、ここを攻撃することは、ドイツ心臓部への最短距離でもあることから、ドイツ側の頑強な抵抗が予想されるとしても、結果として、早く戦争を終わらせることが出来た可能性もあったわけです。
となれば、ソ連ベルリン進駐は間に合わなかった可能性も有り・・・。
さらに、その上、連合軍はミスを犯します。
連合軍は、ノルマンディ上陸後も、一路、首都ベルリンを目指すことをせず、まず、残存するドイツ軍部隊を撃破することを優先し、ベルリンから90度曲がって、残存部隊に殺到してしまったことです。
先に、残存部隊を撃破することをせずに、首都を攻略したナポレオンの教訓があったのかもしれませんが、その間に、ソ連軍が「腐っても鯛!」とばかり、ベルリンを制圧してしまったことで、その後の東西冷戦と軌を一にして、ドイツ東西分割が決まってしまったと言われています。
つまり、連合軍が、敢えて、ドイツ軍の抵抗は大きいが、最短距離でベルリンへ行けるパ・ド・カレーへ上陸し、脇目もふらずに、一路、ベルリンへ進撃していたなら、その後の歴史は大きく変わったのかもしれない・・・ということです。
その後、翌1945年2月4日からのヤルタ会談を経て、ドイツ降伏の1カ月前、日本降伏の4カ月前の4月12日昼、ルーズベルトは突然、63歳脳溢血により任期半ばで世を去ります。

この点について、私見を言わせて頂くなら、ルーズベルトの頭脳は、やはり、正確な判断ができない状態であったと思います。
それは、拙著「死せる信玄生ける勝頼を奔らす」にも書いていることなのですが、私自身の体験としても、こういったルーズベルトのような症状は、いきなり、痴呆というものになるのではななく、「ボケ」というよりも、「ズレ」という形で出てくるもののようだからです。

日常会話には支障はないから、極々、身近な一部の人以外、このズレには気づかないのですが、逆に、家族や秘書など、身近にいるものにはよくわかります。
ところが、こういう英雄の微妙なズレは、そういう身近ではない人たちには、なかなか、わかってもらえないんですよ。
ズレた決定が過去の実績と相まって、深謀遠慮とさえ映る・・・。
さらには、困ったことに、ズレに気づいたところで、いくら異議を唱えようとも、逆に意固地になって一喝される・・・。
老人特有の症状ですね。
そうなると、もう、誰も触れようとしないんですよ。

呆けた毛沢東ほど始末が悪いものはない。
くどいようですが、これが、私自身が体験した、身に染みた結論です・・・。

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