平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

元寇に見る北条時宗の決断の是非!

2006年10月27日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

以前、平太郎独白録 「アジアには王様が必要!」の中で、元寇のときの北条時宗の決断について述べたと思いますが、私はその決断自体は誤りだったと思います。
世界帝国と言うものの本当の恐ろしさは、その物量ではなく、継続性に有ると思うからです。
戦力二乗の法則と言うものがあります。
小国が大国に二度三度大勝しても損耗するのは小国の方であり、それを繰り返すうちに小国は滅亡するというものです。

ただ、私も、モンゴル帝国・・・、つまり、「元」があのまま日本に上陸できたとしても、そのまま、日本を征服できたとは考えにくく、仮に征服したとしてもそれを維持することは到底、無理だったと思います。
しかし、戦争と言うことになれば、その被害は計り知れず、それを考えると、友好関係を樹立することは、必ずしも、不可能ではなかったと思います。
その根拠は、日本は日本人が思っているほど、重要視されていなかったことです。
モンゴルの主目標は、日本に使節を寄越した時点では、中国南部に未だ割拠する漢民族の王朝「宋」であり、使節を寄越したのも、その包囲策の一環だったといいます。

そこで、問題となってくるのが、時宗はモンゴル帝国というものについて、どの程度、知った上であの決断を下したか?ということです。
つまり、一番の問題点は、主な情報源を宋からの亡命僧たちにのみに頼ったということです。
これこそが、今も昔も、情報チャンネルは複数持つ必要があるということの好例ではないでしょうか?

時宗は、まずモンゴルの申し出を受ける。
それでいて、実質的なものは何も渡さない。
使節を送る。
彼等にモンゴルと言うものの視察を命じる。
朝鮮現状把握させる。
その後、出兵要請などが来たら何だかんだ言っておいて、最後通牒がきたら、その時点で手切れとする。

この選択でよかったのではないでしょうか?
おそらく、当時は、このやりとりだけで、かなりの日数がかかったんでしょうから・・・。
時宗がまずやるべきことは、時を稼ぐこと。
そして、その間に、出来る限りの情報を集めることだったと思います。
何より、使節と言う絶好の情報収集方法があったわけですから・・・。

ただ、彼がもし、正解不正解はともかくとして、屈服外交を展開したら、たちどころに、執権どころか、北条家自体が凋落の一途を辿ったでしょう。
(こう考えると、ペリー来航以降、江戸幕府が急速に不平分子跋扈を許し、坂を転げ落ちた、「あの」時代の空気がわかるように思えます。つまり、今の北朝鮮同様、軍事政権は武威という心理的なもので成り立っているということです。内弁慶じゃ通用しないということですね。)
結局は時宗には、あの選択しかなかったのかもしれませんが、その意味で、彼の視野には、北条家はあっても、日本国はなかったとも言えるのかもしれません。
もっとも、これも、当時の日本人の感覚からすれば、日本と言う概念自体がなかったわけですから、やむを得なかったとは思いますが・・・。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング