平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

博多駅前史 その12 昭和 博多駅移転区画整理編 Ⅴ

2006年10月07日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

またまた、今週もお待ちかねの、自己満足の回がやって参りました(笑)。
博多駅前史、今週は、区画整理編Ⅴ「ゼニのとれる土地」についてです。


(↑昭和三十年代を感じさせてくれる数少ない場所です。詳しいことは、ヒ・ミ・ツ♡)

この区画整理は、移転と言っても、実質、新駅設置に等しかったことから、当時の新聞には、「地元民にしてみれば革命にもひとしい大事件」と評したものもあったと言います(笑)。
(私的には、極めて的確な表現かと・・・。)
まあ、それも無理無いことで、それまで二束三文だった土地が、突然、市の中心になるわけですから・・・。
それが、先々週触れました「農地問題」で、農民が気勢をあげ、土地所有者は1円でも値をつり上げようと血眼になる背景となったわけですね。
でも、それは平成の御代の人たちからすれば嗤うことかもしれませんが、当時の人たちからすれば・・・。
(戦中戦後と、散々、辛酸をなめ、「もはや、戦後ではない」と言われても、生きていくのが精一杯だったことには何ら変わりなく、そんなところへ、ある日突然、「駅前」となれる・・・なんて言われた日にゃあ・・・。)

当然、当家の周囲でも、あちらこちらで、醜い争いがあったとか(笑)。
うちの祖父は、大工仕事をしたところ、施主は金を払おうとはせずに、「人参町でも差し押さえしておけ!」と同地を放り出したとか・・・。
それが、一転、博多駅前になるとなったもんだから、突然、代金と菓子箱持って、「返してくれ」と言ってきたとか・・・(笑)。
結局、祖父はそれに応じて、その土地を返してやったそうですが、今頃、そこを持っておけば、うちは・・・。
ま、こういうのは、「悪銭身につかず」で、一緒だったですかね(笑)。

ところが、庶民があちらこちらでこういう醜い争いを繰り広げている中、市当局は266万㎡にも及ぶ区画整理区域のうち、2.75%にあたる73,000㎡保留地として市で確保していたのだとか・・・。
これを売却することにより、「区画整理の費用もまかなえる」ということを目論んだもので、これはこれで、理にかなった計画だったのでしょうが、なにしろ、それら保留地の多くは、「新開地のゴールデン・コーナー」でしたから、そうなると、当然、きな臭い話はツキモノのようで、昭和36年9月市議会議員博多駅地区土地区画整理審議会代表など20人のメンバーをそろえてスタートした「市保留地処分委員会」も、「会長のポスト争い」が起こるほどだったとか(笑)。

以下、昭和38年11月23日の夕刊フクニチの新聞記事です。
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 しかし保留地払下げのすべり出しは最低だった。テストケースとして売りに出された7号保留地は昨年2月、ことしの3月の2回とも入札者ゼロで市当局をあわてさせた。
 「笛吹けど踊らず‥」で市のおエラ方は青くなったがことしの3月、一等保留地12号、13号地の指名入札では空前の「高根の花」が咲いて、こんどは笑いがとまらなかった。
 12号地はなんと 3.3㎡(坪)あたり135万円、13号地は121万円で売れたから市民はびっくりした。
 市の予定価格は両方で6億1千万円だったが、18億7千万円にも売れたのだから入札の一瞬で12億6千万円が市の台所にころがりこんだことになる。まさに起死回生のホームラン、これで保留地の処分の見通しがグンと明るくなった。
 ただし同じ一等保留地でもポロもうけばかりするのでない。
 郵便局ができる16号地の1は32万円の単価で払い下げが決まったが、これは公共性を考え合わせての処置。
 新駅づくりでシワ寄せを受けた農民も16号地の2を31万円で払い下げを受けたが、こちらは特殊なケース。
 またバス・ターミナル用地の15号地も30万円台で払い下げられる話し合いがまとまりかけたが、大づめでストップ状態。
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ちなみに、現在の博多警察署、博多区役所、福岡商工会議所、福岡市水道局などは、すべて、この保留地に建てられた物です。

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