平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

改革者に必要な資質

2005年06月30日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

日本の改革者にとって、もっとも必要な要素、それは「辛抱」である。
改革とは快刀乱麻のように一刀両断にやることと思いがちだが、日本社会では、そうあるのは難しいし、うまくいっても多大な反発・・・ひいては、反動を招く。
その為、必要な粛正は極力最小限に抑え、かつ、少しでも多くの人に納得させる必要がある。
それゆえにこそ、改革者に必要な資質は辛抱なのである。
小泉総理はよく辛抱してあると思いますが、如何ですしょうか・・・?

小泉総理に限らず、地方自治体の首長もよく辛抱している方も決して少なくないように見受けます。
自治体の中には、赤字にあえぐところも決して少なくないようですが、自治体も倒産状態になると自治省(今何でしたっけ?国土交通省ですよね・・・。)の管理下に置かれるんでしょう?
と言うことは、当然、議会停止に追い込まれ、議員身分、特権、歳費などといったことも停止されるんでしょうね?
それなくしては、旧自治省の管理というのも意味ないんじゃないですか!
どこかの自治体では議員たちが「自力再建を目指すよりも倒産した方がよかった。」などと言ってました。
本末転倒ではないですか・・・。
自治体が倒産したら、議員も失業すると思うから、初めて、倒産だけは食い止めようと、改革に協力するんじゃないですか?
自治体は倒産しても、議員の身分だけは残るのであれば、自治体予算削減など、出来た話じゃないでしょう?

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福岡市の人口、7月にも140万人へ!

2005年06月29日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

いつの間にか、140万人にまで膨れあがってたんですね・・・。
知りませんでした。

◆――――――――――――――――――――――――――――――◆

05/06/06付 西日本新聞
 福岡市の人口140万人到達が目前となった。
 同市が6日発表した推計人口によると、1日現在の人口は139万9543人(前月比1582人増)。
 同市の人口はここ数年、月平均800~1000人ペースで伸びており、市総務企画局は「来月には百四十万人を突破する可能性が高い。魅力的な商業施設の集積が進み、九州一円から人を呼び込んだ結果」としている。
 同市は1889年に市制施行。当時の人口は5万847人だった。1975年には人口百万人を突破し、79年には、北九州市を抜いて九州最大の都市となった。現在の人口は、全国13政令市(東京都区部を除く)の中で、約146万人の京都市に次いで七番目。
 福岡市が2002年度に策定した基本計画は「140万人到達」を06年度と見込んでいたが、一年早く実現する見通しとなった。

◆――――――――――――――――――――――――――――――◆

だそうです・・・。

130万人まではそう思わなかったけど、140万人となるとちょっと・・・。
だって、福岡市って小さいんですよ。
(札幌の1/4程度と言われてます。)
そんなところに、140万人。
さらに、周辺ベッドタウンまで入れたら、200万とも250万とも言われているわけですから・・・。
道理で、水が足りなくなるはずですね。
北陸や会津は大雨で洪水とか・・・。
こちらは、このままでは、完璧に取水制限みたいです。
北陸ではうらめしい水も、福岡ではうらやましい水です。
まあ、慣れましたけどね・・・、水不足。

あ、ここで終わるつもりだったのですが、最近、思うんですよ!この定義!
「劣悪な環境から来た人たちは、それに慣れていると言うことだけで、好環境の人に優越感を持つ」と。
治安の悪いところから、いいところへ来た人たちは、「このくらいなら、別に驚かないよ。」と胸を張るし、物価が高い地域の人たちは安い地域で同じ物、同じサービスが受けられても、「いや、こっちじゃ、このくらいはするんだ。」って高い金を払うことに違和感を持たない。
ちなみに、日本は治安が悪化していると言われてますが、一番、治安が悪かったのは昭和30年代だそうです。

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空想 妄想 瞑想に迷走・・・

2005年06月24日 | Weblog
親愛なるアッティクスへ

よくわからないまま、ちょっと、書いてみてくれと言われたので作ってみました。
PCを使った空想ものが対象だそうです。
覆水盆に返らず(笑)。

*************

ある日、パソコンのスイッチを入れると、画面の中にサエナイ坊主頭の子供が居た。
「何だ、おまえ、どこから来やがった。」
そういうと、その子供は少し口を尖らせて、
「おまえだよ。」という。
「何だ、俺か。」
こともなげにそう言って、「で、何の用だ。」と続けた。
「お前がどうしてるかと思って、見に来たんだよ。」
「どうもしてねーよ。おまえのままだよ。」
「おいおい、冗談だろ!ちったあ、これから、おまえになるこっちの身にもなれよ!」
「おまえに言われたくはねーよ。いいから、どけよ。今から、メール見るんだからよ。」
そういうと、無造作にマウスを動かした。
「あ、この野郎!」
メールソフトの画面が立ち上がると、そいつはその陰に隠れて、声しか聞こえなくなった。
「おい、俺の時から、30年も経ったんだぞ!おまえのそんな姿と現実を見せつけられる俺の身にもなれよ!」
「うるせーな。少し、静かにしろよ!折角、大事なメールが来てるんだから・・・。」
「おい!俺より大事なのかよ!」
「あたりめーだろ!あっち行けよ!」
「あったま来たぜ!」
子供はそういうと、画面の上の隙間から指だけ出して、Xを押した。
たちまち、メールソフトは姿を消し、その子供が現れた。
「あ!何すんだ、このガキ!折角、今、テレクラでしりあったおねーちゃんと・・・。」
「おまえ、そんなことやってんの?」
「あ、いや、それは・・・。って、関係ねーじゃねーか!」
「関係無いわけ無いだろう!」
「大体、おまえは何なんだよ!」
「おまえだよ。」
「・・・。」

今度は、子供の方から切り出した。
「で、何やってんの?」
「は?」
「仕事だよ、仕事!」
「べ、別に、普通に・・・。」
「普通に何だよ。まさか、普通にサラリーマンやってますなんか言うんじゃないだろうな・・・。俺たちの時代なら、サラリーマンが普通だったけど、今はそればっかりじゃなねーって事くらいしってるんだからな。当然、『フリーのライターやってます』くらい言うんだよなー。」
「・・・。」
「普通のサラリーマンかい!」
「悪いのかよ!」
「別に・・・。幼稚園の時の夢は「博士」で、小学校の時の夢が「プロ野球選手」だったんだろ。で、中学生のときが・・・。」
「いーじゃねーか!俺の生活に干渉すんなよ!おめーだって、心の中では、そんなもんになれねーってことくらいわかってたじゃねーか。」
「ま、それもそうだな。」
子供は一転、画面の中で肩をすくめると、そのまま、続けた。

「で、どうよ。」
「何が・・・?」
「会社よ。いってんだろ?いい年なんだから、課長くらいやってんでしょ。」
「係長だよ!・・・って、おまえに言われたくねーよ。」
子供はいつの間にか、そこへ片手で頭につっかえ棒した姿勢で寝そべっていた。

「で、どうよ。」
「だから、係長だって言ってんじゃねーか。」
「違うよ。会社の中での立場はどうだって、言ってんだよ。」
「・・・。」
「さえねーみてーだな。で、結婚は?してるんだよな?」
「・・・。」
「してねーのかよ!いい年こいて・・・。」
「したよ!・・・、っつうか、してたよ・・・。」
「別れたのか!」
「何で、おまえにそこまで言われなきゃならねーんだ!」
「おまえだからだよ。」
「・・・。」

また、しばらく、間があって、今度はこちらから切り出した。
「もう、いいだろう。こっちは、今から、明日のデータ作らなきゃならねーんだからよ、もう、どけよ。」
子供は、ゆっくりと起きあがった。
「そうだな。おめーにはおめーの今の生活があるしな。」
「だから、おっさんみてーなこと言うんじゃねーよ。大体、おまえは何なんだよ!」
「おまえだよ。」
「・・・。」

そういうと、子供はくるっと、きびすを返して歩き始めた。
でも、俺にはわかっていた。
こいつは、立ち止まって何か言うと。すんなり帰らないんだと。
だって、俺がいつも、そうしていたから。
子供は、足を止めると、そのままの姿勢で振り返らずに、「ああそうそう、ひとつだけ、聞いておきたかったことがあったんだ・・・。」
(いつも、殴られてばかりいた親父のことか・・・。俺もちったあ、可愛いところがあるよな・・・。)
そう思っていると、子供は、
「1999年に人類は滅亡したのか?」と聞いてきた。
(ノストラダムスの大予言かい!・・・。)
思わず突っ込みそうになったが、それを抑え、
「してねーよ。な~んにも無かったよ。」となぜか、優しい口調で言った。
「本当にしてねーのか?」
「ああ、してねーよ。」
「そうか・・・。おまえらは、1999年におだぶつになってしまってるのに、それに気づいていないだけじゃないのか?」
それだけ言うと、こちらの返事を聞くことなく、子供は画面の中に消えていった。
「おい、また、来いよ。」
そう呟くと、遠くから、
「もう、来ねーよ。」と微かに聞こえた。

子供がいなくなってから、しばらく、私は真っ暗な画面を眺めていた。
スクリーンセーバーが動き始めた。
「1999年に人類は滅亡していて・・・、気づいてないだけか・・・。」
画面から目をそらすと、「かもな。」とだけ呟いていた・・・。

*************

あ、あくまで、空想物ですから・・・。
モデルは私ではありませんよ(笑)。
サラリーマンじゃないですしw。

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哀しいかな日本は三等国・・・

2005年06月23日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

ゾルゲが指摘するように日本人はおかみに従順です。
(日本人は頭が良く従順で、支配されるためにいるという話を、きいたことがあります。非常に不快でしたが、哀しいかな現実は近いモノがあるのではないでしょうか?それだけに外国人のマフィアが暗躍する素地があるのかもしれません。)
しかし、それゆえに明治維新で少なくとも新政府の基盤が固まったのは、この要素が大きかったと思いますし、逆にそれゆえに太平洋戦争に負けたのも必然であり、そしてそれゆえにGHQの改革がすんなり受け入れられたのも当然と言えば当然だったと思います。
しかし、日本で受け容れられたからと言って、それがイラクやアフガンでも受け入れられるかは一概にいえないところで、アメリカは日本人の特殊性・・・というか、希少性をきちんと認識しているのでしょうか?

私が、かねてより敬愛してやまぬ藤沢武夫さん(本田技研工業元副社長・・・というよりも、本田宗一の片腕として名を馳せた伝説的経営者)の著書に「日本はまだまだ三等国だ。いきなり一等国というのはむりだから、なんとか君たちの世代でせめて、二等国にしてくれ。」というのがありました。
当時は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと言われ始めていた頃であり、「何で日本が三等国なんだ?」と不可解に思いましたが、今にして思うと、まさしく日本は三等国であり、哀しいけど、これが現実なのだと痛感致しております。

日本という国の特徴は、言うまでもなく、四囲を海で守られていたことで、近隣諸国と接触することなく、言うならばギアナ高地状態で独自の進化を遂げてきたことにあるでしょう。
そのギアナ高地に緊張を与えた近隣勢力との接触を挙げるなら、
第一が、渡来人(大和朝廷)による縄文人侵略。
第二が、白村江敗戦。
第三が、元寇。
第四が、秀吉の朝鮮出兵と敗退。
第五が、ペリー来航・・・でしょうか。
ペリー以降は置くとして、秀吉を除けば、面白いものでほぼ600年周期で起こっていることがわかります。
(秀吉のそれは、白村江と違い、東アジアの情勢とは何ら関わりなく、秀吉個人の思いつきで実行された戦争ですから、海外情勢での国難とは一線を画していいのではないかと思います。)
つまり、グローバル化が進む以前は、放っておけば、外国が日本に興味を示すのは、600年に一回程度のことだったと見ることができるのかもしれません。
もっとも、他民族というものを肌で知るという点では、一度、外国に占領された経験を持つのも悪くはなかったか・・・とも思っております。

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現場レベルでの明治維新

2005年06月22日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

メイジ・レボリューション・・・通常、明治維新を英訳するとこう呼ばれます。
レボリューション、つまり、革命ですが、果たして、明治維新は革命だったのでしょうか・・・?
一般に、「明治維新はいつ?」と言われれば、多くの方が、「明治に改元されたとき」とか「王政復古の大号令の時」・・・などと言われると思います。
ところが、その段階では、薩長土肥と呼ばれる西国雄藩連合の武略で川氏を追い落としたに過ぎず、階層の流動化である「革命」という点では具体的な動きはなかったはずです。

明治維新において、薩摩藩と並んで一方の主役であった長州藩では、幕末、幕府による長州征伐と、四カ国列強との交戦をほぼ同時に受け、まさに国が滅びる!という危機感のなかで、背に腹は代えられず奇兵隊という欧米型の国民皆兵制軍隊を生んだわけで、それがさらに禁門の変、第二次長州征伐や鳥羽伏見の戦いといった戦闘を経ていく中で、その百姓町人を中心とする奇兵隊の勇猛さは、庶民の発言力の向上をもたらしたわけです。
つまり、長州藩ではこういった呉越同舟的な雰囲気のなかで、身分制の崩壊が始まっており、ひいては階層の流動化「革命」というものを醸し出していたと言えるでしょう。
それが、その後勃発した戊辰戦争において、そのまま新政府軍の中核をなしたことにより、長州の日本化ならぬ「日本の長州化」とでも言うべき「革命」が起動したのではないでしょうか?

即ち、従軍した諸藩の、いわゆる、足軽や郷士と言われる人たちの多くが、身分の上にあぐらをかいていた人たちの無能さを目の当たりにすることとなり、それがさらに百姓町人からなる長州の兵隊たちを見ることによって、もっと言うならば、自分の藩の上士が、百姓町人あがりの奇兵隊士にあごで使われるのを見た瞬間に、封建制というものはなし崩しに崩壊したと言ってよく、この瞬間こそが現場レベルでの明治維新だったのではないでしょうか?
この点、百の思想を机上で教えるよりも、人民の末端まで、皮膚感覚で、新しい世の中が来たことを実感できたということが、これまで封建制のもとで、不遇を囲っていた庶民たちの支持に結びつき、そのことが、脆弱な基盤の明治政府を意外に強靱な物にした隠れた理由であったようにも思えます。

その点、薩摩においては、革命という機運が藩内で高まったのではなく、単に西・大久保ら、指導者層の武略によってのみ幕府を倒してしまったことから、長州藩のような革命的気運醸成と言う経緯を経ずに、そのまま、革命政府に参画してしまったと言え、それこそが意識レベルでの薩摩藩の誤算であったと言えるでしょう。
何故ならば、薩摩藩は、唯一、戊辰戦争において、長州藩より上の立場にあり、長州化する必要がなかった集団だからです。
だが、そのことが、日本全体が長州化していくなかで、その流れに逆行していくことに繋がり、結局、西南戦争と言う破滅にまで至ってしまったのは、その意味では、これまた、当然の帰結だったと言えるのかもしれません。

ただ、薩摩の側に立って言うならば、幕末の薩摩藩の実質的なオーナーであった島津久光には、元々、幕府を滅ぼす気などは毛頭なく、その結果、薩摩の倒幕指導者たちは、国許にいる主力軍を当てにすることは出来ず、使える兵力は出先機関にいる兵力のみであったわけで、本来、長州と違い、上手に立ちまわったがゆえに、あまり損耗していない薩摩軍が加わっていながら、鳥羽伏見の戦いでは幕府に対し、兵力の上では圧倒的に劣勢に立つしかなかったということが、長州と違った意味で、五体満足ではなかった薩摩側の内幕を語るものであると言えるでしょう。
薩摩はこういう内情を誰にも悟られることなく、ある意味、虚勢で明治維新を起こしたと考えると、薩摩人の気迫がこういう所にも見受けられるように思えます。
言うならば、鳥羽伏見の戦いの直前段階での長州を満身創痍の大けがに例えるなら、薩摩は内蔵疾患の病気持ちだったといってよく、明治になって、久光という病根から開放されたことで、元気になったからといって、急に激しい運動をしたところ、逆に怪我しなれていないがゆえに、骨折してしまったのが、西南戦争だったと言えるのかもしれません・・・。

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プロ野球交流戦・・・どうよ!

2005年06月20日 | スポーツ
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史上初のプロ野球交流戦も、千葉ロッテの1位で幕を閉じました。
私としては、福岡ソフトバンクが惜しくも1位を逃したことよりも、1位と2位をパ・リーグが独占したことの方が、意味ある出来事でした。
しかも、ソフトバンクは中日と引き分けただけでセの全チームに勝ち越しての2位ロッテはヤクルトには負け越したものの他の5球団にはすべて勝ち越した上での1位
しかも、全体でもわずかながら、パ・リーグの勝ち越し。
(でも、実際には楽天を抱えての勝ち越しですから、圧倒的優位といえるのではないでしょうか?)
私としては、とにかく、セ・リーグに対し、一言、言いたい。
「どうよ!(ちょっとだけ、勝ち誇った・・・笑)。」

かつて、優秀な選手は皆、FAしてセ・リーグに行ってしまうわ、ドラフトでも逆指名制で有望選手は皆、セの球団を志望するようになったわで、日本シリーズはおろか、オールスターでもパは勝てない状況が続いており、そんなパの選手を、セの選手たちは見下していたのでしょう、パ・リーグの日ハムから、FAでセ・リーグの阪神に入団した経緯がある片岡選手が、2003年の日本シリーズのときにダイエーの松中選手にこう言ったそうです。
「松中、お願いだから、ホークス勝ってくれ!こっちの連中は、皆、パをなめとる!」
(当時、この話は知らなかったけど、阪神側は皆、態度にでまくってましたね。今岡が怪訝そうな顔でホークス応援団見てました。「世の中で相手を応援するところがあるなんて・・・」て顔で。それだけに、ホークスが勝ったときは、嬉しかったですよー!)
その上で、去年のシーズンオフの、「パ・リーグがセ・リーグに吸収合併される形」での1リーグ制構想だったわけですから、パはいらないものと宣言されたも等しかったのではないでしょうか・・・。
それだけに、いざ真剣にやってみたら、ソフトバンクばかりかロッテにも、セのどこも歯が立たなかったことを証明した形となったこの交流戦は、パ・リーグ全体のレベルの高さを見せつけた形となり、まさに、その自信が何の根拠もない迷信だったことを証明した形となったように思えて成りません。
「で・・・、どうよ!(笑)。」

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自分の好物は他人も好物!

2005年06月18日 | 歴史的教訓
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昭和29年、広岡達郎が、早稲田大学から巨人に入団したとき、当時、巨人には、主力選手として「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治がいたそうです。
広岡と川上の確執は、改めて言うまでもなく野球ファンにはかなり有名な話ですが、特にその昭和29年という年は、さしもの「神様」川上も衰えが見え始めた年で、実際、川上はこの4年後に引退し、対照的に広岡はこの年、新人王を取っています。
この年、不調に苦しんでいた川上は遠征先の旅館で、素振りを繰り返していたところ、広岡が軽い気持ちで顔を出し、「カワさんも、苦しんどるんじゃけのー。」と一言・・・。
川上は青ざめた形相で広岡を睨み付けたと言います。
なぜ、広岡はこんなことを言ったのか?
広岡曰く、「自分の兄と川上が同じ年だったから、兄貴のような気分で接してしまった。」のだそうです。
が、「神様」川上にしてみれば、当然、アカの他人のイチ新人としか見てないわけですから、「生意気なやつ!」という印象を持っていたところへ、この事件です。
さらに、当時、選手としては晩年だった川上は若い広岡の矢のような送球を捕れなかったそうで、ある時、広岡のショートバウンドの送球を川上がはじき、それで広岡にエラーが付いたところ、広岡は、以来、すべて、同じコースへ送球し、そのたびに、川上はポロポロとはじきまくり、川上は満場の失笑を買ったと言います。
このときの「神様」川上の心中は察するに余りあるものがあったのではないでしょうか。

当然、川上が監督になると、広岡に対する露骨ないじめが始まり、広岡は引退に追い込まれます。
その後、評論家としてスタートした広岡が巨人のアメリカ・キャンプを取材に訪れたところ、川上は広岡に対して選手らに箝口令を布き、一切の取材に応じさせなかったそうで、この仕打ちに、広岡はあまりの悔しさに独り、ホテルのベッドで男泣きに泣いたと言います。
その後、川上は巨人の監督として、9年連続日本一という前人未踏の遺業を成し遂げ、それと入れ替わるように、広岡は監督としてヤクルト初優勝に導き、その後、西武常勝チームへと導きます。
これほどの二人でありながら、その確執の原因となったのが、広岡の「友達」のような勘違いだったのですから、まったく笑えない話です。
でも、これは、有り得ない話のようで、結構、ありがちな話なのです。
もし、川上と広岡の兄とが同じ年でなかったら・・・、中国人が皆、日本人と似ても似つかない黒い肌や白い肌をした人間ばかりだったら・・・。
それでも、同じ状況になっていたのでしょうか?
どうにも人間というモノは「こんなにおいしい料理を嫌いなやつがいるはずはない!」と思いこむことがあるように思えて成りません・・・。

参照:平太郎独白録 :中国人は異質の民族
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元帝国陸軍参謀が見た「中国人は異質の民族」

2005年06月15日 | 国際問題
親愛なるアッティクスへ

戦前、陸軍参謀として中国に駐在経験をお持ちで、兵法研究の第一人者でもありました、故大橋武夫さんが、ある著書の前書きで中国について述べておらるものがあります。
参照:大橋武夫

以下、抜粋しましたので、ご参照ください。

「中国人とは、一体、どんな人間なのであろう。
中国人との交渉が頻繁かつ密接になるにつれて、誰もが考えるのはこのことで、彼らは我々と同じようであり、全く違っているようでもあって、当惑することがある。
中国人と日本人とはよく似ており、同文同種の民族といわれている。
事実、長期間ヨーロッパを歩きまわった後に、中国領にたどりつくと、日本人の誰もが故国に帰ったような気分になる。
中国人と欧米人とは、我々にとってはそのくらいの違いがあり、ふと錯覚に襲われて、日本語で話しかけたりすることがある。ところが、日本人と中国人は決して同文同種ではなく、中国人の心や生活は、日本人よりもヨーロッパ人の方によほど近いのである。
同文というが、それは漢字を使っているということだけで、中国語の配列は日本語とは違い、むしろ英語に近い。
たとえは「我は海へ行く」ではなく「我は行く、海へ」なのである。
住居も欧米式の椅子と卓であり、着物も上衣とズボン。
食物も、日本食よりもずーっと洋食的である。
思想も、我々よりも個人主義に徽している。中国人と我々は決して同文同種ではない。
中国人を知るには、中国の古典を研究するのがいちはんよい。
彼らの脳裡にはその古典の思想が強く染み込んでいるものらしい・・・。」

我々は、もしや、無意識のうちに、中国人を自分たちと同じ部類民族だと思い違いしていたのではないでしょうか?
彼らが、肌の色も見てくれも違う、アフリカか何かの民族だったら、あるいはこれまでのような対応をしたと言えるでしょうか?
頭ではわかっていても、心の中では「話せばわかる・・・」と、どこか親戚のような意識があったとは言えないでしょうか・・・。

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論理と力のパラドックス

2005年06月14日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

九州データブックと言うのが本屋にあったので、つい、買ってしまいました。
笑ってしまったのが県民性の欄で、福岡県は「真実曲げても面白ければそれでいい。」と書いてありました(爆笑!)。マジですよ。
ちなみに佐賀県は、「普段の生活を切り詰めて、お金や財産を残したい。」が全国で二番目に多かったそうです。て言うか、あの佐賀が二番目って、一位はどこ???

で、先日、友人の秋田在住横浜人が来たので、その佐賀まで観光に行ってきました。
吉野ヶ里遺跡から大隈重信記念館へ行き、その後、佐賀城に行ってきました。
佐賀城では、中に入ると、ボランティアのガイドとして初老の方がおられ、色々と説明を受けるうち、私が「江藤新平が打ち首になったところはどの辺りだったんですか?」と聞くと、その方は、「あの城門の前のNHKの辺りですよ。」と懇切に教えてくださいました。
帰途、城門を出て、江藤新平斬首されたという辺りを横目に見て、駐車場に向かっていると、私にはある感慨が湧いてきました。
それは、数日前に見たあるブログについてでした。
誰が為の警鐘【Blog】:ぬきうちテストのパラドックス
江藤新平とは、明治初期の佐賀藩出身の政治家で、明治日本の法律関係を殆ど一人で整備したと言われています。
江藤は自分が作っただけに、「法律」というものを誰よりも知り尽くしていたわけで、それだけに、最大の政敵、大久保利通に対してさえも「大久保は(自分から見れば)子供よ!」と言い放ったといいます。
ところが、実際には揺籃期にあった明治政府は、まだまだ、法律よりも特定の個人意向が反映される部分が大きく、絶大なる権限を握る大久保は、開戦挑発の後、反乱の口実を得るや、自ら軍隊を率いて乗り込み、でもって佐賀の乱を鎮圧し、「たとえ、罪人でも法廷で裁かれるはずだ!」と主張する江藤をお構いなしにさらし首にしてしまいました。
これが、江藤と大久保という論理のパラドックスの結果です。理論の上で正しい江藤が逆に「子供のような」結果になってしまったわけです。
でも、こういうことというのは、往々にしてあることなんですよね。
完璧に理論武装していても、相手の強大な力によって押しつぶされてしまうということが・・・。

秀吉の太閤記にも、作り話でしょうが、こういう記述があります。
どちらの国境にも属さないからとの真ん中で寝ていた秀吉を、蜂須賀小六らの荒くれ者が通りかかり、「おい、どけ!」と誰何。
日吉丸(後の秀吉)曰く、「ここはどちらの領土でもないから、おまえたちの指図は受けない。」
すると、蜂須賀一党!「何だと!やっちまえ!」で、ぼこぼこにされてしまう秀吉。
これらの話は、少々、法治国家を過信している現代の日本人には、まさしく警鐘なのではと思えてならないのですが、如何でしょうか?

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果たして、20世紀はアメリカの時代だったのか?

2005年06月13日 | 国際問題
親愛なるアッティクスへ

19世紀はイギリスの時代、20世紀はアメリカの時代と言われますが、果たしてそう断じきっていいのでしょうか?
パクス・ブリタニカの時代の19世紀、世界に冠たる大英帝国を追い上げる二つの新興勢力。ひとつは、南北戦争を巨大なボイラーのようにものすごいエネルギーで推進しつつあるアメリカ。もうひとつは、ビスマルクのもと、オーストリア、フランスを立て続けに破り、プロイセン統一を成し遂げた日の出の勢いのドイツ
そして、結果的に二度の大戦でドイツの挑戦を跳ね返したアメリカはイギリスの後継者としての超大国の地位を確定するわけですが、では、果たして本当に今はアメリカの時代なのでしょうか?

かつて、西アジアにおいて、バーヤジィード一世によって建国され、日の出の勢いで中東を席巻しつつあったオスマン・トルコ。その前に立ちふさがったのがチンギスハンの再来を目指す、一代の英雄、ティムール
さしものオスマン・トルコも、ティムールの前には歯が立たず、一敗地にまみれ、バーヤジィード一世は捕虜となり、失意の内に死去ました。
では、その後ティムール帝国がその世紀を代表する世界帝国となったのかといえばさにあらず。
ティムールが死ぬとすぐに、その帝国は後継者難から崩壊し、それとは対照的に、バーヤジィード一世の子孫により、オスマン・トルコは復興し、ビザンチン帝国を破り、未曾有の繁栄を謳歌することになったわけです。
そういう観点から見てみると、日の出の勢いを叩かれ、またしても頭を上げたところを、二度目の大戦で完膚無きまでに叩かれたことにより、武力による侵略をあきらめたドイツは、融和による拡張に切り替え、荒廃した国土から復興を果たし、分断されていた東西を統一し、フランスを抱き込み、EUとなり(EUもこのままトントン拍子に行くとは思っておりませんが)、着々と階段を登っているようにも見えます。
その意味で、今は果たして本当にアメリカの時代なのか?それともオスマン・トルコと同じく、アメリカというのはティムールと同じように、永いドイツの時代の始まりを彩ったほんの短い時期なのでしょうか・・・。

私もこの論の奇抜なことはよくわかっているつもりです。
まあ、こういう角度から見る見方も・・・というくらいのつもりで聞いて頂きたいにですが、昨今のG7でのアメリカの発言力の低下とEUを背景にしたドイツの発言力の高まりを見ていると、あながち的外れでもなかったかなと思い始め、貴兄のご意見を頂戴しようと思い立った次第です。

ただ、アメリカの競争社会のすごさは認めざるおえないところであり、今すぐ、アメリカが没落するとは思えませんが、アメリカは長い目で見たとき下り坂に入ったとは思います。
では、それに取って代わる国がどこに?と考えたときに、まず中国が浮かぶでしょうが、これは以前書いたように、野党を持たないお国柄、このまますんなりいくとは思えません。
そこで、世界を見回してみると、EUでヨーロッパを巻き込み、巨大な力を蓄えつつあるドイツが浮かんだわけです。もちろん、こちらもそうすんなり行くとは思えませんが、国民の民度の高さという点を考え合わせたとき、うまくいけばアメリカをしのぐ、次の世界の中心となる可能性があると思います。
むろん、あくまで可能性であり、アメリカの衰退が前提でもあり、 又、アメリカという国は競争相手がいたら燃える国ですから、また復活するかもしれません。
しかし、19世紀から続く、アメリカとドイツのイギリスの後継者争いの延長という見方をすると、EUというのはまた違った見方が出来るのではないでしょうか。

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最後の将軍「川慶喜」と女たちにとっての幕末維新。

2005年06月13日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

私は元々、大河ドラマは結構、好きだったのですが、以前に比べ、最近は何か視聴者にすり寄ってるよなーって感じを強くしています。
本来、すり寄らないからNHKなんでしょうが・・・。
で、最近の作品の中で一番よかったのは、モックンがやってた「川慶喜」でした。
あれで「正座って格好いい!」と思い、ヒザを悪くしてしまいました(笑)。

その徳川慶喜ですが、彼の養母高級公家の出身であり、逆に慶喜の伯母さんは公家に嫁いでおり、関白は従兄・・・という、川家と朝廷とは幾重にも張り巡らされた縁戚関係にあったわです。
それから、先代将軍の未亡人は孝明天皇の妹、和宮であり、彼女が嫁ぐときに運動したのが岩倉具視であり、さらに、先々代将軍の未亡人は薩摩島津家の出身であり、彼女が嫁ぐときに一切の世話をしたのが西盛・・・。
よくこれで、明治維新ができたなと思います。
(この辺は、第一次大戦の時のヨーロッパの王室もしかりですよね。
カイザーツァーリハプスブルグ家も皆、親戚であり、まさか、これらの王室がいっぺんになくなるとは、当時は誰も思わなかったのではないでしょうか?
歴史というモノは、動くときには実にあっさりと動きますね。たとえ、どれほど歯止めが打ってあっても・・・。)
孝明天皇なき後の慶喜にとっては、幕軍10万よりも、これらの人間関係のほうが、はるかに強力な援軍だったのではないでしょうか?
特に「慶喜追討」の際には、先代、先々代のこの二人の将軍家未亡人から言われたら、西郷も岩倉も何も言えなかったんじゃないですか?
「岩倉、今度はこなたが私の願いを聞く番ではごじゃらぬか。」
「吉之助、亡き成彬公の命により嫁して参った私に兵を向けると申されまするのか!」
共に主筋であり・・・、もう、「ははー。」しか言えないでしょう。
改めて、幕末維新というのは、女たちの戦いでもあったのだと思いました・・・。

さておき、慶喜に対する歴史の評価は賛否あると思いますが、少なくとも普通の王様は自らの王朝が滅亡するなら、国も国民も道連れにしてやろうと思ってもおかしくはないわけですし、実際、オスマン・トルコスルタンなどには、そういう動きがあったと聞いてます。
それを考えたなら、自らが汚名を受けながらも、それをしなかったわけですから、私はもっと、高い評価をされてもいいと思いますけどね・・・。
「川慶喜」。本当にいいドラマでした。DVD出たら、買うんですけどね・・・。

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夢なき航海は北極星無き航海に等しい

2005年06月11日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

自殺者が遂に3万人を超えたそうです。
その数、交通事故の四倍に上り、その多くが私と同世代だといいます。
時節柄、私の廻りでも精神病になったという話を二、三、耳にしました。
ある人に聞いた話では、そうならない為には「夢」「目標」を持つことが有効なのだそうです。
やはり、夢を持つのは必要なんでしょうね。
言うなれば、「夢なき航海は北極星なき航海に等しく、大海原で迷子になるようなものだ。」ではないでしょうか?
ただ、そうは言っても、なかなか、夢が持てない年代に入ってきたとは思います。
この年代で自殺者が多いのもそれでしょう。

私は恥ずかしながら、40歳近くなって、突然、小説を書き始めました。
その時の周りの反応は実に冷淡なものでしたね。
「馬鹿なことを!」とか「いい歳こいて」などと周囲の誰もが冷笑しました。
でも、そのうち、ふと気づきました。
「40のおっさんが今から歌手を目指していけないって、誰が決めたんだ!」って。
よく考えたら、世間が勝手にそう決めただけなんですよね。
俺はまだ、納得してない!って思いましたよ。
となれば、はっきりと結果が出た人はともかく、そうじゃない人は一度、自分の夢は何だったのかを思い返し、なぜ今は、それを追っていないのか検討してみたら如何でしょうか?
単なる世間というものの「思いこみ」に洗脳されているだけかもしれませんから・・・。

でも、スポーツ選手はまだしも、将棋の世界に年齢制限があるのはどうにも理解できません。
将棋で最近、話題になってる人も、現実にプロに勝ってるんでしょ?
プロって、実力の世界じゃないんですか?
実力にどうして、年齢が関係するのか、私にはどうしても理解できません。
日本人って、その人その物を見ずに、その人の背景をみてしまうところがあるような気がしますが如何でしょうか・・・?

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黒澤明の最高傑作「七人の侍」 続編

2005年06月10日 | 文学芸術
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

「七人の侍」では、決戦前夜の木村功津島恵子ラブシーンも印象的でしたネ。
私は、あれを見てフランスミッテラン元大統領を思い出しました。
ミッテランとその夫人は、第二次大戦中、共にナチス・ドイツに対するレジスタンスとして戦っていたそうで、知り合って一週間結婚したそうです。そのことについて、「何故、そんなに早く結婚を決めたの?」とインタビューされた夫人は、「だって、お互い、明日生きているかどうかもわからないんですもの・・・。」と答えていました。
これこそが男女が結ばれるときの姿の原型のような気がします。

でも、その名匠、黒澤明にも「らしからぬ」ところが2カ所。
一つめは雨の中火縄銃むき出しで持ってきて、「家の中からなら撃てる」というのはないと思います。あの時代までは、湿気があっただけで火縄に点火できなかったと言いますから、仮に油紙に包んで運んだとしても、あの豪雨の中では役にたたなかったのでは・・・。
二つめは、ラストのほうで宮口精二扮する久蔵が撃たれ、その敵を倒そうと、すぐに三船敏郎扮する菊千代が飛び込んでまた撃たれる。あの短時間で連射はないですよ(苦笑)。
当時の鉄砲では、一発撃ったら、どんな熟練者でも、 三船敏郎が飛び込むまでには二発目を準備できないはず。ましてや、一発発射すれば、敵が飛び込んでくると言うことは、むしろ飛び込まれる方がはっきりと認識することであって、そんな状態の中で、筒掃除して、火薬詰めて、弾込めて・・・の連射。
まあ、その時間を短縮できるようなセット商品があったとは言いますが、それを使ったとしてもちょっと・・・。
もっとも、野武士が当時の最新兵器の火縄銃を持っているというのは、何となく現代でも、その気になれば、暴力団のほうが、警察よりいい兵器を持てたりするのと似ているような・・・。

又、建設現場上がりである私としては、あの作品に出てくる、幾多の戦場をくぐり抜けた志村喬らのベテラン侍たちの仕事ぶりを見ていると、上棟式のときのベテラン大工達の姿そのものに思えました。
何も言わないでもわかるし、言わなくてもすでに誰かがとりかかっている。皆、長年の共通の体験があり、暗黙の慣習があり、いつものように、手慣れた手つきで眈々と段取りを進めるだけというもの。
あそこに出てくる侍たちは、戦後のあの時代にたくさんいた職人という人種たちなんですね・・・。

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黒澤明の最高傑作「七人の侍」

2005年06月09日 | 文学芸術
親愛なるアッティクスへ

以前、一回り上の人から、「おたくの親父さん達の世代まで、少し戦前の教育の色が残っているが、これが、うちの親父達の世代になると、もうまさしく七人の侍に出てくる百姓そのもの!」と言われたことがあります。
思えばこれは、うちの祖父には何となく思い当たる気がしまネ・・・。
以前、何度かこの作品は見たことがあったのですが、そういう目で改めてこの作品を見ると、又違った感慨があります。

百姓(庶民)とは、臆病でずるがしこく、全体のことなど見ようともせず、自分のことしか考えないし、オカミを恐れ、それでいて信用しない。
搾取されるから、何もないと言っても自分の分だけはしっかり確保している・・・。
まさしく、これは我々の祖父たちの世代の姿であり、ここまで極端ではないにしても父の世代にもその傾向をみてとれるように思います。
こういう世代が今の日本を動かしている以上、この国が傾くのは当然の帰結かもしれませんね・・・。

さておき、以前、この作品を見たときは、思わず、黒澤明という人は、この時代に生きていたのではないか?と思いました。
しかし、あの作品からは同時に昭和29年という(収録時は27~28年ですかね)、祖父の時代の空気を感じました。
出ている俳優やエキストラも、あれはまさしく戦後の、1960年代までの顔だと思います。
今、あの作品を誰かに撮れと言っても、わらの中に潜り込んで寝たことのある役者なんていないでしょうし、黒澤作品はやはり、今となってはもう、誰も作り得ないあの時代だけの物なんでしょうね・・・。

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不景気になって倒産する会社と中国の本音

2005年06月08日 | 国際問題
親愛なるアッティクスへ

先日、飛行機で羽田から発つときに、すっかり暗くなっていたモノですから、空から東京の夜景がきれいに見えました。
そのうち、ふと、「この地球を、遠くの星にいる宇宙人たちが見て、『この星は恒星の光が当たっていないところでは逆に光を発している。これは何か生物がいるのか?それともこの星自らが光っているのか?』と、論争を呼んでいたりして・・・。」と思いました。
案外、宇宙ってこんなものかもしれませんね(笑)。

唐突ですが、企業が倒産するのはどういうときだと思われますか?
一般によく言われているものに、「不景気になったから。」と言うのがあります。
では、果たして、会社は不景気になったから潰れるのでしょうか?
私の拙い経験で恐縮ですが、それを問われるならば答えは「否」です。
「不景気になって潰れる企業の多くは不景気になったから潰れるのではない。
好景気のときに既に潰れているのである。ただ、表面化しないだけのことである。
景気がいいときは、少々、不満があっても、給与も待遇もいいことから、とりたてて問題化することは少ない。
だが、一旦、経営が傾き出すと、給与の伸びも悪くなり、賞与も期待したほどではなくなってくる。
そうすると、これまで、内に溜まっていた不満や批判が、一気に噴出してくるのである。
そうなってからでは、好景気のうちに対処しておかなければならなかったこと、景気のいいうちだったら対処できたことが、対処できなくなっていくうちに、悪循環が始まり、どうにも手がつけられなくなる。
多くの経営者が、こういう時期になって、自発的に、あるいは、否応無しに、その座を後継者に譲ることになる。
そして、代替わりしてから業績不振が初めて形となって表れてくるが、こういう場合、多くの責任は先代にあることが多いのも又、見過ごせない事実である。」

以上は実体験に基づく、誠に手前勝手な持論ですが、今の中国にも同じ事が言えるのではないでしょうか?
それがわかっているからこそ、絶対に経済成長を鈍化させてはなられない、ひいては、その要因となる変動相場制への移行というものは、易々と受け容れられないものだと思います。
ただ、このままで済むはずもなく、かといって、あんな大きな国の混乱は日本はおろか、世界に対しても、影響を与えずに済むとも思えず・・・。
難しいところですが、ある程度、東アジア全体の混乱を回避する為には、中国政府にも理解を示してやらねばならないのかもしれません・・・。

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