goo blog サービス終了のお知らせ 

平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

話の種にモンゴル式住居ゲルに泊まった肥前路 その3

2008年02月26日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

先週の続きです。

で、唐津城を出て、次に名護屋城へ向かったのですが、以前、私は、一昨年の10月下旬にも秋田人を連れて、肥前路を旅したことがありましたので、てっきり、ご紹介申し上げたとばかり思っていたのですが、どうやら、何も触れてなかったみたいですね・・・。
で、改めて・・・。

まず、ナゴヤと言っても、どえりゃあナゴヤ名古屋城とは違います。
こちらは、佐賀県名護屋にある名護屋城です。

豊臣秀吉朝鮮出兵のときに前線基地とした城ですが、城と言っても、今では石垣しか残っていないものの、その規模たるや、単なる寒村の城跡とは思えないものがあります。

黒澤 明監督の映画「乱」の撮影が行われたことでも有名ですが、昔は、単に石垣しかなかったのに、今では、立派な博物館が作られており、しかも、ここの素晴らしいところは「無料」だと言うことです(笑)。
(その代わり、昔は石垣は散策自由だったのですが、いつの間にか、「清掃協力費100円」なるものを取るようになっており、私はそんな物がいるなんて知りませんでしたから、何で、おばさんが睨んでるんだろう・・・と思いながらも、ずんずん、行ってしまいました(笑)。出るときになって、初めて、そういうものの存在に気づきましたが・・・。)



で、この名護屋城博物館(←)ですが、ここには実物・模型取り混ぜて、様々な物が展示されているのですが、なかでも私が感心したのが、豊臣秀吉朝鮮出兵についての日本側韓国側、それぞれ、双方の高校教科書の記述が紹介されていることです。

私は、当初、中身を見るまでは、またいつものように、韓国側のそれはヒステリックな論調で日本を責め立て、日本側のそれは自虐的にごめんなさいを連呼しているようなものだろうな・・・思っていたのですが、意外に、両国とも客観的に冷静に書いてありましたね。
結構、最初見たときは、「ほー」と感心しましたよ。

明日へ続きます。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

伝統継承的視点にみる無神論者の十日恵比須参拝 その2

2008年01月11日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

ちなみに、ここ十日恵比須神社の名物は福引きです。
これを引くと、世話人の「大当たりー!」の声が境内に響き、福笹と共に縁起ものの景品が渡される・・・と。
この日は、一帯は、この福笹を手にした人ばかりでしたね。
もっとも、「神」「仏」も信じていない無神論者の私は、そういう縁起物にはまったく興味がありませんで、福引きを買って福笹をもらうことはありませんでしたし、それどころか、一応、お参りくらいはしようと思ったものの、参拝自体に行列せねばならず、しばらく並んだところで、堪え性がない私は、ついにドロップアウト・・・。
せっかく行ったんだからと、お札だけ買って、参拝はしないままで帰ってきました。


(←ドロップアウト直前でも本殿の前はこの状態・・・。ちなみに、上に掲げてある提灯は、地元のデパート、「博多井筒屋」の物ですが、その向こうは「三越」、他は「大丸」でした。今時、まだ、デパートかよ・・・と思われそうですが、私的には、これには別の感慨がありました。
こういうところの提灯と言えば、昔は大体、百貨店と決まっていたわけでしょうが、今では、必ずしも花形産業でもなくなりましたし、何より、このうち、「博多井筒屋」のみは、地元の百貨店ですが、ここも、昨年、博多駅の建て替えに伴い閉店→縮小移転しただけに、よくぞ看板出してくれたよな・・・と。こういうところの提灯まで、「ソフトバンク」「パナソニック」(一応、旬の話題かと(笑)。)になったのでは、何だかなーって感じがしないでもありませんから(涙)。)

で、この十日恵比須神社ですが、何せ、冬休み明けの平日にやってますので、私も、地元でありながら、子供の頃からここにはまったく行ったことが無く、20年ほど前に、当時の同僚と仕事を抜け出して行ったっきりでした。
で、そんな私が、なぜ、予定を変更してまでここに行こうと思い立ったかというと・・・、今年の正月に、「商売繁盛の神様なのに、うちは行ってなかったの?」と母に聞いたところ、「亡父も、毎年、一人でバイクで行っていた・・・」と聞いたからでした。

ここで、誤解のないように申し上げておきますと、私は口とは裏腹に内心では信仰心が篤いわけでも、亡父を偲んでいるわけでもありません。
(私は、小学校の時に、お地蔵さん小便掛けて足が動かなくなった・・・(笑)という逸話の持ち主です。←だったら、ちったあ、信じろよ・・・と(笑)。)

・・・すみません。
なかなか、本題にたどり着けませんが、続きは、また、いつの日か後日に続く・・・と思います。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

伝統継承的視点にみる無神論者の十日恵比須参拝 その1

2008年01月10日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

昨日、車を運転していたら、ラジオから、「今日は十日恵比須で、凄い賑わいです」という声が聞こえてきました。
「あ!今日は十日恵比須だったんだ」と思い、急遽、その日の予定を変更し、車を置くと、ちょうど、お日柄も良く、歩いて行ってきました。
(もっとも、昨日、夜になって、「今日は9日だ」ということに気づきましたが(笑)。何も急遽、行かなくてもよかったんですね。)
で、ここは、正月9日を宵えびすと言い、この日の午後、徒歩詣り(かちまいり)と呼ばれる博多券番芸妓さん総出のお参りがあることで知られています。



←私は、徒歩詣りがあることは知ってましたが、それがいつあるかは知りませんでしたので、あいにく、きれいどころさん方にはお目にかかれませんでしたが、代わり(?)に、ちょうど、この人たちの一団が出てくるところに出会いました。
何なのかは聞かないでください(笑)。

で、そもそも、十日恵比須というのは、古文書に依れば、香椎宮(現福岡市東区香椎)社家の武内五右衛門という人が博多に分家して(香椎宮には、360歳まで生きたという武内宿禰伝説があるようです。武内宿禰というのは、大和朝廷草創期に国政を補佐したとされる伝説的人物で、戦前は紙幣にも描かれていたとか。今でも香椎宮の裏手に行けばしっかり「武内」さんがおられるようですから、その流れを汲む人だったのでしょうか・・・。)、天正十九年(1591年)正月3日、年始に香椎にある父の家に行った帰り(この間約10km)、浜辺に恵比須大神の像が打ち上げられているのを見て、それを拾い上げ、翌文禄元年正月10日に、その地に御社を建てて、祀十日恵比須と称し、「酒肴、色々捧げ、祭事賑々しく相営み、毎年相変らず祭事致し」たところ、段々と、世間の人らの知るところとなって、年々、参詣者が多くなり、いよいよ繁昌した・・・ということのようです。
この辺は、まあ、以前、平太郎独白録 : 博多どんたく歌にみる謂われがわからないことの有り難みの中で述べたとおりで、この十日恵比須とは違いますが、同じく、近所にある三日恵比寿が、「昭和28年に漁師の網にかかった恵比寿様が祀ってある」と聞いて、「なんでぇ、最近のものじゃねーか」と、いきなり、有り難みがなくなったのと同じですね。
だって、それって、謂われもわからないくらいに大昔から祀られているから、初めて有り難みがあるんであって、昨日今日、漁師の網にかかったんなら、単なる、「不燃物」じゃないですか(笑)。
(・・・俺だったら、捨てたねw)

で、なぜ、わざわざ、神も仏も信じたことがない私が予定を変更してまで行ったかというと・・・についてのココロは明日(と思う)のココロだ~の巻。
乞うご期待(笑)。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

毎年恒例、若八幡の風物詩と仕事始めに語る今年の初夢!

2008年01月04日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

今日から、仕事始めです。
と言っても、本格的に動き始めるのは7日の週明けからでしょうが・・・。

博多だけなのかどうかはわかりませんんが、こちらでは、正月に先駆けて、12月31日の夕方から、ある神社に行く風習があります。
福岡市博多区博多駅東にある若八幡神社です。

ここは、若八幡と看板にも書いてありますが、地元では、皆、「やくはちまん」と呼んでいることからもわかるとおり、「厄除け」の神様で、厄に関係ない人も、大晦日には、その年の古くなったお札などを持って行く・・・というのが、博多の大晦日の風物詩になっています。

もっとも、ちょっと前までは、境内に大きな穴を掘り、その中でを焚いて、ここに、その年使ってきたお札やお守りなどを投げ込んで、その火に当たり、無病息災を祈るのが習わしだっのですが、最近では、ダイオキシン問題などがあり、ただ単に、窓口で古い札を渡すだけの味気ないものになってしまいました。
これも、時流の流れなんでしょうかねぇ。
ともあれ、うちも近所ですので、当然、昔からこの風物詩の洗礼を受けてきたわけで、私が子供の頃などは、父が大晦日の用事を済ませると、夕方、暗くなる前に、「さあ、おまえら行くぞ!」と言って、この若八幡に行ってましたので、毎年、12月31日に、ここに行くと、「ああ、正月が来るんだなぁ」という気になったものです。

ところで、今年の初夢は如何でしたでしょうか?
私は、これまで、過去三回、大平正芳元総理の娘と見合いしたり、石原裕次郎を叔父さんと呼んだり、恩師を病床で看取る・・・などの初夢を見てきたことは申し上げたとおりですが、覚えておられますでしょうか?
参考:平太郎独白録 : 仕事始めに語る、嗚呼、今年の初夢と初笑いのご挨拶。
    平太郎独白録 : 何を暗示するのか!仕事始めに語る、嗚呼、今年の初夢!!

で、今年の初夢では、なぜか、最後は、いわゆる文化住宅の二階で、亀田三兄弟弟二人川の字になって寝てました。
これ以上の詳細は、亀田サイドから名誉毀損・・・、もしくは、不敬罪(古い!)で訴えられてもかないませんので、ここでは申し上げられませんが、そもそも、初夢というのは、「1月2日に見るのが初夢だ」と言いますよね?
でも、それって、12月31日に除夜の鐘を聞くことなく、寝てしまうことが前提なんじゃないですか?
私は、例年、大晦日0時を廻って寝てますから、本当は1日に見るのが初夢だと思うんですけどね。
まあ、どうせ、今年は1日には何の夢も見ませんで、2日に夢を見ましたから、それはそれでいいと思いますが・・・。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

ALWAYS的等身大の昭和!その1 中洲大古写真

2007年11月28日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

先日、久しぶりに家族連れで福岡タワーに行ってきました。
別に、ここ自体、今更、改めてどうこう言うことはないのですが、ここの一階にあるお土産屋さん・・・みたいなところに行ったところ、昭和32年頃の博多の中洲付近の風景写真(←)が大延ばしして貼ってありました。



で、私も、もちろん、この手の写真は見たことがありましたが、結構、感動したのは、それが等身大に引き延ばして壁に貼ってあったことで、やはり、自分の目線と同じ高さで、等身大の大きさの物を見ると、何ともいえない立体感というか、現実感がありましたねぇ・・・。
でもって、昭和32年と言えば、先日、死去された稲尾和久氏や三原脩、中西太、豊田泰光、大下弘といった西鉄ライオンズ野武士たちが闊歩した時代の博多の風景なのだな・・・と。
私の父や祖父も、そこに写っている人たちと同じ空気を吸っていたのだな・・・と。
(あるいは、この日も、このフレームのほんの横を歩いていたのかも・・・。)

もちろん、私が生まれる前・・・どころか、私の両親が若い頃の風景なわけで、当然、私は見たことがない風景であり、昭和32年の博多・・・というよりは、むしろ、100年くらい前のサンフランシスコの写真のようにも思える写真ですが(笑)、こういう形で目の前に見せつけられると、その中に入ってしまったようで、結構、新鮮でしたね。
思えば、うちの近所も、一歩、大通りに出れば、似たり寄ったりの、錆びた鉄骨があちこちに張り出した風景があったように思います。



(←現在の同地付近。)

で、今度、「ALWAYS 三丁目の夕陽」の続編が始まったとか。
ああいう物のCGについては、平太郎独白録 : 古き良き「ザ・ヒットパレード」に想う、寂しい暗さに蔭が匂う。でも申しましたとおり、良くできているなぁ・・・とは思うのですが、どうにも、私にはなぜか、リアル感がありません。
昭和三十年代・・・と言っても、わずか、三年しか知らない私にとっては、おそらく、あまりにも情報量が多すぎるのかな・・・とも思っていたのですが、これについては、ひとつ、思い当たることがありました。
視点が違うんだ」と。
つまり、当時、私はまだ、子供でしたから、大人に比べ、目の高さ・・・つまり、視点の位置が低いんですよ。

このことは、また、明日。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

越後路顛末記 新潟編 その4

2007年11月01日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。


弥彦山に行く前、その麓にある怪奇スポットへ案内してもらいました。
正面にも、仏像らしき物が祀ってありますが、この後ろ、洞窟奥にも観音様か何か(?)がありました。
なぜか、新潟には、こういうものがよく似合う・・・・という気がしました・・・。
で、弥彦山よりの帰途、案内してくれた新潟人と話していると、「私は来週から中国に行くんですよ」と仰る。
「へー、どこに行くの?」と言うと、「廈門です」と。
廈門は、ちょうど、 平太郎独白録 : 中国、「客家の里」の建築形態、円形土楼への私的考察。に行ったときに私も行きましたので、「俺も行ったよ」という話になり、「福岡からだとどこで乗り換えました?」と、乗り換えの話になりました。



(←これが、そのときの円形土楼と脇の隣接建物との間の路地の風景です。下町育ちの私としては、こういう、路地には惹かれるものがありまして・・・(笑)。)

で、彼が、「廈門へは、新潟からだと、仁川乗り換えなんですが、福岡も仁川で乗り換えですか?」と聞くので、「確か、あのときは上海で乗り換えましたね」と答えたところ、その新潟人・・・、おもむろに、「上海って何領ですか?」と宣う・・・。
「は?」と私。
新潟人、続けて、「上海って、どこかの領土でしたよね」と。
「・・・・」

このあと、しばらく、私には彼が言っている言葉の意味が理解できませんで、しばらくして、初めて、「あなた・・・、まさか・・・、上海を知らないの?」と・・・。
「だって、行ったこと無いですから」という返事・・・・・・・。
いや、行ったことが無いとかそういう問題ではなくって・・・と(笑)。
「えーーーーー!!!!上海を知らない社会人がいるぅ・・・、ていうか、来週中国に行く人が上海を知らないぃぃぃーーー!」と驚愕させられました。
つまるところ、新潟人は大物だということを実感させられた旅でした(笑)。

(ちなみに、やつは今頃、中国に行っているか、帰ってきても、業務に追われて、これは見てないはずですから・・・と思って、ここまで書いたら、よく考えたら、新潟行ったの三週間前でしたね(笑)。ま、いっか。)

ちなみに、残る日本三大彦山のひとつ、雪彦山(せっぴこさん)は兵庫県姫路市にある山だそうで、どういうわけか、前日に、「次回は来年の今頃、神戸で」と決まっており、これも、「来年は雪彦山に登るようにと言うご神託だ」新潟人に言い聞かせ、弥彦神宮に誓って参りました(笑)。
よもや、神仏を恐れる新潟人は、神の誓いを破らないはずです。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

越後路顛末記 新潟編 その3

2007年10月31日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

ところで、その前についに明日から、11月ですね。
正月まで、あと、わずか2ヶ月を残すのみ・・・となったのですが、ここ最近の福岡地方は、日中は天気さえ良ければ、まだまだ、半袖ポロシャツでもいいくらいでして、(昨日も、10時頃から、長袖のワイシャツ一枚羽織った瞬間、「暑っ」と。でもって、そのまま、少し歩いたら、もう、汗かきましたから・・・。)当然、新潟に行った10月初旬は、普通に半袖ポロシャツでOKでした。
で、天気予報で東京、新潟の気温を確認したところ、東京で2℃、新潟で5℃くらい低く、慌てて、今冬初めての冬物を出した次第だったのですが、来てみれば、あまり、福岡と変わりませんでしたね。

で、その折り、東京で合流した東京人に、「こっちは皆、長袖だな。福岡は、まだ、Tシャツ一枚でもOKだよ」と言ったところ、「九州は、もう、温帯じゃない。亜熱帯だ」と言われました。
確かに、この時期まで、こんなに暖かいというのは・・・。
ま、例年、そう噂していると、急に寒くなるんですけどね(笑)。



(←新潟で見た人工降雪機です。)
カメラマン上がりの新潟人からは、「絶対に、雪は写らないから無駄ですよ」と言われましたが、一応、撮ったところ、何とか写ってましたことをご報告申し上げます(笑)。ていうか、そもそも、なぜ、新潟に人口降雪機がいるの?・・・って。

でもって、弥彦山山頂を降りてきて、麓にある弥彦神宮に詣でたところ、新潟人曰く、「ここは、ところてんが名物なんですよ」と。
ならば食わねばなるまい・・・と、林立する修学旅行相手みたいなお土産屋さんでところてんを戴きました。
(この手のお土産屋さんが林立していると言うこと自体、福岡の英彦山とはまったく、異質な空間でしたね。)



(←弥彦山山頂の神宮前に立つ石碑です。)

で、このとき、驚いたのが、こちらでは、ところてんは「一本箸」で食べるんですね。
どうやって食べるんですか?と聞くと、新潟人は、すました顔で、「ところてんは、どこでも、普通、一本箸ですよ」と仰います。
(今まで、色々なところでところてんを食べましたが、これが日本標準だとは初めて知りました(笑)。)

よほど、私は偏った経験しかしてないようですが、そうは言われても、やはり、こちらは食べたことがないので、食べ方がわからず、かなり、悪戦苦闘して食べました。

ちなみに、このとき、なぜか、店のおばさんが店内で流れているラジカセの音楽を聴いて、我々に、「変わった音楽を聴いてますね?」と。
我々は顔を見合わせ、「はぁ?」と。
黙っていると、さらに、「あなたがたは音楽家なんですか?」と。
困惑以外の何ものでもありませんでしたが、あるいは、・・・・神が降りてきていたのかもしれませんね(笑)。

明日に続きます。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

越後路顛末記 新潟編 その2

2007年10月30日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

ワールドシリーズ、先日、指摘した通りの結果になりましたね。
やはり、初戦がすべてだったと思います。
ロッキーズと同じような勝ち上がり方をしてきた日本の中日ドラゴンズは、同じく、初戦を落としたものの、こちらは接戦でおとした分だけ、さすがに、ロッキーズのようなことにはなりはしなかったようですが・・・。
昭和29年以来・・・ですから、何とか中日に勝って欲しいんですけどね(笑)。
で、一句。

         「中日の 日本一識る 戦中派」  平太独白

いい加減に日本一になれよ、ドラゴンズ・・・ヽ(;▽;)ノ。

で、昨日の続きです。

新潟では、日本三大彦山の一つ、弥彦山(やひこさん)へ行けたことが一番の収穫でした。

(↑弥彦山山頂より見た日本海に沈む夕陽。)

一応、我が福岡市も同じ日本海側とはいえ、面しているのは、一応、日本海ではなく玄界灘です(笑)。
ちなみに、この夕陽の先には福岡では上海がありますが、ここからは朝鮮半島があります。
緯度的には、ちょうど、ソウル辺りでしょうか・・・。
そう考えると、改めて、福岡における上海、釜山が、新潟では、北朝鮮ウラジオストックとなるわけで、改めて、ここが古来の渤海国や現在の北朝鮮などとの窓口になっているのがわかるような気がしました。

で、話を元に戻すと、弥彦山ですが、私がここに感慨を持ったのは、以前、
平太郎独白録 : 深山幽谷分け入って妙、四十年一昔のリベンジ 前編
平太郎独白録 : 深山幽谷分け入って妙、四十年一昔のリベンジ 中編
平太郎独白録 : 深山幽谷分け入って妙、四十年一昔のリベンジ 後編
で述べましたように、去る8月8日に同じく日本三大彦山の一つ、福岡の英彦山(ひこさん)に登っていたからです。
実は、福岡の英彦山に登るに当たり、何せ、40年ぶりだったこともあり、道がわからなかったのでネットで調べていたところ、福岡の英彦山は「日本三大彦山」のひとつで、後の二つは、新潟県兵庫県にある・・・ということを知りました。
で、新潟と聞いて、10月頃には新潟に行く予定があったよな・・・とは思いましたが、まさか、実際にそのひとつに登れるとは思いませんでした。
と言いますのも、福岡の英彦山は霊峰というイメージがぴったりの修験道の山であり、不摂生の固まりのようなおっさんに、片手間で気軽に登れるとは思っていなかったからです。

ところが、新潟の弥彦山は、行ってみて、ちと、驚いたのですが、福岡の英彦山とはまるで違い、まったくの観光地で、車で頂上のほんの手前まで登れるし、お土産屋展望台はあるわ、なぜか、その目の前に高層展望タワーがあるわ、遊園地もどきはあるわで・・・、つまるところ、実にあっさりと登ることが出来ました。
おまけに、案内してくれた新潟人は、展望台より上に神宮があることをしらず、私が「福岡の英彦山には麓と別に山頂にも英彦山神宮がある。こちらにもあるはずで、そこが山頂だ」と言って彼を導いてあげたのですが、そこへ向かう途中でさえも、テレビの電波塔林立しているし、トイレはあるし、排水パイプは露出している・・・で、三大彦山というわりには、福岡の英彦山とあまりに違い、これはこれで新鮮な驚きを禁じ得ませんでした。

明日へ続きます。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

越後路顛末記 新潟編 その1

2007年10月29日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

先週からの越後路続編、新潟編です。

そんなこんなで、長岡を出て、新潟へ向かったわけですが、新潟では、まず、時間が余ったので、新潟市美術館での柄にもない美術鑑賞から入ったのですが、その後も、ホテル日航新潟の上の無料展望台から(結局、滞在中、3回も上りました。)、ぶっかけ味噌アイス舌鼓(?)をうち、信濃川水上バスに乗りました。


(←信濃川から見た新潟市内風景。河口付近から上流方向を臨む。)

「酢ぶっかけ味噌アイス」の方のお味は、まあ、ご想像にお任せ致しますが、ただ、信濃川水上バスに関しては、あのシステムだけはどうかと思いますね。
まず、驚いたことに、デッキには椅子がわずかしかなく、室内は予約席となっていながら、室内の連中はデッキに出られるけど、我々、デッキ組(非予約組)は、たとえ、室内の席が空いていてもデッキで1時間立ちっぱなしでなければいけないわけで・・・。
折から、ちょうど、休みだったこともあり、町内会ご一行様で室内席は予約で占められており、「あなた達は室内に入ってはいけません」と。
その段階で、我々は、一時間立ちっぱなしが決定したのですが、ただ、それよりも、その人たちはデッキに出っぱなしで、それでなくとも狭いデッキはますます人であふれかえっているのに対し、逆に、室内はガラガラでも我々は座れないと。
これには、少し、カチンときましたね。
デッキ組は室内に入れないのであれば、定員が決まっている以上、室内買ったやつは、基本的に室内からは出られないということにしてもらわないと・・・。

ま、それはいいとして、新潟は、長岡同様、二度目なのですが、6年前に来たときと、一番の違いは、新潟市が政令指定都市となっていたことでした。
大合併により、80万都市となったということでしたが、驚いたのは、区の数が8つもあったことで、いくら、面積が広いとはいえ、140万の人口を擁する福岡市7つしか区がないことを考えれば、ちと、びっくりでした。
相当、面積が広いんだろう・・・と尋ねたところ、「仙台ほどは広くない」とのこと。
改めて、仙台の広さに思い当たったのですが、この点で、毎度、思うのは、日本中、市町村の大きさは、ある程度、統一しろよ・・・と言いたいですね。
単純に人口比較ひとつとっても、面積が3倍4倍も違えば、これでは、正確な比較はでないでしょ・・・と。
一例を挙げれば、福岡市の人口は140万人で第8位、札幌市190万人で第5位となっていますが、面積でいえば、福岡市の340.60km²に対し、札幌市は3.3倍1,121.12km²で、これを、札幌市の面積とほぼ同じの福岡都市圏での面積で比較すると、確か、220万人となり、あっさりこれを逆転するわけで・・・。
同様のことは、三大都市圏にもいえると思いますよ。
東京にしても、大阪にしても、行政が線を引いた外側に人は溢れているわけで・・・。
市町村合併も、住民同士の恣意調整妥協でしかない実態を考えれば厳しいのでしょうが。
ちなみに、新潟市の面積は、726.09km²で仙台市の788.09km²より少し小さいものの、札幌に比べると、意外にそれほどの広さではなかったんですね・・・。

で、明日に続きます。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

越後路顛末記 長岡編 その2

2007年10月17日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

昨日続きです。

実は、長岡に来るのは二度目だったのですが、前回来たときにはなかった河井継之助記念館なるものも出来ており、折角だからと、そこへ向かうべく、タクシーに乗り込んだのですが、行き先を聞いて、年配の運転手さんが、「河井継之助は、昔は、土地の老人などはあまり良くは言わなかったんですけどねぇ・・・」としみじみと述懐されました。
このことは、私も、河井継之助という人は、「無謀な戦争を起こし、地元に甚大な被害をもたらした愚かな指導者」として、その墓を鞭打つ人が絶えなかった・・・という話も聞いておりましたので、さほど、驚きはしなかったのですが、それが、今や、「記念館」が出来、さらに、中に入ると、たまたま、地元の小学生の見学団が来ており、教える側の話を聞いていると、そこでの河合は、「無謀な指導者」ではなく、「悲劇の偉人」として教えられていたことに、運転手さんの述懐と考え合わせ、改めて、「今や、時代は変わったんだなぁ・・・」という感慨を持ちました。



(←郷土資料館より北方向を臨む。この正面方向が、河井継之助が長岡城奪還奇襲作戦の為に渡っていった八丁沖大沼地帯。河合は、ちょうど、この画像の右手から左手に向かい、泥の中を進軍していったことになる。まさしく、つわものどもが夢の跡・・・かと。)

ちなみに、同じ戦争指導者でも、河合と違い、鹿児島での西郷隆盛の人気が高いのは有名で、地元の明治生まれの人の話で、その方が子供の頃には、その方の祖父は、墓参りに行くと、いつも、まず、西郷隆盛の墓に詣でて、次に、桐野利秋(中村半次郎)の墓に詣で、それから、自家の墓に詣る・・・ということだったそうです。
もっとも、先日、ある取引先の人が鹿児島に出張に行った際に、「こちらでは西郷隆盛の人気は高いんでしょう?」と尋ねると、土地の古老曰く、「あんなもん、何が偉いもんか!たくさんの人を殺して、土地を荒らしただけのやつだ!」という意味のことを吐き捨てられたとか(笑)。
どこも、負ければ賊軍・・・ということでしょうか。

ちなみに、私の河井継之助評というのは、以前、平太郎独白録 : 幕末における大局的見地からみた最大の功労者としての徳川慶喜で述べた通りです。
以前、ある友人が、「今日の日本があるのは、河井継之助のような人がいたからこそだ・・・」と言ったのに対し、私は、「彼がやったことは、ナポレオンと一緒で、多くの人を殺して、国を小さくして、次代に申し送っただけに過ぎない」と言いました。
まあ、歴史上のロマンは感じるかもしれないけど、結果的には土方歳三なども同様でしょうが、歴史の歯車を、ほんの少しだけ遅らせただけに過ぎなかったと。

続きは明日のココロだ~・・・けれども、新潟にはなかなか辿り着かない・・・。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

越後路顛末記 長岡編 その1

2007年10月16日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

先週末、訳あって、長岡・新潟・・・の旅、越後路に行ってきました。

当初、福岡空港から直接、ANAで、新潟空港に向かうつもりだったのですが、ちょうど、マイレージがたまっていたのでネットで手続きしようとしたところ、当該日には「X」のマークが・・・。
仕方ないので、ホテルパックを取りに代理店に行ったらこちらは「満席です」・・・と。
「おかしいなー。福岡~新潟がこんなに混んでるなんて・・・」と思い、帰ってきて、再度、ネットで検索したところ、マイレージやホテルパックの分だけがないだけで、飛行機自体には、空席はたくさんあるんですよ!
つまり、「正規の料金なら乗せてやっても良いよ」ということで、これには、ちと、カチンときましたね。
一体、何のためのマイレージなんだと。

で、しばらく考えた末、「仕方ないから正規の料金で買うか・・・」と思って手続きしてみたら、何と、航空費だけで往復7万当然、すよ。
ふざけんな!と思いながらも、帰りの便は購入し、行きの便を購入しようとして、ふと、気づきました。
東京経由新幹線の方が安いんじゃないのか・・・と。
でもって、見てみると、福岡~羽田間は、やはり、正規の運賃で片道1万3千円ですよ!
新幹線入れたって、こっちの方が安いんじゃないかと。
でもって、福岡~新潟便は廃止が決まっており、他にも、福岡~富山、青森、福島などの地方と地方を結ぶ便が軒並み廃線になったことを考え合わせれば、もう、マイレージが使えるのは福岡~東京便だけ・・・ということになり、これじゃあ、もうマイレージためる意味がないじゃないですか!
(福岡~名古屋間は新幹線で行きますから)
速攻でヨドバシカメラのポイントに振り替えましたよ(笑)。

で、結局、行きだけは東京経由新幹線で・・・ということにし、東京人の友人と合流して、新幹線の中で旧交を叙し祝杯(?)を挙げながら、まずは、彼のアリバイ作り(?)に協力して、長岡へ向かいました。

長岡は言うまでもなく、幕末の戊辰戦争の越後戦線である北越戦争で有名なところですので、一泊した後、翌日、ちょこちょこと散策して参りました。


(←河井継之助が官軍を大いに苦しめたことで知られる幕末の最新兵器・ガトリング砲です。もちろん、復元品ですけどね。)

遊び呆けていたことのツケで、ちと、バタバタしておりますので続きは、また、明日ということでよろしくご理解を賜りますよう御願い奉りまするぅ・・・。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

煙突から降りられない女性で思い出した聞かなくなった話

2007年09月14日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

先日、どこやらで、煙突の上に登った若い女性が、登るのは登ったものの降りられなくなって、レスキュー隊が駆けつけて救助される・・・という騒ぎがありましたよね。
私が子供の頃は、割と普通に周囲に銭湯の煙突などがありましたから、よく、耳にしたことがあるんですけど、あれって、登るときは登れても、一旦、上に上がってしまうと降りられなくなるものだそうですよ。
また、昔は、よく、子猫が、木の枝の上に登って降りられなくなる・・・ということがあったとも聞いています。
猫が、枝の上に止まって、3日も4日も、ずっと、じっとしているから、「?」と思っていると、そういうことらしく、そんなときに、人間が迂闊に可哀想だなどと思って、降ろしてやろうとすると、パニックになって、人間に飛びかかって来る・・・とも聞きました。
いずれにしても、最近では、もう、聞かない話ですけどね。

そういえば、聞かない話・・・という点では、私の生まれ育った現博多駅前地区というのは、度々、ご紹介しましたように、昭和43年の博多駅地区土地区画整理換地処分以前は、「下人参町」と呼ばれた下町でしたが、昭和38年博多駅移転以前は、今のキャナルシティ付近で、線路が直角に曲がっており、そのため、ここでよく、脱線事故などがあったそうです。
さらに、亡父の話では、当時は、飛び込み自殺なども少なくなかったらしく、そのたびに、列車は一時停止し、そこで、人間の死体を組み立て、元の人間の形なるまで発車しなかったとか。
それは、何も、死者を悼む気持ちからなどではなく、列車のどこかに、遺体の一部が引っかかっていたりすると、脱線の危険性があったからだとか。

さらに、良く聞くと、必ずしも、自殺するつもりはなくとも、結果的に、撥ねられてしまうケースも少なくなかったと言います。
どういうことかというと、電車が来たからといって、傍らに立ってやり過ごそうなどとすると、猛スピードで走る列車のすぐ脇だと、風圧で吸い寄せられてしまうのだとか。
特に一番怖いのが、すれ違う列車の間に立つことで、理論的には、そこに隙間があれば、人間が立って、列車をやり過ごすのは可能なように感じますが、実際は、まず、アウトだそです。
昔は、よく、踏切を渡ろうとしたら、上りが来たので、脇に避けて立っていたら、上りが行ききらないうちに下りが来てしまった・・・なんてことがあったそうです。
まあ、すれ違う列車同士の距離によっても違うのでしょうが、よく、列車に乗っていて、隣を快速電車などが通過していくと、風圧で窓ガラスにもの凄い衝撃が走るときがありますよね。
あの状況を思い浮かべて頂ければいいと思いますが、もし、こういう事態になってしまったときには、どうすればいいか・・・。
(まあ、最近は踏切自体、少なくなっているのでしょうし、鉄道側にも、安全対策が採られていると思いますが。)
ちゃんと、策があるんですね。
こういうときは、伏せればいいんだそうです。
伏せると、巻き込まれるのを避けられるのだとか・・・。

ちなみに、この辺りでは、今でも幽霊が出るという話があるようですが、あいにく、私は46年間で、一度も見たことがありませんけどね。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

深山幽谷分け入って妙、四十年一昔のリベンジ 後編

2007年08月11日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

そんなこんなで、ようやく、英彦山山頂に近づいたのですが、頂上を目前にして、心細くなってしまいました。
「日も落ちてきているし、たぶん、下りはそんなに水は飲まないだろうけど・・・」とは思ったものの、行きだけで、これだけの水を飲んだのですから、下りも飲まないとは限らず・・・、ちと、不安になりました。
ところが、山頂の少し前に行くと、コンコンと湧き水が出ている場所があり、「助かった~」と(笑)。



で、そこからまだ、これでもかというくらい石段があったのですが、足をがくがくさせながら、何とか頂までたどり着きました。
これ(←)が英彦山山頂にあるお社です。
先般の台風で飛んだのでしょうか、屋根が剥がれています。



さらに、よく見ると、土台は歪み、板壁色褪せ、応急処置で貼り付けてあったと思われるシートはちぎれ・・・、その姿は、まるで、痩せさらばえた行者を見るような想いがしました。
建物の傷み具合が、この社がおかれた環境雄弁に物語っているといえるでしょうか。

ここまで上がってきて、これが、流麗なピカピカした建物だったら、有り難みはなかったでしょうね。
この過酷な環境で、ボロをまとって、何事もないかのように、黙々とここに立ち続けるその一徹さに、思わず、無神論者の私にも、英彦山に人々の信仰が集まるのがわかるような気がしました。

で、本当は、もっと、ゆっくりしたかったのですが暗くなってもいけないと思い、少し休んだだけで、そそくさと下り始めました。
帰りは、予想通り、足がガクガクしたものの、割と順調に下山することが出来、何とか、日が暮れる前には車のところまで辿り着くことができました。

最後に、この英彦山で、四十年前とは大きく違うものがひとつ・・・。
我々が登り始めたのは中腹辺りからなのですが、その一番下から、中腹の少し上辺りまで、何と、モノレールが走ってました(笑)。
採算とれるのかな・・・と(汗)。
おっと、私には、どうにも、俗世の垢が落ち切れないようで・・・。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

深山幽谷分け入って妙、四十年一昔のリベンジ 前編

2007年08月09日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

昨日、私はうちの腑抜けたガキども「喝!」を入れるべく、仕事をさぼって、記録的な猛暑の中、日本三大彦山のうちのひとつ、福岡県の霊峰・英彦山(ひこさん)に登ってきました。
実は、この英彦山というのは私にとっては、曰く因縁ある山でして・・・。
即ち、今を去ること四十年近く前、確か、昭和43~45年頃のことだったかと思うのですが、小学校低学年だった私は、当時の下人参町町内会(現博多駅前に町名が移行するかしないかの頃だったと思うのですが。)の旅行で、ここに行きました。



で、到着後、皆で弁当を拡げた後、「子供だけで上まで登ってみよう!」ということになりました。
で、勇んで頂上を目指して登り始めたのですが、あまり、体力に自信がなかった私は、他の子らに遅れながらも、休み休み登っていたところ、誰か、知らない近所のお兄さんから、「君は、もう下りようか」と言われました。
(同じ町内会といはいえ、当時は、少し年が離れると知らない人が普通にいました。オフィス街となった今では、)
私としては、まだ、別に上まで行けると思っていたので、「いえ、いいです」と答えたのですが、そのお兄さんから、「いいんだ。僕も下りるんだから」と言われ、すぐに流されてしまう私は、内心、忸怩たる物がありながらも、「はあ・・・」と(笑)。
まあ、こういう場合は、本人よりも他者の判断の方が的確なようですから、おそらく、その人の判断は正しかったのでしょうが、私としては、以来、子供心にも「登れたのに・・・」という想いが心中どこかに引っかかっておりました。
で、その後、不思議なほどに、なかなか機会が無かったのですが、このたび、ようやく、四十年ぶりのリベンジトライした次第でした。



ところが、ざっと計算して、車で一時間もみておけばいいかな・・・と思っていたところ、同じ福岡県内と言っても、大分との県境にある山ですから、やはり、しっかり遠く・・・。
でもって、スタート地点まで行ったところ、飯食うところもなく、再び、駐車場まで戻り・・・。
さらに、うどんだんご汁ところてんを頼んだところ、だんご汁一杯がやたらでっかく、腹がパンパンに・・・。
その状態で登り始めたところ・・・。

続きは明日のココロだ~の巻。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

徒然なるままに行き当たりばったりの旅5 彦根~博多

2007年07月10日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

はい、昨日の続きです。
一応、このシリーズも今日で最後の予定です。
昨日来、述べている彦根城が出来るまでの要地、佐和山城址ですが、彦根城に行き、そこから、両者の位置関係を見て、ますます、わからなくなりました。
指呼の間しか離れていなかったからです。


(↑彦根城本丸から見た佐和山城址。往時をしのばせる物は何もないとか。)
井伊家の拠点選定に際しては、佐和山と彦根と米原が候補に上がったといいますが、米原はともかく、佐和山と彦根だと、大して、差はないような・・・。
単に、人心一新・・・というだけのことだったのでしょうか・・・。
それとも、戦国武者も幽霊が怖かったとか・・・(笑)。

ちなみに、彦根で一番笑ったのがこれ(←)。

桜田門外の変水戸藩士(薩摩藩士2名も含む)により彦根藩主・井伊直弼を討たれた彦根市民は、いつの間にやら、水戸市に対する恩讐を解き放っていたようですね(笑)。
山口県鹿児島県が嫌いな福島県・・・、浅野内匠頭赤穂市が許せない吉良上野介愛知県吉良町・・・。
思わず、もう、いいんじゃないの~って(笑)。

で、彦根城天守閣を見て、すでに、かなり、くたくただったのに、築城四百周年とかで、「資料館」、それに、急ごしらえで作られた「開国記念館」や。さらに、庭園見物の券も付いており、貧乏性の私としては、やむなく・・・。
で、まあ、後ろ二つは、特に取るに足らないものでしたが、資料館では、勅許を得ないままに調印したアメリカとの条約については、実は、明治時代に「全責任を負う」みたいな覚悟の元で為されたように修正されているそうですが、実際の直弼には、やはり、かなり迷い狼狽などがあったようです。
思わず、「そうだろうなぁ」と・・・。
生身の人間なんだから・・・と。

で、一通り、それらに行って、彦根城を後に、彦根駅から、そのまま、JR琵琶湖線で京都まで行き、そこで、新幹線に乗り換えて、夕方、無事、博多駅に到着しましたとさ。
めでたしめでたし。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング