平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

脱亜入欧ならぬ、脱亜入「オ」の合従連衡論。

2006年06月30日 | 国際問題
親愛なるアッティクスへ

ところで、当ブログも、一年と丸3ヶ月が経過し、お陰様で合計で延べ1万8千人の方にお越し頂き、387件の記事をUPして参りました。
これも偏に、皆様のお力添えの賜物なのですが、実は、それらの記事の中にひとつだけ、私にとっては、いわく付きの、少々、引っかかってる題材がありました。
それが、これです。

実は、これ、以前、一度、書いた物なんです。
あるいは、ご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。
が、そのとき、一旦、UPして、ちょっと、長く成りすぎたことから、この部分だけを切って、outlook expressメールの中に作っていたネタ帳に移して、上書き保存し、しばらくして、また、開いたところ・・・、何とネタ帳の下半分が消えているではありませんか!
あるいは、閉じるときに、なにかやっちゃったか!とも思いましたが、全部が消えるなら、まだしも、下半分だけ消えているのです。
で、諦めて、一度、閉じ、どうにも、狐につままれたような感じで、もう一度、開いてみたら・・・。

何と、今度は、その残り半分が、また、その半分になっている・・・。つまり、数行残して全部消えているじゃないですか!!
こんな奇妙な消え方ってありますか?!
あるいは、何らかの人為的な力が働いたのかな?とも思いましたが(つまり、スパイウェアなどの・・・。)、消すのなら、ネタ帳の方ではなく、ブログの方を消すでしょうし、とにかく、どうにも、「???」でした。
で、思い当たったのが、もし、誰かが消したかったのだとするなら、それは、ブログ全体の方ではなく、この部分だけだったのではないかと・・・。

ということで、本日は、以下、その消えた部分を思い出しながら書いてます。
もし、万一、このブログごと消えるような事になった場合・・・、ご賢察下さい(笑)。

以前、平太郎独白録 「理念としての大東亜共栄圏」の中で触れたことの続きなのですが、ドイツが、同じ敗戦国でありながら、この戦後六十年を、政権が変わろうと、政党が変わろうと、揺らぐことなく、「力による拡張から、融和による拡大へと方針を変え」、近隣諸国との融和に力を注いできたのに対し、日本には、そのような長いスパンを睨んだ国家方針のようなものがあったのか?と言われれば、残念ながら、対米追随という、極めて、自発的要素の少ない国是があっただけで、周囲に友邦すらない現状を思えば、何をか言わん・・・かと。
では、そのような、指針さえも、一切、存在しなかったかと言われれば、そうでもないように思います。
それこそが、大東亜共栄圏です・・・。
大東亜共栄圏というと、どうしても、拒絶反応を示される方もお有りだと思いますが、あれは、それを曲解した人たちの思想と、それを実現する為の手段が間違っていただけで、理念としてはいささかも色あせていないように思います。

とは言え、ヨーロッパでは、EUというものが出来ましたが、アジアでそういうものを作るには、(AUというのは、アフリカ連合というのが既に存在するそうですね。アジア連合の場合、何というのか、あいにく、存じ上げません。)やはり、中国インドという大国の存在がネックになってくるように思います。
即ち、EUというのは、皆、身の丈が同じくらいなんですよね。
その点、特に東アジアにおいては、中国はやはり、あまりにも、身の丈が違いすぎるんですよ・・・。

と、ここまでが、ほぼ、既述の部分で、ここからが消えた内容です。

さらに、中国というブロックは、地政学的に見ても、何千年も前から、独自のブロックとして変わることなく存在してきたわけですから、この先も、形は変わったとしても、おそらく、半永久的に、このブロックとして存在するでしょう。
そう考えれば、中国の周辺諸国というものの採るべき道は、何十年、何百年経とうとも、アメリカのような他の大国の存在がないとするならば、「合従して中国に対抗するか、連衡して中国の保護国として存在するか」・・・しかないように思います。
そこで、大東亜共栄圏・・・という風に申しあげたわけでしたが、実は、これには、戦前の構想とは少し違い、身の丈が似たり寄ったりの、日本、フィリピン、インドネシア・・・といった国だけでの一大島嶼連合を意識していたのですが、よく考えたら、大東亜共栄圏よりも、もっと相応しい選択肢が日本には、あるじゃないですか!
それが、OUです。

日本は、アジアの一部・・・と言いながら、よくよく、地図を見れば、同時に、島嶼部の国であり、その意味では、オセアニア州の延長線上だとも言えるわけで、つまり、日本を北端にして、オーストラリア、ニュージーランドを南端とするオセアニア州へ編入してもらう・・・、即ち、EUならぬOU、脱亜入欧ならぬ、脱亜入オです・・・。

とは言え、もちろん、これがそんなに簡単な話でないのはよくわかっています。
何より、現段階では、アメリカがそれを許さないでしょうし、他の諸国もどの程度、それを望むのかも不透明です。
オーストラリアなどは、東アジアの緊張関係に巻き込まれるのを迷惑がるでしょうし、日本だって、治安、移民などの問題を考えると、どの程度、国民的合意が得られるのかさえ、怪しいものです。

しかし、今、世界はEUの成立以来、アメリカにBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)と言うブロック化の流れにあるように思います。
ちょっと長く成りすぎましたので、かなり、申し足りないところもあります。
要は、国家百年の計に鑑み、ドイツのように「国民の合意事項」として、こういう国家としての方向性だけは持ち続けたいものだということです。
実際、EUだって、実現までには60年の歳月がかかり、この先も、まだまだ、平坦な道のりではないのですから・・・。

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私的チームワーク論・その2 遠心力野球

2006年06月29日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

今日の博多は快晴です。
夏本番近し・・・。

で、先日の続きです。
チームワークと言う点で、もうひとつ、印象に残る話があります。
それが、智将と呼ばれた三原脩氏が西鉄ライオンズ時代に提唱した「遠心力野球」です。

三原脩という人物は、これまでも、たびたび、触れておりますように、現代の日本プロ野球の戦術の大半を創った人・・・と言われています。
「当て馬」、「ワンポイントリリーフ」などというのも、この人の創出ですし、「サイン盗み」もこの人によって始められた物だと言われているくらいです。
また、「超二流選手」、「流線型打線」などの独自の野球理論は、他者の追随を許さぬところで、まさしく、智将の名に恥じないものだったでしょう。
それらの、野球理論の中に、「遠心力野球」というのがあります。

この部分を、氏の自伝、「風雲の軌跡―わが野球人生の実記」の中から、一部、抜粋してみますと、
「遠心力野球とは、私が西鉄時代に選手を掌握したやり方である。
これに対して、求心力野球というのが存在する。オーソドックスな野球といってよい。大目標に向かって、心をひとつにして突進する。フォア・ザ・チームである。そのために規則で選手をしばりつけ、あるときは口封じまでして目的を達成する。
遠心力はその点、自由であることからスタートする。やりたいことをやってもよろしい。いいたいことはいいなさい。が、与えられたことは、きっちりやらねばならない-それが大前提としてある。
言葉を換えていえば、求心力が「管理」を体質とするのに、遠心力は「個性」を尊重する。そこから生まれてくる相互信頼感を大切にしてゆく方式だ。」

つまり、み~んな、仲良くして、滅私奉公自己犠牲の上に、一丸となって、勝利へ邁進するのが、求心力野球。
それに対して、選手同士は何も仲良くする必要はない。選手間での、「あいつには負けたくない!」という反発を外へ向けるのが遠心力野球・・・というわけです。
それを象徴的に表すのが、中西太選手と、豊田泰光選手の関係でしょう。
中西選手は、打った打球がショートグラブを弾き、そのまま、ぐんぐん、上昇を続けて本塁打になったという伝説を持つ、怪童と呼ばれた強打者で、一方の豊田選手は、新人の年、清原和博選手に抜かれるまでの高卒ルーキー本塁打記録を持っていた人ですが、同時に、打つのは打つけど、とにかく、守備が下手で、実際、彼がエラーして落とした試合も少なくはなかったそうですが、そんなとき、この新人は不敵にも、「エラーした分だけ、打って返す。」と言い放ったといいます。

この両人、当然、中心選手として、お互いにライバル意識が大変に強く、他の選手たちは、その板挟みになって大変、困ったと言いますが、そのくせ、どちらかが、打席が終わってすれ違うときは、「あの投手、ぼちぼち、疲れてきたぞ。」とか、「あいつは、カーブだけ待っとればいいぞ。」などとアドバイスしていたと言いますし、さらに、片方がタイトルがかかった試合などでランナーが出ると、「送っとこうか?」、「頼む。」などという会話が為されていたとか・・・。
チームワークとは、必ずしも、仲良しにする必要はない。
「むき出しのライバル意識」でも、勝利という目的の為には「やるべきことは、きっちりやる」、お互いが為すべき事は決して、はき違えないことである。

この話に、思わず、胸が熱くなるのは、私だけでしょうか、御同輩・・・。

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女子大生誘拐に想う豪邸拝見の正気の沙汰と現代の倭寇!

2006年06月28日 | 社会全般
親愛なるアッティクスへ

今朝の朝刊の一面に、東京の美容外科医の21歳になる長女誘拐された事件で、犯人の中国人は、「数カ月前、テレビを見て、資産家と知り、お金にしようと犯行を思い付いた」などと供述しているというニュースが載ってました。

最近、テレビでよく、「お嬢様のお宅拝見!」とか言って、いきなり、(本当にいきなりなのかはともかく。)レポーターが行って、「おうちを見せて下さい。」みたいなのをやってますよね。
で、これ・・・、私も思ってたんですよ。
「この人たち、こんなに嬉しそうに、自宅の中から、家族構成から、生活レベルから、テレビに公開しちゃって良いの?」って・・・。

高額納税者名簿ってありましたよね。
昨年から無くなったんでしたっけ?
あれに載ることに喜びを見いだしていた人たちもいたようですが、でも、あれって、ご丁寧に、住所も書いてあるわけですし、であれば、このご時世、「この順に襲ってください。」って言ってるようなものなんじゃないんですか?

実は、私も(・・・と言っても、別に大金持ちではないですよ。くれぐれも、誤解のないように(笑)。私は、あくまで、市井人です。)、最初に拙著出版した際に、著者紹介の欄には、あまり、多くを書き込みませんでした。
まあ、「書くような経歴がない」というのが一番の理由だったのですが、次に思ったのが、やはり、世の中には、「本を出版した」というだけで、「天文学的を持っている・・・。」と勘違いするような輩もいるのではないかと思った次第でした。
(実際にいました(笑)。)

それを考えれば、テレビであんなに嬉しそうに、しかも、ご丁寧に、ターゲットとなる娘の存在まで公開する人の気が知れませんでしたよ。
あれって、犯罪を考える人にとっては、鴨が葱を背負ってくる・・・、つまり、娘は「ごちそう」にしか見えないのではないですか?
今回は、金銭目当てだったから、まあ、不幸中の幸いだったのでしょうが、世の中には、ああいうお嬢様を陵辱したい・・・などという変質者もいるんですよ。
この手の話は、今も昔も、結構、アダルト・ビデオの定番です。(←「何故知っている!」という突っ込みはしないように・・・。)
だとすれば、こんなの出しておいて、普段、ちょっと、友達と買い物に行くのにも、ボディガードを付けているってわけにもいかないでしょうに・・・。

ちなみに、犯人グループは日本人、中国人、韓国人混在集団だったとか。
これをみて、思うのは、中国人犯罪は、「現代の倭寇」であると。
福岡での一家殺害事件を初め、昨今、外国人の日本での犯罪が目立ってますよね。
でも、こういう犯罪は、当初こそ、外国人の犯罪が多かったのでしょうが、最近では、外国人のフリをした日本人の犯罪が多いように思います。
「キンコ、キンコ」と言いながら、どうも、日本人のようだった・・・などと。

で、中世に、中国沿岸を襲撃した日本人犯罪、「倭寇」も、実は、日本人による襲撃は当初だけで、後は、月代(さかやき)を日本人風に剃り、日本人になりすました中国人の犯罪だったと言います。
こういう犯罪とは、いつの時代も、外国人が発想を与え、それをみた現地人が真似をするもののようですね。

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私事ですが、ご報告の儀、是有り候。

2006年06月27日 | その他
親愛なるアッティクスへ

ちと、ご報告の儀、是有り候です。
実は、私、先般、講演の依頼を受けました。
「ある都銀経営者会で、講演をしてくれないか。」と・・・。
「講演ですか?!いやあ、やったことないもんで・・・。ちなみに、何分話せばいいのですか?」と聞いたところ、「一時間半」とのこと・・・。

わたしゃ、生まれてこの方、日常生活でも1時間半なんてしゃべり続けたことなかですよ!
(おっと、少し、興奮しましたか・・・(笑)。)
ましてや、人前で話す・・・なんてのは、結婚式か自己紹介くらいでせいぜい、一分半・・・。
「一時間半?一分半の間違いじゃないですか?」ということで、とりあえず、その場は丁重にお断りしたのですが、先日、熊本に結婚式に行った際、同席した秋田の友人らにその話をしたところ、「だめだ!そんなことじゃ!」と叱咤されまして・・・。
まあ、おっかないお友達ですので、あまり忠告を無視するのも何だろう・・・と思い、それで、その話を持ってきて頂いた方に、ちらっと、「講演の件ですが、先日、結婚式で同席した友人からこう言われたのですが、なにぶん、やったことがないですからねぇ・・・。」とだけ伝えたところ、その日の夕方、その方から、メールが来まして、「講演の方、ご快諾有り難う御座います!」・・・と(汗!)。
ということで、日程はまだ、未定ながら、講演をすることになりました。

で、先日、原稿を起こして・・・、と言っても、やったことがないから、どのくらいの量かがまったくわからない・・・。
そこで、とりあえず、30項目くらい書いて、時間を計って、とりあえず、誰もいない部屋で、それを朗読してみたところ・・・、意外とやれるもんですねぇ(笑)。
8項目、行くか行かないかで一時間半話し終えました。
まあ、実際に人を前にしてから、どの程度、話せるかは、また、別物だと思いますが、何せ、チキン・ハートなもんで・・・。(←あ、日頃の私をご存じの方・・・。今、思い切り、突っ込んだでしょ!ここ、笑うところじゃありませんから・・・(笑)。)
ということで、しばらく、大リーグボール養成ギブスを付けて特訓です・・・。
(もしや、特訓も死語?)

もうひとつ、改まって言うのも何なのですが、先月より、お話を頂戴して、小雑誌(パンフレット?)にコラムを寄稿させて頂いております。
ネットでも販売されているそうなので、ついでに、こちらでも、ご紹介させて頂こうと思ったのですが、まだ、私の部分が出ていませんので、いずれ、時期が来ましたら、また、改めて、ご報告させて頂きます。
あしかがたかうじ・・・じゃなかった、あしからず。

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ハーメルンの笛吹男は今日、実際にあった話。

2006年06月26日 | 文学芸術
親愛なるアッティクスへ

今日、6月26日は、あのグリム童話で有名な、ハーメルンの笛吹き男による神隠し事件があった日だそうですね。
あれって、フィクションかと思っていたら、実際にあった話なんだとか・・・。

1284年6月26日ドイツハーメルンで、130人の子供が突然行方不明になるという事件が実際にあったらしく、市の公式記録文書にも「ヨハネとパウロの日(=6月26日)に、ハーメルン市内で130人の者がカリワリオ山の方向(=東方の方角)へと向かい、引率者の元で多くの危険を冒してコッペンまで連れてゆかれ、そこで消え失せた」と記載されているのだとか・・・。
その引率者とは30才くらいの上等の服を着た美しい男だったとか・・・。

童話の内容を簡単に説明しますと、
「 昔、ネズミの大量発生に頭を抱えていたハーメルンの町長は、『ネズミを見事退治した者に多額の賞金を与える』と宣言したのだとか。
 すると、笛吹き男が現れ、『俺が退治してやろうか。賞金は出すんだよな?』と。
 町長が『出す』と言うと、その男、おもむろに笛を吹き始め、すると、不思議なことに、ネズミは一斉に彼の後を付いて行き、男が川へ行くと、ネズミはそのまま、川に入って溺れて全滅したのだとか。
 ところが、いざネズミがいなくなると町長は彼に賞金を払うのが惜しくなり、何だかんだと言って払おうとしない。
 それを見た男は、『あ、そう。』と言うと、また、笛を吹きながら、歩き出したとかで、すると、今度は町中の子供たちが男の後に付いていき、共に姿を消してしまった。」
というような話だったと記憶しております。

で、この話、何かと合理的な答えを求めたがるヨーロッパ人らしく、諸説有るみたいですね・・・。
やれ、十字軍に連れて行かれたんだ・・・とか、やれ、奴隷にされたんだ・・・とか。
まあ、もちろん、グリム兄弟の話というのは、あくまで、事実を基にしたとはいえ、物語なんですけどね。
そもそも、「神隠し」「人さらい」なんてのは、日本でも昔からあったわけですし、何より、以前、平太郎独白録 「もうひとつの元寇にみる日本政府の拉致への対応。」の中でも触れましたように、外敵が来て、日本人を奴隷にする為にさらっていったとかいう話もあるわけです。
(そう言えば、最近、戦国時代にポルトガル人が日本人を奴隷にする為に売り飛ばしていたなんて記録も見つかったそうですね。)
あと、意外に多かったのが、両親が農作業中、傍らの土手に寝かせていた赤ん坊を、が摑んで飛び去ってしまうということだったとか。
まあ、途中で足を話したとしても、乳児であれば、落下した打撃に耐えられず即死でしょうし、離さず、巣に持ち帰れば、小鳥の餌にしちゃうんでしょうけど、諦めきれない親からしてみれば・・・。
そこに伝説が生まれる・・・。
グリムの童話も、そういった類のものだったんじゃないでしょうか・・・。
連れ去られた人たちを想う思いがこういう童話には詰まっているのかもしれません。

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ワールドカップも終わったしに見る自己管理に対する意識。

2006年06月24日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

#]サッカー・ワールドカップが終わったと思ったら(まだ終わってない?!(笑)。)、タイミング良く、昨日からプロ野球のペナントレースが再開ですね。


(職場から見える夜景です。この角度しか、夜景らしき物は見えません(笑)。)

ということで、交流戦が終わり、いよいよ、これからナイタービールの季節がやってきます。

と想っていた矢先、今や、巨人に代わり、球界の盟主になった観さえある人気球団、阪神タイガースの抑えの切り札、久保田智之投手が、ベビーカーから落ちそうになった娘をかばおうとして右手甲を地面に強打、右手骨折のため出場選手登録を抹消されたというニュースを耳にしました。

この話を聞いて、すぐに思い浮かべたのが、球史に残る大投手、金田正一氏は、我が子を絶対にその腕に抱かなかったという話でした。
我が子は可愛い・・・、だから、もし、抱いていて落とした場合、思わず、利き腕でかばってしまうかもしれず、それで利き腕をケガしたら、商売あがったりになる・・・。
自分は、家族をこの腕で養っているのだから・・・という、何とも、凄まじいプロ意識、凄まじい職人気質、凄まじい自己管理ですよね。
今の時代から見れば、少し神経質にも見えるような話ですが、こういう話は、当時は何も特別な話ではなく、以前、平太郎独白録 「熱帯夜に見るプロのプロたる所以・・・。」の中でも触れさせて頂きましたように、当時はプロならば、当然のように持っていた意識で、仮に、球団から「自己管理はするな!」と言われても、「冗談じゃない!俺の腕が使えなくなったら、球団が俺と家族の面倒を見てくれるのか!」と食ってかかるような、彼らからすれば、むしろ、義務というよりは、権利に近いような感覚だったでしょうか。

まあ、久保田投手の場合は、咄嗟のことだったのでしょうから、一概には言えないでしょうが、金田正一氏の自己管理で思い出すのが、違う意味で「ほお・・・!」と思ったのが、西武の松坂大輔投手。
彼が新人の年、キャンプに視察に来ていた金田氏と当時の東尾監督と三人で対談していたのですが、金田氏が自分のことを指さして、「このおっちゃんのこと、知ってるか?」と聞くと、松坂投手は「はい。」と。
続けて、金田氏が、「どんなふうに知ってる?」とたたみかけると、18歳の松坂投手は、少し、口ごもりながらも、「大変自己管理に厳しい方だったと・・・。」
18歳で、こんな受け答えできますか?!
ていうか、金田氏が自己管理に厳しかった時代は、彼が生まれる遙か前、下手すれば、お父さんも知りませんよ。
(昭和36年生まれの私も、金田投手と言えば、「巨人の星」の中で、明らかに別格扱いの大投手として登場していたから知っていたようなもので、実際に投げていたのはまったく覚えておりません。まあ、それも当然と言えば当然で、金田氏は私の父と同じ年であり、その息子で俳優の金田賢一氏が確か私と同じ年だったわけで・・・。)
このとき、松坂というのは単なる筋肉バカじゃないんだな・・・と、強く、思いましたね。

この松坂投手の受け答えで思い出されるのが、松坂投手とはほぼ同世代(・・・ていうか、当時の松坂投手よりは5歳も年長の23歳)で、しかも、金田氏がかつて所属した巨人の、それも、祖父も巨人OB内海哲也投手と金田氏とのやりとりでしょうか。
松坂投手と同じく、キャンプ中に、巨人の原監督が、視察に訪れた400勝投手の金田氏と談笑していると、そこに内海投手が通りかかったので、原監督が呼んで、「おい、この人、誰か知っているか?」と尋ねたところ、内海投手は「はい、カネムラさんです」と・・・。
慌てた原監督は助け舟を出すつもりで、「バカヤロー、何勝した人だと思ってるんだ?」と聞いたことろ、今度は「三百何勝ですよね。」と・・・。
直後に原監督は「教育し直します。」と言ったとか・・・(笑)。
まあ、この受け答えが普通と言えば普通なんでしょうが、やはり、改めて、「松坂は凄い!」・・・と。

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日本代表は違う意味での本当の日本代表!

2006年06月23日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

どうしても、今日はこの話題でしょうねぇ・・・。
サッカー・ワールドカップ、日本代表予選リーグ敗退・・・。

でも、見事に私の予想通りになってしまいましたね。
最初、開戦前に、平太郎独白録 「ワールドカップ ドイツ大会に想いを馳せる日韓共済!」の中で、「オーストラリアと日本の勝った方が決勝トーナメントへ進出する」と言ってましたし、今朝の結果についても、平太郎独白録 「嗚呼、サッカー・ワールドカップに見る勢いというものの意義。」の中で、「日本が負けて、オーストラリアが勝つ」と・・・。
言ってたとおりになりましたね・・・。
無論、私にサッカーの技術的なことなどがわかろうはずもなく、私が見ていたのは、ただ、勝負事という観点だけでした。
この点で、オーストラリアには「勢い」「ツキ」があり、日本クロアチアにはそれが致命的なまでになかった・・・ということでしょう。
日本が今大会で7失点、クロアチアは2得点のみ・・・という数字に、すべてが表れていると思います。
今のオージーには、前回大会での日本韓国のような「勢い」を感じます。
組み合わせにもよるのでしょうが、うまくいけば、ベスト8・・・、あるいは、それ以上にも入ってくる可能性もあると思います。
ま、ここから先は、組み合わせの関係がありますので、これまでのように、自信を持って言い切ることは出来ませんけどね(笑)。

ところで、いつもこの日本代表というものを見ていると、私としては、別の意味で「ああ、本当に日本代表なんだな・・・。」という感慨を受けます。
それは、 出身地。
これは、2002年のワールドカップのときのデータなのですが、
静岡 茨城 静岡 富山 広島 山梨 愛媛 東京 兵庫 岩手 大阪 静岡 静岡 愛知 静岡 神奈川 大阪 群馬 滋賀 静岡 奈良 茨城・・・。
(今年のデータは、見あたらなかったんですよ。皆、所属チームまでしか書いてなくて・・・。)

まあ、サッカー王国静岡が多いのは別として、それから、東京、大阪などの大都市圏も、人口の絶対比が多いわけですから除外するとして、そうやってみてみると・・・。
まず、山梨県出身の中田ヒデはかつて、武田信玄に率いられ、戦国時代を席巻した甲州武士
そう言われてみれば、あの精悍さはさもありなんと・・・。
また、富山県出身の柳沢 敦選手は、かつて、信玄と並び称された勇将、上杉謙信を散々、苦しめた越中人
さらに、中田ヒデとMFの両翼を為す、福西崇史選手は、あの「坂の上の雲」で有名な秋山兄弟(秋山好古・真之)の出身地である愛媛県出身。
DF 中田浩二滋賀県出身ですから、駆け引き上手な近江商人
MF 小笠原満男選手は、アテルイ以来、中央政府に抵抗し続けたことで知られる岩手県出身。

野球にしたって、WBC日本代表見てたら、
「神の手」ムネリンこと、川崎宗則選手は、鹿児島県出身で戦国最強を謳われた薩摩隼人
日本の四番 松中信彦選手は、反骨の肥後男、通称、肥後もっこすと呼ばれる熊本県出身。
共に、昔から、兵隊が強いところで有名です。
何か、それ見てたら、「あ、本当に日本代表なんだな・・・。」と(笑)。

世が世ならば、中田ヒデと柳沢は川中島で一騎打ちしていたかもしれず、川崎と松中は国境を挟んで対峙していたかもしれないわけです。
ちなみに、あの中田ヒデみたいな顔が甲州武士に、ぞろぞろいたことを想像すると・・・、もう、それだけで、甲斐武田兵のその強さが想像出来るような気がします・・・。
あまり、暗いところでは会いたくないですね・・・(笑)。

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日米のスポーツ観の違いにみる日米親善の目的意識。

2006年06月22日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

サッカー・ワールドカップ、何だかんだ言っても、明日の朝、目が覚めたときには、日本代表がどうなっているか気になるところですね。

でも、私は敢えて、野球ネタです(笑)。
WBCで日本が世界一になったとは言え、スポーツというものの考え方においては、日本では、とかく、先日、平太郎独白録 「新庄の襟問題に見るオリジナルを逸脱する「もどき」の弊害。」の中でも申し上げた王監督新庄の襟に対するクレームのように、「野球道の修行」のような意識が見え隠れするようですね。
少なくとも、「スポーツを楽しむ」という点においては、日本の野球と、アメリカのベースボールとはまったく、似て非なる「異質」な物があるようですね。
昭和44年(1969年)、日本に一大ブームを巻き起こした太田幸司投手を擁し、まったくの無名ながら決勝戦で優勝候補の松山商業延長18回、0-0の死闘を繰り広げた三沢高校ナインですが、一方の松山商業が伝統校らしく、まさしく、「野球道」を追求し、「練習」と言うよりも「修行」と言った方がいいような下地の中に原点があったのに対し、三沢高校は、青森県三沢市という米軍の基地がある町らしく、選手たちは子供の頃から、アメリカ流の「楽しむ野球」に親しんでいたと言います。
どちらがいいとは言いませんが、この点で、ひとつ、思い当たる話があります。

以前、申し上げたような気もするのですが、日米親善小学生野球(大使館職員の子息?とにかく、それほど、本格的な物ではない試合。)があったとき、アメリカ側が驚いたのが、日本側は何と「送りバント」をしてくるのだそうですね。
さらに、アメリカ側の選手の一人がトイレに行きたいというので、行かせてやって、その間、他の子供を守備につかせておき、その子が戻ってきたので、また、守備につかせようとしたら、日本側から「ルール違反だ!」抗議が出たとか・・・。
試合後、アメリカは怒って帰っちゃったそうですが、これじゃ、全然、親善になって無いでしょ・・・みたいな。
日本の修行もいいけれど、チームプレイ、自己犠牲の精神もいいけれど・・・、あくまで、「何の為にやっているのか?」という目的は踏み外しちゃいけないですよね・・・。
結局、野球に限らず、日本のスポーツには、これが曖昧なままなんじゃないでしょうか?

ところで、交代と言えば、先日、WBC代表メンバー帰国したとき、そのニュースを見ようと思いチャンネルを回したところ(もう、今は回さないですね。はい。)、どのチャンネルでもやってなく、ならば!と思い、ケーブルテレビを付けたところ、たまたま、昭和48年(1973年)の巨人vs阪神戦をやってました。
ダイジェスト版などで、有名な1シーンだけ・・・というのは見たこと有りましたが、本当に、こんな試合中継として、リアルタイムで淡々と進んでいくのをみたのは、数えるくらいしかありませんでした。
もの凄く新鮮でしたよ・・・。

昭和48年と言えば、オイルショックの年であり、ジャイアンツ9連覇最後の年ですから、長嶋茂雄選手や王貞治選手はまだ、現役でしたし、川上監督の若いこと!
倉田という投手も結構、いい球放ってましたよ!
速かったですねー。
(そう言えば、そんなピッチャーいたなー・・・と。)
阪神、江夏豊投手のフォームも見事なくらいきれいでしたね。

で、驚いたのは、「キャッチャー吉田に代わりまして、。」とコールされた後、森昌彦捕手が出てきたのですが、なぜか、ユニフォームだけの姿で、ベンチの前でじっとしてるんですね。
「???」と思ってたら、何と、吉田が森がいる場所まで行くと、レガースなどの捕手の用具をはずし、今度は、森がそれを付けだしたんですよ!
つまり、この時代まで、野球用具はプロでも、まだ、付け回しだったんですね~!
今だったら、城島なんかは、「城島」と書いた自分用のレガースなんかを持ってますよ。
ほー!と思って、そういう時代だったんだな・・・と改めて、感慨ひとしおでした。

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私的チームワーク論・その1 手綱さばきにありと見つけたり。

2006年06月21日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

今、毎日のテレビはサッカーのワールドカップのことで盛り上がってますよね。
クロアチア戦の視聴率ももの凄い数字になったとか・・・。
友人の中には、「ブラジル戦は早起きして見る!」・・・なんて張り切ってるのもいましたが、私はそこまでして見たいとは思わないんですよね・・・。
それはなぜか・・・と言うと、今年の日本代表を見ていると、良い意味での「俺が俺が!」精神が、あまり、見られないように思うからなんですよ。
野球の投手もそうですが、サッカーのストライカーなどの「エース」と呼ばれる人たちは、ゴールの前まで行ったら、「俺に寄越せ!」といって、他の選手から奪うくらいの気持ちがあってもいいと思うんですよね。
それが、あまり、見られない・・・、つまり、「誰か決めて!」みたいな・・・。
これじゃ、少なくとも、サムライではないなと・・・。

しかし、それではチームプレーがおかしくなる・・・。
では、皆、仲良しにすることがチームワークなのか・・・。
そもそも、チームワークとは何なのか?ですが、このチームワークという点では、私はひとつ、思いだされる話があります。

私は、遙か昔の学生時代、ある「期間限定」のアルバイトをしたことがあったのですが、その最終日に、「打ち上げ」として、そのときのメンバー全員で、その会社の責任者の人に一席設けてもらったことがあります。
で、そのとき、一旦、全員がその会社に集合し、バイト料をもらって、そのまま、一緒に宴会場へ行ったのですが、どういうわけか、一部の者らが時間になっても一向に来ない・・・。
私は「時間になったんだから、もう始めていいんじゃないですか?」と言ったのですが、その責任者の方は、「いや、全員、揃うのを待つのがチームワークだ。」と仰いました。
私は、「そうですか?」と言って首をひねりましたが、それ以上は言いませんでした。
でも、内心は、「それは違うんじゃないですか。遅れてくるヤツを待つのがチームワークではなく、遅れてくる者がいなくなるのがチームワークなんじゃないですか?」と・・・。
当時の私の考え方としては、ここで一旦、遅れてきた奴らを待てば、そいつらは、「遅れて行っても、どうせ待っててくれるさ。」ということになり、次からも遅れてくるようになり、どうせ、皆、遅れてくるんだから・・・というものになる。
つまり、「遅れてくるのを待ってやることは、かえって弊害が大きい。」というものでした。

しかし、今では、一方では、この考え方をすべての局面に押しつけることには、少し懐疑的です。
なぜなら、組織の中にあっては、改革派というものは、とかく、先を急ぎすぎる物だからです。
一方でトップとしては、全体が付いてこないといけないので、手綱を引きつつの改革と言うことになるでしょうが、ペレストロイカにおけるエリツィンをみるまでもなく、手綱を引いていたはずが引き倒されてしまう例はよく見られるようです。
こういう問題はある程度の組織規模になってくれば、避けては通れぬ問題なのかもしれません。

では、遅れてくる者を待つことは弊害なのでしょうか?
それとも、早く行きすぎる者が罪なのでしょうか?

この点で、あまり、知られていない話ですが、私が企業人として敬愛する藤沢武夫氏もまた、本田技研工業レンタカー部門を新設したとき、同様のエピソードを残しておられます。
藤沢氏は、この新部門を立ち上げるに辺り、公私ともに、もっとも寵愛し、信頼する部下に、この新部門を任せたそうです。
この人物は、なかなかの才人であり、藤沢氏の期待に応え、新事業は順調な滑り出しを見せたとか・・・。
ところが、この人物は、成功に驕り、行きすぎた行動をとるようになり、藤沢氏も、再三、この腹心への行きすぎを注意しますが、この人物は、マスコミ出身者にありがちなうぬぼれもあり、一向に改めようとはしなかったそうです。
その結果、藤沢氏はどうしたのか?

この人物を責めれば、この有能な部下を失う結果になるかもしれない・・・。
逆に、このまま私情に任せ、彼の行動を黙認すれば、他の部下にも悪影響をおよぼしかねない・・・。
速く走る者に合わせるべきか、遅く来る者に合わせるべきか・・・。
藤沢氏は、苦慮した結果、この有能な部下を徹底的に干しあげたそうです。
その態度は、「干す」などという生やさしい物ではなかったとか・・・。
結果的に、この部下は、これにより自らの行きすぎを反省し、また、他の部下たちも、腹心と言えども容赦ない藤沢氏の行動に、一段と襟を正したと言います。

速く走りすぎる者は手綱を引き締め、遅く来る者は手綱を引き寄せる・・・。
この話は、私的には色々と、示唆に富んだ話のように思えます。

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フランス料理が敗因と上海協力機構が新冷戦時代の足音。

2006年06月20日 | 国際問題
親愛なるアッティクスへ

サッカー、ワールドカップということもあり、ここんとこしばらくは、スポーツネタばかりが続いております。
万遍なく、何事も、バランス良く・・・と思いながらも、なかなか、やる気になりません(笑)。


(↑こちらは、紀元前からうちにある花器に、観葉植物に使ってあった物を置き、その上に、どこぞの神社から取ってきたコケ・・・のようなものを乗せた物です。原価0円。私は、咲き誇る大輪の花より、こういう物が好きでして・・・。)

ところで、この土日は、友人の結婚式で熊本に行っておりました。
結論から言うと、体調不十分で飲み足りなかった私は、不完全燃焼・・・で、矢吹丈のような、「燃えかすも残らない真っ白」になっておりませんで、どうにも、ここ数日、サッカー日本代表と同じで、もやもやした日が続いております・・・。
ちなみに、敗因は、偏に結婚式で出たフランス料理・・・。
私は、どうにも、ああいう、高級なものは内臓脂肪が受け付けないようで、お腹がパンパンになっちゃって、その後は、食い物はおろか、酒も入らなくなってしまいました。

で、先日、中国が主導する上海協力機構のニュースをやってましたよね。
アメリカについても、名指しこそしないものの、かなり、言いたいことを言ってましたし、何より、アメリカの最大の潜在敵国、イランオブザーバー参加させ、一方のアフガニスタンカルザイ政権アメリカの傀儡ということで参加を拒否しているという・・・。
中国も遂に思い切った行動に出始めたな・・・と。
思わず、ワルシャワ条約機構とか、COMECONなどという、今となっては、「あれは、一体何だったのか?」という気さえする、前時代の遺物を思い出してしまいました。
米中新冷戦時代の足音が聞こえたような気がしましたが、アメリカという国に限らず、先進国の多くが、冷戦時代はうるさく言われないでよかった・・・という想いを持っていると思われ、であれば、今すぐでないにしても、アメリカも新たな覇権競争国の出現は、内心、喜んでいるところではないでしょうか。
考えてみれば、アメリカとソ連も、第二次大戦後の何年かは割とそうでもなかったんだと・・・。

で、あらゆる意味で、今の時点では、中国の外交はアメリカに一歩先んじていますよね。
中国はインドから奪っていた領土を返し、中印雪解け・・・
さらに、ロシアとの間で領有を巡って争っていたダマンスキー島放棄させることに成功。
その上で、日本の尖閣諸島に出てくるという、敵と味方、割とはっきりした進行方向の元で線引きを始めたように思えます。

この点で、アメリカもあまり、外交に関しては上手だとはいえないように思えます。
ドイツ日本をあまりに弱体化させたがためにソ連という大敵を招き入れ、ソ連を封じ込めようとするあまり、アルカイダイラクイランという難敵を育んでしまった・・・。
ヒトラーも、その末期に、「アメリカは、これ以上、私を追い詰めるようなことはしないだろう。」という読みを持っていたと言います。
まさしく、この点は、ナポレオンを必要以上に追い込むことで、自国内の革命勢力の台頭を許すことを避けようとしたメテルニッヒの判断とは対照的なものだと言えるでしょうか・・・。

思わず、以前、申し上げました、どこかの外交評論家が言っていた、「原則があって外交上手はイギリスくらい。原則が無くって外交上手というのはタイ。原則があって、外交下手というのが、その他大多数の国で、原則が無くって外交下手というのが、哀しいかな日本ぐらい」という主張を思い出しました。
(これについては、私は原則とは外交方針のことかと思っていたら、むしろ、外交哲学のことだと、ある人に教えていただいたことがあります。)
この点で、日本は人道支援と言うことを外交方針ではなく、もっともっと、国是として掲げるべきではないかと思いますが・・・。

そして今、アメリカに対抗する駒として、中国が出て来ようとしている・・・。
かつて、ボクシングまんがの名作、「あしたのジョー」において、「ストラディバリウスというバイオリン名器は、誰が弾いても素晴らしい音を奏でるというわけではなく、それなりの腕を持った人が弾かなければ素晴らしい音は出ないという。矢吹丈にとって、ライバル・力石徹亡き後の今までの敵は小粒すぎた。」と言うシーンがありましたが、アメリカにとって、ライバル・ソ連亡き後のイラクやイラン、セルビアなどという敵は小粒すぎた・・・ということになるのでしょうか?
それとも、イラクやアルカイダという難敵を叩きすぎたが為に、中国の台頭を許してしまった・・・ということになるのか・・・。

いずれにしても、私は、今すぐではないにしても、そう遠くないうちに中国には、漢の武帝のような軍事政権ができることは間違いないと思っています。

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嗚呼、サッカー・ワールドカップに見る勢いというものの意義。

2006年06月19日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

まあ、今日はどうしても、サッカー、ワールドカップ日本VSクロアチアの話題になってしまうんでしょうね。


(↑缶ビール片手に、ここで見てました(笑)。)

この辺については、先日、平太郎独白録 「ワールドカップ日本代表にみる勝負事にツキはツキモノ!」の中で述べさせて頂いたとおりなのですが、やはり、川口能活選手には、良くやっている割には、ツキがない・・・。
それを端的に表したシーンがあります。
それが、川口選手が、何でもないバックパスを後ろにそらして、敵コーナーキックにしてしまったシーンです。
日本側サポーターがヒヤッとさせたシーンでしたが、結果的に、コーナーキックとなり、さらに、結果的にあそこを凌ぎきったから、まあ、不問にされたようなものの、もし、あれが入ってたら、あれが決勝点で、昨日の時点で日本の敗退が決定してたわけですから、川口は生きて故国の土を踏めなかった・・・、いや、踏まないなんてことになったかも・・・ですよ(笑)。
まあ、イレギュラーしてバウンドが変わったのでしょうが、そこで、バウンドが変わること自体が、すでにツキがないんです。

一方で、これまで、三度、ワールドカップに出場して、予選リーグは一度も負け無しという強運を持つオーストラリアヒディング監督ですが、さすがに、ヒディング・マジックブラジルには効かなかったと見え、前半は互角の戦いをしながらも、終わってみれば、2-0の完敗・・・。
これで、日本は引き分け勝ち点1をとったものの、黄色信号赤の点滅信号に変わったような物で、日本はブラジルに2-0で勝ち、クロアチアがオーストラリアに勝つか、もしくは、クロアチアが引き分けて、日本がブラジルに3-0で勝てば、乾杯となるわけですが、私は日本が負けて、オーストラリアが勝つような気がしますね(笑)。

昨日のオーストラリアの負けは、むしろ、日本戦での勢いがあればこそ、あのブラジル相手にあそこまでやれた!と言う、むしろ、納得の負けでしょうし、それに対して、クロアチアは堅い守りと言えばそうでしょうが、これまで2戦戦って、まだ、1点も取ってないわけで、これでは、やはり、士気という点で盛り上がりに欠ける・・・。
つまり、勢いがない。

西郷盛が言ってます。
「戦争に行くときに兵士を率いていく司令官というのは、暗い人よりは明るい人の方がいい。戦場では、地味で暗い人よりも、明るくて派手な人の方が、兵士の気持ちも盛り上がり全軍に勢いが出る。」と。
豊臣秀吉の戦いぶりなんてのは、まさしく、それでしょう。
つまり、これこそが、孫子の言う「善く戦う者は兵を勢いに求め、人に求めず。」でしょう。

それに、勢いなんて、無形の要素ばかりではなく、実際、最後の方は日本もそうでしたが、クロアチアもバテバテでしたよね。
となれば、前半はともかく、やはり、終盤になってくると、クロアチアにとっても、日本戦で見せたオーストラリアの体力は脅威でしょう・・・。

おっと、ずぶの素人のクセして、大胆なことを言ってしまいました。
ここだけの話で御願いしますぜ、御同輩!(笑)。

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またまたハジメちゃんの告知と封のされていない封筒。

2006年06月17日 | その他
親愛なるアッティクスへ



全然関係有りませんけど、博多駅屋上から見た夕陽です。
どうぞ、遠慮無く、これを見て、心を洗って下さい(笑)。
ていうか、これにノスタルジーを感じるのは私だけ?

で、ご報告があります。

実は、先日、訳あって、義理あって、ある友人の勧めに従い、性懲りもなく、また、ひとつ、ブログを作ってしまいました。
   ↓
「ナイターとビールとちゃぶ台  昭和男の独り言」 スポーツナビ+

もっとも、こちらは、これまでの物と違い、「スポーツ」に限った話だそうで、となれば、毎回、UPするというわけにもいかないかな・・・とも思ってますが、まあ、お時間に余裕がお有りの方は、一度、覗いてみて下さい。
とりあえず、むか~し書いた分をピックアップしてますので、昔の記事をご覧になっておられない方には、ある意味、新鮮だと思いますので・・・。

で、ついに、サッカー、ワールドカップ始まりましたね。
でも、日本も負けるにしても、あの無様な負け方は、もう少し、どうにかならなかったんですかね・・・。
おかげで、ここ数日のテレビなんか、もう、「クロアチア負けた万歳!」ばかりで、「他力本願」もいいところ・・・。
結構、食傷気味でした。
まるで、クロアチアが負けたら、日本の予選リーグ突破の可能性が決定的になる・・・と言わんばかりでしたが、クロアチアと日本が二位を争っているのなら、まだしも、何だか、みんなで安心を押しつけ合って都合の悪い現実見たくない現実から目を背けようとしているように思えるのは私だけでしょうか・・・。

以前、上海コンビニ事情を取り上げたドキュメンタリー番組で、ローソンセブンイレブンなどの外資のコンビニに押されまくって、かなり、やばい状態になっている旧国営コンビニを思い出してしまいました。
皆で根拠のない自信をお互いに提示し合って、お互いに現実逃避していたのを・・・。
旧帝国陸軍その物じゃないか。」と思いましたけどね(笑)。

そう言えば、私が見たところでは、忘れっぽい人ほどメモを取らないような傾向があるように思えます。
「普通、逆だろう」と思うのですが、意外とそんなものかもしれませんね・・・。
自分の弱点自覚してないから弱点なんだ・・・という。

この点で、私には大変、印象に残る話があります。
サラリーマン時代、私は、ある上司から、「この封筒を**に届けるように。」と言われ、封筒を預かったことがあります。
封筒には、封はしてなく、私は「あるいは、何か試されてるのかな?」と思いつつ、それを受け取ると、そのまま、相手先を訪ね、中の物には一切、触れることなく、相手に手渡しました。
すると、後日、その上司から、「おまえ、ちゃんと、あの封筒の中身確認したんだろうな!」と言われ、私は慌てて、「いいえ。預かった封筒を無断中身を見るようなことはしません。」と答えたところ、「バカヤロー!封がしてあるならともかく、封もしていない以上、同じセクションにいる者としては、中を開けて内容を把握するぐらいしておくのが当たり前だ!」と強く、叱責されました。
確かに、言われてみれば、誠にもって、仰るとおり・・・。
合理的、機能的、柔軟・・・etc。
まったくもって、理にかなってますし、私も、今でも、やはり、会社とは、組織とは、そうあるべきだろうと思います。

でも、私は、その前にいた会社では、逆に、「平社員が余計な物を見なくていい!」と叱責されていたんですけどね(笑)。

ということで、とりとめもない今日でした(笑)。

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ワールドカップ日本代表にみる勝負事にツキはツキモノ!

2006年06月16日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

サッカー、ワールドカップついに始まりましたね。
で、川口能活選手が「クロアチア戦は、ミスを恐れず戦う・・・。」ってコメントをしていたそうですが、この点で、ちょっと、きつい意見になるのですが、敢えて、勝負事・・・と言う観点で言わせて頂くと、川口選手は、キーパーとして、大変大変、よくやっているのはわかるのですが、彼は、チームにとって、あまりにも、縁起が良くないですよ・・・。
彼は、三度、ワールドカップの日本代表に選ばれながら、彼がキーパーを務めた試合では、日本は、まだ、一勝もしていないんですよね。
こう言うと、「縁起が悪いなんて何だ!川口は、よくやっているじゃないか!負けたのは、彼が悪いわけではない!」と言われる向きもお有りだと思いますが、でも、勝負事に、「ツキ」ツキモノなんですよ・・・。

かつて、日本のプロ野球選手第一号でもあると同時に、西鉄ライオンズ大洋ホエールズ監督を務め、「三原マジック」と言われ、智将の名を欲しいままにした人物に三原脩という人がいます。
参照記事:平太郎独白録 「春・・・そして、球春来たれり!勝負師としての智将三原脩。」
この人は、太平洋戦争中、徴兵されて、戦地に赴いたとき、「塹壕の中で、ちょっと、物を拾おうと腰をかがめた瞬間、隣の戦友の頭が撃ち抜かれた」という経験を持っていたことから、科学的、理論的な野球を推し進めたと同時に、一面、「ツキ」というものを、とても、大事にしていたそうです。
よく、試合後、記者に、「なぜ、あの選手を使ったのですか?」と聞かれて、「あの選手には、ツキがあったからね。」などと言っていたといいます。

今年亡くなった巨人元監督、藤田元司氏は、現役時代、大学・ノンプロと優勝経験がなく、常勝巨人に入ってからも、素晴らしい成績と裏腹に、やはり、日本一には縁がなく、「悲劇のエース」と呼ばれたと言いますし、同様のことは、スポーツ以外でもよく言われることでもあります。

日産の創業者、鮎川義介だったと思うのですが、功成り名遂げた後の晩年、成功の秘訣を聞かれたとき、「私は運が良かった。」と言ったそうで、それを聞いた聞き手が、「そんなバカな。貴方ほどの人が、運だけでここまで来た訳ないじゃないですか!」と言ったところ、鮎川は、やはり、「いや、私は本当に運が良かった。」と言ったといいます。
また、実際、私も、「あの人は、大変まじめにやっておられるし、よく、やっておられる。しかし、どうにも運がないとしか言いようがない。」と言われている人を知っています。
「運が悪い」と言うのを、いい方に変えるのは、それはもう、どこかの宗教家にでも聞いてもらうしかないのですが、現実に、戦争に行っても、死なない人もいれば死ぬ人もあるわけで、「運のいい悪い」というものは、一概に否定するのは難しいもののようです。

「そうは言っても、そんな非科学的なもの、絶対に信じないぞ!」と言われるかもしれませんが、その意味では、それを端的に表す好例が、今の小泉首相と前の森前首相でしょう。
「小泉政権も、もう、だめだ!」と言われると、不思議と、拉致被害者が帰ってきたり、民主党偽メール問題自爆してくれたり・・・。
明らかに運がいいですよね。
一方、森前首相は、ゴルフ場に行って、運転手に「食事に行ってこいよ。」と言った途端、宇和島水産高校実習船米海軍原子力潜水艦衝突されて、事件後もゴルフを続けたと言って非難されたり・・・。

日本代表の川口選手には悪い気がしますが、やはり、ツキがないやつはツキがない・・・という。
川口があんまりだ!と言うのなら、他の選手も、彼がそう言われないでいいようにしてやって欲しい物です。
その意味では、逆に、オーストラリアヒディング監督は、過去、監督として、3回ワールドカップに出て、予選リーグではまだ、1敗もしてないんですよね。
こういう、ツキは恐ろしいですよ。
日本戦を見た限りでは、オーストラリアのサッカーは、かなり、荒削りだったように思いましたが、あるいは、オージーは、この大会の台風の目となるかもしれませんよ・・・。

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バルトの楽園が福岡ではザルデルン夫妻の悲話・後編。

2006年06月15日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

大正6年3月25日の深夜、博多の街・・・、いや、日本中を騒然とさせた事件が起こりました。
ザルデルン大尉夫人、イルマが何者かに惨殺されたのです。

遺体が発見されたときの描写を、井上精三氏の名著、「博多大正世相史」から抜粋させて頂くと、
「最初の発見者はコックの妻だった。犯人に抵抗し激しく格闘したらしく、室内の調度品は散乱し、脚が折れた椅子は横倒しとなり、寝室と十畳の間の境のふすまは倒れ、イルマはふすまの上に金髪を振り乱し、ネグリジェ胸部まで捲き上げられ、には電灯線が巻き付けられ、紫色絞殺の跡がはっきり残っていた。
鋭利な刀傷胸部両手にあり、かすり傷は顔面から喉にかけて多く、両股に血染の手形がつき、時計は斜めに傾いて12時25分で止まり、その惨状は目を覆うひどいものだった。
この日家庭教師は旅行中で、子供は隣室でまったく母の死を知らず、離れのコック一家も気づかなかったという。急報に接し、夫ザルデルン大尉は駆けつけて、愛妻の無惨な死に泣きくずれた。」とか・・・。

26日、大臣の娘であり、男爵夫人である人の葬儀は行われ、たった数人の会葬者のもと、その夜、大学構内の火葬場で遺体は茶毘に付されます。
ところが、事件はこれで終わりではありませんでした。

29日の朝、博多の者を、さらに驚愕させる事件が起こります。
今度は、夫のザルデルン大尉が収容所内で首つり自殺しているのが発見されたのです。
死後、義父である妻イルマの父、海軍大臣カペレ大将宛の遺書が見つかったそうで、「博多大正世相史」によると、 
「最愛なる父の一人娘たるイルマは何者とも知れぬ兇刃に免れてなんとも申し訳がない。自分と妻とは結婚当初に堅い約束を結んでいた。その約束は互いに生死を誓ったのである。我が身死すれば妻も死し、妻逝けば我が身も逝くとの約束は堅く結んでいた。我は今この約束を果たすに過ぎぬのである。この上は父上の率い給うドイツ海軍全勝せんことを望み、二人の孤児の身上をよろしく頼む。当、日本の官憲は妻の横死につき深甚の同情の意を表わし、その葬儀もすこぶる丁寧を極め、目下犯人の探索中であれば遠からず逮捕されるであろう」という内容であり、諸人の涙を誘ったと言います。

一方、福岡県警は当然ながら、犯人捜査必死で取り組みます。
これは、もう、大変な事件です。
交戦国とは言え、現役の海軍大臣が夫に会いに行った先で惨殺されたわけですから、「日本人は敵であれば、面会に来た妻をも殺す・・・。」などと誤った評価も流れかねず、このままでは、島での松江所長の善政も、日本政府の思惑さえも吹き飛ばしかねず、さらに、国際犯罪ですから、もし捜査に失敗すれば、福岡県警どころか日本警察、いや、「日本」の自治能力自体が問われかねない事態だったわけです。

まず、下宿屋・料理屋・旅館などの聞き込みが行われると同時に、特にに現場に近い新柳町遊廓が徹底的に捜査の対象となったと言います。
で、その中で、遊びに来たときに、身なりに不似合いの六角形純金小型時計を持っていた者がいたことがわかり、警察は有力な容疑者の一人と断定。
さらに、鋭利な刃物が使われていたことから、事件前に、短刀研ぎに出した人物が居たこともわかったものの、この人物は、すでに宿を出た後であり、その後の足取りはつかめなかったそうです。
ところが、自分が指名手配されていると知らない犯人は、その新柳町の娼妓に手紙を出したことで、その後の調べで、男が、小倉(現北九州市)でパン職人として住み込みで働いている田中という人物あるということがわかり、事件から二週間後の4月7日、奇しくも、事件時とほぼ同時刻の深夜12時過ぎ、犯人は活動写真を見に行って帰って来たところをその場で逮捕され、無論、後日、死刑となったといいます。

ザルデルン夫妻の無念さは、何とも痛ましい限りですが、一民間人とは言え、外国の高官一人娘が来日しているわけですから、福岡県警、それから、福岡県も含めて、もう少し、事前に何とか対応できなかったんですかね・・・。
うら寂しい場所にいる・・・ってことは知ってたんでしょうから。
対応がよかったから、まだしも、太平洋戦争中みたいな捕虜に対する過酷な状態の元であれば、下手すれば、憤激したドイツ人捕虜の暴動が起きたかも知れず、最悪の事態になった可能性もあるかと・・・。

ちなみに、終戦後、ザルデルン夫妻の願い虚しく、ドイツ帝国は崩壊
その折、島収容所で自由を宣告された捕虜たちが、これまでの、松江所長や所員、そして地域住民の対応に感謝を込めて、ベートーベン作曲『交響曲第九番 歓喜の歌』・・・、通称、第九を披露し、これが日本で最初の第九だと言われていますが、実は、この点も、これより前、歌無しの「演奏だけ」の公演ではあったものの、福岡の九州大学が日本で最初に第九を演奏していたそうです。
これも、何かの因縁なのでしょうかね・・・。

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バルトの楽園が福岡ではザルデルン夫妻の悲話・前編

2006年06月14日 | 地域
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松平健主演の映画、 バルトの楽園という映画が近日公開されるそうですね。

この映画は、改めて言うまでもなく、大正3年(1914年)、第一次世界大戦において日本軍の攻撃の前に中国戦線捕虜となったドイツ兵たちと島収容所所長、松江豊寿との触れあいを描いたモノだそうですが、松江豊寿は戊辰戦争において賊軍として、青森への改易を命じられた経験を持つ会津の出身ゆえ、捕虜たちの気持ちがわかった・・・と、この映画では言われているようですが、実際には、この松江所長ほどではなかったにしろ、日本各地に収容されたドイツ兵4,700名は、どこの収容所でも、そこそこに人権尊重され、それなりに寛容待遇を受けたようです。
これは、何も、当時の日本人が皆、いいやつばかりだったわけではなく、日露戦争勝利していたとは言え、まだまだ、日本に対する欧米の偏見は強かったことから、「極東の未開な国」と見なされられることを畏れた、「日本政府全体の方針」でもあったと聞いております。

で、当時、実はドイツ人捕虜の収容地に福岡も指定されたのですが、島の「バルトの楽園」と違い、福岡ではとんでもない事件が起こっております。
それが、「ザルデルン夫妻事件」です。
意外に・・・というか、まったくと言っていいほどに、知られていない事件なのですが、ある意味、この事件の処理次第では、日本政府の思惑など、吹っ飛ばしかねないような事件でした。

まず、福岡では、ドイツ兵捕虜の収容が決まると、約1,050名の受け容れをメドとして、まず、収容場所確保することから始まりました。
収容所には、日本赤十字社福岡支部、福岡県物産陳列場、旧柳町遊郭跡地が指定され、収容所長は24連帯歩兵中佐、久山又三が拝命。
中でも、赤十字社は、皇族宿泊にも使われるような贅を尽くした建物であった為、ここには、ワルデック総督高官たちを収容することに決定します。

一方で、江戸時代初期から栄えた遊郭博多柳町遊廓がありましたが、ここは、すでに「大学の授業に差し障りがある」との理由で、知事命令により、強制移転させられており、その跡地にはまだ15軒女郎屋空き屋が残っていたとか。
女郎屋だから小部屋も多かったため、四畳半または六畳の部屋に2人ないし3人を入れることとし、ほかにも、浴室、便所、洗濯場、さらには運動場も必要とのことで、これらの新設のために、付近の18棟居住者強制移転させられたと言いますから、如何に彼らが歓待とまではいかなくても厚遇されていたかがわかると思います。

そして、大正3年11月15日、ドイツ人捕虜の第一陣、567名は、国鉄博多駅に到着します。
2日後、第二陣272名が到着。
捕虜と言っても、その堂々たる体躯持ち物豊富さ、衣類立派さなどに、当時の福岡市民は目を見張ったと言います。
日本は、戦勝国とは言え、まだまだ、貧しかったんですね・・・。

で、それら、収容されていた中の一人にザルデルン大尉(当時36歳)という人物がいたそうですが、彼は大尉とは言え、男爵であり、その妻イルマ (当時30歳)のは現役の海軍大臣の娘だったそうで、そのイルマは大正4年、夫のあとを追って上海から福岡に来て、家賃35円住吉の蓑島土手(現福岡市博多区美野島)に借家住まいを始め、週に一度の夫との逢瀬を楽しみにしていたとか・・・。
住居は借家と言っても、前福岡県知事 深野一三別邸だったと言いますから、そこそこの家だったのでしょう。
(この深野という人物、ちゃんと官舎があるのに、こんな淋しい所にわざわざ別邸を持つということが、何を表しているかは言わずもがな・・・ですね(笑)。この人は、愛知県知事になってからも遊廓移転失敗して失脚しているそうで、この家も色々と曰く因縁があったようです。)

イルマは6歳次男と女の家庭教師3人で住み、邸内の離れにはコック一家が住んでいたと言います。
ただ、ここは、絃歌ざわめく新柳町遊廓対岸でもあり、まあ、遊郭の移転地になるくらいですから、その当時は、あまり人通りもないうら寂しい所だったと言います。

そして、そんな、大正6年3月25日の深夜、事件は起こります。

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