平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

痴漢えん罪にみる「やり方」を変えたがらない役所の体質

2007年11月30日 | 社会全般
親愛なるアッティクスへ

以前、平太郎独白録 : 映画、それでもボクはやってないに想うそれを生業にする女性以来、電車内での痴漢えん罪事件について書いおりましたが、先般、知人より、この件で以下のような記事をメールでもらいました。

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2007年11月16日付 毎日新聞中部夕刊
  
痴漢:男性無罪確定 愛知県警、物証収集怠る 警察庁通達に反し
 ◇担当部署に要請もせず


 満員電車で痴漢をしたとして愛知県迷惑防止条例違反の罪に問われた同県職員の男性(43)に対する名古屋簡裁の無罪判決が確定した問題で、男性を逮捕した県警鉄道警察隊警察庁の通達に反し、容疑者に付着する被害者の衣服の繊維片など物証の収集を怠っていたことが16日までに分かった。
 痴漢の無罪判決が全国で相次いだため、通達は客観的証拠に基づく捜査を促した。県警幹部は「通達を徹底したい」と話している。

 電車内での痴漢は、周囲の乗客や被害者が取り押さえて警察官に引き渡すケースが多く、明確な目撃証言や物証がないことが多い。
 このため警察庁は05年11月、全国各警察本部に▽目撃者の早期確保▽容疑者に付着した被害者の衣服の繊維片などの鑑定▽証言や供述を基にした実況見分--などを文書で要請。
 警視庁や大阪府警などは既に繊維鑑定による証拠固めを行っており、愛知県警も実施できる体制にある。しかし、鉄道警察隊は通達後の06年1月、電車内で下腹部を女性の右太ももに押し付け、手の甲で胸を触ったとして男性を現行犯逮捕した後、繊維片などの採取をせず、県警の担当部署に鑑定要請もしていなかった。

 男性は当初容疑を認め同年8月に名古屋簡裁に在宅起訴されたが、公判で否認に転じた。男性の弁護士は「被害者の衣服と類似の繊維が見つかれば有力な物証になるし、逆に見つからなければ冤罪(えんざい)の防止にもつながった。警察官が現認し男性も認めた事件で、男性が犯人でない物証が出たら困るため鑑定を怠ったのではないか」と指摘する。
 異例の16回に及ぶ公判では、男性と女性の股下に14センチの差があって下腹部を押しつけようがなかったことが判明するなど捜査のほころびも明るみに出た。県警幹部は「繊維片の採取は手間のかかることではない。改めて実施を呼びかける必要がある」と話している。

 県警によると、列車や駅構内での痴漢被害の受理件数は▽04年81件▽05年135件▽06年159件
 今年は10月末現在で134件増加傾向にある。【石原聖、岡崎大輔、米川直己】
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この問題は映画の公開と共に、犯罪を誘発する恐れがある・・・ことから、法整備を含めた対策の必要性を指摘していたのですが、今や案の定、社会問題にさえなっているようですね。
でもって、やはり、このような通達が出ていたんですね。
先日の平太郎独白録 : 野村高将氏の身に起きた大難に憤慨ひとかたならず 前編では、警察が何の手だてもとってなかったのにむしろ、驚いていたんですよ。
ちなみに、この通達の内容とは、
①目撃者の早期確保
②容疑者に付着した被害者の衣服の繊維片などの鑑定
③証言や供述を基にした実況見分
・・・となっているようですが、この野村高将氏の場合でも、警察は、②③以前に、①の目撃者という点で、「逮捕協力者」(黒幕?)とされる茶髪の若者に対して、公平という観点から、もっときちんと状況を聞いておけば、こういうことにはならなかったのではないかと思えてなりません。
結局、自動的に、ベルトコンベヤーに乗せられて送られてきた「容疑者」というものに、一律、同じような加工方法を施していたということであり、つまるところ警察に限らず、役所とは、長年やってきた自分たちの「やり方」を変えたがらないものなんでしょうね・・・。

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ALWAYS的等身大の昭和!その2 「地下鉄に乗って 」

2007年11月29日 | 文学芸術
親愛なるアッティクスへ

で、先日からの続きと言えば続きなのですが、その、福岡タワーにあった昭和32年だったかの、中州付近の等身大の大伸ばし写真を見て思い出したのですが、先日、「地下鉄(メトロ)に乗って 」という映画を見ました。
友人から、アナタは絶対、こういうのが好きだよ・・・と、強く推薦されましたので、ならば・・・と見てみましたが、何だか、細かい突っ込むところが多すぎて・・・という作品でしたね(笑)。
あるいは、原作を読んでから、映画を見れば良かったのかな・・・と。

あらましを述べると、横暴「あの時代の親父」そのままの父に反発し、家を捨てた堤 真一扮する主人公がある日、地下鉄のホームで、早世したはずの兄を見つけ、追いかけていくと、いつの間にか東京オリンピックで涌く、昭和39年の東京にタイムスリップしていた・・・というものでしたが、まず、私としては、タイムスリップして、横暴な父の苦悩と、激動の時代をひたむきに生きた「実際の姿」を知り、嫌っていた父を理解していく・・・というのは、まあいいとしても、ご丁寧にも、戦後から戦時中、戦前と、父の変遷をここまでなぞってタイムスリップしていく必要はあったのかな・・・と。
何てバカ親切な神様なんだ・・・という気が(笑)。

つまり、昭和39年の範囲内だけで理解させれば良かったし、それは可能だったのではないかと・・・。
それから、岡本 綾ちゃん扮する不倫相手の設定も、もう少しどうにか出来たんじゃないの・・・と。
最後の方で、なぜ、ああいうことをしてしまったのかということの必然性がイマイチわかりませんでしたしね。

それから、最近、この手の映画に多用されるCGですが、これに関しては、良くできているのでしょうが、なぜか、私的にはピンと来る物がないんですよ。
で、ひとつには視点の高さが違うんだろうな・・・と思い至ったわけです。
(当時は、大人の人は、本当に、電信柱のように高く感じましたし、鴨居の上にある神棚はちらっとしか見えず、本当に、あの奥はどこに繋がっているんだろう・・・と神秘的にさえ感じましたから、その分、行動範囲が狭かった代わりに、かなり、コアに物事を見ていた私にとっては、むしろ、向かいの家の戸袋の下にいるダンゴムシ・・・なんて方がピンと来たのかもしれません。)

おそらく、リアルタイムで当時を知っている人が作っているわけではないでしょうから、どうしても、写真現存している物をもとに作らざるを得ず、そう考えれば、その写真などはすべて大人の目線で撮られた物だろうと。
(当時は、写真なんてのは高級品でしたから。そういえば、私が子供の頃に、父が近所の友人と一緒に写真を撮って、焼き増し(死語?)してあげたら、友人の親から、もの凄く恐縮されたのを覚えています。)
だからこそ、ALWAYSにしても、当時、すでに大人の目線だった私の母などが見れば感動するのかもしれませんが・・・。

P.S 常磐貴子ちゃんのアバズレ(?)役(これも死語?(笑)。)というのは、よく、はまってましたね。
思わず、惚れちゃいそうでした(笑)。

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ALWAYS的等身大の昭和!その1 中洲大古写真

2007年11月28日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

先日、久しぶりに家族連れで福岡タワーに行ってきました。
別に、ここ自体、今更、改めてどうこう言うことはないのですが、ここの一階にあるお土産屋さん・・・みたいなところに行ったところ、昭和32年頃の博多の中洲付近の風景写真(←)が大延ばしして貼ってありました。



で、私も、もちろん、この手の写真は見たことがありましたが、結構、感動したのは、それが等身大に引き延ばして壁に貼ってあったことで、やはり、自分の目線と同じ高さで、等身大の大きさの物を見ると、何ともいえない立体感というか、現実感がありましたねぇ・・・。
でもって、昭和32年と言えば、先日、死去された稲尾和久氏や三原脩、中西太、豊田泰光、大下弘といった西鉄ライオンズ野武士たちが闊歩した時代の博多の風景なのだな・・・と。
私の父や祖父も、そこに写っている人たちと同じ空気を吸っていたのだな・・・と。
(あるいは、この日も、このフレームのほんの横を歩いていたのかも・・・。)

もちろん、私が生まれる前・・・どころか、私の両親が若い頃の風景なわけで、当然、私は見たことがない風景であり、昭和32年の博多・・・というよりは、むしろ、100年くらい前のサンフランシスコの写真のようにも思える写真ですが(笑)、こういう形で目の前に見せつけられると、その中に入ってしまったようで、結構、新鮮でしたね。
思えば、うちの近所も、一歩、大通りに出れば、似たり寄ったりの、錆びた鉄骨があちこちに張り出した風景があったように思います。



(←現在の同地付近。)

で、今度、「ALWAYS 三丁目の夕陽」の続編が始まったとか。
ああいう物のCGについては、平太郎独白録 : 古き良き「ザ・ヒットパレード」に想う、寂しい暗さに蔭が匂う。でも申しましたとおり、良くできているなぁ・・・とは思うのですが、どうにも、私にはなぜか、リアル感がありません。
昭和三十年代・・・と言っても、わずか、三年しか知らない私にとっては、おそらく、あまりにも情報量が多すぎるのかな・・・とも思っていたのですが、これについては、ひとつ、思い当たることがありました。
視点が違うんだ」と。
つまり、当時、私はまだ、子供でしたから、大人に比べ、目の高さ・・・つまり、視点の位置が低いんですよ。

このことは、また、明日。

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「雪国」にこれが同じ日本なのか?!と目を見張った週末

2007年11月27日 | 文学芸術
親愛なるアッティクスへ

以前、長崎の高校生が、核廃絶だったかの、一万人署名活動をやっているニュースを見たが、「こういうことをやっている子供たちにはいじめはないんじゃないか」・・・となぜか、そう思ったことがある。


(←グラバー邸から長崎港内を見た風景。)

ところで、「いじめ」の原型という点では、先日の連休で、昨日に引き続き、同じく撮りだめしていた映画「雪国」を見たので、それについて触れてみたい。
この作品は、言うまでもなく、ノーベル賞作家・川端康成の名作を映画化したものだが、大家が描く男女の心の機微よりも、むしろ、私には昭和初期の習俗を余すことなく映し出していたことの方が印象深かった。
それほどに、「これが同じ日本なのか?!」とさえ思わせられるほどに衝撃的で、かつ、新鮮でもあったのである。

見上げるほどに降り積もった雪。
その雪の中に、多くの人たちが暮らし、多くの子供たちが、見たこともない祭りに興じている。
その一方で、男がふらりと田舎町の宿屋に宿泊すれば、熱燗を頼むような感覚で、いきなり、「芸者を呼んでくれ」と言って普通に女を抱けるという現実・・・。
自分の想いとは別に、生きていくためにはを切り離さねばならないヒロインの現実・・・。
作品自体は、後半、少々、間延びしたような観がなきにしもあらずだったが、それらの悲哀を余すことなく描きったという点では十分に堪能できた作品であったように思う。

配役陣という点では、何と言っても大女優・岸 恵子の、「可愛い」駒子役が圧巻であったろう。
役柄、酔っぱらう姿が多かったが、本当に酔っぱらっているようにしか見えなかったし、自分の感情と、どうにもならない現実との間で身を焦がす姿も、今日でも、少々、「ぶりっこ」(死語?(笑)。)的なところがある人だけに、よくはまっていたように見えた。
相手役の東京人・島村役は池部 良でも佐田啓二でも大差なかったかもしれないが、駒子役だけは岸 恵子のそれが、圧巻であったように思える所以である。

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際だつ個性が奏でる不協和音のハーモニー・・・、ロボコン

2007年11月26日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

先日の連休、家で撮りだめしていた映画を見ました。
ひとつが、長澤まさみちゃんの出世作(でしょうか?)、「 ロボコン」・・・。
改めて説明の必要は無いだろうとは思いますが、ロボコンを知らないご年配の方のために説明申し上げると、(知らなかったりして・・・、御同輩殿(笑)。)ロボコンとは、言うまでもなく、ロボット・コンテストの略で、「全国に62校ある高専(高等専門学校)の学生たちが、テーマに沿って一定条件を満たすロボットを開発し、フィールド内でバトルをくり広げるトーナメント方式の大会のことで、別名、理数系の甲子園と呼ばれる」・・・ですね。

で、この映画・・・以下、感想文風にまとめてみました。

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ストーリーとしては、ありがちな物なのかもしれない・・・。
しかし、それ以上に、この作品を際だたせている物こそ、ユニークな個性の登場人物たちなのであろう。
その意味では、この作品は人物のデテール勝利だと言えるのかもしれない。

快活奔放だが飽きっぽくて続かない感じの女の子と、好きこそものの上手なれで、誰よりも、ロボットに対する情熱を持っていながら優柔不断指導力ゼロの部長に、いかにもロボットだけを相手にしてきた感じの「人の心の機微がわからない天才肌の技術者」と、これまたそれとは対照的な、少しルーズな面があるものの突発事態には強いたたき上げの職人肌の若者・・・。

これほど、お互いに違うタイプでありながら、かつ、無い物を持ち合わせた組み合わせも珍しいだろう。
だがそれは、当然、激烈な副作用も伴う。
全員に共通するのは、不器用で未熟・・・ということであり、従って、一旦、うまく回転し始めると、お互いがお互いの欠点を埋めあい、長所を存分に発揮する理想的なコンビネーションとなるのだろうが、うまく行かないときはどうにも救いようがない観さえある。
だが、それを、上手に、そして個性を殺すことなく指導していく名伯楽の先生の指導の元、若者たちは、ぶつかりながら、時には、お互いを導きながら・・・、着実に、目的に向かって進み出す。
今日という日が終わらなければいいのに・・・と言いながら。

「不協和音の奏でるハーモニー」・・・、これこそが、若者が若者であることの証なのかもしれない。

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すーさんと船場吉兆の社長は藤原銀次郎翁に学ぶべし

2007年11月22日 | 経済・マネジメント
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昨今、とかく、世間を騒がせている船場吉兆ですが、あれは、ちと、酷いですね。
酷いというのは、やったことではなく(あんなの今さら驚きませんよ。)、社長が責任逃れをしようとしていることです。
仮に、現場が勝手にやったという彼らの主張が正しいとしても、社長には現場で行われていることを知らなかったという責任があると思います。
とかくTOPへは、耳当たりのいい情報しか上がってこなくなることが多く、だとすれば、彼ら経営陣は、知らなかったというのならば、それに、何らかの対策を立てていなければならなかったといえるでしょう。

この点では、であり、それは、一代の製紙王・藤原銀次郎翁の話が思い出されます。
翁がまだ王子製紙の専務だったころ、苫小牧工場再建を託されたことがあったとかで、このとき、翁がまず手はじめに行なったことが、工場の抜き打ち調査でした。
以下、老財界記者・故三鬼陽之助翁の著書によると、
『あらかじめ日時を工場長に連絡して、それより二、三日まえに、極秘裏に東京を出発、現地に現われる。そして、一見土方風に顔をきたなくし、つけひげをつけ、ハンチングを深くかぶり、くまなく工場内を巡視する。すると、工場内は乱雑で、ときには禁煙の札のかかっている付近で平然とタバコを吸っている。藤原は、そしらぬ風をして、その場所、時間をメモする。ところが、二、三日後、専務として工場に行くと、見ちがえるように工場内は整頓され、タバコを吸っている不届者は一人もいない。工場長も、「製紙工場として、なにより火災に注意、したがって当工場では、禁煙個所では一人たりとも喫煙する者はいない」と胸を張る。そこで藤原はおもむろにメモを取り出し、工場長に厳重戒告したのである。その結果、苫小牧工場は藤原の不在中でも秩序が維持され、おおいに生産が上がったのである』と。
船場吉兆に限らず、雪印、不二家、赤福・・・、何をか言わんや・・・でしょう。
で、これを聞いて、思い出したことがあります。

以前、業界の旅行でどこやらへ行ったときのこと。
朝昼夜朝昼と飲みっぱなしの旅行ですから、「お疲れでしょう」からと貸し切りバスの中でのお休みタイムに、起きている人のため・・・ということで、映画・「釣りバカ日誌」のビデオが上映されたことがありました。
元々、私は、この映画は原作マンガでは、連載開始当初より、よく読んでおりましたが、映画はあまり、興味がありませんでしたので、見るとも為しに見ていたのですが、その中で、非常に印象に残っているシーンがありました。

物語の中で、三国廉太郎扮する大会社の社長である「すーさん」が勘違いから失踪する・・・というユーモラスな場面だったのですが、失踪後、すーさんはアルバイトである会社に就職したところ、入社初日から、連れて行かれたところが自分の会社の清掃業務・・・。
大企業の社長だから、一々、出入り業者の名前まで知らないし、末端の社員の方も自分の所の社長の顔を知らない・・・。
(実際、かつてのダイエー中内 功氏は、「俺は、この子たちとは顔も合わせないままで終わるだろう。だから、せめて、こうやって、写真だけででも会っておきたいと思ってね」と言って自分の会社の女子社員の顔写真を見ていたとか。)
でもってそこで、すーさんが目にしたものは、上役には媚びへつらい、その分、下請けに威張りちらし、マージンという名の「袖の下」を要求しようとする社員の姿・・・。
何だか、私には笑えないシーンでしたね。

世の大社長と名が付くお方ほど、実際、こういう目にあってみるべきだと。
「パートが勝手にやったこと」なんていうくらいなら、なおさらだ・・・と。
如何でしょうかな、御同輩・・・。

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ホンダの広告塔としての「本田宗一郎」の功罪是非

2007年11月21日 | 経済・マネジメント
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先日、ホンダの営業の方と、一献やる機会がありましたので、「本田宗一郎に会ったことあるの?」と聞いたところ、「いえいえ、まったくありませんよ」との答え。
なるほど、言われてみれば、本田さんが引退してからすでに、30年以上が経っているわけで、ホンダの社員といえども、会ったことがあるのは、まあ、私より上の世代の人たちでしょうから、まだ、三十代のこの人が会っているわけがないよな・・・と思い至りました。
(以前、平成元年頃に、別のホンダの方と話したときに、「本田さんが引退して、全国のホンダ販売店を廻ったときに、うちにも来られましたよ」という話を聞いていたものでこの人にも聞いてみたのですが、思えば、それも、20年前ですからね(笑)。ちなみに、このとき、この販売店では、全員整列・・・と言われて並んでいると、一人、若い社員がトイレに行っていたようで、慌てて、駆け込んできて、本田さんの脇をすり抜け、列に並ぼうとしたところ、本田さんはその若い社員の頭を軽く一発、ペシっと叩いてこらっと言って大笑いしたとか。いかにも、本田さんらしいエピソードですが、この、叩かれた人は、今や、「あの本田宗一郎に頭をはたかれたやつ」なわけですから、ある意味、人間国宝みたいなものですね(笑)。)

で、まあ、会ったことはなくても・・・と思い直して、企業人として私が敬愛する、本田宗一郎の盟友にして、共同創業者であった元本田技研工業副社長・藤沢武夫氏についても、この営業の人に聞いてみました。
すると、「藤沢?それ、誰ですか?」という答え・・・。
説明しても、やはり、「まったく知りません」と。
どういえば、藤沢さんが亡くなったとき、ホンダの広報が「藤沢武夫が亡くなりました」とマスコミ各社に連絡したところ、どこのマスコミも、皆、「藤沢?誰?」という反応だったといいますが、一方の本田宗一郎氏が今では伝記にすらなっていることを考えれば、私としては、藤沢さん自身がそういう生き方を選んだという意味で、少々、感慨深い物がありました。
(つまり、当時、本田・藤沢コンビは、ソニーにおける井深 大・盛田昭夫のコンビと並び称されたそうですが、藤沢武夫は社長にならず盛田昭夫は社長になった・・・と、そういうことですね。)

そういえば、一年ほど前、やはり、別のホンダのディーラーに行ったところ、その営業マンが、「うちのエンジンは本田宗一郎以来の・・・」「うちの基本設計には本田宗一郎の・・・」と、本田宗一郎の名前をやたら連呼するのを聞いて、少し、違和感を覚えたことがあります。
で、知らないふりして、「え?本田って、まだ、生きてるの?」と言ったところ、「いえ、死んでますけどね・・・」と言う。
「だったら死んだやつのこと言っても関係ないだろう」
「いえ、理念は生きてますから」と。
「その理念が生きているかどうかなんて、どうやって確認するんだ?本人が確認するのか?」と言うと、口をもぐもぐさせながら、「まあ、そうですけどね」と・・。

少し意地悪な気がしましたが、セールストーク代わりに本田宗一郎という人の名前を使う・・・というのは、私には何か違う・・・という気がした次第でした。
(その一方で、得てして、こういう人は藤沢武夫の名前は知らない・・・というケースが多いような・・・。語るのなら、そこまで語れよ・・・みたいな(笑)。)
この点は、本田・藤沢のコンビが揃って引退するという鮮やかな出処進退もあったことで、経済誌などで大きく採り上げられたこともあり、さらには、本田宗一郎という人が、まるで、アイドルのような扱いをされたことで、ある程度、ホンダの広告塔にもなっているんだろうな・・・という気はしていましたが・・・。
無論、たまたま、私が当たった営業の人が個人的に本田宗一郎を尊敬していただけなのだろうとは思いますが、一般論として、その会社の社員が創業者を崇拝するのは悪いことではないとしても、聞かれたら答える程度で止めておくべきで、最大のセールスポイントにしてしまうのは如何なものか・・・という気がしたまでです。

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続・球史に残る大投手、稲尾和久氏の急逝に弔意を表す

2007年11月20日 | スポーツ
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先日の続きです。

元西鉄ライオンズの大エース・稲尾和久さんが亡くなった日、その夜の福岡地方の夕刊は、さすがに、凄かったですね。
1面トップ2/3を占め、さらに、6面7面「稲尾死す」で占めましたから・・・。
おそらく、福岡市長が死んでもこれほどの扱いはないんじゃないですか・・・。
やはり、福岡においての稲尾和久という人の存在が如何に大きかったがおわかりいただけると想います。

ちなみに、稲尾さんが亡くなった翌日の昼、二日酔いで息も絶え絶えの私の元へ一本の電話が・・・。
見ると、東京人の友人からで、「今から行くから」と・・・。
突然言うなぁ・・・みたいな(笑)。
で、その晩、その友人ともつ鍋を食いながら、稲尾さんの話になり、大いに盛り上がり、ついには最後は泣きました(笑)。

つまり、プロ野球は、本来、観客にもっと、感動を与えなければならない・・・と思うと。
稲尾さんは、一人で、大巨人軍を向こうに回して、マウンドに立ち続けた・・・。
当時の巨人というのは、まさしく、「大日本国」そのものだったと。
大日本国に対して、おらがチームが戦いを挑み、そして稲尾は期待を一身に背負って投げ続けた・・・と。
ファンは、そのボロボロになっても、来る日も来る日も投げ続ける姿に胸を熱くした・・・と。
だから、貧しい中からでも工面して、皆、平和台球場に足を運んだわけで・・・。
それに対し、今の野球選手を見ていると、皆、サラリーマンにしか見えない・・・と。
FAだなんだって、自分たちの権利ばかりを主張し、自分たちが顧客に何を売っているのか・・・という根本を忘れているように思えてならない・・・と。
オリックスの7番打者が三割打ったからって、俺たちの生活には何の関係もないんだ・・・と。
そいつが来年から1億もらうと言っても、そいつは、果たして、給料に見合う仕事をしたと言えるのか・・・と。
投手の足下を抜けた打球がそこから急上昇してそのままホームランになったという中西 太の打球や、二塁手の前の打球まで捕りに行ったという長嶋茂雄の躍動感・・・などは、今、もし、現役で活躍しているのなら、是非、金を払ってでも見てみたい・・・と思うが、現在の選手では、これを見てみたい・・・と思うのは、イチローレーザービームくらいかなと・・・etc。

日本のプロ野球は肝心のことを忘れてしまっているようです。
「400回投げてシーズン42勝したと言ったら、メジャーリーグからはクレイジーだと言われたが、別に俺は嫌々投げされられていたわけではないんだよ」と言った稲尾さんの急逝こそが惜しまれてならない所以です。

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守屋前次官の醜態と防衛省の体質に瀬川翁の故事を想う

2007年11月19日 | 経済・マネジメント
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先般、いつもご贔屓に預かっております墓の中からコンニチワ さんのブログ「 類は友を呼ぶにおいて、少々、興味深い記事を拝見しました。

曰く、『チンピラの分際で下請工場を管理するポストに着けられたとき、時の上司に先ず言われたことは「ポチ袋(小さな熨斗袋)をいつも持ち歩け。そして接待を受けたらその場の総額の5パーセントから10パーセントぐらいの切りのいい金額のカネを入れ、担当の仲居かホステスにそっと渡せ。口止め料というか、ま、保険だな。その金はオレがナントカしてやる」
後年、ゴルフの接待も受けるようになってからはキャディに渡すことにしていた。
守屋クンはそういう指導を受けていなかったのかな。
もっとも、同じ相手からゴルフだけで300回も接待を受けていたら面倒くさくてやってられないか。』・・・というものでした。

守屋クンとは、言うまでもなく、今何かと話題の守屋武昌前防衛事務次官のことですが、私は、無論、このような立場に立った経験があまりありませんので、この記事自体には論評するだけの見識がありません。
が、この記事を読んだとき、ある、別の話を思い出していました。

かつて、野村證券社長・会長・相談役を歴任し、「天皇」と呼ばれた瀬川美能留翁は、若き駆け出し時代、行きつけの料亭の女将から、「あなたは重役にはなれないでしょうが、部長にはなれるでしょう」と言われたことがあったとか。
部長と言っても、当時、野村証券はオーナー企業であったから、重役以上は野村一族で占められており、一族以外で行けるのは部長まで・・・とされていたといいますから、即ち、「部長になれる」というのは、当時の野村の社員にとっては最高位を表していたわけですね。
このとき、瀬川翁が女将に部長になれると言わしめた理由・・・。
それこそが、翁が、駆け出し時代のある日、行きつけの料亭の女将ボーナスを丸ごと渡したことにあったそうです。

後年、瀬川翁は、このことについて、「私は入社当時の上司から入社四、五年は宴席に出てはならないと言われ、出るようになってからは、かならずボーナスを女将に前渡しした。というのは、商売がら、酒席で即決をせまられるようなことが多く、他人持ちの酒席ではどうしても私情に負けそうになることから、私はそうならない為に、自前で酒を飲んだ。おかげで、公私の区別がはっきりし、決断に大きな狂いを生ずることなく社長になれた。いまでも、私は、この教訓を守っているつもりである」と述懐したと言います。
たしか、この話は、老財界記者で故人の三鬼陽之助翁の著書にあったと主のですが、そのとき、三鬼翁は、これを評して、「遊侠には、純然たる社用で客と遊興する場合と、それを越して私情にかられて遊興する場合がある。確かに酒席での話のほうが取引きをスムーズに進めたり、マル秘情報をつかむチャンスはあるという利点はあるが、それ以上に宴席での取引き、判断などは、ともすれば公私混同におちいり、結果からみて失敗、後悔する前例が多い。これが、公私を混同した結果、あたら有為の前途を棒にふったサラリーマンの例を、いやというほど目にしていた女将が、瀬川に部長の折り紙をつけた理由である」と述べておられました。

もっとも、その後、終戦により、財閥解体で野村一族が退陣したことにより、ついには、瀬川翁が戦後二代目の社長となったことから、結果的に、女将の予想は外れたわけですが、守屋前次官については、残念ながら、「あたら有為の前途を棒にふったサラリーマンの例」のひとつとなってしまったようです。
その意味でも、この問題は、スタートの段階で、「宴席に出ることを戒めてくれなかった」防衛庁の庁風と、それを助長してしまったキャリア官僚というものの体質にこそ問題があるのかもしれません。
あるいは、防衛省というものの体質は、未だに、放っておくと、帝国陸軍になってしまものなのでしょうか・・・。

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「男子三日見ざれば刮目せよ!」現代版、成長の条件。

2007年11月17日 | 思想・哲学
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先日、久々に、ある先輩と会食したのですが、その方は、何でも、最近ではボランティアで外務省の留学希望者審査・選考などもやっておられるとのことでした。
で、先日も、その面接があったそうで、その折、前もって用意された質問項目の中に、「最近、あなたが一番ショックだったことは何ですか?」というものがあったそうです。
すると、ある若い女性が、「あのー、こんなこと言ってもいいのでしょうか・・・」と少し戸惑った様子で前置きした後、「長いこと、付き合ってきた彼と別れたことです」と言ったとか。
その先輩は、それを聞いて、「『こんなんじゃダメだ!』と思った」とのことでしたが、私は「そうでもないですよ」と翻意をお願いしました。

かつて野村証券元会長であった奥村綱雄という人は、若い人を見つけては、「人間は、若いうちに、失恋とか落第とか、ときには投獄といった、どん底の経験を味わわないと、一人前にはならないぞ!」と言っていたといいます。
また、この人は、戦後、45歳の若さで大・野村證券の社長に就任した人なのですが、このとき、就任挨拶として、電力の鬼と呼ばれた老財界人、松永安左衛門の元を颯爽と訪ねたところ、逆に、「きみぃ、いやしくも経営者たるもの、投獄・倒産・大病3つのうち、2つを経験して一人前だという。僕はこのうち、投獄倒産を経験した。君はいくつ経験したのかね?」と言われ、悄然として帰ったという話を聞いたことがあります。

失恋、落第、大病、投獄、倒産・・・、どれも好きこのんで経験したいものではありませんが、これらの体験は、いやがうえにも人間を成長させるものではないでしょうか。
まさに、「女子、三月見らざれば嘆息するも、男子、三日見ざれば刮目せよ!」とはこういうことを言うのでしょう。
今の世の中、男女平等ですから(笑)、男子女子というとらえ方ではなく、要は体験の内容という風に捉えて頂ければいいかと・・・(嘆!)。
もっとも、失恋、落第というもののステータス(?)は現代では随分下がったようにも思えます。
この点で、この定義を現代風に当てはめるなら、「失恋」ではなく「離婚」でしょう・・・。その意味では、落第はむしろ「リストラ」かと・・・。
それでも、この女性のように、こういった面接の場で、それを口に出来るということは、周りの見解は別にして、本人的にはもの凄いショックだったのでしょうから、その意味では、素晴らしい体験であったでしょう。
人間、誰しも、痛み方は人それぞれですから。

それに何より、まだ、こういったうら若い女性に、「大病、投獄、倒産、離婚、リストラ」の経験を求めるのも酷ではないかと・・・(笑)。
ちなみに私は、このうち、ようやく、2つ半を経験致しました。
(詳細は聞かないでください(笑)。)
まだまだ、一人前にはほど遠いですね。
ところで、いくつお済みでしょうか、御同輩・・・。

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理想無き航海とは暗夜に海図なくして航海を行くようなもの

2007年11月16日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

今朝の福岡県地方の空は如何にも冬らしい鉛色の雲で覆われています。
天気予報は降らないとは言ってますが・・・。
でも、最近、福岡は、本当にが降りません。
先日、丸一日くらい降ったのですが、大した雨量ではありませんでしたし、昨日の週間天気予報を見れば、他県は降っているのに、福岡県はずーっと晴れマークでした。
最近、福岡県地方は、本当にが降りません。
先日、丸一日くらい降ったのですが、大した雨量ではありませんでしたし、昨日の週間天気予報を見れば、ずーっと晴れマークでした。


↑ちなみに、こちらは、先月、福岡市の水甕の一つ、北山ダムに行ったときの画像ですが、水量が少なすぎてボートが座礁してしまいました。

わかりにくいでしょうが、樹木の下、干上がった部分はゆうに6mくらいはありますしたよ。

まあ、冬場になっていく方なので、それほど水は使わないでしょうが、かなり、まじやばくないって感じが・・・。

で、本日の本題です。
先日、平太郎独白録 : 孤立!微熱!歩く摩擦熱!!手前勝手な私の二つの持論。で、私なりの例によっての手前勝手な持論を述べさせて頂きましたが、思ったより、色々と反響がありましたので、改めて、きちんと申し述べてみたいと思います。
実は、この持論は、このときは手短に済ませたのですが、以前、もう少し詳しく書いたような気がしたので探してみたのですが、どうにも見つかりませんでした。
で、何か別の物で、全体をきちんとまとめた物があったはずですので、色々と探してみたのですが、どういうわけか、やはり、見つかりません。
それを転載するのが一番、手っ取り早かったのですが、見つからないので、思い出しながら書いてみます。
イカサンショウウオ・・・じゃなかった以下参照(笑)。

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例によって、まことに手前勝手な持論で恐縮であるが、私の持論の一つに、「人はいつ老人になるのか?」というものがある。
結論を言えば、「人は年を取ったから老人になるのではなく、人は理想を無くしたときに老人になるのである」と思うが、「ただし、理想は絶えず現実の前に破れるという性質があるため、我々は、絶えず上手に現実と妥協していく必要がある」と。

ただ、それでも、だからといって、決して、理想をなくして良いという話ではない。
眼前の現実だけを重視し、理想をもたないのは、言うならば、目的地のない航海に等しく、まさに『暗夜に海図なき航海を行く』に等しい」ものであろう。
ただし、だからといって、方向を知る為の北極星ばかりを見つめ、眼前の岩礁に乗り上げてしまうのもまた、航海者としては、あまりに、愚かなことではなかろうかと思う。

我々は、大局を誤ることの無いよう、絶えず、太陽の位置を確認し、北極星を睨みながらも、眼前の岩礁にも対処して航海を続けなければならないのである。

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何か、まだ、足りないような・・・。
どこで書いたのか・・・。
子供への遺言を見てみましょう(笑)。
でもって、また、見つかったら、その時点でUPします・・・。

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ムシャラフ大統領のアジアにはアジアの事情が御座る 2

2007年11月15日 | 国際問題
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

あ、ちなみに、この「大統領との晩餐」という番組では、ムシャラフ大統領も、大統領の老母も、インタビュアー評論家も、み~んな、流暢な英語を話していたのには、何だか、少し違和感を感じました。
まあ、元々、インドと同じ、イギリスの植民地だったのでしょうから、別に、不思議ではないのでしょうが・・・。

さておき、この番組の中で、私が、一番、ムシャラフ大統領を評価した部分がありました。
まず、大統領によれば、現在のパキスタン情勢を知るには、1984年ソ連アフガニスタン侵攻まで遡る必要があるとのことで、このとき、ソ連軍と戦った人たちには4種類に分けられたと言います。
まず、1つめはアフガニスタン人
2つめが、世界中から集まったイスラム戦士、ムジャヒディン・ハルク。(この中に、ビンラディンもいたと。)
3つめが、イスラム神学校兵士
4つめが金で雇われた傭兵たちだったと。
(私は、一応、全部知ってはおりましたが、正直言って、2と3の区別が付いておりませんでした。どう違うのかは、イマイチ、わかりませんが。)

そして、彼らはソ連撤退後も激しい内線を繰り広げ、その結果、400万人難民がパキスタンに押し寄せたが、その中に、ムジャヒディンたちも紛れ込んでおり、やがて彼らはパキスタンの方が住みやすいことに気づいたと。
ムシャラフ大統領が極めて高い政治感覚を持っていると思ったのは、こういう情勢分析をした後、それに対し、きちんとした定見を持っていたことです。
大統領は言いました。
「だから、私は大多数を占める貧しい人々から過激派を遠ざけたいのだ」と。

つまり、いきなり、難民の中に紛れ込んでいる過激派を手荒く一掃しようというのでも、いきなり、国民すべてに教育を施し、今日にも貧困から抜け出させようというのでもなく、徐々に徐々に改革を進めていく間、とにかく、貧困層が、過激派によりアジられないように隔離しよう・・・というもので、これは、極めて、現実的な感覚であり、物事を良く理解している人の発言だと思います。
大統領としては、隣国・イランで、急激に近代化を推し進めようとして宗教勢力により追放されたパーレビ国王の轍を踏まないようにというものがあるのでしょうが、現状はそのパーレビと同じ所へ追い込まれているような観があります。
国民は急激な近代化にも拒絶反応を示す反面、一刻も早い救済を求める物だということも理解する必要があるでしょう。

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ムシャラフ大統領にみるアジアにはアジアの事情 1

2007年11月14日 | 国際問題
親愛なるアッティクスへ

混迷を深めるパキスタン情勢ですが、ついに、軟禁中の野党パキスタン人民党総裁・ブット前首相がムシャラフ大統領辞任を求める声明を出したそうですね。
元首相の暗殺未遂自宅軟禁(・・・と言いますが、暗殺しようとしたのは知事だとはブット氏自身も言ってましたけどね。もっとも、背後に大統領が居るのかどうかはわかりませんが。)、さらに、先の大統領当選に無効判決を出そうとした最高裁長官更迭、そして、非常事態宣言と来て、「来年1月8日までに総選挙を実施」との方針を明らかしたものの、ますます、立場を悪くしていくムシャラフ大統領・・・ですが、実は、私は、このムシャラフという人は現代世界の指導者の中でも高く評価している人物でもあります。

彼は、軍出身の大統領でもあり、参謀総長時代には、を持ったら、すぐに、宿敵・インドに戦争を仕掛け、あわや、核戦争勃発・・・ということになって、アメリカから、「世界を滅ぼす気か!」と言われ矛を収めるなど、少し、短絡的なところもある人物ですが、しかし、少なくとも、大統領就任後は、彼がやっていること、言っていること・・・というのは、極めて、当を得た物であるような感じがします。
9.11以後の対応などは、感情論に走ろうとする世論に迎合することなく、極めて、現実的な判断を下したと思いますし、その後の対応も間違っていなかったと思います。
で、元をたどれば、ムシャラフ大統領の立場の悪化は、アメリカの肩を持ったことに始まるのでしょうが、この点で、先日、BSで「大統領との晩餐」という、パキスタンのジャーナリストとムシャラフ大統領とが食事しながら会談するという番組の中で、彼は、実に興味深いことを言っていました。

まず、「社会を変えたければ急転換を強いてはいけない」と。
この点は、「国民は心情的に急な改革を恐れる」とは、確か、司馬遼太郎さんがどこかに書いておられた言葉だったと記憶しておりますが、これは、まったくもって一面の真実を言い表していると思います。
特に、現在のパキスタンのように、ムシャラフ大統領曰く、「国民の大多数は読み書きが出来ない。そして、貧しい」と言われる国は、なおのことで、曰く、「社会は段階を踏んで変わる物。指導者は、そこを理解しつつ改革を進める必要がある」ということなのでしょう。

さらに、同番組では、評論家か誰かが、「これまでの政治家が宗教に迎合してきたのに、彼はそれをやらないから抵抗に遭う」ということを言ってましたが、この点では、彼は、隣国・イラン型の宗教国家化を押しとどめるには・・・、いや、イスラム国家が正常な国家運営をするためにはムスタファ・ケマルが創始した「政教分離を軍が監視する」というトルコ方式しかない・・・と考えているのではないかと思えます。
(参照:平太郎独白録 : トルコ建国の父、満点・アタチュルク!
それら諸々を考えれば、彼が掌握するということは、彼としては、そのためには当然のことであるともいえるでしょうか。

この点は、パキスタンにも、その辺のムシャラフという人の見識の確かさを評価している人もいないではないようで、その評論家氏は、最後に、「知的アピールを持っているのはこの国では彼一人だ」とも言っていました。
かなり、自虐的なコメントだとは思いますが、一面、真実を表しているようにも思えます。
毎度、言っていることですが、「欧米には欧米の都合が御座ろうがアジアにはアジアの事情が御座る」ということですね・・・。
日本も含め・・・。

明日に続く・・・と思います。

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球史に残る大投手、稲尾和久氏の急逝に弔意を表す

2007年11月13日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

本未明の13日午前1時21分、元西鉄ライオンズ投手・監督であった稲尾和久氏が悪性腫瘍のため福岡市内の病院で死去された・・・というニュースを耳にしました。
享年70歳。

謹んでご冥福をお祈りする次第です。
この時間というのは、奇しくも、昨夜、私がちょうど帰宅した時間だったのですが、当然、今朝は、二日酔いで、朝起きてからも、満足にニュースも見ることも出来ず、今朝、車のラジオでこのニュースを聞いて初めて知った次第でした、
で、本日は混迷を深めるパキスタン情勢について書くつもりだったのですが、この方がご逝去されたと言われれば、福岡人としては弔意を表さねばならず、急遽、変更させていただきます。

稲尾さんと言えば、たびたび、拙稿でも採り上げさせて頂きましたが、改めて言うまでもなく、プロ野球・西鉄ライオンズのエースとして黄金時代を築いた大投手です。
大分県別府市出身、別府緑丘高から昭和31年(1956年)に西鉄入りし、無名だったにもかかわらず、その年、いきなり、新人王を獲得、その後、5年連続30勝、20連勝、シーズン42勝という大記録を樹立・・・するなど、球史に残る、まさしく、大投手でしたが、この人が、もっとも、博多の人々の記憶に焼き付いたのが、昭和33年の巨人との日本シリーズだったでしょう。

この年、稲尾は7試合中6試合に登板、特に、3連敗して以降の4試合は、すべてに投げて4連投、さらに、第5戦では自らサヨナラ本塁打も放つなど、西鉄の3連敗4連勝の奇跡の逆転優勝の原動力となり、「神様、仏様、稲尾様」の名文句を生みました。

この当時、私はまだ、生まれていませんが、うちでは、父がまだ20代半ばで、西鉄の奇跡に熱狂し、毎晩のように、平和台球場に足を運び、「勝ったら勝ったで祝い酒、負けたら負けたでやけ酒」で、野球などよくわからない祖母は、稲尾投手のことを言うときだけは、「稲尾さん」とさん付けで呼び、そのたびに、祖父が、「稲尾さんやら言うな!稲尾でよかと!」と怒鳴っていたといいます(笑)。

そういえば、福岡出身のタレントのタモリさんは、「私は野球が嫌いなんじゃない。西鉄が好きだったんだ。西鉄がなくなった段階で野球ファンを辞めたんだ」ということを言っておられましたが、思えば、それほど熱狂していたうちの父も、西鉄がボロボロになっていた私の子供の頃は、殆ど、野球の話をしませんでしたね。
若い頃に、あまりに良い物を味わいすぎると、その後の物がすべて物足りなく感じるようなものなのでしょうか。
この点では、いみじくも、今朝のラジオでアナウンサーが言いましたが、「稲尾さんの現役時代を知っておられる方は、もう、皆さん、かなり、ご高齢でしょうが、それを見られたということが大変、羨ましく思えます」と。

この人のことを書くと、とても、一日では終わりそうにありませんので、続きはまた、いずれ書きたいと思いますが、雰囲気はこんな感じだったのでしょうか。
戯れに書いた短編です。よろしければ、ご参照ください。
    ↓
平太郎独白録 : 眼精疲労の為、開店休業・・・。

まずは、合掌・・・。
 
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「仲良くケンカしな♪」の理を知らない最近の政治家?

2007年11月12日 | 政治システム
親愛なるアッティクスへ

先日、ある人と一献やった折、私が、「最近は、犯罪の質が変わってきたもんな」と言ったことろ、「そうそう、最近の連中は怖いよ。ケンカの仕方を知らんから、いきなり、刺したりする」という言葉が返ってきました。
まあ、私としては、必ずしも、そういう意味で言ったのではなかったのですが、それはさておき、その翌朝、二日酔いで新聞を開いたら、大見出しで、「大連立」という言葉が踊っておりました。
それが、一連の大連立騒動・・・の始まりでした。

この件に関して、私見を言わせてもらえば、「まったく、何をやってるのか・・・」という観を強くしますね。
そんなもん、ちょっと考えれば、国民の反発を受けそうなこと、そして、それを背にしての党内での反対意見が噴出しそうなことがくらいわかりそうな気がするのですが・・・。
だって、これを許せば、この後、国民の支持に関係なく、政権運営がやりやすいようにと、その都度、自分たちで勝手に大連立すればいいということになるわけで、民主主義の根幹が揺るがされかねないことにもなるわけですよ。
それに、二大政党が連立すれば政局は安定する・・・なんて言ってたら、二大政党制の意味が無いわけですし、それで、野党としてのチェック機能が果たせるのか・・・、いや、国会の存在理由そのものが問われるのではないか・・・、
(そもそも、どうして、政策協議ではダメで大連立でないといけないのか・・・というのがわからないですね。)

アメリカから、せっつかれている・・・というのもわからないではないのですが、それが、であるのならば、野党も良識を持って、時には、政党を割ってでも、政策協議の場で、法案成立に協力するべきだと思います。
この点では、かつて、吉田 茂内閣時代、三木武吉に代表される反吉田派の人たちは、吉田内閣に対し、血で血を洗うような激しい倒閣運動を繰り広げながらも、その一方で、必要な法案の成立にはきちんと賛成し、それが終わると、また、政争を開始した・・・ということを聞いています。
つまり、その論で行けば、政治家の政争には、「仲良くケンカしな♪」という原則論が必要だということでしょうが、思わず、冒頭の「ケンカの仕方を知らない、すぐに人を刺したりする最近の連中」という言葉をオーバーラップさせてしまいました・・・。
ケンカの仕方を知らなくなったのは、何も、市井のことに限らず、政治家も同じなんだな・・・と。

ちなみに、その後の民主党の一連の騒動を見ていると、当初、小沢さんも、あそこで大連立を否定されて、「辞める」と言えば、散々、党首交代騒動を繰り広げてきた民主党としては、「国民に愛想を尽かされる」し、「代わりはいない」はで、その上で、小沢一派に出て行かれたんじゃ、本当に、民主党は崩壊しかねないでしょうから、これじゃあ、慰留後は、誰も小沢さんに異を唱えられないだろうと。
「これで、小沢さんの指導力は格段に高まる・・・。さすが、鳩山菅、前原などといったところよりは、一枚も二枚も上手だな・・・」と思っていたのですが、その後の会見見た限りでは、「ご免なさい、もうしません・・・」の世界みたいで、何だか違うな・・・という気が。
傲然と、「嫌なら辞めていいんだよ」と言い放つくらいあっても良かったように思うんですけどね。

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