平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

ドラマ「フルスイング」にみる夢が途切れたときの論理 後編

2008年02月29日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

「フルスイング」といえば、奇しくも、昨日、ミスター・フルスイングと言っても過言ではなかった闘将・江藤慎一氏がお亡くなりになりましたね。
私はこの人のことは、太平洋クラブライオンズプレイイングマネージャーとしてしか覚えてませんが、謹んでご冥福をお祈りします。

で、昨日の続きです。

人間、「夢」というものは必要です。
ただ、夢を追いかけている間は良いんですよ。
目の前にあるゴールテープに向かって走っていればいいんですから。
しかし、本当にそれが実現できる人というのは、ほんの一握りの人であるというのもまた現実であり、であれば、いつかは夢破れる・・・、あるいは、夢と決別しなければならない日が来るわけで、本当に、生徒に教えてあげなければいけないのは、むしろ、そこから先のことではないか・・・と思ったわけです。
そして、その意味では、この高畠氏こそ、それを語ってやる上では適任中の適任だったのではないかと・・・。

高畠氏は、番組の中でも少し言ってましたが、元々、高校時代、甲子園を目指しながらも甲子園には行けず、卒業後もどこからもドラフト指名はなく、それでもプロを目指し、大学やノンプロを経て、ようやく、南海ホークスドラフト5位で指名されたものの、今度は怪我に泣き、選手生活はわずか5年で終わった・・・と。
つまり、彼は甲子園という夢に向かい果たせず、プロ野球選手という夢に向かい夢破れた・・・という経歴を持っていたわけですね。
しかし、彼は、引退後、当時の野村克也南海ホークス監督(現楽天監督)に認められ、29歳という若さで新たな打撃コーチという仕事に巡り会います。
当初は、それなりに葛藤ジレンマなどもあったのかもしれません。
しかし、彼は、やがて、そこに新たな「夢」を見出します。
つまり、彼は同じ野球でありながらも、「自分でやる」ことから、「選手を育てる」ということに「夢」を見出した・・・、いや、夢を軌道修正して、また、夢を使えるようにしたといえるわけですね。

この話は、何もプロ野球に限ったことではなく、要は、主体が、「自分」から、「他人」に変わっただけのことです。
なぜなら、往々にして、夢というのは「自分の為」のものであり、元々、他人のために夢を描いている人というのは少ないように思うからです。
であれば、視点を転じ、自分を捨て、今度は他人のために何かが出来ないか・・・と。

平たく言うならば、まず、夢破れた時点での選択肢は3つある・・・と思います。
即ち、
1.まだ、燃え尽きていないとして、あくまで「夢」を追いかける。
2.もう、十分にやったとして過去の夢(栄光)思い出として、遺産として、別の道で生きていく。
3.あくまで何らかの形で夢に関わりながら生きていく。
・・・夢とは、無論、各人各様であり、最終的にどうするかは自分で決めなければならないことなのでしょうが、とかく、多くの人が「1」と「2」の二者択一を迫られているように思えます。
つまり、それと別に、第3の道もある・・・ということをこそ、「夢」を語る上では生徒に教えてあげるべきではなかったかと思うのです。
(第3の道を歩き、あるいは縁在って、また、元の夢追い道に戻る可能性もないとはいえないでしょう。)
つまり、フルスイング第1話での「夢」の話には、「夢を無くしていけない!」で終わらせるべきではなく、こう言うべきだった・・・と。

「夢というのは絶対に持つべきであり、目指すべきだ。しかし、すべての人がそれが実現できるとは限らない。夢破れたときに、どうするかこそが大事だ。そこでどうするかによって、そこから先のが随分違ってくる・・・。しかし、それは各人各様でもあり、従って、その結論は自分で出さなければならない。しかし、夢に携わって行きたいと思うのなら・・・、あくまで、夢から大きく外れたくないと思うのなら、そういうときは、夢への視点を『自分』から『他人』へと移してみることも考えてみるべきではないか・・・」と。

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ドラマ「フルスイング」にみる夢が途切れたときの論理 前編

2008年02月28日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

先日、NHKのドラマ「フルスイング」というのが終わりましたね。
プロ野球打撃コーチとして、落合、イチロー、小久保、田口、サブロー30人以上の選手を育てた名伯楽であり、球界を去った後に、還暦間近福岡県高校教師となった高畠導宏氏をモデルにしたドラマでしたが、高畠氏を演じた主演の高橋克実くん(意外でしたが、彼は私と同級生だったんですね。どうみても見えない・・・という(笑)。)は初のドラマ主演だったこともあったのか、少し、が入りすぎていたような気もしないでもありませんでした。
本当に説得力のある先生というのは、百まで言葉を尽くさなくて人間味がにじみ出ていて、言わんとすることがわかるものでしたよ。
実物は、ちらっと見た限りでは、もっと、朴訥な人だったように思いましたし・・・。
まあ、役だとはいえ、あそこまで、暑苦しい役にしなくても良かったんじゃないかな・・・と。
もっとも、そう言いながらも、毎週・・・、結構・・・、早送りで見てましたけど・・・、それなりに・・・、ぐっと胸に詰まる物があったわけで・・・(笑)。

ついでに言えば、あの教頭先生役の人、見覚えはあるけど誰だっけ・・・と思っていたら、何と、本田博太郎さんじゃあ~りませんか!
ちょっと見ない間に随分とおじいちゃんになられているのに結構、びっくり・・・。
一時期は、二枚目俳優として一世を風靡していたイメージがあるのですが・・・。
役的には、少し、官僚的姑息な設定ではありましたが、あのモデルとされた人は少し気の毒な設定でしたね。現実には、教頭という実務をとり仕切っている人はああなりますよ。
校長みたいな悠長な理想論は言ってられないわけで・・・。
ちなみに、モデルとなった筑紫台高校というのは、我々の世代では、筑紫工業高校という名前で、ある意味(?)、知る人ぞ知る学校でしたが、場所は太宰府市の山の中にありますので、番組で、たびたび映し出されていたようにはは見えませんから・・・(笑)。

で、それはさておき、このドラマですが、最初の第1話が、「夢」で始まり、最終回が「気力」で終わりましたよね。
まあ、「気力」の方は、自分がであることを生徒に告げる場面でもあり、当たり前すぎるようなセリフかなとも思いましたが、一方の「夢」の方でも、私なりにちと思うことがありましたね。
このセリフは、主人公である高畠氏が、この学校に、最初に教育実習で来たときに、その教育実習最後の日に、黒板に「夢」と大きく大書し、生徒らに「夢」を持ち続ける事の大切さを熱く語る・・・という場面で出てきた言葉だったのですが、「夢」を持つことは良いことだし、道を誤らないためにも必要なことなのでしょうが、彼は、「夢」を語る上で、もっとも大切なことを言っていないんですよね。
それ即ち、「夢が途切れたとき」のことです。

明日に続きます。

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話の種にモンゴル式住居ゲルに泊まった肥前路 その4

2008年02月27日 | 経済・マネジメント
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

名護屋城(←)を出て、そのまま、長崎県に入り星賀港というところへ到着・・・。
ここから、車ごとフェリーに乗って、モンゴル村がある鷹島という島へ渡ったわけですが、でも、私自身は自分で運転して車ごとフェリーに乗るのは初めての経験だったんですよ。
思えば、私が子供の頃は、よく、家族旅行などでどこかに行くときには車ごとフェリーに乗った記憶がありますが、気が付けば、フェリーに乗る・・・という行為自体、少なくなっていることに気づきました。
で、何でかな・・・と考えてみれば、最近ではどこもが架かってしまっているんですね。
だから、車ごとフェリーに乗る必要がなくなったわけで・・・。
実際、この鷹島も、立派な橋が工事中で、来年3月完成予定だそうです。

ま、そういう意味では、少し不便ではありましたが、車ごと船に乗る・・・というのも子供たちには良い経験になるだろうと思い、それもあって、敢えて、ここに向かったわけですが、だいぶ早めに着いたので、待ち時間1時間に対し乗船時間はわずか7分(笑)。
鷹島上陸後、一路、モンゴル村へ・・・といくはずが、なぜか、上陸早々、道を間違えたと思ったら今度はカーナビ誤作動して、海の上を走るように指示してくる始末・・・(汗)。
結局、看板を頼りにやっとの事で到着・・・。
着いてみて改めて感じましたが、ここは、冬には殆ど来る人がいないようで、連休中にもかかわらず、宿泊客は我々と他にもう一組くらいしかいませんでした。
で、生まれて初めて、モンゴル人の住居「ゲル」に入りました。
感想は・・・というと、思ったより暖かいな・・・と。



この日は、風が強く、おまけに島の突端に位置する場所なので遮る物もなく、かなり寒かったのですが、中には、一応、エアコンはついていたものの、12畳くらいあったにも関わらず、割と低めの温度設定で、十分、暖まりましたし、毛布をはねのけて寝てましたから・・・。
ただ、あと、室内にある設備と言えば、テレビとベッド、それに、簡単なテーブルくらいで、風呂・洗面所・トイレがない為、その場合は、屋外に出らねばならないのがちと、不便でした。
トイレなど、夜中に、小さな子供一人で行かせるわけにもいかず、さらに、私は、夜半、一人で寝酒をしていたのですが、せっかく、眠くなったのに、外に出て、冷気に当たるとまた酔いが醒めてしまい・・・、後はご想像にお任せします(笑)。

明日に続きます。

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話の種にモンゴル式住居ゲルに泊まった肥前路 その3

2008年02月26日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

先週の続きです。

で、唐津城を出て、次に名護屋城へ向かったのですが、以前、私は、一昨年の10月下旬にも秋田人を連れて、肥前路を旅したことがありましたので、てっきり、ご紹介申し上げたとばかり思っていたのですが、どうやら、何も触れてなかったみたいですね・・・。
で、改めて・・・。

まず、ナゴヤと言っても、どえりゃあナゴヤ名古屋城とは違います。
こちらは、佐賀県名護屋にある名護屋城です。

豊臣秀吉朝鮮出兵のときに前線基地とした城ですが、城と言っても、今では石垣しか残っていないものの、その規模たるや、単なる寒村の城跡とは思えないものがあります。

黒澤 明監督の映画「乱」の撮影が行われたことでも有名ですが、昔は、単に石垣しかなかったのに、今では、立派な博物館が作られており、しかも、ここの素晴らしいところは「無料」だと言うことです(笑)。
(その代わり、昔は石垣は散策自由だったのですが、いつの間にか、「清掃協力費100円」なるものを取るようになっており、私はそんな物がいるなんて知りませんでしたから、何で、おばさんが睨んでるんだろう・・・と思いながらも、ずんずん、行ってしまいました(笑)。出るときになって、初めて、そういうものの存在に気づきましたが・・・。)



で、この名護屋城博物館(←)ですが、ここには実物・模型取り混ぜて、様々な物が展示されているのですが、なかでも私が感心したのが、豊臣秀吉朝鮮出兵についての日本側韓国側、それぞれ、双方の高校教科書の記述が紹介されていることです。

私は、当初、中身を見るまでは、またいつものように、韓国側のそれはヒステリックな論調で日本を責め立て、日本側のそれは自虐的にごめんなさいを連呼しているようなものだろうな・・・思っていたのですが、意外に、両国とも客観的に冷静に書いてありましたね。
結構、最初見たときは、「ほー」と感心しましたよ。

明日へ続きます。

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新銀行東京にみる原理原則を軽んじる石原都知事の是非

2008年02月25日 | 経済・マネジメント
親愛なるアッティクスへ

先日、東京都は、自らが1000億円を出資し経営不振に陥っている新銀行東京(本店、千代田区)に対し増資する方針を打ち出しましたよね。
同銀行の累積赤字は07年9月中間決算で936億円に達し、この増資をもって財務体質の改善を図るのだとか・・・。

この手の問題については、私の意見は、以前、平太郎独白録 : 日本振興銀行にみる融資という名のせめぎ合い。の中で言ったとおりで、日本振興銀行仕掛け人である木村 剛氏がインタビュー記事の中で「この銀行は、借り手が出資してできた銀行だから、借り手の気持ちがわかる銀行だ」という一言があったことで、この銀行の先行きには、かなり、疑問符をつけておりました。
即ち、本来、借り手貸し手とは、利害が相反するものであり、融資とは借り手と貸し手のせめぎ合いの中から生まれるものだと思うからです。
(貸し手は少しでも金利は高く、借り手は少しでも金利を低く・・・。
貸し手は少しでも担保を取ろうとし、借り手は少しでも担保余力を確保したい・・・。
貸し手は少しでもリスクを抑えようとし、借り手は少しでもリスクを冒させようとする・・・。)
その意味では、貸し手と借り手が、お互いの気持ちなどわかる必要はなく、また、わかってはいけないものだと思うのです。
で、「こんなことを言っているようでは・・・」と思った次第でした。

で、同様のことが、新銀行東京にも言えると思います。
似たようなことは、福岡市などでもセーフティネットの一環として、低利での緊急特別融資なども行っておりますが、その前提となるのは、一般の金融機関貸さないようなところに貸す・・・ということなのでしょうから、それは当然、焦げ付きも多くなるということであり、かといって、一般の金融機関と同じように採算重視路線を採るのであれば、「官業の民業圧迫以外の何ものでもない」ということになるわけで、つまりは、それを行政が行うということに本質的な無理があると言えるでしょうか。

ただ、「自治体の有力な構成員である中小企業というものを守る」ということは、自治体の長としては、当然、看過できないことでしょうし、石原慎太郎都知事がいうように、「中小企業救済は、本来、がやるべきことであり、国が何ら有効な対策を打ち出せないから都がやらざるを得ない」という主張もよくわかるのですが、やはり、それを東京都(行政)がやるということは、都民から集めた税金でそれをやるということであり、都民の税金で一部の人を救済し、焦げ付いた分については一般の都民から徴収するというのはあまりにも本末転倒であるように思います。
それに、自治体の首長としては、誰しも、こういう口当たりが良いようなことをやりたいわけで、これを「良し」としておくことは、この後は、皆、選挙対策として、こういうことをやりたがるようにもなることであり、この点は、以前から、日本の政治家全般に原理原則論を軽んじる傾向があるように思えると言うことを申し上げてきましたが、特に石原都知事においては、その弊害が強いように思えます。

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「ルムンバの叫び」に見る、アメリカとの関わり方心得

2008年02月23日 | 国際問題
親愛なるアッティクスへ

以前、熱出して寝ているときに、「ルムンバの叫び」という映画を見ました。
ルムンバというのは、ご存じかと思いますが、1960年、コンゴ独立時における初代大統領の名前なのですが、ま、映画自体は作りもしっかりしてましたし、それなりにインパクトがある映画でしたが、取り立ててどうという映画ではありませんでした。
ただ、驚くべきは、コンゴは独立まではベルギーの植民地だったんですね。
あんなすました顔したヨーロッパの小国までが植民地を持っていて、当然、そこでおこなっていたことは、インドネシアで300年に渡ってオランダが行っていたことと同じであり、まさに、「アジア諸国はともかく、おまえらが、日本人の戦争責任などと、とやかく言うな!」でした。

ただ、このルムンバ大統領は欧米型の民主主義に慣れ親しんだインテリであったからか、一気に理想に走りすぎたきらいがあり、結果的に就任わずか二ヶ月で追放され、その後はかなり、むごいことになります。
ここで、注目すべきは、政権運営が行き詰まったルムンバは、バックアップしてくれていたアメリカ退任勧告を受けたとき、時代が東西冷戦時代だったということもあり、それを拒否してソ連に乗り換えようとしたことです。
私が見ても、随分、甘い判断だと思います。

結局、アメリカの支持を失ったルムンバは、彼を憎む反対陣営に売り渡され、そこで、かなり、むごい最期を遂げることになります。
やはり、今もそうなんでしょうが、アメリカ様が鎮座ましましてる以上、日本などの傘下にある国には、元々、選択肢なんて、そんなにはないんですよね・・・。
今のイラク問題で政府の対応を批判している人たちや、歴代首相をアメリカの犬のように言う人たちは、少し、ルムンバの最期を研究してみるのもいいかもしれません・・・。

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大河ドラマ史上最高の秀吉!

2008年02月22日 | 文学芸術
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昨日は、久々、よく飲みました・・・。
カラオケで小椋 佳(おぐらけい)の歌を歌おうとして、曲の番号を言ったところ、店のおねーちゃんが「この歌、誰?ああ、こくじらけいね」・・・と呟きました。
つまり、小椋小鯨を間違えたんですね(笑)。
久々、噴飯ものでした。
おまえは、スザンヌか・・・とw

で、以前、ある友人と飲んだ折り、何かの話で、翌日の話になったところ、その友人が、「明日は、大河ドラマを見ないといけないから、帰らないといけない」と言いました。
当時の大河ドラマは、「利家とまつ」でしたので、「おまえ、あげんと見ようとや!」と言ったところ、彼曰く、「利家とかまつなどはどうでもいい、。とにかく、秀吉が良かったい」と言うので、思わず、我が意を得たりで手を打って、激しく同意しました。
我曰く、「きっと、現実の秀吉という人はああいうやつやったとばい。おるったい!あげなおじさんが。大河ドラマ30年の歴史の中で最高の秀吉ばい」と答えました。
(筆者注:通訳が必要な方はお申し出ください。)
友曰く、「異議無し!」とのことでバロム・クロスしながら「バッローム!」と叫んで乾杯・・・!
(筆者注:違う意味で通訳が必要な方はお申し出ください。)

では、もっとも印象に残ったシーンは何だ・・・という話になり、友人は、秀吉が、石田三成ら部下に対し、「おみゃあらは何をしとる!わしなら、相手の心をトロットロにしてみせたぞ!これが、忠義というもんだわ!」と怒鳴るシーンだとか。
対して、私は、賤ヶ岳合戦後、前田利家の居城に単身乗り込むシーンで、利家の息子から、「先だってから、和議などと言われるが、こちらがそれを真に受けて、少しでも防備を緩めると、雨あられ鉄砲を撃ち込んでくるではないですか!」と抗議され、「そうだったかいのぉ」としらを切るシーンでした。
いるんですよ・・・、世の中にはこういう煮ても焼いても食えないおじさんが(笑)。

ちなみに、こちらは、アマゾンの「利家とまつ」のDVDに寄せた私のレビューです。
以前、書いたような気もしますが、本日、二日酔いと言うことで平に・・・。

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一徹で融通が利かない武骨者の夫(しかも、アリエネーってくらい人格者で人望家!)と、聡明で不幸な生い立ちにもめげずにけなげに夫を支える妻(こちらも、アリエネーってくらい、絵に描いたような理想の妻!)が、二人で力を合わせて、信長秀吉・家康らのビッグネームに早くから絡んで出世していくってストーリー自体もアリエネーって作品でした。

と言いつつ、実は、私、この作品は結構見てました。
もちろん、あのくだらないストーリーだけなら見てません。
私がこの番組を見続けた理由・・・、それこそが秀吉です。
香川照之さんが演じた秀吉は、私も今まで色々な人が演じた秀吉を見てきましたが、絶品中の絶品でしたね。

いるんですよ・・・、世の中にはこういう人が。
上司には、思いっきり媚びへつらいながらも、役職の上で、一旦、その上司に並んだなら途端に見下す・・・。
仕事は人一倍出来るのでしょうが、それ以上に、自分の功績は声高に主張する・・・。
福岡ダイエーホークスオーナー代行の某氏などがその典型でしょうか。
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彼の秀吉は、大河ドラマ史上でも、篠田三郎さんが演じた吉田松陰に次いで、演者としては高い評価を与えられる物でしたね。

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「山座の前に山座なく、山座の後に山座なし」

2008年02月21日 | 歴史的教訓
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山座円次郎という人物をご存じでしょうか。

慶応2年(1866年)、筑前福岡藩の足軽の次男として福岡に誕生。
その後、藤雲館(現在の福岡県立修猷館高等学校の前身)、共立学校(開成中学・高校の前身)、東京大学予備門(旧制第一高等学校の前身)を経て、東京帝国大学法科を卒業後、外務省に入省。
特に東京大学予備門時代の同期生には、夏目漱石、正岡子規、南方熊楠、秋山真之らがおり、中でも、南方熊楠とはその後も親しく付き合っていたといわれています。

山座は、そのあまりの有能さゆえに、秀才揃いの外務官僚の中でも「山座の前に山座なく、山座の後に山座なし」といわれたほどであり、明治34年(1901年)には、郷土の先輩であった栗野慎一郎の後押しもあって、弱冠35歳にして外務省政務局長に抜擢されたものの、当時、明治政府の枢密院議長の地位にあった伊藤博文が、外交文書の全てに目を通し、山座の起草する外交文書が完璧なものであったにも関わらず、自己顕示欲が人一倍強い伊藤は、必ずどこか一箇所に修正を入れて返して来たため、かえって、弊害が生じることが少なからずあったらしく、困った山座は一計を案じ、伊藤が目を通すであろう外交文書には、伊藤であれば必ず修正するであろう部分を一箇所だけ故意に作っておいたといいます。
明治の元勲・伊藤博文でさえも、掌の上の孫悟空として扱っていたという、この一事だけでも、この山座という人の容易ならざる才能が見て取れるでしょうか・・・。

その後、山座は、日露開戦時には宣戦布告文を起草し、(それをロシア政府に提出したのが、当時の駐露公使だった栗野慎一郎。)終戦時には、小村寿太郎外相を助け、ポーツマス講和に尽力しています。
そう考えれば、外では栗野、内では山座という二人の福岡人が日本外交の中枢にいたわけですから、この点は、以前より、平太郎独白録 : 日露戦争と福岡人の奮闘に見る、男装の女傑と人参畑!などでも申し上げておりますように、金子堅太郎明石元次郎らと並んで、外交に置いても、福岡人の活躍があったことがおわかりいただけると思います。

ちなみに、山座円次郎は、郷土の先輩で嘉永4年(1851年)生まれで15歳年長になる栗野慎一郎の引き立てを受けたわけですが、同時に、明治11年(1878年)生まれで、山座より12歳の年少である後輩・広田弘毅(後の首相)を外務省に引き入れたことでも知られており、その意味では、栗野が山座を引き立て、山座が広田を引き立てた・・・といえるでしょうか。
この辺は、維新前夜に勤王派弾圧し、明治になってからは、「贋札事件」を起こして、唯一、廃藩置県前にお取り潰しに相当する処置を受けた筑前福岡藩出身者の想いが何となく、透けて見えるような気もします。
(ちなみに、外務省福岡人脈で広田の22歳後輩に当たるのが守島伍郎という人物ですが、この人は皮肉なことに、東京裁判において広田弘毅の弁護人を務めることになります。)

その後、山座円次郎は、大正2年(1913年)に駐中国特命全権公使となり、辛亥革命後の中国に赴任しますが、翌年の大正3年5月28日、48歳の若さで北京において死去・・・。
彼の死については、陸軍による謀殺説や、中華民国大総統・袁世凱による暗殺説も噂されていますが、いまとなっては真相は藪の中・・・でしょうか。

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球団経営も青い目に依頼してみるべきなのかも・・・の巻

2008年02月20日 | スポーツ
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ご存じでしたでしょうか?
今年はうるう年だから、2月は21日2回あるのを・・・。
嘘ではありません。
こちら(←)をご覧ください。



手元のカレンダーでは、2月は21日が2回あるようになっています(笑)。
最初、見たときは暗かったので、「21に見えるなぁ・・・」と思っていたのですが、明るいところで見ても、今日、水曜は21日でした。

で、野球ネタです。

もうひとつ、我が福岡ソフトバンクホークスですが、パウエルの二重契約問題でまたまた、お騒がせ・・・だったようですね。
ソフトバンク球団経営不在については、以前から、たびたび、申し上げておりますので、改めて、言うことは致しませんが、外国人選手についてはパウエルなんか獲ってないで、韓国台湾からイキが良いのを連れて来いよ・・・と。
で、福岡ドームの中に、ハングル中国語の表記のものを増やし、場合によっては、インフォメーション・スタッフくらいは言葉も習得させるべきだ・・・と。
ま、それ以前に、ファンの不満にもっと耳を傾けることが第一でしょうけどね・・・。

もうひとつ、話は変わりますが、福岡から最も近い別のプロ野球球団と言えば、広島カープですが、同球団から、主砲・新井貴浩選手がFAして阪神に行っちゃいましたよね。
これは私的には、少し、複雑な感があります。
今年、同じく、広島の黒田博樹投手がFAしてメジャー・リーグへ行くのや、かつて、東京出身の、主砲・江藤 智選手が同じくFAして巨人に行ったときとは、少し、ワケが違うんですよ。
つまり、先に、阪神に移った金本知憲選手といい、今回の新井選手といい、この二人・・・、共に、地元・広島出身の主力選手なんですよ。
その連中に同リーグの阪神に移籍されるというのは何とも・・・。
金がないと言ってしまえばそれまでなんでしょうが、こちらも、ソフトバンクホークスと一緒で、もう少し、経営努力で何とかできないものかな・・・と。
まあ、老朽化した広島市民球場に変えて、新球場の建設計画も随分前から立ち上がっているように聞いてますが、未だに、成就していないところを見ると・・・。
(すでにJR広島駅裏に用地を確保しているのに、御茶屋さん(?)の反対で容易に進まないという話も聞いていますが・・・。)
その辺を考えれば、しがらみが深い「マツダ」ではなかなか難しいのかなとも思いましたが、この辺も、青い目ゴーンさんに来てもらわないとどうしようもなかった日産に被ってくるような・・・。
そう考えれば、外人監督というのは今時、珍しくはないのでしょうが、球団経営のトップであるオーナーも一度、外国人に任せてみるべきなのかもしれません。

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話の種にモンゴル式住居ゲルに泊まった肥前路 その2

2008年02月19日 | その他
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昨日の続きです。

まず、順を追ってお話ししますと、そもそもが、私は連休というものに気づかずに生きてるんですね。
毎回、直前になって、「あ、連休か」と気づくのですが、何でかなーと考えてみたところ、私は一週間単位で予定を把握しているようで、これは、手帳が一週間単位であることが大きいのだと思います。
だから、土日の連休だと気づくのですが、日月の連休は、手帳のページが変わってしまうことから、土曜になって、初めて、翌営業日の予定を見て、「あ、月曜も休みなんだ」と気づくもののようです。

で、今回もご多分に漏れず、土曜になって連休だと知った私は、その夜、・・・そういえば、うちのガキが「お城を見たい」などとほざいていたなーということを思いだし、・・・そういえば、なぜか、自分が子供の頃は唐津城名護屋城は割とよく行ったけど、子供たちは連れて行ったことがないなーということに気づきました。
で、折角なら、連休だし、どこかで一泊してくるか・・・と思い、子供も泊まれる安宿を探していたところ・・・、「モンゴル村」というのがヒットしたわけです(笑)。
私も、モンゴル村というのがある・・・ということは知ってましたが、それ以上の深い知識はなく、とりあえず、キャンセル可能と書いてありましたので予約し、場合によっては日帰りでも良いか・・・というようなつもりで出かけることにしたのですが・・・。

ところが、またまた、その日の夜が眠れない・・・。
結局、5時頃に市販の睡眠導入剤を飲んで、寝たのが朝6時・・・。
一旦、8時半に起きて、薬の関係で寝たような起きたような状態で、布団を出たのが10時・・・。
数日前からの飲み会の疲れもあって、食欲はまるで無し・・・。
おまけに、折からの寒波と強風の中、遮る物もない島でゲルでの宿泊なんて・・・。
この状態で大丈夫か・・・と思い、中止するべきかどうか迷ったあげく、「GO!」と。
行くだけ行って、危ないようなら帰ってくればいいさと。

で、都市高速有料道路を乗り次いで、まず、向かった先が唐津城でした。
福岡市から車で小一時間程度で着くここは、佐賀県であるものの天守閣を持つ城を持たない福岡市民にとっては、もっとも、近場の城の一つ・・・。


(←天守閣からの眺め。折から、日が差してきて、なかなかに綺麗な眺めでしたね。)

で、来週辺りに続く・・・と思います。

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話の種にモンゴル式住居ゲルに泊まった肥前路 その1

2008年02月18日 | その他
親愛なるアッティクスへ

最近、眠れない日が続いています。
で、例によって、そういうときは、また、眠り薬代わりに録りだめしていた難しい番組を見ていたのですが、その中の戦国時代を採り上げたある番組で、ヨーロッパ大航海時代のものと思われる世界地図が大映しになりました。
(大映しと言っても、画面が小さいので、それほど大きかったわけではありませんが(笑)。)

で、大雑把な地図ではありましたが、九州地方の都市の名前が書いてありましたので、思わず、一旦停止して、見てみました。
改めてみると、福岡市近辺になにやら都市名の書き込みが・・・。
「位置からして、石見銀山じゃななさそうだが、当時は、博多小倉、門司などはヨーロッパ諸国の間ではそれほど有名ではなかったはずだが・・・」と思いつつ、見てみたら、なんと、「SIMONOSEKI」と書いてありました。
下関のことですね。
でも、下関って、昔は、赤間ヶ関とか馬関とか言ってなかったっけ?と思ったものの、一時期、下関と言っていた時代があったんだろうな・・・と思いつつ、一旦停止して、他を眺めてみたら九州西端にも書き込みがありましたので、南蛮貿易で有名だった平戸かな?と思って見てみたら、何と、「SASEBO」・・・と。
つまり、佐世保ですね。
佐世保は、確か、そんなに歴史は古くないはずだけど・・・と。
で、他には、「KAGOSIMA」や「NAGASAKI」の文字が・・・。
もし、単なるお土産品として最近作られた物なら、逆に、これ作る方が面倒くさくないかい・・・と。

まあ、これがどういういわくの物なのかはわかりませんが、この地図を見て思い立ったわけではありませんが、先日の連休、を渡ってモンゴルに行き、モンゴルの住居「ゲル」に泊まってきました。



と言っても、もちろん、中国ロシアの間にあるモンゴルではないですよ。
モンゴルはモンゴルでも福岡から車で1時間程度の所にある長崎県にあるモンゴル村です。
ちなみに、海を渡ったというのは決して嘘ではなく、鷹島という島なので、フェリーに乗って行ってきました。
もっとも、乗船時間7分ですが・・・(笑)。

ということで、明日に続きます。

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権力の重心不在

2008年02月16日 | 政治システム
親愛なるアッティクスへ

ある資料を探していたら、6年前に友人にあてたメールをプリントアウトしたものが出てきました。
当時の世相と相まって、なかなか面白いと思うのですが、如何でしょうか?
以下。
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以前、「今の日本の一番問題点は、権力に重心がないことだ。」と申し上げましたが、その件で、私なりに、ちょっと考えてみました。
権力の重心不在・・・。
一つには、戦前の反省から誰かに(どこかに)権力が突出するのを警戒するということ、フィクサーになったほうが責任もとらなくていいし、そうなると余計突出した権力者の出現というのは困る・・・という風潮も有ると思います。
さりながら、私の意見としては、現在の日本の制度上の欠陥に問題があると思います。

本来でしたら、重心は内閣総理大臣に有るべきなのでしょうが、(本来の首相の権限は旧帝国陸軍とGHQを併せたより強いという人もいます。)現在その力が発揮できる環境にはないことは、よくご存じのことと存じます。
確かに議院内閣制というものは、行政のトップが議会のトップも兼ねられるという建前があり、その意味では、理屈では確かにそうなるのですが、実際はそうなっておりません。
私としては、どうしても、持論である行政と立法の未分離というところへ行き着かざるをえません。
(その一つとして、議会のトップが行政のトップを兼ねるところまではいいとしても、大臣をはじめ議員みんなが行政にタッチすることが、すでに議会の放棄につながっていると思います。)
参考:平太郎独白録: 「日本の最大の問題点は行立未分離に在りと見つけたり!」

制度上の欠陥というところへ話を戻しますと、かつて、共和制時代古代ローマでは、通常は選挙で選ばれた二名執政官がトップとして国家の運営に当たっていたそうですが、非常時には執政官が指名した独裁官1名任期を区切って、事にあたったそうです。
日本でも、江戸幕府などは通常4名老中によって運営されていましたが、将軍非常事態として、その必要を感じれば大老というものを老中の上におき、強大な権限を与えて、事に当たらせたわけで、その意味では、現代の日本の首相も戒厳令を布告する権限を持っているあたりは、そうだと言えるでしょう。
しかし、首相自体、選挙で選ばれる以上、国民に不人気な政策や、選挙に影響を与える利権をなくす政策は採りにくく、それでは思い切った政策はとれないと思います。
しかし、非常時には、強大な権限を与え、任期を区切って、選挙を気にせずに(場合によっては憲法の一時停止すらも含め)、 首相の指名ででも誰かをたてるべきではないでしょうか?

先日より私の主張であります、資本主義の「民意反映しすぎるがゆえの行き詰まり」という前提に対しては、こういった補足制度が必要だと思います。
ツキディデスペロポネス戦役の中で「大国統治には民主制は向かない。」と言っておりますし、スッラは「民衆の思うままに国家を運営すれば、君主制に行き着く他はない。」とも言っております。
現代に置いて、絶対君主制というのは不可能でしょうが、国家主席という名の君主制もあることですし、このままでは日本も軍事政権の登場以外に打開策はないように思えて成りません・・・。

「身は防人の露となり 何とこの世はみたむない」 平太郎
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以上。
まあ、若気の至りということで・・・(笑)。

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公立図書館はもっと寄贈に対して体制を整えるべき論

2008年02月15日 | 社会全般
親愛なるアッティクスへ

こちら(←)は、私の今年の年賀状です。

切手シート3枚も当たってました。
子供の頃から、くじ運が悪かった私としては、結構な好成績でしたね。
これだけ来て、一枚も当たらないということもよくありますので・・・。
ところで、先日、私の最初の著書「傾国の烙印 ~国を傾けた男毛利輝元の生涯~」絶版になったと申し上げましたよね。
で、手元にわずかに数冊程度あったので、思い切って、福岡県立図書館に寄贈しようと思いメールしたところ、「送ってくれ。ただし、送料はアナタ持ちですよ」という返事が来ました。
ちゃっかりしているというか・・・(笑)。
思えば、当該拙著も、発売当初は、「図書館購入用の本のカタログに選ばれた」とかで、そのカタログが送ってきたことがあったんですけどね。
ちなみに、私も、このとき、初めてこういう物があると言うことを知りましたが、なかかなに立派なカタログで、こんなのが毎月(?)出てるなんて・・・とちょっと驚いた記憶があります。
(・・・まあ、地元の図書館くらいは買ってくれたのかと思ってましたけどね(笑)。何を基準にしているのやら・・・(笑)。)

で、話を元に戻すと、言われるとおりに、一昨日、県立図書館に郵送したのですが、実は他にも、福岡で一番大きくて新しい福岡市総合図書館にも寄贈しようと思ってHPを見たところ、こちらには、メールアドレスが書いてありませんでしたので、そのままになっておりますが、この点でちと思うことがあります。

以前、福島県のどこかの自治体が「図書館は作ったが、ここに納める本は一般から(送料も先方持ちで)募集する」と公表したことがありましたよね。
実に良い取り組みだと思います。
すべての自治体に適用してもいいんじゃないですか?
大体、この物資が溢れた世の中、図書館が新規予算を使って購入しなければならない本なんてどのくらいあるんでしょうか。
まったくないとはいいませんが、ある程度は、寄贈でまかなえるんじゃないですか?
送る方だって、送料使って送るわけですから、ゴミ同然の物を送りつけるようなことはしないでしょう。

いるいらないを選別しなければならないというのであれば、専門の「寄贈受付コーナー」を置いて対処すればいいだけで、少なくとも日本中の公立図書はHPくらいはメールアドレスを表示して対処するべきではないかと思った次第です。
ま、予算減るから余計なことは言わないでくれ・・・と言われるのがオチでしょうけどね。

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バレンタインデーになると想いだす3月1日の年賀状

2008年02月14日 | 社会全般
親愛なるアッティクスへ

今日はバレンタインデーですね。
もう、すっかり、そういうものとは縁遠くなりましたが、一応、「義理」ではあるものの、だけでは、まだ、息子に対し、父の面目を保っておりますことをご報告致す次第です(笑)。
もっとも、去年は、辛勝でしたし、しかも、年々、若い力の追い上げの前に防戦一方の観がなきにしもあらず・・・ですが(汗)。
抜かれるのも時間の問題でしょうか・・・。

ちなみに、私は今まで一度たりともホワイトデーお返しというものをしたことがありません。
(昔いた会社で、同僚が「義理チョコのお返しするので」と言って、ホワイトデーに集金に来たことがありますが、「こっちが欲しいと言ったわけでもないのに、何でそんなことをやらないといけないんだ」と言って、払わなかった記憶があります。)
そう言えば、8年ほど前の今頃、信号待ちしていたら、いきなり、街頭インタビューされたことがあります。
インタビュアー:「貴方がもらってみたいチョコは?」
平太:「等身大のチョコレート」
イ:「ホワイトデーのお返しはしますか?」
平:「一度もない」
イ:「どうして?」
平:「だって、欲しくもない物もらって、どうしてお返ししないといけないの?」
・・・この発言、結構、目立ってたみたいで、しっかり、オンエアされたようです(笑)。



←で、こちらの画像は、博多チョコレート発祥の店「チョコレートショップ」の店内風景です。
(ちなみに、もてないオヤジがチョコがもらえないから、自分で買いに行ったわけではありませんよ(笑)。年末に、子供連れでたまたま、ここの前を通ったときのものです。)

で、このチョコレートショップさんについては、実は、毎年、この季節になると思い出す話があります。
私は、こことは、特に付き合いがあるわけではないのですが、以前、ここの社長さんから、一度だけ、年賀状をもらったことがあります。
驚いたのは、その、もらった時期でした。
何と、もらったのは元旦ではなく、三月になってからだったのです。
「???」と思って、文面を見ると、「突然の、時季はずれの年賀状で驚かれたことと存じますが、うちでは、クリスマスバレンタインデーが一年で一番のかき入れ時であり、従って、バレンタインデーが終わるまでは、正月どころではありませんので、毎年、自分で勝手に、3月1日を正月と決めております」という意味のことが書かれてありました。

なるほどなー・・・と。
結局、その方とは面識がないままに今日に至っておりますが、大変、印象深い年賀状でした。

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昭和43年の全共闘にみる親の立場の学生の分際論

2008年02月13日 | 社会全般
親愛なるアッティクスへ

正月にBSで、昭和43年を振り返る番組をやってましたが、そこで採り上げられていたものこそ、「全共闘」でした。
と言っても、実は私も全共闘世代・・・などという言葉で、その名前だけは知ってましたが、それ以上の詳しいことはまったく知りませんでした。

当時、私は、これら全共闘を含めた一連の学生運動というものについては、テレビで祖父、父も含めた三世代で見ていた記憶があります。
(ちなみに、私は小学校入学間もない7歳。父は30代半ばで、祖父は60代半ばでした。)
ただ、うちの家族は、まあ、九州という土地柄もあるのかもしれませんが、皆、これらの学生運動には批判的でしたね。
父が、「昔は、学校など、行きたくても行けなかったんだぞ!」、「親に養ってもらっておいて、勉強はしないで、こんなことばっかりやりやがって!」、「やるんなら、自分で稼ぐようになってやれ!」と憤激した言葉を浴びせていたことは、はっきりと覚えています。
(ましてや、明治生まれの祖父が、どういう理解を持っていたかは、想像に難くないでしょう。ちなみに、これら学生運動を弾圧した、当時の佐藤栄作首相は、私の祖父と、ほぼ同世代に当たります。)

これは、当事者であった団塊の世代の人たちからすれば、もちろん、反論もあるでしょうし、私自身も、あの場にいたら、果たして、無関係でいられたかどうか少し疑問なところでもあります。
しかし、親の立場になった今だからこそ言えることでしょうが、私には、父や祖父らの言い分もわからないでもないのです。

現在でもそうですが、地方から、東京の大学に子供を通わせるというのは、やはり、大変な負担なんですよね。
先般、私の先輩が、子供を東京の大学に通わせることになったところ、親の出費は、一人当たり年間400万円になる・・・と嘆いておられました。
となれば、もし、これが2人なら年間800万円になるわけですよね。
800万円となると、少々、裕福な家庭でも大変な負担ですよ。
(一例を挙げるならば、年収2千万円の家庭と言えば、地方では「高額納税者リスト」の上位にランキングされる、押しも押されぬお金持ちなのでしょうが、ここでさえ、年収の半分近く、4割を持って行かれる事になるわけですから、改めて、その負担の大きさがおわかりいただけると思います。)
ましてや、当時は、日本全体が今ほど裕福ではなかった時代ですから、親の負担たるや、いかほどのものだったでしょうか・・・。
食うや食わずやで生活している親からすれば、「そんな学生運動なんかやってるんだったら、田舎に帰ってきて農作業手伝ってくれよ!」というのが本音ではなかったでしょうか。
であれば・・・と。

ちなみに、当時、同じく、私の父が言っていた言葉があります。
それが、「今時の若い奴らはのくせに、みたいにを伸ばしやがって!これじゃ、男か女かいっちょん(まったく)わからん!」というもの・・・。
・・・間違っても、この世代の人たちに限って、「今時の若い者は」などとは決して言わないだろうなと思いましたよ。
ということで、今時の若い者の皆さん、安心してください。
あなた方の親御さんたちは絶対、「今時の若い者は!」と言わないはずですから・・・(笑)。

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