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平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

組織を支える三本の足

2008年03月01日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

物事を支えるに当たって、テーブルの足は多ければ多いほど安定はするのでしょうが、多すぎれば弊害の方も多くなります。
何本が適正なのかは、各人の考え方によるとして、組織を支えるには最低3本の、(かなえ)の足がいると思います。
それは、国家に当てはめてみたとき、それは「軍事、経済、外交」となり、またさらに、その中の軍事だけをあてはめてみたなら「作戦、補給、情報」となるのでしょう。
で、これを企業にあてはめてみたなら、これは「技術、経理、営業」となります。

ただ問題なのは、この3つの足は、本質的に仲が悪くなるようになっているということです。
何故か?
それはひとえに視野の狭さからきていると思います。

営業は売れたら「俺達の営業力」、売れなかったら「こんなもの作った技術が悪い」。
一方、技術はその逆のことを言うし、経理は経理で、「自分達の資金繰りで支えているのに、あいつらばかりで、我々には陽があたらない。」とこぼす。
これは、偏に色んなセクションを経験してないから起こることだと思います。
経理にも営業を経験させた方がいいし、技術屋ももっと経理のことがわかるようにさせるべきで、よくある、入社以来、「何とか畑」一筋となどというのは、旧帝国軍人のような視野狭い人間を生む要因となるのではないでしょうか?

「人、金、物」と言ってしまえばそれまでですが、この三本の柱がバランスよく立つ必要があり、どれか一本だけが突出したり、極端に短いとそのテーブルは安定せず、倒れてしまう可能性もあります。
その意味で、戦前の日本は軍事のみが突出しており、戦後経済のみが突出したいびつな形になっており、決して正常形態をなしているようには思えません。

今日でも、経済で発展を謳歌しても、軍事的に無力では、外交的発言力も低下せざるを得ないし、外交の失敗は、経済にも影響し、国民の生活を直撃する。
オイルショックがいい例でしょう。
にも関わらず、日本人は、誰も自国を防衛しようということを提唱しようとしないし、外交にも興味がない。
人は、船が沈みかけても、いや、沈みかけているからこそ、自分の一等船室にしがみつくものなのでしょうか。

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ドラマ「フルスイング」にみる夢が途切れたときの論理 後編

2008年02月29日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

「フルスイング」といえば、奇しくも、昨日、ミスター・フルスイングと言っても過言ではなかった闘将・江藤慎一氏がお亡くなりになりましたね。
私はこの人のことは、太平洋クラブライオンズプレイイングマネージャーとしてしか覚えてませんが、謹んでご冥福をお祈りします。

で、昨日の続きです。

人間、「夢」というものは必要です。
ただ、夢を追いかけている間は良いんですよ。
目の前にあるゴールテープに向かって走っていればいいんですから。
しかし、本当にそれが実現できる人というのは、ほんの一握りの人であるというのもまた現実であり、であれば、いつかは夢破れる・・・、あるいは、夢と決別しなければならない日が来るわけで、本当に、生徒に教えてあげなければいけないのは、むしろ、そこから先のことではないか・・・と思ったわけです。
そして、その意味では、この高畠氏こそ、それを語ってやる上では適任中の適任だったのではないかと・・・。

高畠氏は、番組の中でも少し言ってましたが、元々、高校時代、甲子園を目指しながらも甲子園には行けず、卒業後もどこからもドラフト指名はなく、それでもプロを目指し、大学やノンプロを経て、ようやく、南海ホークスドラフト5位で指名されたものの、今度は怪我に泣き、選手生活はわずか5年で終わった・・・と。
つまり、彼は甲子園という夢に向かい果たせず、プロ野球選手という夢に向かい夢破れた・・・という経歴を持っていたわけですね。
しかし、彼は、引退後、当時の野村克也南海ホークス監督(現楽天監督)に認められ、29歳という若さで新たな打撃コーチという仕事に巡り会います。
当初は、それなりに葛藤ジレンマなどもあったのかもしれません。
しかし、彼は、やがて、そこに新たな「夢」を見出します。
つまり、彼は同じ野球でありながらも、「自分でやる」ことから、「選手を育てる」ということに「夢」を見出した・・・、いや、夢を軌道修正して、また、夢を使えるようにしたといえるわけですね。

この話は、何もプロ野球に限ったことではなく、要は、主体が、「自分」から、「他人」に変わっただけのことです。
なぜなら、往々にして、夢というのは「自分の為」のものであり、元々、他人のために夢を描いている人というのは少ないように思うからです。
であれば、視点を転じ、自分を捨て、今度は他人のために何かが出来ないか・・・と。

平たく言うならば、まず、夢破れた時点での選択肢は3つある・・・と思います。
即ち、
1.まだ、燃え尽きていないとして、あくまで「夢」を追いかける。
2.もう、十分にやったとして過去の夢(栄光)思い出として、遺産として、別の道で生きていく。
3.あくまで何らかの形で夢に関わりながら生きていく。
・・・夢とは、無論、各人各様であり、最終的にどうするかは自分で決めなければならないことなのでしょうが、とかく、多くの人が「1」と「2」の二者択一を迫られているように思えます。
つまり、それと別に、第3の道もある・・・ということをこそ、「夢」を語る上では生徒に教えてあげるべきではなかったかと思うのです。
(第3の道を歩き、あるいは縁在って、また、元の夢追い道に戻る可能性もないとはいえないでしょう。)
つまり、フルスイング第1話での「夢」の話には、「夢を無くしていけない!」で終わらせるべきではなく、こう言うべきだった・・・と。

「夢というのは絶対に持つべきであり、目指すべきだ。しかし、すべての人がそれが実現できるとは限らない。夢破れたときに、どうするかこそが大事だ。そこでどうするかによって、そこから先のが随分違ってくる・・・。しかし、それは各人各様でもあり、従って、その結論は自分で出さなければならない。しかし、夢に携わって行きたいと思うのなら・・・、あくまで、夢から大きく外れたくないと思うのなら、そういうときは、夢への視点を『自分』から『他人』へと移してみることも考えてみるべきではないか・・・」と。

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ドラマ「フルスイング」にみる夢が途切れたときの論理 前編

2008年02月28日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

先日、NHKのドラマ「フルスイング」というのが終わりましたね。
プロ野球打撃コーチとして、落合、イチロー、小久保、田口、サブロー30人以上の選手を育てた名伯楽であり、球界を去った後に、還暦間近福岡県高校教師となった高畠導宏氏をモデルにしたドラマでしたが、高畠氏を演じた主演の高橋克実くん(意外でしたが、彼は私と同級生だったんですね。どうみても見えない・・・という(笑)。)は初のドラマ主演だったこともあったのか、少し、が入りすぎていたような気もしないでもありませんでした。
本当に説得力のある先生というのは、百まで言葉を尽くさなくて人間味がにじみ出ていて、言わんとすることがわかるものでしたよ。
実物は、ちらっと見た限りでは、もっと、朴訥な人だったように思いましたし・・・。
まあ、役だとはいえ、あそこまで、暑苦しい役にしなくても良かったんじゃないかな・・・と。
もっとも、そう言いながらも、毎週・・・、結構・・・、早送りで見てましたけど・・・、それなりに・・・、ぐっと胸に詰まる物があったわけで・・・(笑)。

ついでに言えば、あの教頭先生役の人、見覚えはあるけど誰だっけ・・・と思っていたら、何と、本田博太郎さんじゃあ~りませんか!
ちょっと見ない間に随分とおじいちゃんになられているのに結構、びっくり・・・。
一時期は、二枚目俳優として一世を風靡していたイメージがあるのですが・・・。
役的には、少し、官僚的姑息な設定ではありましたが、あのモデルとされた人は少し気の毒な設定でしたね。現実には、教頭という実務をとり仕切っている人はああなりますよ。
校長みたいな悠長な理想論は言ってられないわけで・・・。
ちなみに、モデルとなった筑紫台高校というのは、我々の世代では、筑紫工業高校という名前で、ある意味(?)、知る人ぞ知る学校でしたが、場所は太宰府市の山の中にありますので、番組で、たびたび映し出されていたようにはは見えませんから・・・(笑)。

で、それはさておき、このドラマですが、最初の第1話が、「夢」で始まり、最終回が「気力」で終わりましたよね。
まあ、「気力」の方は、自分がであることを生徒に告げる場面でもあり、当たり前すぎるようなセリフかなとも思いましたが、一方の「夢」の方でも、私なりにちと思うことがありましたね。
このセリフは、主人公である高畠氏が、この学校に、最初に教育実習で来たときに、その教育実習最後の日に、黒板に「夢」と大きく大書し、生徒らに「夢」を持ち続ける事の大切さを熱く語る・・・という場面で出てきた言葉だったのですが、「夢」を持つことは良いことだし、道を誤らないためにも必要なことなのでしょうが、彼は、「夢」を語る上で、もっとも大切なことを言っていないんですよね。
それ即ち、「夢が途切れたとき」のことです。

明日に続きます。

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魔の一瞬

2008年01月07日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

何とも、新年に相応しくない本日の表題ですが、それは、一昨日も書いた、大晦日に博多の厄払いの神様・若八幡神社に行った折りのことです。
私も、近所ですから、当然に、その風習を踏襲しているのですが、ところが、博多のこの年末の風物詩も、哀しいもので、最近では、うちの子供たちにとってはオヤジの自己満足という風にしか映っていないようで、何とかして、この風物詩を子供たちの記憶の中に植え付けたいと思っている私としては、「綿菓子を買ってあげるから」と言いくるめて、今回も末っ子を連れて行ってきました。

ところが、今回はうっかりしていて、晩飯を食っている最中に、母から、「あんた、今年はいかんとね?」と言われ、「あ!」と・・・。
明らかに例年より遅い時間に行ったため、すでに、夜の帳は降りてしまっており、おまけに、この日は、本当に、極寒と言っていいくらいに、寒い寒い・・・。
にも関わらず、うちのガキはお馬鹿さんですから、コートの下は、Tシャツ一枚・・・。
見かねて、若八幡に行き、綿菓子を買うと、そのまま、回り道を覚悟で、


地下鉄の入り口から博多駅地下街に入り込みました。
で、百均で何か買ってあげ、少しでも、「風物詩」対する印象を良くしようと思ったのですが、どこも休みで、やむなく、地下街から出て、信号を渡ろうとしたところ、寸前で信号がに・・・。
普通なら、渡ってしまうところですが、子供の教育上良くない・・・ということで、そこで止まりました。

で、せっかくだから、信号待ちをしている間に、正月用UPに博多駅前夜景でも撮っておくか・・・と。

ところが、私のデジカメは夜景を撮る場合には、5秒くらい、カメラを完全に固定しないといけないもんで、傍らにあった腰くらいの高さの石柱の方へ、子供と離れ、私だけ2mほど移動し、そこにカメラを固定して、パシャリ・・・。
で、例によって、動かないように、しっかり持っていると、そこへけたたましいクラクションの音・・・。
撮り終えて、クラクションの方向を見ると、どうやら、中央車線の車がガラガラなのを良いことにろくに確認もせずに左車線に入り込もうとしたようで、そこへ、後ろから来た車も同じくガラガラなのを良いことに猛スピードで突っ込んで来て・・・で、車同士が追突しそうになっていた・・・と。
で、私が考えたのは、「もし、車が衝突していたら・・・」ということです。
その場合、左折した方の車ははじき飛ばされたと考えられ、そして、その先には、一人、信号待ちをしていた我が子が立っていたわけで、車は子供をはねとばし、そのまま、私の方へ向かってきたものの、おそらく、私は石柱が障害物となってかすり傷程度で済んだ・・・と。

私は、家を出てから、ずっと、手を繋いでいたにもかかわらず、その瞬間だけ、たまたま、手を離していた・・・と。
別に、子供も一緒に石柱の方に移動すればよかったじゃないか・・・と。
クラクションが聞こえた時点で、カメラなど放っておいて、すぐに、そちらを注視しておけば・・・と。
なぜ、今年に限って、遅い時間に行ってしまったのか・・・、どうして、今年に限って、大晦日がこんなに寒かったのか・・・、女房も、もう少し、厚着させておいてくれれば・・・、いつも通り、少しくらい赤信号でも渡っておけば・・・etc。

この間、わずかに3秒程度の、実に取るに足りない出来事ではありましたが、往々にして、悲劇はこういう瞬間にこそ訪れるもので、このとき、間違いなく、我が子は「魔の一瞬」に居たのだ・・・という実感が私にはありました。
思わず、無神論者の私も、祖先だか守護霊様だかのご加護を信じたい気分になった大晦日でした。
未だに、仏壇に手も合わせてませんけどね・・・(汗)。

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ナセルの素性と藤堂高虎の遺訓に思いを馳せる年末 2

2007年12月29日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

先週の続きです。

以前、私は、ある保険の打ち合わせをしているときに、「私が死んだら、家族が困らないように」と言ったところ、アドバイザー(非保険屋)から「アナタァ?はあ?貴方はまだ、心配いらないですよ」と思いっきり、失笑されたことがあります。
でも、この「まだ」って、何か根拠があってのことでしょうか?
もっとも、このアドバイザー氏が現代日本では、それほど、特異な人ではないように私には思えます。
同様に、現代日本人の多くは、「明朝、目が覚めても、これまでと変わらない日常が続いている。」と思いこんでいるように思えるのです。
で、その根拠は何なのでしょうか?
昨日まで、ピンピンしていた人が突然、亡くなるなんて話、別に無い訳じゃないですよね。
私も、昨日まで普通にしていた人が、翌朝、脳梗塞だったかで目の前で倒れられたのを見たことがあります。
その方は、そのまま、救急車で運ばれましたが、一週間ほどして、亡くなりましたよ。

また、百歩譲って、仮に病気でなかったとしても、事故という可能性もあるわけでしょう?
これだけ、車が走っているんです。
自分が気をつけていても、交通事故に巻き込まれるってこともありますよね?
私自身、検査手術日帰り入院したところ、初歩的な医療ミスで、あと少しで死ぬところだった・・・という経験がありますよ。
(妙なもので、このとき、病院に行く前に、ちらっと一瞬、「人間って、案外、こんな何でもないことで死んだりしてね・・・」って頭をよぎりましたよ。でも、すぐに、「いくら何でも、検査手術なんだから、そんなことあるはずがないよな」と思い直し、そのまま、病院に向かいましたが、そのとき、心底にあったものは、間違いなく「まさか、俺が・・・」という根拠のない思いこみでした。)

さらに言えば、地震もまた然り。
数年前には、私自身も地震を体験しましたが、(私に限らず、福岡人は、多かれ少なかれ、日本が沈没することはあっても福岡が地震に見舞われることは無いと思ってました。)阪神大震災で亡くなった5000人以上の方は、誰もが翌朝も、翌々朝も、目覚めると同じ日常が続いていると、信じて疑われなかったのではないでしょうか?
そう考えれば、藤堂高虎のような戦国武者で無くとも、今日、布団に入るときに明日も同じ生活が続いていると考えることは、単なる思いこみに過ぎないのではと思えて成りません。
・・・何だか、保険の勧誘みたいになってきましたね(笑)。

もっとも、そう、イチイチ気にしていたのでは、到底、生きていけないのも、また、現代社会の動かし難い現実です。
ユリウス・カエサルは、数々の暗殺の危険に対し、「怯えて生きるよりも死んだ方がマシ」と意に介さなかったとか。)
私が言いたいのは、別に保険の心配をしろということではなく、「事」先送りしてませんか?ということです。
先送りとは、明日も、明後日も、いつもと変わらない日常が続いていることが前提なのですから・・・。
「この世に生を受けたるは事を成すが為にあり」と言います。

その意味で、藤堂高虎のこの言葉は、平和社会に生きる現代人に、「刹那刹那を疎かにすることなく生きる」ことの意義を問いかけているように思えて成りません。
ということで、一献、誘うなら今ですよ、御同輩・・・。

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ナセルの素性と藤堂高虎の遺訓に思いを馳せる年末 1

2007年12月22日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

一昨日の夜は、ここにいました。
さすが、ひれ酒!、昨日の朝は、二日酔いが殆どありませんでした。
ところで、いよいよ、年末本番モードに入ってきましたね。
今年は、貴方様に取りまして、どのような年でしたでしょうか?
やるべき事をやり、為すべき事を為せた年でしたでしょうか?
為すべきこと・・・と言えば、以前、ある畏友に、「為せば成る ナセルはアラブの大統領」昭和30年代のギャグを言ったところ、「ナセルはアラブの大統領ではなく、エジプト・アラブ共和国大統領であり、アラブ連合アラブ社会主義連合盟主です」と言われました。
私もサダトの前のエジプト大統領ということは知ってはいたのですが・・・。
まあ、この畏友の博覧強記ナセル技でしょう・・・(笑)。
・・・ていうか、何か反応する所が違うような(爆!)。

さておき、以前、平太郎独白録 藤堂高虎に見る「一芸」か「オールラウンドプレーヤー」かのハムレット的考察・前編並びに平太郎独白録 藤堂高虎に見る「一芸」か「オールラウンドプレーヤー」かのハムレット的考察・後編でも紹介致しました、藤堂高虎という人物の言葉として、「朝、布団から出るときは、今日、死ぬものと心得よ。」というものがあります。
まあ、戦国武将と、我々、平和ニッポンに生きる現代人とを同じように論じるのも無理があるでしょうが、思えば、人の命そのものには、今も昔もあるはずはなく、黒澤明の名作、「生きる」ではないですが、もし、「今日、死ぬとわかってたら、やっておけばよかった・・・。」ということがお有りになるのではないですか?

実は、拙著前作を出版しようと思ったときに、色々ありまして、この博覧強記の畏友に相談したことがあります。
すると、彼から、「先般、私のよく知っている取引先の社長が、乗っていたセスナ墜落して亡くなった。それ以来、私も、できること、やりたいことは、先延ばししないで、今のうちにやっておこうと思うようになった。君もまた然りだよ」と言われたことがあります。
そう言えば、阪神大震災を経験した義兄は、以来、いたずらに貯金などに執着するよりも、今出来る家族とのイベントを優先するようになったそうですし、三木谷浩史氏が楽天を起こそうと思ったきっかけも、郷土のこの惨状だったとか、他にも女優の藤原紀香さんなどもそういう話を聞きました。

明日に続きます。

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寒波襲来に見る日本人は湿度の民!

2007年12月15日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

先日、いつものように床屋で漫画を読んでいたら、その中に、梅雨の場面でしたが、「日本では、何故、携帯電話がこんなにも普及したか、わかるかい?」と言うせりふがありました。
梅雨の場面でしたので、私には何となくピンと来たのですが、答えはやはり、「湿度のせいさ」と言うものでした。
日本人はウェットな民族なんですね。
(日本人と湿度・・・、湿度と言うよりも「ウェット」と言った方がよりぴったりくるように思えます。)

日本人はなぜ、ウェットになるのか?
それは、多湿の気候がそうするのだと、その漫画には書いてありました。
理屈は忘れましたが、まあ、何となく、サウナなどに入ったときを思い出せば、わかるような気がします。
日本のようにジメジメした気候だと、人々はどこかで触れあっていないと落ち着かないのかもしれません。
これが、外国のようなカラッと乾燥した気候だと、人との付き合いも、「やあ!」「そうかい」「じゃあ!」で済むような、ドライな関係になりがちのように思えますが、日本ではそうはならない・・・。
「おい、誘えよー」、「君、ちょっと、つきあわんか」、「今、ヒマ?」・・・etc。
ドライなお国柄の人に言うと、「WHY!」なんて、返ってきそうですね(笑)。

で、何年か前の3月頃だったか、ある卒業が決まった大学生にこの話をしたら、「何となく、わかりますよ。私も昨日、別に行かなくてもいいんですけど、大学に行ったら、級友が、たくさん、研究室に来てました。もう、皆、卒業が決まっているんだから、別に来なくてもいいんですけどね・・・。」と言ってました。
この辺が、ウェットな民族なんでしょうね(笑)。

そう言えば、以前、スペインから帰国したときの、ある友人の第一声が、「日本にいるときは、このジメジメだと思っていたけど、しばらく、カラッとしたところにいたら、やっぱ、このジメジメ恋しい」でした・・・。
砂漠の民は砂漠に帰る・・・と言います。
(世界を制したチンギスハンは、死期が近づくと、「砂漠に帰りたい」と言ったとか。)
良くも悪くも、日本人は湿度の民族なんでしょうか・・・。
ついでに言えば、バングラデシュに赴任しているメイド・運転手付き生活の親戚が言ってました。
「メイドもいらなきゃ、運転手もいらない。わたしゃ、とにかく、四季が欲しい」と。
・・・やはり四季より、メイドですかな、御同輩!

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「男子三日見ざれば刮目せよ!」現代版、成長の条件。

2007年11月17日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

先日、久々に、ある先輩と会食したのですが、その方は、何でも、最近ではボランティアで外務省の留学希望者審査・選考などもやっておられるとのことでした。
で、先日も、その面接があったそうで、その折、前もって用意された質問項目の中に、「最近、あなたが一番ショックだったことは何ですか?」というものがあったそうです。
すると、ある若い女性が、「あのー、こんなこと言ってもいいのでしょうか・・・」と少し戸惑った様子で前置きした後、「長いこと、付き合ってきた彼と別れたことです」と言ったとか。
その先輩は、それを聞いて、「『こんなんじゃダメだ!』と思った」とのことでしたが、私は「そうでもないですよ」と翻意をお願いしました。

かつて野村証券元会長であった奥村綱雄という人は、若い人を見つけては、「人間は、若いうちに、失恋とか落第とか、ときには投獄といった、どん底の経験を味わわないと、一人前にはならないぞ!」と言っていたといいます。
また、この人は、戦後、45歳の若さで大・野村證券の社長に就任した人なのですが、このとき、就任挨拶として、電力の鬼と呼ばれた老財界人、松永安左衛門の元を颯爽と訪ねたところ、逆に、「きみぃ、いやしくも経営者たるもの、投獄・倒産・大病3つのうち、2つを経験して一人前だという。僕はこのうち、投獄倒産を経験した。君はいくつ経験したのかね?」と言われ、悄然として帰ったという話を聞いたことがあります。

失恋、落第、大病、投獄、倒産・・・、どれも好きこのんで経験したいものではありませんが、これらの体験は、いやがうえにも人間を成長させるものではないでしょうか。
まさに、「女子、三月見らざれば嘆息するも、男子、三日見ざれば刮目せよ!」とはこういうことを言うのでしょう。
今の世の中、男女平等ですから(笑)、男子女子というとらえ方ではなく、要は体験の内容という風に捉えて頂ければいいかと・・・(嘆!)。
もっとも、失恋、落第というもののステータス(?)は現代では随分下がったようにも思えます。
この点で、この定義を現代風に当てはめるなら、「失恋」ではなく「離婚」でしょう・・・。その意味では、落第はむしろ「リストラ」かと・・・。
それでも、この女性のように、こういった面接の場で、それを口に出来るということは、周りの見解は別にして、本人的にはもの凄いショックだったのでしょうから、その意味では、素晴らしい体験であったでしょう。
人間、誰しも、痛み方は人それぞれですから。

それに何より、まだ、こういったうら若い女性に、「大病、投獄、倒産、離婚、リストラ」の経験を求めるのも酷ではないかと・・・(笑)。
ちなみに私は、このうち、ようやく、2つ半を経験致しました。
(詳細は聞かないでください(笑)。)
まだまだ、一人前にはほど遠いですね。
ところで、いくつお済みでしょうか、御同輩・・・。

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理想無き航海とは暗夜に海図なくして航海を行くようなもの

2007年11月16日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

今朝の福岡県地方の空は如何にも冬らしい鉛色の雲で覆われています。
天気予報は降らないとは言ってますが・・・。
でも、最近、福岡は、本当にが降りません。
先日、丸一日くらい降ったのですが、大した雨量ではありませんでしたし、昨日の週間天気予報を見れば、他県は降っているのに、福岡県はずーっと晴れマークでした。
最近、福岡県地方は、本当にが降りません。
先日、丸一日くらい降ったのですが、大した雨量ではありませんでしたし、昨日の週間天気予報を見れば、ずーっと晴れマークでした。


↑ちなみに、こちらは、先月、福岡市の水甕の一つ、北山ダムに行ったときの画像ですが、水量が少なすぎてボートが座礁してしまいました。

わかりにくいでしょうが、樹木の下、干上がった部分はゆうに6mくらいはありますしたよ。

まあ、冬場になっていく方なので、それほど水は使わないでしょうが、かなり、まじやばくないって感じが・・・。

で、本日の本題です。
先日、平太郎独白録 : 孤立!微熱!歩く摩擦熱!!手前勝手な私の二つの持論。で、私なりの例によっての手前勝手な持論を述べさせて頂きましたが、思ったより、色々と反響がありましたので、改めて、きちんと申し述べてみたいと思います。
実は、この持論は、このときは手短に済ませたのですが、以前、もう少し詳しく書いたような気がしたので探してみたのですが、どうにも見つかりませんでした。
で、何か別の物で、全体をきちんとまとめた物があったはずですので、色々と探してみたのですが、どういうわけか、やはり、見つかりません。
それを転載するのが一番、手っ取り早かったのですが、見つからないので、思い出しながら書いてみます。
イカサンショウウオ・・・じゃなかった以下参照(笑)。

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例によって、まことに手前勝手な持論で恐縮であるが、私の持論の一つに、「人はいつ老人になるのか?」というものがある。
結論を言えば、「人は年を取ったから老人になるのではなく、人は理想を無くしたときに老人になるのである」と思うが、「ただし、理想は絶えず現実の前に破れるという性質があるため、我々は、絶えず上手に現実と妥協していく必要がある」と。

ただ、それでも、だからといって、決して、理想をなくして良いという話ではない。
眼前の現実だけを重視し、理想をもたないのは、言うならば、目的地のない航海に等しく、まさに『暗夜に海図なき航海を行く』に等しい」ものであろう。
ただし、だからといって、方向を知る為の北極星ばかりを見つめ、眼前の岩礁に乗り上げてしまうのもまた、航海者としては、あまりに、愚かなことではなかろうかと思う。

我々は、大局を誤ることの無いよう、絶えず、太陽の位置を確認し、北極星を睨みながらも、眼前の岩礁にも対処して航海を続けなければならないのである。

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何か、まだ、足りないような・・・。
どこで書いたのか・・・。
子供への遺言を見てみましょう(笑)。
でもって、また、見つかったら、その時点でUPします・・・。

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孤立!微熱!歩く摩擦熱!!手前勝手な私の二つの持論。

2007年11月02日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

ようやく、中日ドラゴンズ、日本一ですね。
しっかし、53年ぶり・・・とはでっらやっとかめだがね(笑)。

今年の中日は、アメリカのロッキーズ同様、CSで阪神・巨人ストレートの5連勝で勝ち上がって来たチームだけに、初戦を落としたときは、今年も厳しいかなと思ったんですが、よくやりましたよ。
やはり、振り返ってみれば、キーポイントとなったのは第二戦だったでしょうか。
まず、勢いで来たチームが初戦を落としたものの、ロッキーズのように、決して、大敗しなかったことで、心理的なダメージが最低限に抑えられたと言え、その上で、逆に、第二戦に、しっかり、快勝できたことが大きかったように思います。

新庄・小笠原が抜けた日ハムに関しても、同じく、工藤(公康)が抜けたからもう勝てない」と言われたときの2000年福岡ダイエー・ホークスが、リーグ優勝はしたものの、日本一になれなかったこともあり、正直、どうかな・・・とは思っていたのですが、ただ、そのときと比べて大きく違うのは、相手が「金に飽かせて片っ端から好選手を獲ってきた」ときの巨人と、「二年連続での顔合わせとなった」中日であったという点でしょう。
さらには、戦力的には、ダルビッシュを中心とする投手力の充実という点では日ハムが一枚上かな・・・と思っていたこともあり、やはり、日ハム優位ではないか・・・と思ってましたが、それにしても、ようがんばっただがね。
もう、これで、あと50年は日本一にならんでもすむかなも(笑)。

で、全然関係ありませんが本題です。

「浮き世とは
    憂きことばかり
           多かりき
  憂き世というも
      道理なりけり」
  
                平太郎

私のモットーとしては、「そもそも、のうちまでは、どっちでもいいことが多いことから、これは相手に譲る。しかし、残りのはどんな摩擦を起こしても譲らない!」というのがあります。
ところが、人は七まで押し切れたら、平気で残りの三の部分に踏み込んで来るようです。
それが、好まぬ摩擦が私に多い所以のようです・・・。

もうひとつ、私の勝手な持論ですが、「人はいつ老人になるのか?」というのがあります。
私は「人は年を取ったから老人になるのではなく、理想を無くしたときに老人になる」と考えております。
そこまでは、どこやらの詩にもあるようですが、ここから先が私の勝手な持論です。

理想は大事だが、しかし、理想は絶えず現実の前に破れるという性質があるため、我々は、絶えず上手に現実と妥協していく必要があると思います。
ただ、それでも、自分はどこへ行こうとしているのか、自分は、会社は、国は、一体どこへ行こうとしているのか・・・という理想は必要で、これがないのは、目的地のない航海に等しく、まさに「暗夜に海図なき航海を行く」に等しいものだと思いますが如何でしょうか?御同輩。

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美醜なるものが存在する意義がわからない週初めの戯言

2007年10月15日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

最近、思うことがあります。
人には、どうして、美醜などというものが存在するのかと・・・。

まあ、私などは、お世辞にも「美」の方には縁がある人間ではありませんので、胸を張って言うのですが(笑)、世の女性は一般的に背が高い男性、もしくは、大柄な男性を好む・・・ような傾向がありますが、あれは、生物学的に言うと、「大柄な方が体力的に生き残れる可能性が高く、即ち、子孫を残せる可能性が高い」というようなことを本能的に感じる為・・・というようなことを聞いたことがあります。
(魚でも何でも、メスは、大きなオスを好むなどという話もあったような・・・。)
同様に、世の、少なくない男性が、胸が大きな女性を好む傾向があるとも耳にしますが(あくまで一般論です。私はその限りではありません・・・はずです(笑)。)、これも、より確実に生まれてきた子を育むことが出来るため・・・ということの、オスの本能的な嗜好だとか。

なるほど、そう言われれば、これはこれで、一理あるような・・・。
ただ、そうなると少しわからないような気がするのが、子孫繁栄とは何ら関係ない「美醜」の問題です。
美人不美人などというのは、主に人体の中で上部に位置する頭部の前面である「顔」の中のパーツの問題ですよね?
であれば、顔のパーツ自体に、「背」や「胸」、あるいは、「気性」さえも凌ぐ、絶対的なまでの好き嫌いを左右するほどの理由があるようには思えないんですよ。
仮に、この、「種の保全」の法則を適用したならば、顔のパーツは皆、大きな方が良い・・・ということになるのでしょうが、現実には、必ずしもそうではないわけですよね。
食べ物をたくさん詰め込める・・・ということならはでかい方がいいのでしょうが、実際には、「きりりと引き締まった唇」などと形容されるように、小さい口の方が「美」とされるわけで、さらにいえば、二重まぶたなどは、「種の保存」の為には、何ら必要基準でもないわけですよね?

そもそも、美醜というのは、極めて、感覚的なものであり、文化によって、民族によって、また、時代によっても基準が違うというところがあるようです。
現在、「美」の理想とされているのは、ギリシャ彫刻のようなコーカソイドの顔立ちがのようですが、古代ローマに初めて、アジア系フン族が姿を現したとき、西洋世界の史家は、「顔には、注意して見なければわからない程度の特徴しかない」というような意味のことを記述しているとか。
となれば、これには、アジア的な顔立ちに、彼らはあまり、美的な想いを持っていたようには読み取れませんから、彼らは古くから、ギリシャ風の顔立ちを理想としていたことが窺いしれるかと思います。
ただ、逆に、これはある意味、古代日本人が中国に対しての思慕の念から、漢民族系扁平な顔立ちを美の理想としたことと同じだと言えなくもないでしょうか。
また、江戸時代の浮世絵などでも、美人画といわれるものは、すべて、瓜実顔に切れ長の目・・・であり、だとすれば、現在の「ギリシャ彫刻のような顔立ちに究極の美を感じる」感覚というのは、明治以降で、欧米諸国によって植え付けられた、人為的な感覚なのではないかと。
であれば、美醜とは、何と底の浅いものではないかと思う次第です。

もちろん、これら美醜には「背」や「胸」と同じように、個人の好みの問題もあるでしょう。
「蓼食う虫も好き好き」・・・等という言葉もありますから(笑)。
しかし、世には厳然として、松坂慶子さんや吉永小百合さんのように、圧倒的多数の人が「美しい」と感じる人と、そう感じない人が存在するわけで・・・。
誰とは言いませんが(笑)。

まあ、お世辞にも、もてたことがない男の戯言とお聞き流しくださいませ・・・。

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理論と実践は車の両輪!

2007年10月13日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

以前、平太郎独白録 : 好漢惜しむらくは兵法を識らずの中で、「実践無き理論は空論に終わり、理論無き実践は悲劇に暮れる」と言ったのを覚えておられますでしょうか?
これに関して、「信念」と「頑固」の違いは何だと思われますか?
例によって、勝手な私見で言わせて頂くなら、それは「信念という物には裏付けがいる。それが理論である。理論的裏付けがない信念とはただの思いこみ頑迷固陋に過ぎない。信念頑固とは似て非なる物なのである。」だと思います。

「頑固というのは人の話を聞かないこと。信念というのは人の話を聞いても考えを変えない人のこと」という話を聞いたことがあります。
頑固とは即ち、頑迷固陋のことですから、これはこれで間違ってないと思います。
一方で、その論で行くなら、信念とは、「人の言に耳を貸さないことではない。人の言に惑わされないことである」ではないでしょうか?
聞いても考えを変えないというのでは、聞いたか聞かなかったかだけの違いで、頑固と大差はないようです。
即ち、信念とは考えを「変えない」のではなく「変わらない」、そして、その為には、考えが変わらない根拠がいるのです。
「直感」「閃き」なども然りでしょう。
しかし、それは一握りの天才にのみ許されることであり、凡人が真似をすることは危険極まりないと思います。
そこで、凡人にとっての根拠こそ、理論なのだろうと思います。
思想と言い換えてもいいかもしれません。
考えに理論的な背景があれば、人から説得されても、理論が変わらない限り考えを変えることもないし、逆に、変えなければならないときにも柔軟に対応できます。
ただの頑固な人とはここが違うのです。

その意味では、理論実践というのは、どちらが欠けてもいけない車の両輪であると思います。
理論だけの人は「自分では何も出来ないくせに、口だけは達者」と言われ、実戦だけの人は「好漢惜しむらくは兵法を識らず」ということになってしまいます。
理論だけの人は侮りを受け、実践だけの人はいいところまでは行くけど限界がある・・・。
とは言え、哀しいかなこれを両方持っているユリウス=カエサルのような人はごく希で、決して多いとは言えません。
「名選手、名監督ならず」とはよく言われることです。
(無論、名選手にして名監督であった川上哲治さんのような例外もあるでしょうが。)
しかし、経営学者は皆、一流の経営者である必要は無いわけですし、実際に経営できないからと言って、経営学そのものが否定されるべきものでも無いわけです。
では、どうするのか?

努力して、欠けている分野を自分自身で埋めるというのも一つの方法でしょう。
また、お互いがお互いを必要とするのですから、自分に無い能力、欠けている部分は、それに秀でた人、それを持った人に任せるというのも一つの方法だと思います。
つまり、小泉純一郎元総理が「丸投げ」と批判されたそれですね。
丸投げというものが問題になるときというのは、
1.任せておいて責任とを取らないとき、もしくは信用しないとき
2.決定権がどちらにあるのか、あやふやなとき
3.丸投げした内容に無関心であるとき
だと思いますが、如何でしょうか、御同輩。

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経営統合にみる人間とは指図されることが嫌いな生き物

2007年09月10日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

「我々の稼業、考えすぎるのも良くないが、考えないというわけにもいかない」
                                          平太独白

先日、思わず、呟いた一言です(笑)。

で、本題です。
経営統合した大丸松坂屋ホールディングスは、福岡市の博多大丸などの地域子会社仕入れ・発注業務共通化を進める方針だとか。
また、早速、どちらかの販売責任者が、相手方に乗り込んで、店員に指導していましたが、確かに、お互いにこれまで培ってきた独自のノウハウがあるはずで、気が付いたところを指摘しあうことは、「本来」であれば、大いに有益なのだろうと思います。
ところが、人間という業の深い生き物は、なかなか、「本来」の通りにはならないことが多いわけで・・・。

昔いたある会社で、私が唯一の業務経験者だった部署がありました。
別に責任者でも何でもなかったのですが、責任者氏にも、殆ど経験がなかったため、責任者から言われて、私が他の同僚らに色々と教えてあげる形になったのですが、ところが、何を教えてあげても、彼らは、「そんなことしたら・・・」とか、「出来るはずがない」、「そんなバカなことを」などと、とにかく、ネガティブな反応ばかり・・・。
中には、ムリヤリ、欠点をあげつらっているようなものさえありました。
こうなると、詰まるところ、いくら懇切丁寧に教えてあげても、彼らが受け入れることはないんですね。
つまり、人間というものは、本質的に、人から指図されることが嫌いな生き物なんだと・・・。
いくら有益な指導でも、それを本心から受け入れさせる為には、本人が壁にぶつかっているか、そいつが考え出したことにするかしないと、ダメなんですね。

この点では、私が壁にぶつかって苦しんでいたとき、ある上司から、「あ、それは簡単なんだよ」と言われ、以後、見事に成果を上げるようになったことがあります。
つまり、私も人のことを言えた義理ではなく、その前に私は壁にぶつかっていたからこそ、それを受け入れたわけで、最初から、頭ごなしに「こうしろ!」と言われていたら、果たして、それを受け入れたかどうか・・・。

以前、現横浜ベイスターズ工藤公康投手が、まだ、福岡ダイエーホークスにいた頃、取材に訪れた元阪急ブレーブスのエースだった今井雄太郎氏に対し、「うちの若い投手たちは、投球の軸にする球を持っていないので、今井さんのシュートを教えてあげてくれませんか。うちで、そういうシュートを投げるのは、西村(竜次)くらいだから、きっと、役に立つはずなんですけどね」と言っていました。
このとき、今井氏は、気持ちよく快諾するかと思いきや、何か、諦観したかのような顔で、「いや、向こうが聞きに来れば教えてあげるけど、聞きに来ないものに、こちらから教えてもダメ。もっと、壁にぶつかって、困り果ててなきゃ」と言っていました。

この点は、視察などでも、ただ漠然と視察に行く者は、ただ漠然としか見て帰ってこないのに対し、「あそこでは、この部分は、どういうやり方をしているんだろう」というテーマをもって視察に臨む者は、確実に、成果という点で大きな差を生む物のようです。

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マルクスの過ちがもたらした20世紀の動乱と菊千代の指摘

2007年09月08日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

こちらの画像は、以前、平日に仕事さぼって、海水浴に行ったときのものです(笑)。
もちろん、我が憩いの志賀島です。
でも、この辺の海も、昔に比べれば、随分と汚くなりましたねぇ。
私が学生時代までは、この辺は、まだまだ、キレイだったんですけど・・・。
先日も言いましたように、以前、「日本人がサンオイルをつけて入るから、ハワイの海が汚くなった。」という話を聞いたときに、「嘘こけー、あんな広い海に人間がチョロチョロと油つけて入ったところで汚れるもんか」と思っていましたが、この辺の海を見ると、確かにそれを実感してしまいます。

などと考えていたら、ふと、の声に気づき、改めて、辺りを見回したら、あれから、25年が経ったというのに、ここから見えている風景だけは昔のまま・・・。
思わず、往事と同じの中に立っている事に気づきました。
違ったのは、私の体重だけ・・・(涙)。

などという、くだらない感慨に浸っている場合ではなく、本題です。
以前、毎日新聞に面白い社説が載っていました。

概ね、「マルクスの抜本的過ちは、民衆は「」であると言うことを前提としたことである。当時の抑圧された状況を思えば無理からぬことであるが、その主張の下では陰惨な結果をもたらしたに過ぎない」と言った内容のことが書いてありました。
今日の民主主義も含めて、人は「弱者は善」だと錯覚しがちであり、私はここにこそ20世紀と言うものの根幹を見たような気がしております。
(日本も決して例外ではなく、やった人もやらなかった人も平等の平等社会となっており、私は日本人に民主主義は百年早かったと思っております。)

すなわち、20世紀の動乱は、勘違いこそが生み出したと。
思えば、「虐げられているものこそが善」だとし、彼らに権力を委ねれば、きっと、世の中は良くなるに違いないという、ゾルゲを始めとして、共産主義の理想に邁進した多くの人が、この入り口の段階ですでに勘違いしていた、もしくは、それに気づかなかったということではないでしょうか。
だとすれば、彼らの行為はまるっきり、歴史の中のピエロ以外の何者でもないように思えてきます。
黒澤 明が代表作「七人の侍」の中で、三船敏郎演ずる野人・菊千代の口を通して言わせた「百姓ほど、臆病で、ずるがしこく、残酷で、お人よしでまぬけ」・・・との表現こそは、実に、的確であり、民衆と言うものを見る目は、マルクスよりは、よほど透徹していたように思えます。
如何でしょうか、御同輩。

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安倍・麻生的アラが見えない分だけ尊敬しやすい祖父論

2007年09月06日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

またもや、農相辞任だと・・・。
でもって、同じニュースかと思いきや、元農相だとか言ってるから、良く聞いたら、別の人だったり・・・。
で、そのついでに、外務政務官辞任だとか言ってたから、良く聞いたら、自民党の別の参院議員が辞職だとか・・・。
で、環境大臣にも疑惑・・・って、もう、事実上、政権崩壊ではないですか?
参議院で、問責決議案が出ることを考えれば、事実上、もう、だめでしょうね・・・。
「解散か総辞職」かって、解散なんて出来るわけ無いんだから、総辞職しかないでしょ。
だから、言わんこっちゃない・・・という。
到底、サミットまで持たないでしょ。
(もっとも、野党としては、現政権のままで衆議院を闘った方が闘いやすいわけで、その意味では、本音は現政権継続なのかもしれませんね。)
ここまでくれば、いっそ、農相の後任には、安倍内閣発足以来、徹底して干しあげている谷垣さんを指名したらいいのでは・・・。
不祥事が出てくればよし、出てこなくてもよし・・・ということで(笑)。

ところで、先般、安倍総理が松岡農相の後任に赤城さんを指名したとき、赤城さんが安倍総理の祖父・岸 信介元総理の盟友の孫であるということが言われましたよね。
で、先日は、インドに行って、東京裁判の時、A級戦犯全員に対し、独り、無罪判決を下したことで知られるパール元判事の長男に会ってましたが、パール判事は、A級戦犯無罪を主張したものの、別に、日本に同情的だったわけではなく、ただ、当時の法体系では有罪に出来ないという「法律論」に則っただけのことで、(いわゆる、罪に合わせて法律を作る事後法というやつですね。)事実、判事は、「彼ら(A級戦犯)は、おそらく、罪を犯したのだろう。しかし、戦争前の法では、彼らを有罪とすることは出来ない」と記してあったとか・・・。

で、このときのA級戦犯の中には、岸元総理が居たわけで、安倍さんも、お祖父ちゃん尊敬するのもいいけど、なんかちょっと、個人的趣味、優先させすぎじゃないですか?
安倍さんの岸元総理に対する思い入れと言えば、以前、平太郎独白録: 安倍総理の通信簿 その2でも申し上げたように、安倍政権の最大の政権課題である憲法改正についていも、安倍さんにそれほどの理解があるようには思えないんですよね。
(この点は、小泉純一郎前総理は、たとえ他の案件は官僚の作文を棒読みしていても、こと、郵政民営化の話になると、俄然、ガンガン話しましたよね。事の是非はともかく、安倍さんにはこういう命題に対する理解が感じられないんですよ。)
つまり、安倍総理が「憲法改正」を口にしているのは、単に、お祖父ちゃんがやろうとしたことだから・・・というだけのことなんじゃないですか・・・と。

で、お祖父ちゃんと言えば、安倍さんの次の総理の有力候補である麻生太郎氏も、お祖父ちゃん(吉田 茂元総理)を意識しすぎではないですか?
マンガ好きというのも、お祖父ちゃんが、「愛読書は?」と聞かれて、「銭形平次」と答えたというのを意識しているんじゃないですか?
別に、無理して、口をへの字に曲げなくてもいいのに・・・と(笑)。

この点で思い出すのは、徳川三代将軍家光は、父、秀忠を尊敬せずに、祖父、家康を尊敬したと言われていますよね。
無論、創業者であり、一代にして頂点まで上り詰めた祖父を尊敬するというのは、必ずしも、悪いことではありませんし、わからないわけでもありません。
しかし、「父」ではなく、「祖父」というところがミソなのです。
つまり、祖父というのは、多くが子供の頃しかしらないから、アラが見えないんですよ。
いくら大人物であっても、身近に接すると、色々と、アラが見える「父」に対し、子供の頃しか接したことはない「祖父」は、アラが見えにくいわけで・・・。
家光が尊敬した祖父、家康も、現実には、どういう親だったか・・・といえば、長男殺害、次男飼い殺し、三男いじめ、七男追放・・・で、後は、晩年に出来た赤ちゃんたちを別にすれば、若死夭折かだったという。
こんな親、今だったら、児童相談所が引き渡しを拒否するんじゃないですか(笑)。

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