平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

春眠暁を覚えずに思う邯鄲の夢的妄想にみる指が痛い!

2006年04月28日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

昨日の午後、机の上に積み上げてあった本をどかそうと、本の下に手を突っ込んだところ、突然、左手薬指激痛が・・・。
何と、本の下には、カミソリ・・・。
カッターナイフと違い、刃先を収納出来ないカミソリは、ペン立てなどに立てておくと危ないからと思い、机の上の、よく見えるところに置いておいたのですが、それが仇に・・・。
その上に、迂闊にも本を重ねてしまったんですね。
傷口は、かなり、ひどい・・・。
スパッと切れて、パッカリと開いています。
出血も半端じゃありませんでした・・・。

まあ、商売柄(?)、こういう怪我には馴れてはいるんで、いつものように絶縁テープで止血して、今朝ほど、近所の外科に行ってきました。
(馴れている私にとっても、史上一位二位を争うほどの怪我でした。)
案の定、「縫合」されました。
今頃、麻酔が切れて痛いです。
ていうか、ついでに、ここ3年くらい、トゲが刺さったままだった左手中指も手術で取り除いてもらいましたから、左手が指二本包帯だらけで、キーボードが打てません・・・。

ということで、春ですね。
春と言えば、春眠暁を覚えず・・・でしょうか。
ということで、今日は夢について述べてみたいと思います。

まず、「邯鄲の夢」というのをご存じでしょうか?
まあ、私なんぞが改めて言うことではないのでしょうが、確か、
「中国は唐の時代、ある不遇を託っていた青年が、邯鄲という街の宿で、たまたま、一緒になった道士からを借りて眠ったところ、みるみる枕が大きくなって、枕の横の部分にあった穴の中に入って行くと、家があり、そこの娘を嫁にもらった縁で、官途につき、その後、栄達したかと思えば左遷されたり、復活したかと思えば失脚したりした挙げ句に、最後は高官として、一生を終える・・・というを見た。だが、目覚めてみると、炊きかけの大粟もまだ炊き上がっていないわずかな時間であった。」という話だったと記憶しております。

まあ、人生栄枯盛衰はかないことのたとえであり、かつ、我が身の不遇ばかりを嘆くでないよ・・・という戒め的な話なのでしょうが、何故こんなことを言うかというと、実は、私もこれと似たような不思議な経験をしたことがあるからです。
お恥ずかしい話ですが、まだ建設現場に出ていた20代半ばの頃、陰気な、辛いだけの職場だったこともあり、時間が早く過ぎることだけを願っていた私は、作業中、よく、空想にふけってました。
そのときも、いつものように、作業場で材木を削っているときでした。
と言っても、電気カンナに材木を突っ込むだけですから、単純な作業の繰り返しです。
私は、いつものように、空想にふけりました。

ある日突然、当時の日本の最大の仮想敵国であったソ連が、一斉に、日本に侵攻してきて、大混乱になります。
私は、その侵略に対し、レジスタンスに身を投じ、戦乱の中で、次第にレジスタンス軍の中で重要な地位につき、そして、ソ連を撤退させたことにより、最後は、この国の独裁者にまで登り詰めます。
(細かい経緯は忘れました。)
独裁者となった私は、まず、理想の国家作りを実現すべく、改革へ着手。
改革に抵抗しようとする、抵抗勢力皆殺しにしました。
次に、その連中の近親者クーデターの計画があることが発覚し、先手を打って、この連中もすべて粛正しました。
すると、今度は、それにつながる友人、支援者たちが恨んでいるという情報を得たので、これも、すべて殺しました。
その後も、それらを繰り返していくうちに、ついには、自分の側近家族も信じられないようになりました。
まさしく、スターリンそのものじゃないですか!
私は半ばパニックになり、「どうしてこんなことになったのか!こんなはずではなかったのにぃ・・・!」と叫びそうになって、ふと我に返りました。
そのとき材木は、まだ10本程度しか削れてなかったと言う・・・。
これは、ただの、私の、取るに足らない妄想だろうか・・・、それとも、何かが私に与えた啓示だったのだろうか・・・ということは、私にはわかりませんが、ひとつだけ、はっきりと言えることがあります。

「自分に死ぬ勇気がない奴は、絶対に、人を殺してはいけない。」

おそらく、スターリンも同じ状態だったのでしょう・・・。

嗚呼、マジで指が痛い!!!
今日ばかりは、意味不明をお許し下さい・・・(泣)。

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西鉄ライオンズの帽子に想う、ノムさんの覚悟とマスコミの怠慢。

2006年04月27日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

実は、先日、たまたま入った食堂で、西鉄ライオンズの帽子を被ったお年寄りをお見かけしました。


(これです。モデルはもちろん、私です(笑)。私も愛用してます。)

「懐かしいのを被ってありますね。」と言うと、店の人が、「この人は、元、西鉄の選手だったんだから。」と。

元西鉄の選手ったって、知りもしない人もたくさん居たんだろうから、「ああ、そうですか?」と軽く聞き流して席に着こうとしたら、店の人が聞きもしないのに、その方のフルネームを教えてくれました。

で、それを聞いてびっくり!
何と、私と、昔、同じ町内会だった人じゃないですか!
向こうは、当然、年代も違いますし、私のことは知らなかったでしょうが、私が子供の頃はあちらは有名人でしたから、こちらは、当然、知ってました。
でも、私が子供の頃は、もう、選手は引退されていて、西鉄の後身である太平洋クラブ・ライオンズ打撃コーチをしておられたように記憶しております。
それでも、こんな奇遇もあるもんだと・・・。

で、現在のプロ野球の方は、ホークス4連勝2位浮上・・・てよりも、楽天イーグルス、また、負けましたね。
まさに泥沼・・・。


(こちらは、今年から、福岡ヤフードームにお目見えしたフィールドシートです。フェンスの外ファールゾーンに席が張り出しています。)

去年の今頃より成績悪いみたいで、ノムさんも、「こんなチームじゃ、すぐに結果を出すのは無理だ。」とか、「いい選手を獲得してくれなきゃ、どうしようもない・・・。」ってことを言っておられますけど、でも、私に言わせれば、今更、それはないでしょ!って言いたいですよ。
以前、私が監督に就任する前の野村さんのセミナーを聞きに行ったときも、「私に楽天の監督やらせてくれないかなー。田尾よりはマシですよ。」って、はっきりと言っておられましたから・・・。

でも、同じく、そのとき、ノムさんが言っておられたことで、気になるセリフがありました。
曰く、「私も、もう、70歳ですよ。同級生が段々、いなくなってしまって・・・。私の同級生で、球界に残っているのは、長島と今、オリックスの監督やっている仰木の二人だけ・・・。それが、長島は、ああなっちゃったでしょう。」と・・・。
で、ご承知の通り、それから間もなく、仰木さんが監督退任後、すぐに亡くなられたわけですが、これについては、その前年、仰木さんが監督に就任された当初、かつて、仰木さんと西鉄ライオンズの同僚だった豊田泰光さんが、「仰木にあの年で監督をやらせるなんて、無茶だ!まるで仰木に死ねと言っているようなもんだ。万一のことがあったら、どうするんだ!」と言っておられたと聞きました。
それほどに、監督業というのは激務なんでしょう・・・。
その意味では、ノムさんも、その仰木さんと同じお年で、それも、球史に残るほどに群を抜いて弱いチームの監督を引き受けられたなんて・・・。
息子の、カツノリ捕手のことを思えばこそ・・・でしょうが、やはり、内心は、相当の覚悟なんじゃないでしょうか・・・。

で、こんなオールドプロ野球に触れたこともあり、少し思うことがありました。
それは、朕思うに、かつて、野球選手には、ユニークな形容詞が付けられてましたよね。
「ミスタープロ野球」と言えば長嶋茂雄
「打撃の神様」と言えば、川上哲治
他にも、「悪太郎」「安打製造器」「鉄腕」、「怪童」・・・、中には、「針の穴を通すコントロール」などというのもありました。
これらの形容詞の付け方の絶妙さには、ホント、惚れ惚れしますよ。
でも、これらはすべて、過去のマスコミの先輩方が命名されたもので、最近の選手には、そんな形容詞が見あたりませんよね。
選手が画一化され、個性が無くなったと言う声も聞きますが、かつての、落合博満選手なんか、かなり、個性的な選手だったように思うのですが、それでさえも、特に形容詞はありませんでしたよね・・・。
いいなと思うのは、せいぜい、野茂トルネード投法くらいのもので、イチロー振り子打法なんて、本人に否定されて終わっちゃいましたし・・・。
番長清原くらいのもので、松中小笠原はまだしも、あのSHINJOHだって、特にないわけですから・・・。

これって、マスコミの怠慢なのではないでしょうか?

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続・博多うどん考察 かろのうどんと中世博多うどん!

2006年04月26日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

先日申し上げました平太郎独白録 「七百年前の港湾都市の現実にみる年越しそばの起源!」の続編なのですが、私は実は、うどんが大好きでして・・・、そばは最近、食うようになりましたが、昔は、まったく・・・。
大阪万博のとき、会場内の食堂には、うどんが売ってなくって、他に子供が食べられそうな物は、そばしかなかったという・・・。
それも、ざるそばなら、まだ、何とか・・・って思ったんですが、メニューにあったのは、汁そばのみ・・・。
まるで、私に「好き嫌いしないで我慢して食べなさい!」と万博が言っていたようで・・・。
でも、「東京はそば、大阪はうどん・・・」だったんじゃないんですか???
あの当時から、もう、大阪は東京に呑み込まれ始めてましたね・・・(怒)。

って、そういう私事はさておき、昭和40年代後半に、永六輔さんがやっていた浅田飴のCMを覚えておられますでしょうか?
永さんの独特の口調で「行った先々で語る・・・」というCMだったのですが、その中の一つに、「大変美味しいうどん屋さんを見つけました。店の名前は『かろのうろん』。この地方では、だぢづでどが訛ってらりるれろになるそうです。だから、『角のうどん』が訛って、かろのうろん。浅らあめ。」というのをやってたことがあります。
当時、小学校高学年だったと思うのですが、私はそれを聞いて、「へえー、だぢづでどがらりるれろになるなんて、日本には、変わったところもあるもんだな・・・。」と思ってたのですが、それからしばらくして、うちから歩いて15分くらいのところに、この「かろのうろん」が有るのを見つけました。
「おお!かろのうろんも、あのCM有名になって、ついに福岡にも支店ば出したばいな!」と思っていたら、それは、支店ではなく、本店でした・・・。
つまり、「変わったところ・・・」というのは、北陸でも、四国でも、東北でもなく、うちの近所だったわけで・・・(汗!)。
だって、博多弁に、そんな訛りがあるなんて、初めて聞いたんだもん・・・。
思えば、博多には「博多にわか」という伝統芸能・・・、つまり、博多弁の漫才があるのですが、これが私には、何を言っているのかがさっぱりわからない・・・。
おそらく、うちの祖父だったら、大笑いしたのかもしれませんが・・・。
方言も、時代と共に変わっていくものなんでしょうね・・・。

で、話をうどんに戻しますと、タモリさん曰く、「博多のうどんは、元来、歯ぐきで嚙めるうどん」だと。
(もっとも、「讃岐うどんなんて、アゴがくたびれるだけだ。」とも仰ってましたが・・・(笑)。)
確かに、最近でこそ、博多にも、手打ちうどんなどが出てきましたが、昔は、博多のうどんと言えば、「歯ぐきで嚙める」ような、ふにゃふにゃしたうどんでしたね。
私も、25年くらい前に、初めて博多に出来た本格的な手打ちうどん食って、「こりゃ、うめー!」と思いましたから・・・。
(それまでは、看板には手打ちうどんと書いてあっても、実際にはまったく、手打ちではなかったですね。)
でも、タモリさんの話には続きがありまして、曰く、「讃岐うどんなどの手打ちうどんは、歯ごたえを楽しむのであって、博多のうどんは、歯ぐきで嚙めるうどんだけど、それは喉ごしを味わううどんなんだ。 」と。
喉ごし・・・ってのは、私にはイマイチ、わかりませんが・・・。

ちなみに、以前、大河ドラマ「北条時宗」があったときに、元寇のシーンを実際に博多湾で収録したのですが(と言っても、もろ、福岡タワーの近くですから、当然、他にも商業施設はたくさんあり・・・。まあ、今は、編集の際に、いくらでも消せますからね・・・。)、その際、収録後に、そのまま、セットを一般に開放して、北条時宗展というのをやっていました。

そのとき、そこで、伝来当時のうどんを再現した「中世博多うどん」というのをやってまたのですが、当然、新しもの好きの私としては、食べてみたのですが、まるで記憶にありません(笑)。

で、詳しい定義は忘れましたが、当時のうどんというのは、麵が赤みがかったうどんだったと言います。


(これですね。少し、麵が赤みがかっているのがおわかり頂けるでしょうか?)

その後、しばらく経ってから、その「中世博多うどん」を売り出したところがあり、結構、変わった食感が気に入って、以来、私もよく行ってますが、当初は、何玉頼んでも料金は一緒だったのですが、私があまりにも食べ過ぎたからか、すぐにそのシステムはなくなりました・・・(笑)。

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我が愛しの名作、「どろろ」にみる理想と現実の真理!

2006年04月25日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

戦国の梟雄、北条早雲が泥棒を捕らえたとき、泥棒が早雲に向かい、「俺のことを泥棒だと言うが、お前の方が大泥棒ではないか!俺は、物を盗っただけだが、おまえさんは、国を獲った!」と言い、早雲も、「確かに。」と納得して、泥棒を放してやったという逸話があります。



で、泥棒と言えば、私が子供の頃、大好きだったテレビ・マンガ-「どろろ」-というのがあります。
手治虫氏の作品で、水木しげる氏の「ゲゲゲの鬼太郎」を意識した作品だと言われてますが、当時、私は小学校低学年だったと思いますが、毎週、欠かさず見てましたね。
何でも、今度、実写版で映画化されるとのことですが、「御願いだから、やめてくれ!」って感じですよ・・・。



時代は、戦国時代初頭、まさしく、早雲と同時代辺りかと思われますが、「父の野望犠牲となり、妖怪に体の48箇所を奪われた」百鬼丸という若者が、「どろろ」という元気な子供の泥棒と共に、自分の体を取り戻すべく、妖怪退治の旅を続けるというマンガでした。
百鬼丸という若者は、体のあらゆるパーツ感触までを妖怪に持って行かれたが為に、手も足も目も耳も、あらゆる部分が作り物であり、それを筋肉ではなく、念力テレパシーで操っているという設定でしたが、それだけに、作り物の両腕にはが仕込んであり、同じくには硫酸は爆弾と言った具合に、体中、武器だらけで(私も、使った後、そんな物、どこで補充しているのかな?とは思ってました(笑)。)、子供心に「カッコイイ!」と思い、私も、交通事故にあったら、両手に刀を入れてもらおうと思ってました(笑)。

で、DVDが発売されるや、これだけは!と思い、早速、買いましたね。
ボックスで。
高かったけど、これだけは、買わねばならぬ・・・と(笑)。

で、あらためて見てみてみて、さすがは「神様、手治虫作品」と・・・。
単なる子供向けのアニメに留まらず、風俗から建築様式まで時代考証は正確であり、建物の木目の一つ一つまでの丁寧さ、絶品でしたね。
オープニングでのテーマソング場面でも、民衆の蜂起とそれを鎮圧する将兵というものが描かれてましたが、そこに出てくる部隊を指揮する馬上の武士は、私には帝国陸軍将校に見えましたね。
おそらく、手さんの意識の中でもそうだったのではないでしょうか・・・。

で、当然、子供心にも、強く印象に残るシーンは幾つもあったのですが、それは置くとして、今回、そのDVDを見ていて、少し、思うところがあったのが、「どろろ」が町を闊歩していて、行き倒れ僧侶に呼び止められるシーンでした。
「小僧さ~ん、小僧さ~ん・・・。」
「何でぇ、誰かと思えば坊主じゃねえか!」
「御願いですじゃ・・・。何か、何か食べ物をくださらんか・・・。」
「ばっきゃろう!食い物欲しけりゃ、てめえで盗んでこい!
「何と言うことを・・・。世も末じゃ・・・。」
「何言ってやがる!侍が人の命を盗んでいる世の中じゃねえか!食い物盗んで何が悪い!違うか、クソ坊主!」

これに対し、僧侶は、何か、説教めいたことを言うかと思っていたら、力なく、一言、「道理じゃぁ・・・。」と・・・。
確かに、私にも、どろろの言っていることは、一理あるように思いました。
この状態では、いかな名僧高僧でも、何を言っても、説得力ないですよね。

この辺の現実と理想の折り合いというのは、私は、以前、平太郎独白録 「孤立!微熱!歩く摩擦熱!!手前勝手な私の二つの持論。」の中で述べた通りなのですが、確かに、この僧侶のように、理想に殉じるのも、また、ひとつの生き方でしょう。
戦後、そう言って、闇米を食わずに餓死した検察官がいましたよね・・・。)
でも、宗教家でない、経営者や武将と言われる人たちは、高い理想を持たねばならないが、かといって、それに囚われてはならない・・・。
会社は潰してはいけないし、国は滅ぼしてもいけない・・・。
理想という物は、現実の海を航海する者にとっては、見失ってはいけない北極星のような物だと思います。
しかし、理想は、絶えず、現実の前に敗れ去る宿命にある。
従って、我々、俗人は、理想は高く掲げつつ、絶えず、上手に妥協していくことを忘れてはいけないと思います。

どろろは、生きる為には、必要であれば、食い物は盗まなければならないし、北条早雲は自分の理想を実践する為には、人の国を盗らなければならない・・・。
違いますか?御同輩・・・。

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スポーツ選手の落日に見る一芸で飯を食うことの意義。

2006年04月24日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

今、お笑いブーム(第二次?)らしいですね。
毎日、テレビを付けるたびに、色んな若手芸人さんたちが出てますよ。
まあ、面白いのもあり、くだらんと思うものもあり・・・です。
でも、テレビに出ているこの人たちというのは、水面下に隠れているもんのすご~~~いピラミッドのほんの一部分なんだろうな・・・と思います。

思えば、まあ、何の商売でもそうなんでしょうが、お笑いの世界に限らず、役者・作家・芸術家などからプロ・スポーツまで、「一芸で飯が食っていける」というのは、本当に凄いことですよ・・・。
端的にそれを現しているのが、「僕の家族は皆、歌がうまい。でも、歌で飯が食っていけるのは僕だけ。」と言った演歌の北島三郎御大の言葉ではないでしょうか・・・。

で、プロ野球にしても、草野球まで含めれば、これまた、もんのすご~~~いピラミッドがあるわけで、水面よりほんのわずか上に出ている部分がプロであり、仮にそこに入ったとしても、そこからまた、一軍に入り、さらにレギュラーとなるのは、これまた、限られた一部の人であるわけで、ましてや、主力選手として、10年、20年、それなりの成績を残せる人たちというのは、水面より上のピラミッドのこれまた、ほんの一握りであり、ましてや、王・長島イチロー・松井クラスになれる・・・というのは、もう、天文学的・・・と言っていい確率だと思います。

さらに、そこそこ、活躍したとしても、選手寿命というのは、せいぜい、20年程度の物であり、引退後は、皆が皆、監督、コーチなどの管理職になれるわけでもなく(実際、「名選手名監督ならず」という言葉があるくらいですから・・・。)、となれば、解説者になるしかないのでしょうが、スター選手と言ったところで、毎年、同じ数だけ、引退してくるスター選手がいるわけで・・・。
つまり、引退後も何らかの形で野球に関わっていけるというのは、限られたほんの一握りであり、板東英二氏のように、テレビタレントとしてやっていくとか、江本孟紀氏のように国会議員になるなどの転身に成功すればいいですが、そういう人たちこそ、逆に言えば、限られた人たちなわけで・・・。

特に野球選手というのは、学校行ってた時代から、ずっと、野球だけしかしてこなかった・・・という人たちが少なくなく、元巨人の広岡達郎氏は、引退後、地下鉄切符の買い方がわからなかったと言いますし、私と同年では、もっとも期待された選手だったヤクルト・スワローズ高野投手などは、引退後の転身がうまくいかず、自ら命を絶ちました・・・(涙)。

まあ、「ハイリスク・ハイリターンこそがプロであり、安定した生活を望むならアマチュアに行け」と言ってしまえば、それまでなのですが、先日、スポーツ選手引退後バックアップするビジネスが話題となっているというニュースを耳にしました。

元々、こういう人たちは、辛い練習にも耐え、ある程度、結果を残して来る事が出来た人たちですから、体力的にも、精神的にも、「優秀な素材」(あくまで、「人材」ではなく「素材」ですね。)であろうことには違いないと思います。
まあ、すべては、そこに目を付けてくれる雇用主がいるか・・・ということなのかもしれませんが、この点で、私は、少々、思うことがあります。

かつて、巨人で一時代を築いた強打者に青田昇という人物が居ます。
彼は、引退後、ある会社社長の運転手になった時期があったそうで、あるとき、社長に同行して銀座クラブへ行ったところ、その社長は、グラス片手に、「おい、青田!俺の靴をふけ!」と靴を突き出したそうです。
すると、青田氏は、黙って、ポケットからハンカチを出し、きれいどころの女性がたくさん居る前で、ひざまづいて、その靴を拭いたとか。
それを見て、社長は、「巨人のホームラン王も形無しだな!」と大声で笑ったといいます。
その社長氏は、「『巨人の青田』を運転手にしている」ということにステイタスを感じていただけなのかもしれませんし、実際に、世の中には、この手の低俗な人物がいることもまた、事実です。
ただ、この話は、確かに酷い話ではあるのでしょうが、すべて、青田氏サイドから見た話であり、その社長の立場に立って見たならば、「雇ったものの、いつまでもスター意識が抜けきらない青田氏に、思い切り、冷水を浴びせかけ、目を覚まさせよう・・・と考えた挙げ句の行動」という風にも見て取れるわけで・・・。

実際、私も、昔、アルバイトで雇った女性が、二言目には、「私は前の会社では・・・。」と言うのに、辟易したことがあります。
別に、その方は、「前の会社」では、社長だったわけでも取締役だったわけでもなく、単に、「現場では先輩」というだけだったんですけどね・・・(呆)。
アスリートも、引退後は、どれだけ意識を変えられるか・・・、すべてはそこにかかっているようにも思えます。

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七百年前の港湾都市の現実にみる年越しそばの起源!

2006年04月22日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

昨年の暮れに、ネタにしようと思って忘れていたことを、今、思い出しました。
今年の年末までは、まだだいぶ先のことだし、ちょっと、時期はずれかもしれませんが、土曜だし、誰も見てないでしょうから、やっちゃうことにしました(笑)。

博多というところは、これまでにも、度々、述べてきましたように、古くから国際貿易都市として拓けていたことから、博多が日本で初めて!という物がいくつかあります。

建久6年(1195年)(現在の中国)から帰国した僧、栄西は、日本最初禅寺・聖福寺を創建すると同時に、日本に初めて、お茶の種子をもたらしました。
さらに、それから半世紀近く経った仁治3年(1242年)、日本で初めて「国師」の称号を授けられた聖一国師が承天寺を開山。
承天寺の建立にあたっては、NHKの大河ドラマ「北条時宗」北大路欣也が演じたことでも、ご存じかと思いますが、宋国の人・謝国明の支援があったと言われています。

謝国明という人物について、少し、述べておきますと、彼は、自前の船団を持ち、宋と博多を行き来する日宋貿易を成した綱首(船主)であり、その後、日本に帰化し、綱首謝太郎と名乗り、日本で没しています。
つまり、華僑ってやつの元祖ってところでしょうか。
実は、謝国明と言う名前は、私にとっては、割と昔から馴染みがある名前でした。
なぜなら、家から、歩いて10分くらいのところに、「謝国明の墓」と言う看板があったからです。
ただ、謝国明という人物が何者なのか・・・ということはまったく知りませんでした。
ていうか、知らない以前に、先日ご紹介申し上げた「頭山満」と一緒で、「あやくに・あきら?」「しゃ・くにあき?」・・・、何と読むの?って世界でした(笑)。
まあ、当時は、まさか、中国人とは思いませんでしたからね・・・。

彼の墓は、墓石の横に植えられた(だったと思うのですが・・・。)が長い年月で成長し、成長の過程で、墓石呑み込んでしまったとかで、昭和の初め頃までは、幹の中に、少しだけ墓石の頭の部分が見えていたと言います。
その後、この楠は、太平洋戦争中米軍による空襲で枯れてしまい、今では、一抱えもあるような太い幹だけが、「伝 謝国明の墓」として存在しています。

話を元に戻しますと、承天寺というところには意外に知られていないのですが、二つの石碑が建っています。
(昨日、一昨日の話ではないですが、こういう物は、地元ほど知らないもので・・・。以前、中国に行ったときに、ガイドしてくれた方のお母さんは北京生まれ、北京育ちだけど、まだ、「万里の長城」に行ったことがないと言ってましたし、京都伏見の知人に「寺田屋」について聞いたら、「まだ、行ったことがないから知らない。」と言われたことがあります(笑)。)

で、一つは、「山笠発祥之地」で、もう一つが、「饂飩蕎麦(うどんそば)発祥之地」の碑(↑)です。

山笠については、私は出てないので関係ないですから、さらっと流します(笑)。
で、本題のうどんについてですが、国師が宋から持ち帰った製粉技術を記す図面「水磨の図」というものが現存しているそうで、これによって、うどん、そば、さらには、まんじゅうなどの粉食文化が広まったのだとか・・・。

ちなみに、なぜ、年末にこだわったかというと、それは「年越しそば」も博多が発祥の地だからです。
さらに、特に話には関係ないように思える謝国明のことを述べたのも、その前振りでした(笑)。

港湾都市という物は、まあ、今もそうなんでしょうが、多かれ少なかれ、その生計は、入港時に船員が落としていってくれる金以前に港湾荷役などの現金収入に依存していることが多く、それだけに、シケが続いたりして港に船が入らなくなったりすると、労働者の仕事が減ることになり、そうなると、彼らに物を売ることで生計を立てている人たちから、歓楽街のお姉さん方まで、これまた、多かれ少なかれ何らかの打撃を受けるわけで・・・。

この点で、私には強く印象に残っているテレビ・アニメ1シーンがあります。
「男一匹ガキ大将」というマンガだったかと思うのですが、どういう理由によるものかは忘れましたが、主人公が、「港湾労働者たちの中で住み込みで働く・・・」という場面があったのですが、私が覚えているシーンは、ある日、監督者が、「シケで今日の作業は休みだ!」と労働者たちに告げるシーンでした。
主人公とは関係なく、なぜか、その場にいた場違いな学生が、「やったあ!休みだ!」と喜ぶのに対し、その横で、苦虫を噛み潰したような港湾労働者たちが、「冗談じゃねえぞ!」と吐き捨てます。
「休みったってな、シケが収まるまで、何日も、ずっと休みなんだ!」
「え!それじゃあ・・・。」
「つまり、このまま、シケが続けば、俺たちは干物になっちまうってことさ!」と・・・。
このマンガの当時とは、まあ、随分と社会保障なども充実したでしょうから、こんなことはないにしても、おそらく、謝国明の時代は、事情はこの当時とあまり、大差ないのではないでしょうか?

司馬遼太氏の小説、「菜の花の沖」でも、同様の理由で、各地の港は船の入港大歓迎するという既述が随所に見られたように記憶しております。
ましてや、「菜の花の沖」の時代からでも500年、男一匹ガキ大将からは、700年も遡るわけですから、社会保障などというものは、おそらく、発想すら無かったでしょうし、それ以上に、何より、当時の操船技術では、冬場の渡航というものは、大変な危険を伴う物だったことから、オフ・シーズンという物がはっきりしており、ということは、事実上、夏場の稼ぎで一年を暮らさなければならかったと思われるわけで、となれば、冬に入る前にあまり、船が寄港することがない年があったとしたら・・・。

で、ある年の大晦日飢えた町民たちを見かねた謝国明は、承天寺の境内に飢民を集め、そば粉を用いて、そばを振舞ったのだとか・・・。
すると、翌年には、から多くの貿易船来航し、博多の町が再び活気づくことになったそうで、以来、博多では、年越しには「運そば」を食べる習慣が出来、それがやがて日本中に広まり、現在の「年越しそば」となったそうです。
もっとも、当時の運そばは、今のような細切り麺ではなく、そばがきのような形だったと言われていますが・・・。

ということで、今年は少し、飲む方を控えめにして、もっと年越しそばを味わって食べましょう、御同輩・・・(笑)。

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孫子と「人民の狂騒は一ヶ月で終わる」は不朽の理と見つけたり。

2006年04月21日 | 経済・マネジメント
親愛なるアッティクスへ



今日は、昨日よりは風も吹いてないし、まずまずのお天気のようですが、気温は少し低めのようですね。

まあ、あのまま、一直線に向かうとは思ってはいませんでしたけどね・・・。

想定内ってところでしょうか・・・?(←これって、すでに、死語?(爆!)。「人民の狂騒は一ヶ月で終わる。」ってのも平太郎語録にありましたよ(笑)。その意味では、拉致被害者家族の方たちが、何を言われても、テレビ出続けていらっしゃるのは賢明な方策だと思います。いくら、彼らに同情が集まっていようとも、話題に上らなくなったら、人民は一ヶ月で忘れますよ。)

ということで、また、昨日の続きです。

かつて、大分県平松守彦氏が県知事に就任ししたときに、助役か誰かに、「大分は海と山しかない、何もないところですから・・・。」と言われ、「それは違う。大分には海と山があるんだ。」と言ったといいます。
平松元知事は、この後、全国的に広まる「町おこし」の元祖となる「一村一品運動」などに代表されるように、この言葉の通り、大分県の存在感を向上させるのに大いに腕を振るわれたとか・・・。
(その関係があるかどうかわかりませんが、私は「日本で一番、食い物が美味い」のは、博多でも札幌でも東京でも大阪でもなく、「大分」だと思っております。海の幸、山の幸・・・。本当に絶品ですよ。)

その意味で、よく、「うちは何もない田舎だから。」と言われる方がいらっしゃいますが、こういうのは得てして、中にいる人間よりは、外から来た人間の方が価値がわかる事が多いようで、私がよく言うのは、自分たちの街から、半径何km、何十km、何百kmといった具合に円を描いてみて、まず、その円の中に何があるかを把握し、その後に、内側をもっと掘り下げるか、外から持ってくるなどの方策を検討する必要があるのではないかと・・・。

これとは少し違うかもしれませんが、かつて、「田中角栄さんは、新潟を中心とする環日本海経済圏構想を残した。それに対し、竹下 登さんは、島根公共工事しか残さなかった・・・。」という話を聞いたことがあります。
これなども、確かに、東京から見れば、辺境の新潟も、環日本海という視点では、まさしく、中心に位置するわけです。



(以前、平太郎独白録 「幻の都 安土をゆく その1 龍馬と司馬遼太の読み違えに見る安土。」の中でも申し上げたことですが、福岡市は日本地図で見れば辺境でしょうが、視点を東アジアに置けば、1,000kmで東京、上海、ソウル、平壌、1,500kmで台北、北京と、5つの首都4つの一千万都市が円内に入るという・・・。)

でも、こういった、「己を知らない」ことは、何も地方に限ったことではなく、大都市でも往々にして見られることです。
一例を挙げるなら、東京でも、地元の人が、はとバスに乗って、初めて、そういう物が有ることを知る・・・ということも聞きます。
現に、私も行きましたが、吉田松陰、橋本左内が斬られ、解体新書が書かれ、2.26事件の時の青年将校ねずみ小僧 次吉が一緒に眠る南千住回向院は、殆どの観光ガイドには出ておらず、やっとみつけた紹介記事では、ゲテモノ扱いに近い、怪奇スポット扱いでしたよ。
東京はあらゆる意味で観光で飯を食っていないですから、こういう物の価値がまるでわからないのでしょうね・・・。
京都にあったら、今頃は、一大観光名所ですよ。

ええ~っと・・・。
もっと、何か肝心のことを書かなきゃいけなかったんですけど、出てきません(笑)。
ちょうど良い長さにもなりましたし、また、思い出したら、どこぞで書かせて頂きます。
乞うご期待!(爆)。

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銀山温泉にて想う孫子の「人を知り己を知らば」的定義!

2006年04月20日 | 経済・マネジメント
親愛なるアッティクスへ

今日の博多は、昨日が、これほどにうららかな良い天気だったのが信じられないほどに、強風が吹き荒れ、少し気温低めのようです。



(おわかりになりますでしょうか?左上の方に、飛行機雲・・・というより、飛行機が・・・。ここ、大事なところですよ!(笑)。)

が!実は、昨日夜は、今日より、もっとすごかったんですよ!
19時半頃、私は、知人の御尊父様がお亡くなりになったとのことで、車でお通夜に向かっていたところ、天気予報通りに、フロントガラスにポツンポツンと・・・。
で、都市高速に乗ったら、みるみる、大粒の雨が・・・。
まるで、手のひらで窓を叩くみたいに降り始めました。
で、そこから後は、強風と相まって、本当に凄かったですよ。
私も、始めて見ました。
雨が下から降るのを・・・。
まるで、山笠のときに力水バケツでぶっかけるみたいに(この表現、我ながら、極めて、的確・・・。)、道路の下から、ドシャア、ドシャアって・・・。
結構、運転が大変でした・・・。
でも、通夜が終わって、葬儀場から出てきたら、嘘みたいに雨は上がってましたけどね・・・。

ところで、先週の週末、宮城県の友人に誘われ、山形県にある銀山温泉に行ってきました。

九州人的には、雪がある風景というのが珍しく、大変、よかったですね。

残雪って言葉自体、あまり、馴染みがないほどですから・・・。

でも、すっかり、ここも有名になっちゃったみたいで、すでにどこも当分は満員御礼らしく、「無理言って、とってもらった。」とのことでした。


(九州人的には、こういう、日本昔話しに出てくるような世界というのが、大変に新鮮なわけで・・・(笑)。今では貴重里山の風景ってやつですよね・・・。)

以前、大分別府温泉の、道無き道を行くような秘湯に連れて行ってもらったことがあるのですが、行ってみたら、すでに佐賀ナンバー福岡ナンバー相模ナンバーが止まっていて、標準語で会話が為されているという・・・。
こうなると、もう、秋田乳頭温泉と一緒で、秘湯じゃなくなるんですよね・・・。
それが、逆に、一時的なブームで終わることとなり、結果的には、あまり、よくないという話も聞きますし・・・。

大分の、湯布院なんかも、元々、隠れ家的なところが良かったのに、今では日曜は観光バス大渋滞・・・。

これじゃーねー・・・。


(観光地と言えば、こちらは、帰りに連れて行ってもらった日本三景の一つ、松島です。)

さらに、湯布院の成功を見て、あちらこちらに湯布院もどきがたくさん出来るし、鄙びたところがよかった観光地が、渋滞で動けないなんて、何か根本を間違っているような・・・。
場所によっては、江戸時代の町並みを活かしているようなところもあり、となれば、元々が、バスが入れることを前提に街も、建物も、作られてないところもあるわけで、それが行ってみたら、日帰りバスツアーみたいのがたくさん来てて、身動きが取れず渋滞の原因に・・・ってことも。
いくらいい物でも知られないと意味がないし、知られすぎると価値が下がる・・・
難しいところですね。

で、町おこしという点で少し、思うのが、「敵を知り己を知らば百戦するとも危うからず」という有名な孫子の兵法の一節です。
ただ、この点でよく言われるのが、本当に難しいのは敵を知ることではなく、むしろ、「己を知ること」だということとです。
「敵を知る」ということは、諜報活動重要性を現していると言われていますが、「情報」というものの重み・重要性というものは、古来から、孫子以外でも、口が酸っぱくなるほど言われてきたことであり、逆に言えば、情報を得るということが、如何に簡単でないことなのかを現しているようにも思えます。
(簡単に情報を的に得られてしまうような組織というのは、すでに戦う前から負けているとも言えるのでしょう。)
逆説的に言うならば、それだけ難しい「敵を知る」ことと並べて、「己を知る」と言うことがあげられているということ自体、如何に「己を知る」ことが難しいか・・・と言うことなのかもしれません。

ということで、続きは明日のココロだ~♪

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遅れてきた志士、筑前福岡藩士 明石元二郎 後編。

2006年04月19日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

今日の博多は、桜も終わり、すっかりです。
今年初めて、車の窓開けて走りました。
私も、薄手の上着に衣替えして、ちょっと気が早いけど、アイスコーヒーを作りました。
うちの子供たちは、今日は遠足に行っています。
夕方から天気は崩れるという話でしたが、こういう空を見ていると、今も世の中のどこかで争いごとが起きている・・・なんていうのが、何だか、哀しい気分になってきます。

ということで、柄にもなく、平和主義者になったところで、明石元二郎シリーズ完結編です。
ここから先は、戦争終結後の明石に絞って述べてみようと思うのですが、元々、明石が工作資金として使った金は、公に出来ない機密費であり、ごまかそうと思えば、いくらでも、ごまかすことが出来る金であったにも関わらず、明石は帰国時に機密費の使用使途について、きちんとした明細を、わずかな釣り銭と共に参謀本部に提出したと聞いています。
その中には、明石が私的に流用した金、個人の遊興の為に使われた金は殆どなかったと言います。
気にしない身なり(「身なりなど、顧みないのが筑前武士だ。」とうそぶいていたとか・・・。)、明晰な頭脳、動じない胆力・・・、そして、高潔な人柄と言うものが見えてくると思います。

日露戦争終結後、帰国を命じられた明石に対し、ロシア革命運動の同士らは、「大佐、アナタハ、帰国シテハイケナイ!」と、共に戦うことを迫ったと言います。
明石が、この時点で、単なるアジテーターに留まっていなかった・・・、体を張って革命運動を支援していたということの、まさしく、アカシだったのではないでしょうか・・・。
彼は、その要請に対し、「私は、日本の軍人だ。」と拒絶し、帰国します。
この、「日本の軍人・・・。」という考え方は、この後も彼の生涯を貫くものとなりますが、惜しむらくは、明石は日本人としては、生まれてくるのが、40年・・・、いや、20年遅かった・・・。
やはり彼は、20年早く生まれてきて徳川幕府を相手に、勤王の志士として、腕を振るうべきで、日本にとっては、人材の浪費になった可能性が高かかろうとも、彼にとっては、その方が幸せだったような気がします。
(もしくは、同時代人であれば、ロシア人か中国人として生まれてくるべきだったと・・・。)

明石が去った後、ロシアの革命運動は一旦、頓挫し、レーニンらは、国外への亡命を余儀なくされます。
当時、ヨーロッパにおいて台頭していた新興国ドイツは、明石の活動を含め、かなり綿密に日露戦争というものを研究していたようで、日露戦争から10年後に勃発した第一次大戦では、タンネンベルヒ会戦での大勝利(日露戦争における日本海海戦)と、保護していたレーニンらを秘密裏にロシアに送り返すことで、ロシアを大戦から撤退させることに成功します。
その後、レーニンは、ついにロマノフ王朝を倒し、ソビエト社会主義共和国連邦・・・、通称、ソ連を成立させることに成功します。
ちなみに、昭和20年(1945年)の第二次大戦の日本降伏直前に、満州へなだれ込んできたソ連軍の快進撃に対し、スターリンは、「これで日露戦争の仇はとった!」と言ったといいますが、しかし、レーニンは、革命成就後、「明石には感謝状を出したいくらいだ。」と語ったとも言います。

一方、明石は、戦後、一旦帰国したものの、それから間もない明治三十九年(1906年)、今度はドイツ大使館付武官となり、再び渡欧します。
が、夫人の病状よろしからず・・・ということで、歩兵第七連隊長を命ぜられ帰国。
(夫人は、明石の帰国を待つことなく他界。)
その後、明石は寺内正毅朝鮮統監の下で憲兵司令官警務部長を兼務し、韓国併合の過程では、「日本の軍人」として、ロシアの時とは逆に革命勢力を弾圧する側にまわります。
このため、歴代の朝鮮統監と並んで、明石の朝鮮での悪名は高いと言います・・・。

大正2年(1931年)十二月、任陸軍中将、翌3年、参謀次長として、参謀本部に復帰。
大正7年、今度は台湾総督を命じられ渡台。陸軍大将
台湾時代の明石は、朝鮮在任中とはまるで別人のような感が私にはあります。
こちらの方が、本来の明石なんだな・・・と。
水力発電所設置し、華南銀行設立
さらに、日本人台湾人均等教育を受けられるよう法を改正し、その飾らない性格で、部下からも愛され、現地人の評判も悪くはなかったとか・・・。

大正8年(1919年)10月、特別大演習陪観の為の、東京への船旅の途中、船中において重態となった明石は、急遽、郷里の福岡下船し、治療に専念したものの、同年10月24日、この、存命中から、「総理の器」という呼び声も高かった男は脳出血により、生家にほど近い大名町松本健治郎宅逝去しました。
遺言により、遺体は台湾に埋葬されたものの、その後の歴史の中で、あまり、良い状態にはなかったようですが、平成12年(2000年)、現地有志の手により改葬されたと聞いております・・・。

世界を股にかけた男が、最後は生家からほど近いところで死ぬ・・・。
彼が望んでそうしたわけではないにしても、これもまた、ある意味、福岡人らしい・・・と。

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遅れてきた志士、筑前福岡藩士 明石元二郎 中編。

2006年04月18日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

私は、今から、ちょうど、二十年くらい前に「情報将軍 明石元二郎―ロシアを倒したスパイ大将の生涯」という本を読んだのですが、その中で、明石がレーニンと初めて、相対するシーンが出てきます。
レーニンは、最初に、労働者が吸う安い煙草に火をつけながら、こういったそうです。
「われわれの運動を支援したいという申し入れですが、戦争相手の日本政府から金をもらっていたことがわかったら、民衆は私のことを何というでしょう?レーニンの民衆革命不純な動機からはじまったのだ、と私を非難するでしょう。」
レーニンの言い分は、レーニンの立場に立ったなら、至極、当然のことであり、この話を聞いたとき、まだ、二十代半ばだった私は、思わず、ぐっと詰まってしまったことを覚えています。
しかし、これは逆に言えば、「誰からも非難されない大義名分があれば協力したい・・・。」と言ってるようなものでもあるのでしょうが、まあ、当時の私には、とにかく、そこから先の言葉はなく、明石の説得の見事さにただただ、恐れ入るばかりでした・・・。

もとより、こういう話に議事録などあるわけもなく、話がどの程度、真実なのかはわかりませんが、これを読んだ限りでは、まさしく、国際舞台で相手を説得する上で、教科書となるような会話だったように思えました。
(以下、少し長いのですが、この大著より一部、抜粋致します。)

明石は、「レーニン君、私は君を見損なった!」と一喝し、こう続けたと言います。
「そうじゃありませんか。私は共産主義には詳しくないが、共産主義の始祖・マルクスは過去の制度や社会組織、風習を打ち破って、新しい秩序を作ろうとした……。ところが、あなたはいまだに祖国だの皇帝だの同一民族だのと、古い考え方にこだわっている。いいですか?お互いに目的は一つです。あなたはロシアの帝国主義侵略された人々を糾合して、ロシアに革命を起こして社会主義の国を建設しようとしている。私は日本の自衛のためにロシアに対する戦争を支援しようとしている。どちらもペテルブルクの政府を倒すという目的では同じではありませんか?他人がどういおうと、革命が成功すれは、それは民衆の幸福であり、レーニンの名は民衆の組織者として永久に残るでしょう。しかし、小さな道徳論にとらわれて失敗すれば、レーニンの名は忘れられる。

君は祖国を裏切ることは、革命の同志やロシア人に具合が悪いというようなことをいう。しかし、君はロシア人ではない。タタール人ではないのか?タタール人の君が ロシア人の大首長であるロマノフを倒すのに、日本の力を借りたからといって、何が裏切りなのかね? 大体、いまのロシアのはとんど全部が、十六世紀までは君たちタタール人の国だった。君たちはいうまでもなく、かのチンギスバン大王子孫なのだ。それが十五世紀の終わりにロシア人のイワン三世モスクワ大公国を立て、イワン四世(雷帝)のとき、全ロシアのツァー(皇帝)を宣言するころからタタール人に対する圧迫が激しくなり、やがて各地で敗北したタタール人は、母国のモンゴルに帰り、一部がカザフを中心とする一帯に残ったのだ‥…。私のロシア史の認識は間違っているかね? レーニン君、君がどこかの国の援助を受けて、イワン雷帝の子孫であるロシアの宮廷を倒しても、それは当然の権利回復であって、なんら道義にもとるものではない。そうではないかね? レーニン君。

どうです? 必要なだけの資金を回しましょう。返却は無用です。見返りの代償は不要、私の方は政府の、いや参謀本部作戦用機密費です。
謀略は秘密作戦です。そう秘密です。秘密に君に金を融通して、秘密にロマノフの背中を衝くのです。もちろん、一枚領収書も、誓約書もいりません。いかがですか? 秘密ということは、全面的に相手を信頼するということです。男と男の約束です。私は絶対に金のことは口外しません。もちろん、必要に応じて参謀本部に報告しますが、当然、参謀本部も自国の機密費の内容を公開するなどと言うばかなことはやらないでしょう。」

まずは、古い考えを捨てろという、よくある一般論から入って、お互いにお互いを必要としている、目的は同じだ!という現実論に始まり、民衆の幸福、レーニンの名誉というタテマエと本音を並べ、それでも、レーニンが納得してないとみるや、一転、日本人が知るはずもないようなタタール人にとってのロシア史観を語り、チンギスハンの名前を出して奮い立たせ、ここで、おもむろに金の話を出し、最後に、ばれないことを言って聞かせて安心させる・・・。
一切の無駄を省いた・・・、それでいながら、言うべき事を言うべき順番で述べ、掘り下げるべき所は余すことなく掘り下げて語った、惚れ惚れするような見事なトークだと思います。

日露戦争後陸軍内部では、「明石一人で陸軍10個師団に相当した。」と言われたそうですが、司馬遼太氏に言わせると、「10個師団でもまだ小さい。日本軍全体相当したと言っても良かったのではないか・・・。」となるようですが、その点では、私も概ね、司馬史観に同意です。

あ、誤解のないように申し上げておきますと、無論、明石独りでロシアに勝てた・・・などとは露ほどにも思っていませんよ。
誰より、明石本人が思ってなかったのではないでしょうか?
即ち、日露戦争ほどの近代戦になってくれば、桶狭間織田信長今川義元を討ち取ったようなものとは、戦争自体の質が同じ戦争とは言えないほどにまるで違っており、つまり、近代国家における戦争とは、個人の能力の優劣で決まるものではなく、国家という大きな組織同士「総合戦略」の優劣でこそ決まってくるものだと思うからです。
そして、先述しました日本側の6つの戦略というものこそが、それをよく体現していると思いますが、(ただ、このうちの殆どが、当初から成算があってのことではなかった・・・という点こそが、この戦争の勝利が如何に際どいものであったを現しているのでしょう。)一面で、これらは、それぞれがそれぞれで健闘しているうちに、有機的相乗効果を増していったが故の勝利であったと言え、即ち、どれか一つでも欠けてはならない勝利であったともいえるでしょう・・・。

具体的に言うならば、満州義軍の存在や明石の謀略工作が軍事的成功を助け、軍事手勝利が資金調達を容易にし、資金調達がまた軍事的成功に繋がり、それがアメリカの和平仲介意欲を高め、それがまた、「いけるぞ!」ということになって明石の革命工作も盛り上がる・・・といった具合に・・・。

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遅れてきた志士、筑前福岡藩士 明石元二郎 前編。

2006年04月17日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

週末、土曜の続きです。

ということで、如何に日露戦争というものにおいて、幕末、屈辱の中にあった筑前福岡藩豊前小倉藩などの福岡人が奮闘していたか・・・がおわかりいただけたと思います。
で、私がここまで、だらだらと述べてきましたのは、この日露戦争というものに関わった二人の福岡出身の軍人のことについて述べたかったからでした。
(まだ、本編じゃなかったのか!という突っ込みには、一切、気が付きません(笑)。)

で、これらの対露戦略の中でも、もっとも大きな・・・と言っても過言ではない役割を果たしていたのが、先述しました明石元二郎です。
明石元二郎は、1864年9月1日(元治元年8月1日)、筑前福岡藩士、明石助九郎貞儀の次男として福岡天神町に生誕しています。
当時、明石家は千三百石の大身であったものの、父、貞儀が29歳の若さで自刃して果てたところから、次第に家産を食い潰し、さらには、元二郎8歳のとき、福岡藩は偽札事件を起こし、お取り潰しとなったことで、一家の生活はますます困窮の度を深め、遂には、人手に渡り、母、秀子は、長男、と次男、元二郎と共に、親戚の世話になることを余儀なくされます。

そんな境遇の中でも、母は、二人の息子への教導には余念が無く、針仕事の傍ら、武士としての心構えから論語の素読まで教え込んだといいます。
やがて、成長した元二郎少年は、大器の片鱗を見せ始めます。
まず、余りに悪さをするために親戚から土蔵の中に閉じこめられたときのこと。
放り込んだものの、泣き叫ぶ声も聞こえず、余りにも静かなことから、逆に心配になった親戚が土蔵を開けて見れば、元二郎少年は、別に悪びれる様子もなく平然と端座していたとか・・・。

また、元二郎の生涯を通してのスタイルととして、頭脳は極めて明晰でありながら、風釆ははなはだ不潔・・・というものがあります。
後年、それなりの地位についたときも、手鼻をかんで、そのまま、フロックコートのポケットの中になすりつけた・・・などという話もあるくらいで・・・(笑)。
となれば、少年時代も、いつも鼻水や、よだれを垂らしていたそうで、それでいながら、学校では常に成績は一位・・・。
ただ、その一位は並はずれて一位だったそうで、ここでも、元二郎少年は大器を思わせるエピソードを残しています。
元二郎の神童ぶりを聞きつけた当時の県令、渡邉 清が視察に来るということになったときのこと、家とて満足にない明石家にて待つわけにもいかず、代わりに場所を提供した家では、「県令様が来られる!」ということで、家の畳をすべて、新しく張り替えて待ったそうです。
元二郎少年は、県令を前に、大人たちの視線にも、いささかも臆することなく、「精神」の二字を大書・・・。
ところが、あまりに勢いよく書いてしまったもので、「神」の字の最後の縦棒が紙面中に入りきらないことになってしまったとか・・・。
しかし、元二郎少年は周囲が「あっ!」と息を呑む中、そのまま、躊躇することなく、平然と青畳の上へ墨痕鮮やかに書き通したとか・・・。
この少年の気宇の壮大さを見て取った渡邉県令は、その後、是非、養子に貰い受けたいと申し入れたと言いますが、母は決して応じることはなかったそうです・・・。

その後、中学を経て、1889年に陸軍大学校卒業、1901年にフランス公使館付陸軍武官、1902年にロシア公使館付陸軍武官を歴任。
1904年、日露戦争が勃発すると、38歳明石大佐は、当時、ロシアで澎湃として起こりつつあった革命運動支援することを提案。
当初、参謀本部は、あまり、乗り気ではなかったと言いますが、渋々、当時の金額で100万円工作資金として渡したところ、内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキン号の叛乱等を起こし、 ロシア国内の政情不安醸成することに成功。
これにより、事実上の戦争継続困難になったロシア政府は、講和交渉のテーブルに着くことを余儀なくされますが、その際、講和交渉に応じる条件として、真っ先にロシアが呈示したのが、「まず、アカシの工作をやめさせること。」だったと言いますから、如何に超大国ロシアがアカシ一人に追い詰められていたかが見て取れると思います。

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日露戦争と福岡人の奮闘に見る、男装の女傑と人参畑!

2006年04月15日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

で、昨日、述べましたように、日露戦争当時、日本が採った6つ対露戦略のうち、まず、第一番目の軍事的成功では、日露戦争時、満州派遣軍として第一軍から第四軍まで4軍団が編成されますが、そのうちの三つまでが薩長出身者司令官であるのに対し、第二軍司令官だけは福岡県豊前小倉藩出身の、奥 保鞏陸軍大将です。
「唯一の薩長以外の」と言うよりも、「旧幕府側出身の」軍司令官であり、
もう、それだけで、この人物への有能さの説明は不要ではないでしょうか・・・。

次に、明石元二郎、金子堅太郎、それに、開戦時、ロシア政府に国交断絶通告公文を提出した時の駐露公使栗野慎一郎も旧福岡藩の出身。
(当時はまだ大使は無い時代。日露戦争勃発の翌年、在イギリス公使館が昇格して大使館となるのが最初。)
さらに、アメリカへは、ハーバード大卒の金子堅太郎が向かっように、イギリスへはオックスフォード大卒の小倉藩出身、末松謙澄が向かっております。
英語が堪能な末松は、日英同盟を強固なものにする為に、また、書生時代よりの親友、高橋是清募債活動を有利にする為にも、イギリスの親日世論喚起に尽力したと言います。

最後に、6番目の戦略として位置づけられる物に、特別任務隊(満州義軍)の存在があります。
これは、元々、福岡の政治結社、玄洋社が、日露開戦となれば主戦場となるであろう満州の奥深くに潜入し、情報収集、後方攪乱活動を行うことを企画したもので、その後、勃発と同時に満州に潜入した玄洋社社員、安永東之助らにより、中国志士との提携を核とした義勇軍構想が提案され、それを参謀本部承認したことで、正式に、陸軍少佐、花田仲之助の指揮のもと、軍人・通訳など55人の陣容にて満州義軍が編成されます。
(55人中、玄洋社からは14人が参加。)
彼らの多くは、満州の沃野に、弔う者もないままに命を落としたと言いますが、これに大いに苦しめられた、ロシア軍のマドリドフ少佐は、この満州義軍をして、「ロシア軍、眼中の釘!」と嘆じた言います。

ところで、さらりと書き流しましたが、おそらくは、「玄洋社って何??」という風に思われたのではないでしょうか?
玄洋社とは、知る人ぞ知る、右翼の大巨頭、頭山 満翁ら、「旧福岡藩士が中心となり、1881年(明治14年)、国権主義、天皇中心主義、大アジア主義を掲げ結成された国家主義的政治団体」だそうです。
「単純な右翼とは異なりアジア共同体構築するために、アジア各国独立運動家たちを積極的支援。1946年(昭和21年)、GHQによって解散させられた。」と言いますが、戦前は政治家などに対するテロリズムで恐れられた団体であり、現在のいわゆる右翼団体も、多かれ少なかれ、その流れを汲む物だとか・・・。

実は、この頭山 満という名前は、私にとっては、子供の頃から、ある意味、慣れ親しんだ名前でもありました。
もちろん、私如き、小市民がお近づきになるわけもなく、私が慣れ親しんだのは、人物ではなく、あくまで、名前の方です(笑)。


↑それが、こちらの石碑です。

これは、うちの近所に、私が物心付いたときからある石碑なのですが、「人参畑塾跡」と書いてあり、頭山 満 書と副書してあります。

私は、子供の頃からこれを見て、「ずやま・まん?とう・さんまん?あたまやま・みつ?何?人の名前??」って思ってました(笑)。

今では、オフィスビルが建ち並ぶこの辺りも、元々、明治の頃までは、近くに神社があるだけの取り立てて何もないところだったようで、江戸時代には、財政難に喘ぐ福岡藩が、殖産興業の一環として、足軽数名入植させ、高麗人参栽培従事させたところから、辺り一帯を「人参畑」と呼ぶようになったのだとか・・・。
(私が小学校に上がるくらいまでは、上人参町、中人参町、下人参町という地名が残ってましたよ・・・。)

で、ここに、明治の終わり頃、高場 乱(たかばおさむ)という女傑私塾を開いたそうで、それが、「興志塾」、通称、「人参畑塾」と呼ばれ、当時のいわゆる壮士と呼ばれる人たちが集い、梁山泊のごとき様相を呈していたとか・・・。
高場 乱と言う人は、元々、眼科医だったそうですが、幼き日からとして育てられ、生涯を「男装」で通した奇人であったと言います。
(通称、「人参畑の婆さん」としても知られていたとか・・・。)
彼女は、実際、相当に肝の据わった「男」だったようで、塾生への講義には、一切、書物を用いず、何時間も熱く道理を説いたといいます・・・。
世代的には、吉田松陰一歳下だったと言いますが、男性と女性、静と動、正と奇、短命と長命・・・、相通ずるものなど何もない、正反対のような両者でありながら、二人に同時代人の空気を感じるのは私だけでしょうか・・・。

で、その人参畑塾で、若き日に学んだのが、「日本の右翼を作った人」と言っても過言ではない頭山翁であったわけで、頭山翁をキリストに例えるなら、高場 乱という人はマリア様みたいなものだったでしょうか・・・(笑)。

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日露戦争と福岡人の奮闘に見る火の用心。

2006年04月14日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

昨日、帰宅したところ、焦げた跡がある電球がテーブルの上に・・・。
「???」と思っていたところ、うちのガキがやっちゃってくれてました。
朝、机用に置いてやっていたスポット型の照明器具で遊んでいて、「火事になるから消しなさい!」と注意されたらしく、すると、スイッチを消さずに布団の中に隠し、そのまま、忘れて学校へ・・・。
午後、家人が帰ってきたら、何か、焦げ臭い・・・、ということで、あちこち探すと、布団がしっかり、電球の形に焦げてました・・・(驚!)。
あと少しで、火事になってしまうところでしたよ!
そして、こんなときに限って、家には誰もいないという・・・。
本当に、冷や汗ものでした。
お宅も気をつけて下さい、御同輩・・・。
あ、もちろん、そのガキは折檻されましたことは申すまでもありません(笑)。

ところで、先日から、度々、シリーズで述べさせていただいておりますが、毎回、この軽薄アバウト福岡人の国民性ゆえか、どのシリーズもなかなか、最後まで辿り着きません(笑)。

で、とりあえず、入らない気持ちにむち打って(?)、その中の一つ、「日露戦争と福岡人」シリーズを完結させるべく、「日露戦争と福岡人の奮闘!完結編、その1」です。(←ここまで来て、まだ、その1かよ!という突っ込みには耳を貸すことなく、我が道を行きたいと思います(笑)。)

先日から述べさせて頂きましたように、福岡というところは、早くから拓けた国際貿易港「博多」に代表されるように、昔から、有力戦国大名などが居ない代わりに、大商人を輩出してきたところで、現代でも、有力な政治家はなかなか、出ませんが、芸能人の数は、間違いなく、人口当たりに直すと日本一だと思います。

で、過日も述べましたとおり、幕末、筑前福岡藩は、勤王党弾圧した直後に明治維新が起こったことから、反動で佐幕派粛正せざるを得なくなり、このため、それでなくとも、江戸時代を通して、無様な財政運営を行ってきた藩上層部を致命的なまでの人材枯渇に陥れ、結果、松方正義をして、「筑前福岡藩、人物、一人も無し。」などという指摘のもと、おおよそ、武家にあっては、これ以上ないほどの不名誉な理由「偽札」で、『廃藩置県前に明治政府によって「お取りつぶし」になった唯一の藩』という歴史に汚点を残してしまったわけです。

しかし、福岡藩は、これらの屈辱の中から・・・、いや、屈辱があったればこそ、新しい人材を世に送り出します。
それは、単に、旧藩士の側の奮起にばかりあったのではなく、旧福岡藩主である黒田家による学資援助があったことも見逃せない理由の一つだったようです。
黒田家は、東京に居住を義務づけられた後も、旧藩士の中で、これは!と思える人材には学費を援助したのだとか・・・。
たえだ、華族黒田家と言えども、当時、それほど手許に余裕があったわけではなく、その原資となったのが、福岡城お堀にて栽培されていた蓮根だったと言います。
(ちなみに、この制度は、形を変えて、現代でも存続しております。現代では、お堀は、多くが埋め立てられて道路となった為、今では、蓮根の代わりに、福岡法務局福岡市消防局などの土地の借地料が、それら、奨学金の原資となっているのだとか・・・。)
そして、それらの人材が歴史の表舞台に登場してくるのが、お取り潰しから30年が経過した日露戦争の頃となってきます。
これまで、平太郎独白録 「民主党のお粗末さに想いを馳せる筑前福岡藩の財政運営。」や、平太郎独白録 幕末福岡藩の無様さが日露戦争勝利の遠因!で述べて参りましたことは、すべて、今回のマエフリでした・・・。

で、まずもって、日露戦争において、日本側が大国ロシアと事を構えるに当たって、巷間、知られている戦略というものがあります。
一つめは、人員でも、装備でも、圧倒的劣勢ながらも、連戦連勝を続けた陸海軍
二つめは、単身、欧米に渡り、戦費の調達に成功した高橋是清の存在。
三つめは、単身、ロシア内部に潜入し、レーニンを始めとする革命勢力を支援して、ロシアの屋台骨を大きく揺さぶった明石元二郎の存在。
四つめは、アメリカ大統領ルーズベルトに対して、同窓という関係で調停工作を推し進めた金子堅太郎の存在。
五つめは、日英同盟からポーツマス条約に至る外交的成功
六つ目は、満州の広野に潜入し、シベリア鉄道破壊など、ロシア軍後方攪乱にあたった特別任務班の存在。

ということで、続きは、明日のその2のココロだ~って、幾つまで行くかは終わったときに聞いてくれのココロだ~(笑)。

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新・博多駅にみるブラザーズ・グリムの塔と感覚的前頭葉。

2006年04月13日 | 地域
親愛なるアッティクスへ



昨日、近所の団地が解体されるという話を聞きつけ、出勤途中に写真を撮りに行ってきました。

この団地は、私が物心付いたときには、すでにありましたから、おそらく、築50年近くにはなっているのではないかと思われます。

となれば、解体されるのも、やむを得ない話なのでしょうが、私にすれば、子供の頃の風景が、またひとつ、消えていくわけで・・・。

で、とりあえず、画像くらい残しておこうと思った次第でした。
ていうか、実は、私が撮ろうと思ったのは、団地その物ではなく、団地の中の、この給水塔(?)でした・・・。

私が特に印象深いこの給水塔ですが、まだ、私が幼稚園行くか行かないかくらいの時に、これを見たときは、もう、ぶっとびましたよ!
まさしく、「ウルトラセブン」に出てくる世界・・・。
当時は、まだ、うちの近所は、ボロ家ばかりの時代ですから、このモダンさ(死後)は、眩しいくらいに輝いて見えましたよ。
「こげんとは、ウルトラセブンの出てくるとーきょーていうところにしか、なかっちゃないとや!」と・・・(笑)。
訳しますと(爆)、「こんなのは、ウルトラセブンが出てくる東京というところにしか、無いのではないのか!」と・・・。(←モロ、直訳!(笑)。)
つまり、こんなのが、うちの近所でお目にかかれるとは夢にも思ってなかったというわけで、とにかく、子供の私には夢の世界の建物、もの凄く、強烈な印象で焼き付いております。

去年、ブラザーズ・グリム・・・という映画を見たのですが、その中で、魔女がいる朽ちかけた塔が出てきたのですが、覚えておられるでしょうか?
高い塔の上には窓があるものの一階には出入り口はない・・・。
で、主人公がどうにかして、その塔の上にある窓に辿り着き、そこから中に入ると、そこは人が住んでいた形跡があるものの、クモの巣だらけ・・・。
なぜか、私には、その塔が、その不潔さも含めて懐かしかったんですよ。
どこで、私の記憶に引っかかってるのかは、まったく、思い出せないんですがね・・・。
あるいは、一部分は、この塔だったのかなと・・・。
しかし・・・、一度で良いから、中に入りたかった・・・。



で、写真を撮りに行ったら、誰かがこの塔の横に、土饅頭作って、そこに墓標のように十字架を立て、その上に編み笠を・・・。
それでなくとも、ゴーストタウン気色悪いのに・・・(笑)。
その状態で、写真撮ってたら、何かが足を引っ張るぅ・・・!!!
気が付いたら、誰かが掘った穴の中に片足が落ちてました・・・(笑)。
一昨日の福岡県地方には、大雨洪水警報が出ていたこともあり、当然、その穴は、泥の穴と化しており・・・。
おかげで、靴は元より、ズボンから靴下まで・・・。
それはまだいいんですが、何だか、墓場に足をとられたようで・・・。

ところで、私の思い出の場所が無くなる・・・という点では、ついに新博多駅建設工事が着工したというニュースが、先日の新聞に載ってました。
現博多駅は、確か、昭和38年開業でしたので、こちらも、まさしく、私が物心付いたときからありました。
特に、私の学生時代は、「博多駅と共にあった」と言ってもいいくらいに浮遊(?)してました(笑)。
でも、私の学生時代の博多駅の中の風景は、同じ位置、同じ場所、同じ店であるにも関わらず、何故か、現在とはまったく別の物なんですよね。
私にとって、風景とは極めて感覚的な物なんでしょう。
(そう言えば、飲食店などは、店名などは、さっぱり覚えませんし、飲んだら、場所も覚えてません(笑)。そこで、飲んだという事実と、中でどういう話をしたということは覚えているのですが・・・。)
これ即ち、私は絵描きには、まるで向いてない人間なんだな・・・ということでしょう。
つまり、人でも物でも、見てるようで見てないと言うことです。
絵を描くことが巧みな人というのは、見てないようで見てるんですね。
たとえば、「今まで、アナタがここで話していた人の髪型は?」と聞かれても、「髪型を注意してみていてください。」と言われれば別ですが、そうじゃない限り、まったく、わからない・・・。
老化前頭葉が働いてないと言うこともあるのでしょうが、私の場合、生まれながらにして、前頭葉が働いてない人間のようです(笑)。

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水滸伝にみる中世中国庶民社会の現実!

2006年04月12日 | 文学芸術
親愛なるアッティクスへ

私が、まだ、小学校の頃、テレビで中村敦夫主演、「水滸伝」というドラマをやってました。
(後に、堺正章主演で大ヒットとなるあの、「西遊記」も、ナレーションや作り方なんかは、明らかにこの水滸伝の流れを汲んでましたね。これに限らず、当時の番組は、今、改めてみたら、「あ、あの番組は、この番組の延長線上だったんだ・・・。」と気づくことがあります。たぶん、制作者が一緒なのではないかと思うんですが・・・。)
当時はまだ、こういう中国時代劇ドラマなどというものはテレビでは珍しく、触発されて、私も学校の図書室で水滸伝をむさぼるように読んだのを覚えています。

で、それから、月日が流れ、一年ほど前でしょうか、その「水滸伝」の再放送をケーブルテレビで見ました。
それを見ているうちに、また、最近、子供の頃読んだ、「南総里見八犬伝」や「水滸伝」などの、そういった名作と呼ばれる物を、本来の物、つまり、子供向けのモノではない、大人向けの原作で親しんでみたい・・・と思うようになりました。
で、早速、書店に出かけていったものの、これだけの名作であり、長い間、支持されてきた作品であるにも関わらず、水滸伝も八犬伝も、それ自体の数はあるものの、なかなか、お眼鏡にかなうものは呆れるほどに無い・・・。
(子供向けの物か、研究者向けの物だったらあったんですが、その中間の大人が楽しめる物がない・・・。)
で、そんな中で、ようやく、目にとまったのが津本陽作の「新釈 水滸伝」でした。

新釈・・・というよりも、一番、原作に近いのではないか・・・と思う作品でしたが、少なくとも、等身大の水滸伝がそこにはあり、そこにいたのは、勧善懲悪的倫理観などとは無縁の、生身のオトコたちであり、欧米ナイズを深くたたき込まれた現代日本人の倫理観になど阿ることのない、当時の中国社会そのものでした。
(ましてや、冒頭で触れたテレビドラマの水滸伝のように、単純「正義と悪」というような色分けもされてない・・・。)

一例を挙げるなら、悪人が梁山泊に捕らえられたとき、梁山泊の英雄たちの前で、下っ端が、縛り上げられた悪人に対し、「おまえの肉を食ってしまうぞ!」と罵ると、それを見ていた兄貴たちが、「もういいだろう。ひと思いに殺してやれ!」と言うかと思いきや、何と、皆で、普通に、この悪人を食ってしまうという・・・。
現代日本人的倫理観から言うと、何とも、ゲロゲロと思うような話ですが、これが当時の中国社会の現実であり、その意味では、間違っても、ちょっとばかし、小ぎれいになった現代日本人が、己が倫理観を押しつけるべき話ではないと思います。

まあ、そこに至る以前にも、普通に(!?)、あちらこちらの人通りの少ない街道の茶屋などでも、旅人を料理して食ってしまう為に、食べ物の中にしびれ薬などを仕込んで旅人に出す・・・などという、人肉食のエピソードが展開されるのですが、でも、さすがに梁山泊の英雄たちが普通にそれをやるとは思わなかったですけどね・・・。
主人公たちがやるということは、特に改めて言うほどのことではなかったんでしょうね・・・。
まあ、こういう、なかなか、ショッキングな場面もありますが、こういった描写がオリジナリティらしさ(?)を醸し出しているように感じ、その意味でも、本物の水滸伝とはかくありや・・・と思わされる逸品だったと思います。
ということで、賛否はさておき、原作に近いであろう物を求めていた私には、十分に満足できる作品でしたね。

ちなみに、私はテレビドラマの「水滸伝」のエンディングの歌が大好きでした。
「夜明けを呼ぶもの」というタイトルで、ピート・マック・Jと言う人が歌っていた曲なのですが、どこかに売ってませんかね?
もう、さすがに今では、中古レコード展示即売会でも売ってませんでしたね。
CDになってれば一番いいんですが・・・。

「人生はしれたものさ うまく行っても
       一遍の雲のように流れ去るだけ♪
    弾かれた 胸に深く 残る傷跡 泣くな友
     泣いたって 昨日は昨日 さー 明日じゃない♪」


声と言い、雰囲気と言い、昭和40年代という、あの時代を感じさせてくれる歌でした・・・。

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