平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

薩英戦争にみる外交交渉と学習効果。

2007年03月31日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

おはようゴンザレス。
私は学びました。
日本酒を二人で一升以上飲むと記憶がなくなる・・・ということを。

はい、昨日は、島原雑煮食って、ホテル日航のバーに行ったところまでは記憶があるのですが、気がつくと、某所にて転がっておりました。
べろんべろんです。

で、今日は何の日か?
41年間続いた博多駅のターミナルデパート、博多井筒屋閉店日なんですね。
で、行ってきました。
私としては、5歳の時から、目の前にあったわけですから、それなりに思い入れはあります。
昔はコンビニなんてなかったですから、日曜はオフィス街「死の町」でしたので、何かあると、買い物は井筒屋に行かなければなりませんでした。



(↑大昔の写真だそうです。最終日ということで飾ってありました。まだ、市内電車が写ってますね・・・。確か、昭和48年と書いてあったような・・・。何せ、脳みそ働いてませんから。)

で、以前、昭和46年放送の「天皇の世紀」という幕末モノのテレビを見ました。
私もケーブルテレビで、初めてその存在を知りましたが、ドラマと言うには、かなり、実証的なノンフィクションに近いやつでした。
今回は薩英戦争のところでしたが、ああいうのを見て、血が騒がなかったら男子に非ずですね。
(女性の皆さん、失礼!見なかったことに!(笑)。)

負けたはずの薩摩側代表団が、世界に冠たる外交上手大英帝国を和平交渉でアフアフ言わせるのは痛快でしたよ!
イギリス側もそれまでの「善処します。」ばかりのあやふやな幕府役人とはまったく違う、言いたいことは言うし、何だったらもう一戦やるか!の気迫にタジタジになりながらも、逆にこんな卑屈でないアジア人がいるということに、新鮮な驚きを隠さない。
さらに、そんな態度を取りながら、薩摩側は一転、賠償金の支払いに応じると言いだし、「?!」と思っているイギリス側に「ただし!条件がある!」って、世界に君臨する大英帝国相手に極東の小国の一公国条件をつけるって・・・。
で、その条件とは「薩英戦争のときの主力艦クラスの軍艦を買いたい。」って、それを聞いたときのイギリス側は目が白黒してましたよ!
まさに、「愉快痛快奇々怪々」でした。
で、最後にイギリス側が「あなた方はそんな最新鋭の軍艦を購入して一体どうするつもりなんですか?」と聞いたら、薩摩代表はしれーっと、「そりゃあ、もう一度、イギリスと戦争するつもりでごわす。」と答えて、これには海千山千のイギリス側代表団も思わず吹き出して、「しぇいくはんど」でごわした。
薩摩藩、恐るべし!
こんな和平交渉できる日本人がいたなんて・・・。
「東シナ海ガス田」交渉も、もう少し、がんばって欲しい物です。

いやあ、年甲斐もなく、血が騒いでしまいました。

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2007年パ・リーグ開幕!2 ホークス戦力分析と3年目突入

2007年03月30日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

お陰様をもちまして、拙ブログも三年目に突入しました。
三年目は、少し、のんびりさせてもらおうかなと思ってます(笑)。

で、お待たせいたしました、先日の続きです。

ここまで、福岡ソフトバンクホークスはオリックス、楽天との5試合を消化したわけですが、私は、開幕シリーズの二試合に今年のホークスの戦い方というのが、凝縮されていたように思います。
(ちなみに、私としては、ロッテ日ハムの開幕シリーズの方も注視しておりました。)
で、その二試合を見ての、今年のホークスの戦力分析ですが、私には、言われているほど、盤石ではない・・・という気がしました。
(地元マスコミは、まあ、盛り上げようという気持ちはわかるのですが、少々、大本営発表的なところも感じられますので・・・。)
ある意味、かつての巨人に近い、ビッグネームだけを、やたら揃えたチーム構成になっている観があるようにも思えます。

まず、攻撃陣ですが、多村 仁と、小久保裕紀の両選手が加わったことで、一見した限りでは、随分と、戦力が整ったように見えますが、実際には、一枚二枚も足りないように思えます。


(↑勝利の花火の後に、ドームの屋根が開くと、余煙が差し・・。結構、好きな光景です。)
なぜなら、多村も小久保も、元来が、怪我が多い選手であり、シーズンを通して、フルに活躍できない可能性もあり、もし、どちらかが欠けると、結局は、昨年までの、「松中とズレータだけの打線」と大差はないということになるわけですから・・・。

それから、開幕二試合を見た限りでは、上位打線下位打線に、極端な実力格差があるように感じられました。
大村、川崎、多村、松中、小久保と、ここまでは、リーグ屈指の好打線であるとしても、問題は、そこから後が、どの程度、働けるか・・・ではないでしょうか。
(実際、開幕二試合で見ても、安打の殆どが上位打線に集中していました。)
即ち、2003年戦士の年齢が上がっているということ・・・、つまり、若い選手の伸び悩みが目立つように思えるということです。
(もう少し、松田江川など、川崎より下の若い看板選手が出てこないと・・・。)

さらに言うならば・・・の続きは、明日か、また来週か・・・ということで、ご理解のほどを賜りたくゴザ候・・。

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続・祝!2周年記念、平太郎の由来にみる隠れた狙い!

2007年03月29日 | その他
親愛なるアッティクスへ

一日とんでしまいましたが、一昨日の続き、「二周年シリーズ」の続きです。

で、この「平太郎」というペンネームですが、実は、これ、私の息子の名前なんですよ。
なぜ、こういう名前を付けたかというと、上記の、両「太郎」さんとは、何の関係もなく、大昔の大河ドラマ、「新・平家物語」の中で、幼き日の平 清盛「平家の長男」という意味で、「平太殿!」と呼ばれていたことにあやかり、こう名付けました。
実は、当初は、別の狙いから、母の名前からとってペンネームにしていたのですが、郵便などがそちらに届きだしたので、慌てて、息子の名前に変更しました(笑)。
息子なら、親の私が受け取っても、問題ないだろうと・・・。
私が息子の名前をペンネームにした「隠れた狙い」・・・というのは、実は、私自身、元々、物心付いた頃からの文字人間でありながら、字を書くことを生業にしようなどという発想はまったくなかったことがあります。

で、今、道楽で時間を見つけては、こういうことをやっているわけですが、これらに手を染める上で、いつも、痛感するのが、「スタートが遅かった・・・」ということです。
(以前、触れましたが、私の父は、私が子供の頃、通知表を見て、「社会とか国語とか、そんなものが成績良くても何の飯の種にもならん!いいか、うちは、学者になんぞ成ってもらわんでいいんだぞ!」と宣もうた御仁です。)
もう少しスタートが早かったら・・・と。


(↑長野県松本市にある、明治時代の学校の先駆け、旧開智学校です。ま、「早い」繋がりということですね。)

つまり、これを生業にして行くには、私自身、時間が余りにも少ないし、出遅れた・・・、遅きに失したという感が無きにしも非ずってことです。

もちろん、自らの不明を棚に上げて・・・というご指摘もあろうかと思います。
所詮、実力不足・・・でしょう。
ただ、その実力を磨くという上でも、「遅かった」というのを実感している次第です。
(今から基礎から学び直す・・・ということもながら、色々なところで、年齢制限などがあるのを見るに付け、そういう思いを実感します。)
 
で、そんな中、この末っ子が一番、私によく似ており、それで、将来、この子が私が果たせなかった夢を「二代目 池田平太郎」のペンネームで果たしてくれる・・・ことを期待して、池田平太郎のペンネームにしたのですが、ところが、意に反して、成長すると共に、この末っ子が見事にお馬鹿でした。
0点なんてとってきますから・・・。
私でさえ、さすがに、0点は取ったことがなかったですよ。
15点くらいは取ってましたから・・・(笑)。

とりあえず、一旦、ここまで・・・ということで。
今日は、ちと、バタバタしておりまして・・・。

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昭和を代表するコメディアン・ 植木 等 翁の死去に合掌。

2007年03月28日 | 文学芸術
親愛なるアッティクスへ

本当は昨日の続きを書かなければならないところでしょうが、今朝、起きてみたら、昭和を代表するコメディアン、植木等さんが黄泉の国へと旅立たれたとのニュースを耳にしました。
植木さんについては、過去に、平太郎独白録 「歌の文句に想いを馳せれる♪ その2 植木等 スーダラ伝説」や、平太郎独白録 「蜂須賀侯爵家にみる明治天皇の皮肉と名門の本質 前篇」平太郎独白録 「左卜全に見る人は悲しみを超越すると笑うの理の是非」などでも触れていたとおり、エノケン・ロッパの時代は知らない私としては、昭和30年代の植木等、昭和40年代の加藤茶、昭和50年代の明石家さんま・・・のこの三人は、その人気が社会現象にまでなったという点で、昭和を代表する三大コメディアンだったと思っております。
特に、植木さんは、私が物心ついた頃に大人気だった人ですので、私としても、何だか頭を垂れたくなりました。
(幼稚園の頃、祖父母とバスに乗ったら、突然、私が、「金のないやつは俺んとこへ来い~♪」と、大声で歌い出したとか。バスじゅうが大爆笑、祖父母赤面・・・だったとか。)

ただ、後のお二人と違い、植木さん自身は、元々、お寺の息子で、凄くまじめな人物であり、その意味で、現実虚構のギャップにずいぶん、お苦しみになったそうですね。
故、渡辺信社長から、「植木、おまえ、記者会見の時は、『酒もたばこもやりません』なんて言うんじゃないぞ。『たばこは一日50本くらい、酒もガンガンいきます』くらいのことは言ってくれ」と言われたとか。
「無責任男」の愛称は、植木さんには、少し、重荷だったのでしょうか・・・。

そういえば、絶頂だった植木さんの人気が去った頃の映像を一度、みたことがあるのですが、目が異様に卑しかった印象を持ちました。
「人間、落ち目になるとこうなるのか」と。
その後、役者として復活されたときには、まったく、そういう目はありませんでしたので、ほんのわずかな期間のことだったのでしょうが、思えば、「無責任男」というレッテルも人気があるときはまだしも、人気がなくなってからは、「軽蔑」の対象でしかなかったでしょうね。
おそらく、当時の植木さんは、誰をみても、に見えたんじゃないですか・・・。
私にも、多少、身に覚えがありますが、言っている方は、一人に言ってるだけで、それほどの悪気を感じるものではないでしょうが、会う人ごとに言われている方とすれば、うんざりもしますよ。

ちなみに、本日の福岡県地方は雲一つない快晴・・・。
春爛漫の陽気です。
今日は、ここんところしばらく忙しかったので、ずっと、歩いておりませんでしたので、久々に歩きしました。
(せっかく、改善に向かっていたお腹が・・・、元の木阿弥・・・ってやつで(笑)。


で、道々、眺めると、桜の方は、多くが、まだ、一分咲き、二分咲きといったところでしたが、中に、一本だけ、正気の沙汰とは思えないほどに、今を盛りと咲き誇る・・・満開(↑)のものがありました。
(元来が、花などには詳しくない無粋者・・・、あまり、深くつっこまないでください。)
他が手足を縮めているときに、一人だけ、肩を怒らして大手を振ってる姿が、何とも、傲慢に見えましたが、まあ、他に先駆けて咲こうとするやつ・・・というのは、得てして、本人にその気はなくとも、そういう目で見られてしまうものか・・・と、妙に納得してしまいました。
合掌・・・。

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祝!2周年記念、平太郎の由来にみる隠れた狙い!その1

2007年03月27日 | その他
親愛なるアッティクスへ

本日は、昨日の続きを書こうと思っていたのですが、当ブログ二周年ということに気付きました。
で、急遽、先送りして、少し遅ればせながら、二周年記念号で行きたいと思います。

お陰様で、このブログも2005年の3月下旬(あやふや(笑)。)より書き始め、2周年を迎えることが出来ました。
これもひとえに、皆々様のご厚情あってのことと、厚く御礼申し上げます。
この2か月、本当に忙しかったので、よっぽど、休眠しようか、あるいは、ペースを落とそうか・・・と思ったのですが、せっかく、この2年間、休日以外は一日も欠かすことなくUPし続けてきましたから、何とか、2周年までは、書き続けよう・・・と息も絶え絶えになりながら、書き続けてきました。
これで一区切り付きましたので、これからは、もう、頑張りませんよ(笑)。


(↑一周年の時と同様、特に関係ないけど画像です。殺風景過ぎるのもいかがなものかという、ただ、それだけの理由です。
そういえば、一周年のときも、「道」と言えば、道でしたね・・・・。
深い意味はありませんが、何かを暗示しているのでしょうか(笑)。)

で、一周年のときに、このブログの副題でもあり、毎回、冒頭に掲げられていた「アッティクス」という人物の素性と、ここで掲げることになったことの由来について述べさせて頂いたのですが、二周年記念としましては、今度は、私自身の名前の由来について述べさせて頂こうと思います。
(参照:平太郎独白録 「祝、一周年記念に見るアッティクスの素性と意図の相関性!」

お気づきの通り、「平太郎」というのはペンネームです。
HNの「へいたらう」でもご存じのように、「へいたろう」と読みます。
「へひたらふ」にすると何だか、「お母さんと一緒」「ポンキッキーズ」に出てくるタイトルみたいなので、「へいたらう」で止めております。)
ときどき、これを「ひらたろう」と読む不埒者がおります(笑)。

なぜ、このような、名前にしたかというと、神様、司馬遼太郎さんと、名手、山田風太郎さんの両「太郎」さんから「太郎」を戴いた・・・というのは、実はまったくの表向き・・・でして(笑)、私には隠れた狙いがありました。

と、ここまで書いたところで、本題の「隠れた狙い」については、明日に続きます。
・・・続くと思います(笑)。

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2007年パ・リーグ開幕!1 残そうとしないと残らない伝統

2007年03月26日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

遂に、プロ野球、パ・リーグ開幕ですね。
ミキティまおちゃんも何のその、昨日は、しっかりと、福岡ヤフー・ドームに行ってまいりました。
でもって、今シーズンの初勝利に、しっかり、祝杯を挙げすぎまして、本日、かなり、頭ガンガンしておりますが、私的には、今年は、何と言っても、多村仁選手!です。
WBCで、多村っていいなーと思っていただけに、ホークスに来たということで、万々歳です。
開幕第一打席で、多村が三遊間にヒットを打った時には、思わず、うるうるしてしまいました(涙)。
でも、開幕で活躍しすぎたからか、昨日も、早速、多村グッズを買おうと思って、ショップに行ったら、いきなり、「売り切れ」でした・・・。
少し、複雑・・・です(笑)。

で、西鉄福岡駅の改札をくぐると、これ(↑)がありました。
今、福岡県地方では、福岡ソフトバンクホークスのCM「男投げ、男打ち」というのが流れているのですが、結構、面白いですよ。
リング上でエース、斉藤和巳が投げた球を、四番、松中信彦が打ち返すのですが、最後は、松中のバットが折れて、お互いに「やるな!」って感じで健闘を讃えあうと、松中がリングを降り、斉藤が、「次ぃ!」と吠えたところで、代わって、リング上に上がってきたのが、斉藤が尊敬してやまぬ、師匠、小久保裕紀・・・。
これには、斉藤も、思わず、「あ」って感じで軽く会釈してしまう・・・という(笑)。
全体に、わざとらしさがなくって、良い感じで仕上がっていましたよ。

その小久保ですが、開幕前夜、テレビで、松中、川崎、斉藤、小久保の四選手が対談していた番組をやっていました。
その中で、川崎宗則選手が、「ホークスの伝統というのは、秋山さんが築き、小久保さんが受け継ぎ、松中さんや斉藤さんが育ててきた」と。
それを受けて、小久保選手が、大変、興味深い話をしていたのですが、曰く、「自分が巨人に行って、強く感じたことがあるのだが、それは、王監督の頃には、巨人にも、そういう、伝統というものがあったのだろうけど、それが、いつの時代かで、途切れてしまっているんだ。良い伝統というのは、伝えていこうと努力しないと、消えてしまうもので、何もしなくても残るのは、悪い伝統だけなんだ」と。

この点では、なるほど・・・と思う部分がありましたね。
思えば、名門企業老舗などというところの中には、やたら、プライドばかり高くて、そのくせ、現実の業績は伴っていない・・・というようなところがありますよね。
本来の創業の頃の「良い伝統」というものを伝えていこうという努力をしなかったのではないでしょうか。
伝統などというものは、黙っておいても、伝わっていくものだ・・・と。

では、失われてしまった巨人の伝統とは、一体、どういうものだったのでしょうか。
かつて、V9巨人時代の日本シリーズで、阪急ブレーブス岡村捕手が、判定に抗議して、審判を殴って退場になったことがあります。
このとき、当時の川上哲治巨人監督は、試合後、選手を集めて、「ああいうことをやるようなチームには優勝する資格がない!」と言いきったといいます。
この辺に、かつて、巨人が持っていた「矜持」というものの一端が見て取れるのではないでしょうか。

明後日に続く・・・と思います。

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踊り場で踊る日本経済と星の流れに~♪身を占う!

2007年03月24日 | 経済・マネジメント
親愛なるアッティクスへ

数年前、ラジオの番組の中で、とある老人が、バーで、「星の流れに 身を占って~♪ 何処をねぐらの 今日の宿 すさむ心で いるのじゃないが~♪ 泣けて涙も 涸れ果てた~♪ こんな女に誰がした~♪」という歌を聴き、「戦後のあの時代、皆が生きていくのに、なりふり構っていられなかった。街には失業者があふれ、ものすごいインフレが街をおそった・・・」と呟くというシーンをやっていました。
菊池章子という人が歌った終戦直後の流行歌、「星の流れに」という歌の一節ですが(なぜか私も知ってます。)、当時を知る人は、この歌の歌詞を口ずさんだだけで泣けてくるとさえ言われている、時代を表した名曲だそうです。
(ちなみに、2番は「煙草ふかして 口笛吹いて 当もない夜の さすらいに 人は見返る わが身は細る 街の灯影の わびしさよ こんな女に誰がした」で、3番は、「飢えて今頃 妹はどこに 一目逢いたい お母さん ルージュ哀しや 唇かめば 闇の夜風も 泣いて吹く わびしさよ こんな女に誰がした」だそうです。何をかいわんや・・・ですね。)

ところで、公示地価高騰しているというニュースを聞きました。
福岡市内でも、地価の高騰は、尋常じゃないですよ。
景気回復どころか、いよいよもって、バブルの様相を呈してきましたね。
バーの老人じゃないですが、バブル崩壊後の深刻な不況を知る身としては・・・。
で、その景気ですが、いつまでも踊り場の上で踊っているようで、なかなか、実感がないのですが、一方で日本の所得格差はしっかりと大きく開きつつあるようです。

その意味では、今、日本人は国民投票を行い、「国際競争力を持ち、格差を容認するアメリカ型社会」なのか、「有能な人材は海外にことごとく流出し、国際競争力は無くなり、長い不況に見舞われるけど、これまでのような一億総中流社会」なのか」・・・を選択するべきときにきているのではないでしょうか?
終身雇用制度は崩れたと言いながら、日本の場合、労働法であるとか、雇用慣習などは従来のままであることが多く、どっちでもいいから、いい加減、どちらかに決めてくれと言いたいです。

その上で、不況と言えば、 私はかつてサラリーマン時代、会社の倒産していく過程を間近で見れたという、大変いい経験(皮肉ではなく)をさせてもらいました。
(船が沈みかけても、まだ一等船室にしがみつく奴。自分の失敗を認めることをせず、兵隊にすべておしつけ撤退ではなく転進などと言い張る奴。日本人は、太平洋戦争教訓を全く理解していないとしか思えません。)
そこで、つくづく思ったのは、「企業は不景気になったから倒産するのではない」と言うことです。
即ち、不景気になって倒産する企業というのは、好景気のうちに倒産している企業なのであり、ただ、それが表面化していなかっただけであると思います。
好景気のうちは給料もいいし、不満も余り、表面化しないけれども、一旦それが不景気なってくると、様々な問題点が一斉に吹き出して来る・・・。
そして、好景気のうちなら対処できたような問題が・・・となるのでしょうが、実際には、この期に及んでも・・・というのが、哀しいかな現実のようですね。

おっと、時間切れです。
ビコース、今日は、プロ野球パ・リーグ開幕ですから、テレビの視聴率UPに貢献しなければなりません(笑)。
やはり、今年のホークスは楽しみですね。
昨年も、WBCの感動の余波で、どうしても、開幕戦を見に行きたくなり、何とか、行ってきましたが、今年の開幕戦も楽しみです。
ま、今日は雨が降ってるし、それに、明日は行くからいいかな・・・と。

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今度生まれてくるときは的ラインの仮橋にみる貴族意識

2007年03月23日 | 文学芸術
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本日はお日柄もよく・・・。
今日の福岡県地方は、快晴!で、気温は20度まで上がるのだとか・・・。
遂に、が来ましたねぇ。
でも、春がきたことを紹介するニュースのときに、未だに、30年前キャンディーズ「春一番」がかかっているのも如何なものかと・・・(笑)。

ところで、先日、以前から、録りだめしていた「ラインの仮橋」という、古いフランス映画を観ました。
以前から、ある老映画ファンの方が、強く推薦されていたので、見てみたのですが、その方とは、やはり、世代的な違いもあるのでしょうね。
感動というよりは、ある意味、「楽しめる映画」でした。
戦争映画といえば、私にとっては、「二〇三高地」が思い浮かびますが、最近では、正月に見た、「硫黄島からの手紙」などとも違い、他にない、一味違う戦争映画でしたね。
第二次世界大戦下フランス人捕虜を描いた映画でありながら、戦争というものの醜悪さ、悲惨さは、そこにはなく、むしろ、どこか牧歌的でさえあるとと同時に、好対照な主人公を二人描き、それぞれを、交互に・・・、いや、平等に描いていくという手法は、斬新でしたよ。

戦争にかり出された、風采が上がらない平凡なパン屋の男を、世界なシャンソン歌手にして名優の呼び声高い、シャルル・アズナブールが演じ、(先月、福岡公演に来てたんですね。全く知りませんでした。まあ、知ってても、明らかに場違いだったでしょうが(笑)。)、一方、愛国心必勝の信念に燃え、それでいて、知的スマート洗練された、ケチのつけようのない新聞記者を、無名の新人、ジョルジュ・リピエールが演じている(私の先輩にも、一人、こういう人がいるんですよ。同じ人類とは思えない人が(笑)。「今度生まれてくるときは、ああいう人になりたい・・・」ってのが、我々の口癖でした。)という辺りにも、何か、象徴的なものを感じましたね。

もっとも、映画の中の二人は、日本で言うところの、「武士」「町民」であったように感じましたけどね。
(もちろん、私は町民です(笑)。生い立ちもあるのでしょうが、常々、田舎の名門名家であるよりも、「下町の貴族」でありたいと思っております。)

あ、ついでに言うと、石原慎太郎都知事は、「ああいうのは江戸っ子じゃない」とか、「東京向きじゃない」などと言ってましたけど、あの人って、確か、神奈川県民ですよね(笑)。
それも、神戸生まれ小樽育ちじゃありませんでしたっけ?
ま、人間の、貴族・・・じゃなかった帰属意識なんてものも、一皮むけば、こんなもんでしょうか(笑)。

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左卜全に見る人は悲しみを超越すると笑うの理の是非。

2007年03月22日 | 文学芸術
親愛なるアッティクスへ

先日から、植木 等さんのことについて取り上げておりましたが、植木さんと言えば、ちょっと面白い話をちょっと思い出したのですが、以前、何かの番組で植木さんが、左卜全のことについて話しておられたのを見たことがあります。
(左卜全・・・、懐かしい・・・と言いたいところですが、今の若い人たちは、すでに知らないでしょうねぇ。「おお、神様、おお神様、助けてパパ~ヤ~♪」です。ますます、わかりませんね(笑)。)

巨匠、黒澤 明監督の代表作、「七人の侍」には、本来、野武士に襲われて村が焼けるところを村人たちが高台から見るシーンがあったらしいのですが、このシーンで黒澤監督は「村人は燃える村をみて号泣しろ」と指示したそうです。
で、そのシーンの撮影となった時に、カメラが回り出すと、卜全さん(パパパヤ~)が、すっくと立って、号泣するはずが、例の調子で、「ばハハハー」と笑ったそうです。
すると、黒澤監督がすぐ飛んできて、「笑うんじゃなくて泣くんだって言ったでしょう!」と注意して、「はい、スタート」というと又、「ばハハハー」と笑う。
また、黒澤監督が飛んできて、「だから、笑うんじゃなくて泣くって言ったでしょ!わかりますか?!泣くんですよ、いいですね」と言って、「はい、スタート」と言ったら、卜全さんは、また、「バははは~」と笑う。
で、それを4~5回繰り返したら、さすがの完璧主義者、黒澤明も、黙って、そのシーンを台本から削りとってしまったそうです(笑)。

で、後日、植木さんが撮影で一緒になった時に、卜全さんから、「植木君」と呼び止められ、「何ですか?」と言ったところ、「君は、これからの人だから、君には言っておくけど、監督が言うことは聞いちゃいけないよ」と言われたとか(爆!)。
で、「どうして、あのとき、泣かなかったんですか?」と聞いたら、「人は悲しみを超越すると笑いがこみあげてくる」と言っていたとか。
植木さんは、「偉人のすることはわからないねー」と言って苦笑してましたが、私には、むしろ、こっちのほうが真実なんじゃないかと思えましたね。
人間観察の達人、黒澤らしからぬ話じゃないかとちょっと首をひねりましたよ。
特に、左卜全の、あの「泣くような笑い方」、いや、「笑うような泣き方」は、その場面では、かなり、リアリティーがあったと思うのですが・・・。

本来、これこそが、幾多の死をみつめてきた世代のリアリティではなかったでしょうか。
(実際に、そういう場面で笑うかどうかは別にして・・・。)
思えば、これが、明治27年(1894年)生まれの卜全さんと、明治43年(1910年)生まれの黒澤さんとのジェネレーション・ギャップだったのかもしれませんね。
ちなみに、黒澤さんも、この老人には、手を焼きながらも、その飄々たる庶民の味は、結構、お気に入りだったようで、黒澤映画には、名バイプレーヤーとして、起用しておられます。
特に、誰かが言っていましたが、卜全さんという人は、酒は嗜まなかったにも関わらず、「生きる」などに代表される、酔っ払いの演技は絶品だったとか。

ついでに言うと、卜全さんは、52歳で初めて結婚し、55歳映画デビュー、さらに、76歳歌手デビュー(当時としては史上最高齢)して、40万枚を売り上げるヒットを記録しております。
一方で、私生活では、絶えず、傍らに「妻を守るため」に「錐」を忍ばせていたなど、どうやら、実際に、「奇人」でもあったようですね。

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蜂須賀侯爵家にみる明治天皇の皮肉と名門の本質 後篇

2007年03月20日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

またまた、昨日の続きです。

で、「夜盗」というものの当時の実態は、まあ、黒澤 明「七人の侍」に出てくるような泥棒略奪をしていた者もいたでしょうが、むしろ、現代的な感覚からいえば、「フリーランスの下請け集団」のようなものだったでしょうか(笑)。
いざ、戦争となると、手兵を率いて、アルバイト参加してみたり、必要とあれば、敵の後方撹乱ゲリラ戦もやるし、場合によっては、自警団もやる・・・と。

で、時は変わり、明治時代、明治天皇に拝謁することになった元阿波徳島藩主、蜂須賀茂韶侯爵は、明治天皇を待つ間、明治帝愛用のタバコを一本くすねたとか・・・。
どうせわからないだろう・・・と思っていたところ、着座した明治天皇は、めざとく、それに気づき、「血は争えぬのう、蜂須賀」と言って、にやりと笑ったとか。
言うまでもなく、蜂須賀家の開祖、蜂須賀小六正勝が、太閤記の中で、夜盗、蜂須賀小六として描かれていたことに引っかけたものだったようですが、いかにも、諧謔家であった明治天皇らしいエピソードだと言えるでしょうか。

ただ、この点で言えば、その蜂須賀小六の血筋は、実は、江戸時代半ばで、すでに絶えており、この時点での蜂須賀家当主、茂韶の父は、徳川将軍家から養子に入った人物・・・、つまり、茂韶自身は、徳川第十一代将軍 家斉に当たるわけで、家系的には、武士にとっては、夜盗どころか、「頂点」に位置するわけです。

ただ、そうは言っても、蜂須賀家では、かなり、夜盗上がりという評判を気にしていたようで、「何とか先祖の汚名をそそぎたく、夜盗ではなかったと立証してもらいたい」と、郷土出身の歴史民俗学者として高名であった喜田貞吉氏に依頼したところ、「侯爵家の先祖はたしかに夜盗であった。しかし夜盗というものは、その時代には決して恥ずべき職業ではなかった、ということなら、歴史的に証明してみせます」と回答されたとか(笑)。
結局、それでは困る・・・ということで、誰か別の人に頼んだそうですが、これって、つまり、身分制度を厳格細分化することで、秩序を保っていた江戸時代の、(天皇家を別にした)日本の身分ピラミッドの中では最高位に位置するであろう、徳川将軍家の血筋の人が、いったん、「夜盗上がり」と揶揄される家系に入ってしまえば、「夜盗上がり」になってしまう・・・。
なんだか、名門名家というものの、根拠の薄っぺらさを見たような気がします。

もっとも、この明治天皇の皮肉も、あながち、的外れではなかったか、蜂須賀侯爵家は、維新後も、紀州徳川家と並ぶ屈指の富豪華族として知られていたにも関わらず、戦前の18代当主、蜂須賀 正氏は、世界的な鳥類学者として知られる一方で、たびたび、犯罪違法行為などに手を染めるなどしたため、ついに、終戦直前の昭和20年7月に侯爵位返上に追い込まれたとか。
さらに、戦後は戦後で、正氏が亡くなった後、遺族の間で暴力団も絡んだ相続争いが起こり、為に、財産の多くを失い、蜂須賀氏は没落したと言います。

・・・やはり、「氏より育ち」、血は争えない・・・ということなのでしょうか。

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蜂須賀侯爵家にみる明治天皇の皮肉と名門の本質 前篇

2007年03月19日 | 文学芸術
親愛なるアッティクスへ

昨日、日曜でしたが、午後からは仕事しました。
で、午前中だけは、ゆっくりしようと思い、以前から録りだめしていた昭和39年(1964年)、植木 等主演の映画、「ホラ吹き太閤記」なるものを観ました。
数ある植木主演作品の中でも、私がもっとも好きなやつです。
(植木氏については、過去にもたびたび、取り上げておりますので、よろしければ、どうぞ。
平太郎独白録 「歌の文句に想いを馳せれる♪ その2 植木等 スーダラ伝説」
平太郎独白録 「歌の文句に想いを馳せる♪ その3 渡辺崋山と春夏秋冬」

監督は、数々の「無責任シリーズ」を手がけ、奇人としても知られていた古澤憲吾監督。
実際の植木さんという人は、極めて、真面目な人物として知られており、むしろ、実際の「無責任男」に近かったのは、この古澤監督の方だとも言われているようで、まあ、いずれにしても、ユニークな監督さんだったようですね。

で、この「ホラ吹き太閤記」ですが、タイトルからおわかりの通り、当時、「無責任男シリーズ」で人気絶頂だった植木 等が木下藤吉郎・・・、後の豊臣秀吉の出世物語を演じたものだったのですが、いやあ、何度見てもいいですね。
(ちなみに、妻、ねね役は、日本が誇るボンドガール、浜 美枝でした。でも、私的には、若林映子さんの方が好きでしたけどね(笑)。)
太閤記の中で有名なエピソードと言えば、織田信長草履取りとしてスタートした木下藤吉郎が、真冬に信長の草履を抱いて温める・・・というシーンがありますよね。
太閤記では、ここで、信長から褒められるのですが、この映画では、ハナ肇演ずる織田信長から、「ごますり者めが!虫唾が走るわ!」と一喝され、翌日から、草履取りよりさらに格下の馬屋番左遷されるのですが、植木藤吉郎は、「めげない」んですね。
普通なら、落ち込んだり、投げやりになったりするものでしょうが、とにかく、めげない・・・。
軽~いノリで、「いやぁ、結構結構」などと言いながら、馬屋に赴任する。
まあ、ここまではないにしても、実際の秀吉という人も、結構、これに近いような、気にしない人だったんじゃないですか(笑)。

でも、人間って、妙なもので、普通、こういうのを見ると、「こんなやつが羨ましいよ」とか、「俺がこんなに苦労しているのに!」とか、「ふざけやがって!」なんて、とかく、ネガティブに考えそうな気がするのですが、この映画に限っては、「こんなにうまく行けば苦労はないよ」とわかっているにもかかわらず、見終わった後、「よーし、俺も一丁、行ってみようかぁ!」と何の根拠もないファイトが湧いてくるという不思議な作品です。
(私の先輩の中には、「無責任シリーズ」の大ファンの人がいましたが、その人は、「あれを見ると、元気が出るんだよねぇ」と言っていましたが、まさしく・・・。)

で、この映画についての話は、いずれまた述べるとして、この映画の中に、東野英二郎扮する夜盗、蜂須賀小六という人物が出てきます。
実際の蜂須賀小六という人は、後に、秀吉政権の番頭みたいな役回りになり、阿波徳島藩の藩祖にまで上り詰めるのですが、この太閤記では、面白おかしく書かれたこともあって、「夜盗」、即ち、野武士・・・として描かれているわけです。

明日に続きます。

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軍人は星の数で相手を見るにみる肩書きの是非、その2

2007年03月17日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。
本当は来週書こうかなと思っていたのですが、鉄は熱いうちに打て・・・と言いますので。
そのぶん、来週、手抜き・・・するかもね(笑)。

戦前、岸 信介元首相が、東条英機内閣商工大臣になった折りのこと、新任挨拶に行くと、東条首相から、「君の官位を正三位(?)にしておくよ」と言われたとか。
岸大臣は、「そんなの必要ないですよ」と言ったところ、東条首相は、「いや、これからは、立場上、軍人との折衝が多くなる。軍人というものは、相手を星の数(大将、中佐、少尉などの位を表すバッジ)で見るものだ。だから、官位はあった方がいい」と言われたとか。
(そういえば、ジパングという漫画で、タイムトラベルした自衛官が自らの名前の後に、「一佐」と付けて名乗ったら、帝国軍人らは、「一佐?」と少し、ぽかんとした後、「佐官級かよ!」と言って、一斉に立ち上がって敬礼しましたね。まあ、漫画の中の話ですけど、現実にも、これに近い世界があったんじゃないですか・・・。)

この辺は、如何にも、憲兵隊上がりの軍人官僚、東条首相が言いそうなことですが、確かに、私も、あまり、この手の話は好ましいと感じるものではありませんが、だからと言って、一概に否定できない部分も持っていると思います。
自分がそうでも、相手が、それを好む人間の場合、何の立場、どういう権威で自分が物を言っているかをはっきりさせておいたほうが良い場合もあるからです。
役職や権威がないと、相手が動かないという場合(現実)もあるんですよね。

また、軍隊の制度に、ライン=スタッフ制というのがあります。
いわゆる、参謀制度というものです。
これは、その組織の規模にもよるのですが、組織が一定以上の規模になってきた場合、「考える部門」「考えない部門」を分けた方が効率的だということです。
以前、あるテレビ番組で、「おふくろの味」と言いながらも、実際に家庭の主婦が作ったきんぴらごぼうと、スーパーの出来合いきんぴらごぼうとが、どちらが、美味いか・・・というのを、目隠しをして、食べ比べていたのですが、結果は何と、多くの人が、スーパーの出来合いに軍配を挙げました。
でも、これは、本来、無理からぬことなんですよね。
なぜなら、スパーの出来合いを作っている人は、毎日、きんぴらごぼうばかりを作っているわけで・・・。

それと同じで、工場のラインで、毎日、部品を作っている人は、余計なことは考えずに、毎日、同じ部品だけを作らせた方が効率的なんですよ。
部品を改良するとか、ラインの改善であるとか、考える部門は、考える専門のスタッフチームに考えさせたほうが効率的なわけで・・・。

今度こそ、そのうち、続く・・・ことになると思います。

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軍人は星の数で相手を見るにみる肩書きの是非、その1

2007年03月16日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

実は、ここしばらく、期限付きで没頭していた仕事があったのですが、やはり、もう、間に合いそうもない・・・ということで、粘りのない福岡人らしく、すっぱりと諦めました。
で、元ののんべんだらりの生活が戻りつつあったのですが、昨日、やはり、どうしても、期限中に仕上げろ!と、再厳命されまして、再び、パニックの中へと帰ってきました。
まるで、ターミネーターか、ダイハードみたいかと(笑)。(←少し、壊れてます。)
嗚呼、私の安寧は遠い・・・。

で、先般、いつも、拙ブログに対し、温かいご指導ご鞭撻を賜っております、Count_Basie_Band さんのブログ、「墓の中からコンニチワ」の中で、「お客様各位」という記事を拝見しました。
敬称を、すべて、「様」ではなく、「さん」で統一するという話だったのですが、その後、「追伸」という記事を拝見するに及んで、私には、以前から、少し思っていたことがあり、少し、考えてみました。

実は、20年くらい前でしょうか、私は、若き頃、本田技研工業の共同創業者である本田宗一郎藤沢武夫の両氏の創業伝説を読んで、その中の一文に感動したことがあります。
それが、「ホンダでは、肩書などでは呼ばない。社長も専務も新入社員も、皆、『~さん』で呼ぶ」という部分でした。
当時、私の周りにいた大人たちは、皆、自分の肩書取り分のことしか考えてないような人たちばかりだったこともあり、それに辟易していた私は、「もしやして、いつの日か、私が人を使うようになることがあったら、私の会社はこうありたいものだ・・・」と思いました。
ちなみに、昔、私が勤めていた会社は、全体の9割が幹部クラスという所があり、そこでは、時々、「幹部会議」なんてのをやってたのですが、そこに招集されない人を探す方が大変なくらいだったという(笑)。
「だったら最初から、全体会議にすればいいのに」って思ってましたよ。
また、当時、取引先があった、ある会社の中には、「係長」、「営業リーダー」、「主任」、「店長代理」、「主査」と、一度に、名刺を出されたことがありました。
これには、思わず、噴き出してしまいましたね。
「偉い順に並べろゲーム」じゃないんだから・・・と(笑)。

ところが、それから、20年を超える歳月が流れ、その間、色々な現実を見るにつけ・・・、かつて、私を感動させたこの考え方は、少し、「理想主義」に過ぎたものだったのではなかろううかと思うようになってきていました。
で、先日、日下公人という経済学者が、新聞に記事を寄せていたのを拝見したのですが、曰く、「今までは部長、課長、課長代理、係長、班長、主任なんて階段がいっぱいあった。命令する人と、それを聞いて実行する人がはっきりしていた方が仕事するらしいんだな。それをフラット化して、肩書きもチームリーダーとかディレクターとかカタカナ化して『山田さん』なんてさんづけで呼び始めると、組織もガタガタになっちゃうようだ」というものでした。

で、これには、私も、いくつか、思い当たる話がありました。

続きは、また、来週・・・に書けるかな・・・ですね。

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損して得取れを知らない19世紀的発想のアメリカ、その3

2007年03月15日 | 国際問題
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

貪欲に、ひたすら、己が「利益確保」の道を突き進もうとするアメリカ・・・であるが、これは、「領土」「利益」かというだけで、帝国日本五十歩百歩のもののようにも思える。
だが、この「19世紀的発想」は、今やもう、弊害の方が多くなりつつあると言え、その意味では、明らかに、21世紀向きではないと言えよう。
その意味では、アメリカは、これまで述べてきた江戸商人の家訓や、中国の古老の言葉のように、相手にもう少し、利益を与えることを心がけるべきだと思う。

この点では、初回の冒頭でも触れた「江戸商人の家訓に学ぶ」という記事の中に、「中村治兵衛家の家訓」と並んで、同じく、外村余左衛門家の家訓として、「売って悔やむは証人の極意」というのが見て取れる。
「売った後に悔やむくらいに安くて良い商品を提供するのが商売の極意である」というのが慨意らしいが、即ち、「目先の利益を追って一円でも高く売りつけようとすると、顧客は寄り付かなくなる。それよりも、顧客の満足度を優先し、リピーターとなって、継続して、量を買ってもらう方が結果的には商売繁盛に繋がる」という意味であろうか。
まさしく、私の父が依頼した遠縁の業者の対応そのものであろうが、アメリカも、いい加減に、日本の江戸商人たちの遺訓に耳を傾けるべき時期に来ているのではなかろうかと思われる。

確かに、資源消費大国としての中国の台頭という問題もあることから、「安易に、手放せない」ということにもなるのだろう。



(成長著しい中国。鄭成功が台湾に渡る前の居城より見た、地方都市、アモイの市街地。五年ほど前のものですが・・・。)

しかし、これは、元々、これまで、地域のことを考えてこなかったことのツケが来ているとも言えるわけで、このままでは、「利権喪失の危機」→「軍事介入」→「抵抗運動の長期化」→「財政破綻」→「利権放棄」という、これまで、イギリスフランスなどの19世紀型列強が辿ってきた悪循環をなぞることになるだけなのではないだろうか。
アメリカは、「自分たちだけは違う」と思っているのかもしれないが、そう思って、ベトナムで躓いた経験を何ら教訓としていないように思えてならない。
(何より、現在のイラクでの現実が、そのことを如実に物語っているであろうか。)
もっとも、大国というものは、アメリカに限らず、中国ロシアなどでもそうだろうが、いつの時代も自分勝手なものなのではあるだろう。
だが、こと、21世紀型社会に限っては、全体のこと、地域のことを考えたほうが、結果的に、安くつく社会であるような気がするのである。

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損して得取れを知らない19世紀的発想のアメリカ、その1

2007年03月13日 | 国際問題
親愛なるアッティクスへ

先般、たまたま、ある小雑誌で、「江戸商人の家訓に学ぶ」という記事を目にした。
その中で、中村治兵衛という商家の家訓として、「他国へ行商するも、総て我がことのみと思わず、その国の一切の人を大切にして、私利を貪ることなかれ」というものがあるのを目にした。
つまり、「他の国へ行って商売をする場合も、自分や自分の顧客ことばかりではなく、その地域全体のことを考えて商売せよ」という意味であろうか。

この点で、思い浮かんだことがある。
今月8日から14日にかけて、夫人とともに、ブラジル、ウルグアイ、コロンビア、グアテマラ、メキシコラテンアメリカ5カ国歴訪中ブッシュ米大統領であるが、これまで、あまり、この地域を優先してこなかったブッシュ政権としては、今更ながらの観が無きにしも非ずで、ようやく、「裏庭」の状況に対して、重い腰を上げたというところだろうが、だが、かつては、「アメリカの裏庭」と呼ばれたこの地域も、今や、仇敵は、キューバのみならず、ベネズエラアルゼンチンなどを始め、公然たる反米の動き顕著になりつつあるようだ。
現に、訪問先のブラジルでは、国民はブッシュ来訪に対して、ブラジル国民は、ブッシュの人形を燃やすなどの抗議行動を繰り広げ、中米のグアテマラ訪問に際しては、先住民マヤの指導者が、「神聖な土地踏まれるのは侮辱」として、米大統領訪問後には、「お清め」をしなければならないと述べるなど、決して、歓迎されているとは言い難い状況だ。

思えば、以前、平太郎独白録 映画、『太陽 The Sun』にみるGHQは日本の捕虜?」でも触れた、終戦直後の昭和天皇を描いた「太陽 The Sun」という映画の中で、マッカーサーが昭和天皇に対し、「我々は、他国の領土を欲しいとは思わない。なぜなら、欲しいものは、すべて、金で買うからだ」というような意味のことを言っていたが、確かに、戦前の日本のそれは、「ただ、ひたすらに領土を拡げたい・・・」みたいな面も無きにしも非ずだったように思う。
が、そのアメリカも、領土こそ求めないものの、中南米やアフリカなど、世界中のあらゆる地域で、「すべてを根こそぎ持って行こう」という姿勢が強すぎるように思う。
せめて、もう少し、地元にも分け前を残しておいてやれば、やっていること自体は、商行為なのだから、あそこまで、毛嫌いされるということもないのではないかと。

思い起こせば、中東はもとより、中国でも、ロシアでも反米の動きは顕著になりつつあるし、日本韓国などでも、嫌米の動きが巻き起こりつつあるようにも思える。
それら、世界中で嫌われ者になりつつあるアメリカだが、その意味で思い出すのが、拙稿でも、たびたび、取り上げている、私が敬愛する、元帝国陸軍参謀であり、兵法研究科でも知られた、故、大橋武夫氏の著書の中にある言葉である。
これは、戦前、氏が中国の古老から言われたことだという。

続きは明日ということでご理解賜れば、もっけの幸いでさあ。

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