よりみち散歩。

日々の暮らしのなかで心に浮かぶよしなしごとを、こじんまりとつぶやいています。お役立ち情報はありません。

紅葉狩り~高幡不動尊

2014年11月24日 | 神社仏閣
23日に、大好きな高幡不動尊へ参拝。

大安吉日とあって七五三詣での参拝客で賑わっている。
(なぜかあまり人が写っていないが、けっこうたくさんいたのだ)

そして、澄んだ晴天。


本殿。





菊まつり。




紅の葉が日に透けてうつくしい。








ここには、四国八十八か所のお砂がおさめられているので、
その台座を踏んで祈れば、八十八か所めぐりをしたのと同じ
ご利益があるのだという。

もちろん、台座の上で祈ってきた。

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「友達ゼロ」は人としてダメか

2014年11月16日 | 日記
1年ほど前の日経ビジネスに興味深い記事を発見する。
明治大学文学部教授、諸富祥彦先生の発言だ。

(インタビュアー)
ただ、先生、孤独に生きようと思いながら躊躇している人の中には、
「あまり他人と距離を置きすぎると、いざという時、誰も助けてくれなくなるのでは」
と考える人もいます。


(諸富祥彦)
ああ、それなら心配は要りません。広く浅くの表面的な関係で結ばれた友達が、
いざという時に、本当に本気であなたを助けてくれると思いますか。

相手が苦しい時に自分の身を投げ出しても何とかしようとする。
そうした深い人間関係は、「孤独を知ったもの同士」の間にこそ生まれる。

人間は本来孤独であり、それぞれ自分の道を生きていくしかない。

そうやって孤独を引き受けた者同士だから分かり合えるための努力をする。
孤独を知った者同士だからこそ響き遭える、深い出会いがあるんです。



特に最初の2行については経験上、深く首肯する。

昔、サークルメンバー数人が、ある男性に怪我を負わせ、
その結果、彼は会社を数か月休職し、後遺症に苦しむことになった。

勿論、悪気があってのことではない。ふざけていたうちに起きた事故だった。

…しかし、誰も責任を取ろうとはせず、先方が弁護士を立ててきても無視し、
自己保身に努め、彼の傷については黒い歴史として葬り去ろうとした。

そのサークルとは袂を分かったが、今も別に後悔はしていない。
「仲間」意識は強いが、友情らしいものは彼らにはなく、
付き合う理由も楽しみも期待も雲散霧消したからだ。


いざというときに、友情が試される、という。

しかし、大抵はひとはエゴに囲い込まれるものなのだ、とも思う。

少し前、海辺に落とし穴を掘り、若夫婦が落ちて絶命したニュースが報道されたが
あの“友人たち”も悪気なく陥穽を築き、それにより自身が巻き込まれそうになったときに
他界した夫婦に非を被せ、罪から逃れようと画策した。

私が体験したサークルのメンバーたちと、彼らたちに大きな相違はない。

友人ごっこが好きで、仲間をコレクションのように多く集めてその数を競うが
実情は空疎であり、対象に何の親愛も厚情も寄せてはいない。


嘆かわしいとも、かなしいとも感じない。

ただ、そんなものだと思うだけだ。

みんな、最後には自分を優先する。

生き物は、すべて。

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女子の人間関係

2014年11月10日 | 読書
『整理整頓 女子の人間関係』水島広子著を読了。

つき合いが悪い人になって、本当に自分がつき合いたい人とだけ
こっそりつき合う関係も悪くない。

陰口を聞いていると陰口を語る人ばかり集まり、人生の質が下がる。
自分自身が陰口をきかないこと。

陰口をきかないと同時に愛想を良くし、相手にとって刺激の少ない存在になる。

空気のような存在になればいい。


付箋を貼ったところをまとめてみた。


女子は確かに面倒だなと思う。

ある知り合いの女性の話。

転勤先が暇で仕方なく、職場の知人・友人に会うたびに愚痴っていた。

その中に人事担当者がいて、次の年、そのセクションがばっさり消されたのだ。

その後、彼女がのたまった言葉。

「私、○○さんに裏切られました!
人事担当として話したんじゃなく、オトモダチだと思って話したのに!」

…どう考えても、悪いのは彼女だろう。
学生時代の友人と、職場の同僚は全然違うのだ。

そこは反省して学ぶところだが――どういうわけか、男性にはこのタイプは少ないが
女性にはたまにこういうタイプが散見される。

こういう女子は苦手だ。
君子危うきに近寄らず。

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インナーチャイルドと癒し

2014年11月04日 | 日記
カウンセリングを受けた時に
「インナーチャイルドと向き合う」というワークをやったのだが
うまくできなかった。

「小さいあなたは何と言っていますか?」

「何も語ってくれません」

「それはそうでしょう、今までとても辛い思いをさせていたのです、
なかなか打ち解けてくれないと思います」


いえ、先生…それ多分違う。

私が「第二の私、子どもの自分」というものをもとより認めておらず、
自分は自分、唯一無二の存在と信じているからであり、
「子どもの自分と対話し、また元の自分に戻す」という行為に
疑念を抱いているから、だと思う。

過去を振り返るのは、多分性に合わないのだな。

フロイトのような分析学よりも、アドラーのほうが好みだ。

『嫌われる勇気』が結構面白かったので、アドラー系の本を
何冊か買ってみた。

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