chargeのブログ

人のブログを見て真似して書いていきます。似たブログを見つけたら教えてください。

『健全ロボ ダイミダラー』を観てしまった

2014-06-19 02:16:44 | 日記

 そのへんの記事を読んでいて、『健全ロボ ダイミダラー』というアニメの名前が上がっていたのでなんとなく検索して一話だけ見てしまった。そのアニメの中にはダイミダラーを動かすためのHi-Ero粒子を放出させるために高校生の男・真玉橋が美容院プリンスのエージェント楚南と情熱的にスキンシップを図っているシーンがあった。男女の間で人間関係がそんなことが出来るぐらいに深まって行くほど健全と言って良いのか、周囲とのコミュニケーションやメディア、教育によって伝えられている社会的に定義された規則をいつの間にか破ってしまうほど脳みそが不健全で良くないと言って良いのかと意見の分かれるところだが前者であると捉えたほうがそのストーリーではうまく回るような感じなのでそう考えておくことにしようと感じた。

 

 以前書いたように人間は視覚や聴覚から受ける直接的な快感というのは少なく、大抵、味覚や嗅覚、触覚から直接的には快感やら苦痛の刺激が生じてくるのだが、触覚から直接に生じる快感があるとされる濃密なスキンシップ行為をされて社会的な決まりを守って嫌がっているように見えるあの女子生徒をニュースでよく見るセクハラで訴えている女性と同じに捉えて、彼を刑務所や少年院、精神病院の閉鎖病棟に送ることを彼女は望むのかと少し考えたが彼女と関係のない善良な人間を無理やりそのようにするよりも生理的に嫌がるのではないかと勝手に想像した。彼はそれを通じて良いことをしている部類に入ると思われる。レイプという行為があるが接触時に快感でなく苦痛を与えて性的な接触をできないようにする行為であるということを知っている人は少ないが経験則で知って本当に人間はやってくる場合があって、性的な欲求が我慢できないからやっているのと混ざってよくわからなくなって今では性的欲求自体が最悪だといえる感じなっている。受け入れられる人と受け入れられない人で同じ行為をやっても逆の結果になるような差があるわけで受け入れられない状態から接触によって印象を変えて受け入れてもらえる状態までに持っていくというすごく難しいことを彼は成し遂げかけていると私は感じた。

 

 古代から平成の初めぐらいまでは日本人は今よりもっと軽く性的なことをしていたので性感染症というものが蔓延しており、それをしない人間のほうが確かに正しかったであろうし、今でも間違いなく不特定多数の人とするのは本来的な意味で不健全な行為で止めるべきであったわけだが、その状況にはない彼らに当てはめると拡大しすぎで人生の長期的な楽しみを奪う事のような気がしないでもない。今後、この番組は録って置いたり眺めたりしないと思うがオラクルのデータベース資格がシルバーまで取れたらその限りではない。

 

 


   例によってダイミダラーと似た感じの名前の物を探してみたのだが高野山で作られている胃腸に効くとされる民間薬の丸薬である『大師陀羅尼錠』というものを見つけた。同じものが二反田薬品工業から『御陀羅尼助』という名前で出ている。

 

 陀羅尼というのは仏教の呪文のことであり、それに対して尊敬の念を込めて"御(おん)"をつけているわけだが現代人にそれを見せると御(み)と読み違えて(用法上誤っていないので可能性は高い)言葉の感じから少し逆効果になる可能性がないこともないと思われた。逆でないかもしれない場合は多いかも知れないのだがそれは社会的に秘密である。


『俺の屍を越えてゆけ』と十句観音経

2014-06-17 13:44:01 | 日記

 ネットをいくら検索しても出てこないことであるが、雨引山楽法寺の観音は延命観音であり、十句観音経は延命観音と関係があるため実は多少は関係しているはずである。Wikipediaによれば白隠の著作である『延命十句観音経霊験記』で霊空が延命十句観音経を霊験あらたかだとしたと記載しているらしいが、霊空というのは摩多羅神を信奉する玄旨帰命壇を糾弾して輪王寺に闢邪篇を奉納した人物でもあり、昔は名前が似ていたり出来事や役割などが重なると同一視して良くなることなど頻繁であったので、その寺でマダラ鬼神祭りが現在も行われていることと何がしかの教義上の関係や周囲の人の連想が存在した可能性はかなり高いはずである。
 このまえ、夕餉の後にそのことを考えていて、小休止している時に間違って『俺の屍を越えてゆけ』をPSPにダウンロードして4時間も夜中にあそんでしまったわけだが、その翌日にOracle SQL 基礎Ⅰ 11g(1Z0-051J)を受けて60%合格のところ58%で落ちた。DBAの方は70%の点数で既に受かっていて、SQLの方も模擬テストで65%前後であったのでなんとか受かるかもしれないと思っていたので大分参っている。あのゲームを作るのにも幾人ものプロフェッショナルの手を借りているわけだが、邪教として廃止された摩陀羅や真言立川流にバトルゲームの構成を考えるクリエイターも目が行くのではないかと時々考えている。私の母は以前コンピュータ訓練学校の市からの派遣事務をやっていたが、その時に寺から鎌倉時代に奉公によって土地を拝領した下級武士である我が家の家系図をコピーしてもらってきて欲しがっている学生に渡したことを私に向かって話していたことがあったのだが、そんなものがどこかに謎のネタとして漂流していたらどうなのかという妄想がなぜかプレイしていて沸いしまった。そしてそのことは必ずしも私のプラスに働かないような予感がする。そのような念慮はおそらく統合失調症の増悪要因なので速やかにゲーム機と脳内から削除したいのだがプレイしたゲームの絵の記憶や意外にも集中できて面白かったことが合わさって長期記憶の方に入ってしまっている。


五感の中で人間にとって実際に快・不快を与えるのは主に嗅覚・味覚・触覚

2014-06-15 23:53:01 | 日記

 『一緒に気持ちよく仕事のできる社員とはどんな人物か』の項目で面接などで人と初めて会うとき「気持ち良い」を見聞きした感じで判断していて、それが個人の経験に依っているもので合わせるのは実は難しいことを書いた。
 人間の感覚の中で実際に快・不快を直接に惹起するのは主に嗅覚・味覚・触覚であり視覚や聴覚の作用はあまりそこに関しては大きくない。見聞きすることによって呼び起こされる感覚というのは快や不快、安心や不安が直接よび起こされるよりは、嗅覚・味覚・触覚を伴った経験に付随する視覚・聴覚の記憶と結びついていて記憶を呼び起こす作用が大きい。
 視覚や聴覚の刺激に対していかに快感や安心を伴った嗅覚・味覚・触覚の状態の記憶を結びつけるかという単純な科学的努力が一般個人はもとより、それを生業とするメディア・娯楽産業に至るまで社会全体として少し足りていないと私は感じているのだが、実は考えているのに意図的にやっていないのかもしれないと思うときもある。本当のところはどうなのだろうか?

 

 



一緒に気持ちよく仕事のできる社員とはどんな人物か

2014-06-13 09:29:02 | 日記

 近年、企業が求める人材の人物像は『一緒に気持ちよく仕事のできる社員』というものが多いようだ。私は、その要求は多くの人にとって常には満たすことが難しい事であり、人によっては不可能なことであると考えている。
 私はその言葉における人が一緒にいて気持ちが良いというのは周囲から見聞きした状態において、周囲の観察者の習得してきた評価基準を満たし、そのことを応用して遊戯ができる程度に場慣れした状態であることが感じ取れることを大凡言っているのだと辞書的な意味と自身の経験や周囲の観察から推測している。
 企業のその要求のどこが難しいのかといえば、「見聞きした感じ」から、上記の一緒に気持ちよく仕事のできるとされる基準を満たしている状態であると相手が感じてくれることが重要であるということが難しいと考えられる。
 見聞きした感じから好感を感じる場合に人は時にその感覚はほかの人と共通していて生得的に交換を生じさせるのだと錯覚する場合があるが、実際には快感や気持ちの良い感覚が見た目や言葉の印象とともに訪れる経験が重要である。これは生物学的に証明された条件反射と要因を一部同じくする問題である。チューリップが情熱的な花か幼稚な花なのかということで意見が相違する光景を私は目にしたことがあるがその要因はやはり印象に付随する体感的経験に起因していた。人間が全く同じ経験をすることは物理的に不可能であり、距離的にも時間的にも近くに居れば似た感覚を長い時間共有できたかもしれないがその隔たりが大きいとそれも難しくなる。そのため、企業側の採用者と新卒採用の基準が合致することは変化の激しい現況においては大部分でないと考えられる。できるだけ相手に不快感を与えないように避けるという、相手に快感を与えるのと少し似ているが全く異なる解決法を取る必要もあるわけだが、それが『一緒に気持ちよく仕事のできる社員』の像から最も遠く離れた状態にある人が取るべき態度であるため嫌悪感が最初から生じる人も多く、一般化して何か出来るような銀の弾丸に類するものは無いと私は考えている。
 利益の本質とは安心や快感であるわけで、企業の求める人物像は自己利益を追求する集団のものとしては大体の意味で誤りとは言えないが、目の前に初めてやってくる人に対して事務的だったり機械的だったりする仕事と並行してコミュニケーションを要求したようにする人間になって欲しいということ示すのではなく、最初からコミュニケーションが自らと同じであるように望むというのは難しいことであり、多少、人間関係の構築法としては誤りである。
 新参者にとって解決が難しいと考えられるそのような態度をとる企業側と気持ちの良い関係を築くには、何らかのつながりが最初から有るところにいくのが都合が良いかもしれないが、その関係にも始まりがあったはずで、その具体性の低い題目を要求する企業に警戒しつつも周囲をよく見ながら、気にせず仕事をこなしていく心構えが事前の関係のない人間には必要だ。


勝手な仮説:二次成長期にラクトースの血中濃度が高いと乳房の発育が抑制される

2014-06-13 09:21:43 | 日記

 小保方晴子氏も真っ青のいい加減な仮説を先ほど立てた。それは、ラクトースの血中濃度が二次成長期に高いと乳房の発育が抑制されるというものである。その仮説を立てた理由は以下のようである。


 国ごとの母乳成分の比較表などがないので完全なラクトース不耐症から類推した憶測になるのだが、成人におけるラクターゼ欠損によるラクトース不耐の地域差から見て欧米人の母乳成分においてラクトースの濃度が薄いのではないかと推測している。ラクトースを分解するラクターゼは成人でも合成される人は小腸の微絨毛で多く合成しているわけだが肝臓などほかの臓器でも働いて乳糖をDーグルコースとD-ガラクトースに分解している。ラクターゼが機能している人は勝手に血中濃度が低くなっていくので、母乳のラクトース濃度が乳腺でラクトースシンターゼを活発に働かせても低下していく分、ラクトアルブミンや量、乳腺細胞の数で補う必要があり乳房が大きくなる必要があるのではないかと推測したのだ。また、思春期の乳房発達時にラクトースの濃度が高くなると生産量が過剰になると勘違いされて乳腺の発達・肥大に負のフェードバックがかかるという逆の方向のものも考えられた。


 この仮説を実証するには二次成長期のないネズミなどでは乳腺の発達の仕方や成分組成、分泌調節機構が遠いので二次成長期のある霊長類で乳腺が肥大する傾向がある生き物で実験するのが良いのだが、そのようなことは私にはとてもできない。そのような生き物は人間しかいないからだ。第二次世界大戦中に日本軍が中国で行ったとされる陸軍731部隊や性病を精神病患者に接種して経過を調べ、患者を殴って殺して解剖して記録していた病院と同じ謗りを受ける可能性は高い。  私にとってかなり長いあいだ仮説だけで実験的には正確な条件管理のために人間の行動抑制が必要なために実行できず永久に謎かも知れない人間の特殊な成長の謎を人間は迂回路を見つけて解き明かす日がやってくるのだろうか。解き明かすと教育も政治も変わる必要が出てくるかもしれないが、教育や政治に体を合わせることを要求され続けることは間違いないと考えている。



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