人間が好む料理というのは大体、美味しさ、香しさ、温かさや冷たさ、口当たりのどれかまたは全てが良いものである。また、その食べ物は清潔な環境で上手な人に作ってもらうい、技巧や善意を感じさせる盛り付けがされると健康に不安なく安心して食べられる。それら全ての要素を満たす料理は多くの場合、美しく感じられ、食味をより一層印象深いものにし、ともに料理を食するものがある時に共感を生じさせて、親しみを強くさせる。私は先日、家族と庭の軒先でバーベキューを行い、食の楽しさを味わったのだが、思い出す限り、ここ10年でこれ以上に楽しいことは無いような気がした。そして、そういうふうに楽しく料理を沢山食べた後は眠くなる。
人は腹が満ちると安心が生じ、胃や内臓に血流が増大し、インスリンが放出されて糖の同化が促進されるため脳の血流や血糖値が一時的に低下して眠気が生じるのだと考えられている。そして、意識を少し朦朧とさせながら寝具に向ってゆく。寝具と言えば日本では昔は布団であったが、最近はベッドも多い。私の部屋にはベッドがあるが、上に布団が敷いてあり完全には移行できていない状態である。そういった寝具の中で多くの人は安心して寝ているわけだが、その中は本来的には子供を作る行為で愛情の核心である性交を行う場所にもなる。食べるのも寝るのも性交するのも全て生存のためであるわけだが、それらは密接に関係していて満たされるときには連鎖的に全てが満たされる場合が多い。
しかし、常に布団やベッドで食後の眠気を解消することが出来るわけではない。公園で花見などの宴を催している時に、酒などによって眠気が強くなりその場で眠ってしまうものもいる。人間の必然的な生理現象であり、食事の宴を催しておいて寝る用意がないのは気が利いていないことで、毛布の何枚かも持っていくとよいと思われる。しかし、そのせいであまり関係を発展させて仲が良い所を人が集まるところで見せるとやっかみを買って非難される恐れがあるので眠る必要がない程度にとどめるのが大人の節度だと私は思う。
人間というのは苦痛で嫌なことや快感があって好ましく感じることを日々感じ取って記憶として蓄積し、それに基づいて行動の結果を予測して判断を行ったりすることによって思考活動を行っている。
その蓄積した記憶を思い出す時にかつて持っていた体の感覚が失われていたら、その記憶はどの程度有効だろうかという疑問が私にはある。
私は永久に終わらない大量の課題や私にとっての難問、カフェイン摂取、寝不足により頭痛と肩こりがひどく、耳鳴りまでした時期があり、鉛筆を持つのもキーボードを打つのもやっとであったのだが、その時にはいかなる面白いことも快感も思い出せなかった。
苦痛だけで飽和し、長い時が経過して快感が思い出せなくなった状態にある人物というのは本当に人や場所、時期によって浮動する善悪についての判断能力があるかといえば論理的に判断する能力が失われておらずとも無いのではないかという実感がある。
社会通念として憲法や法律の前提にまでなっている天賦の資質であるはずの善悪の判断能力が大分失われている状態であるのに論理性が失われていないというのは少しおかしく感じられるかもしれないが、勉強しているとそんな人にしょっちゅう出くわす。
生命科学や医者など、生物に関連する学科や分野で偏差値が高いところに行けばいくほど目分量では密度が高くなっていく気がする。
場所によっては、そうなっていなければ教えを信じてきよい心を保っているか勉強をしないで人間関係形成や利益の相互交換という有益な活動を行い試験を有利に進める材料をプレゼントされた人物かもしれないと僻まれてしまうかもしれない。
そういう人物の特徴として字が汚く、自分で買い物をする時にメモに書く品目がすぐに決まらなかったり、決めないで行くとスーパーマーケットで右往左往するわけだが、大体のところ親の希望としてその状態にならないように勉強も運動もさせたことをその人は私と一緒に知るべきだったと感じている。
周囲の人物が精神病と断定しエンガチョをしかねないし、就職も危うく、実際に精神病で危険人物だと言えなくもないのだが心を温めて感覚を呼び起こさせてやると良いことをするかもしれないということを周囲に知ってほしいと思っている。