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精神科と経済学の誤りは元が同じ

2013-05-04 10:56:59 | 科学っぽい思考

ワルラスという人が唱えたワルラスの法則という法則があるのだが、最近決定的に誤っているような気がしている。

そもそも、ワルラスの考えが根本的に誤っていたからだが、かなり後になっても人間はその間違いを賢愚を問わずいきわたらせていたように思う。


 三三 そこでこのことから二つの問題が生じてくる。
 まず分業の無い場合と同じく、分業が行われる場合にも、社会的富の産業的生産は単に豊富でなければならぬのみでなく、またよく釣合を保っていなければならぬ。稀少なある物が過剰に増加せられていながら、他の物の量が不充分に増加せられていてはならぬ。ある間接的利用が大規模に直接的利用に変化されていながら、他の間接的利用が不充分な程度にしか直接的利用に変形せられていないようであってはならぬ。もし我々の各々が自ら百姓の仕事も、大工の仕事も、技師の仕事もするとすれば、これらそれぞれの仕事を自ら必要と信ずるだけするであろう。同様に職業が分化している場合にも、製造工業家が多過ぎて、他方百姓が少な過ぎるようなことがあってはならない。
 次に、分業が行われない場合と同じく、分業が行われる場合にも、社会における人々の間に行われる社会的富の分配が、公平でなければならぬ。経済的秩序が乱れていてはならぬように、道徳的秩序が乱れていてはならない。もし我々の各々が、自ら消費する一切の物を自ら生産し、自ら生産する物しか消費しないとすれば、生産が消費の必要を目的として規制せられるのみならず、消費もまたその生産の大きさによって決定せられるであろう。ところで職業の分化があったからとて、ある者が僅少な生産をなしながら、多量の消費をなし、ある他の者が多くの多くの生産をなしながら、わずかの消費しかなし得ないようであってはならない。
 かくてこれら二つの問題の重要さも了解せられ、またこれらの問題に与えられた種々なる解答の意味も了解せられ得よう。同業組合、職工組合、親方の制度は、特に生産の釣合の条件を充すことを目的としているのは明らかである。商工業自由の制度すなわち普通にレッセ・フェール、レッセ・パッセの制度と呼ばれるものは、釣合の条件と、富を豊富ならしめる条件とをよく調和しようとする主張をもっている。この制度に先行した奴隷制度、農奴の制度は、社会のある階級をある他の階級の利益のために労働せしめたという不便を明らかにもっていた。現在見る如き所有権及び租税の制度は、人間による人間の搾取を完全に廃止したといわれる。私共は後にそれを検しよう。
 三四 今はただ二つの問題の存在を認め、次にそれらの目的を確定した後、それらの性質を精確にするという一つの事をなすに止める。さてコックランとその派の経済学者がいかにいおうと、社会的富の生産問題にはもちろん、その分配問題にも、自然科学の問題の性質を与えることはまずもって不可能である。人の意志は、社会的な生産の事実に対しても、分配の事実に対しても、自由に働く。ただ分配の場合には、人の意志は正義を考慮して働き、生産の場合には利益を考慮して働く。実際技術的産業の事実と私が右に定義したような経済的生産の事実との間には、性質の相異はない。二つの事実は相互に関係をもっていて、一方は他方を補完する。二つは共に人間的事実であって自然的事実ではない。かつ二つは共に産業的事実であって道徳的事実ではない。けだし二つは共に、物の目的を人格の目的に従属せしめることを目的とする人格と物との関係から成立しているから。
 故に社会的富の経済的生産の理論すなわち分業を基礎とする産業組織の理論は応用科学である。我々がそれを名附けて応用経済学※(アキュートアクセント付きE小文字)conomie politique appliqu※(アキュートアクセント付きE小文字)e)というゆえんはここにある。
 三五 既に明らかにしたように、量において限られて利用がある物のみが専有せられ、またこのような物はすべて専有せられる(第二三節)。そしてこのような物のみが専有せられ、またこのような物がすべて専有されていることは、ただ我々の周囲を眺めれば、直ちに認められる。利用の無い物[#「物」は底本では「者」]は見捨てられ、利用があっても量において無限な物は、共有の領域に見捨てられる。これに反し稀少な物は引込められていて、最初に来る人といえどももはやこれを自由にすることが出来ない。
 稀少な物すなわち社会的富の専有は人間的事実であって、自然的事実ではない。その起源は人間の意志と行動にあって、自然力の活動にあるのではない。
 利用があって量において無限な物が専有せられることがあっても、もちろんそれは我々によるのではない。また利用があって量において限られた物が専有せられないことがあっても、もちろんそれは我々によるのではない。しかし専有の自然的条件が一度充されれば、この専有はある仕方で行われ、他の仕方では行われないというのは、我々によるのである。もちろんそれは個々の人によるのではなく、我々の全体によるのである。それは、各人の個人的意志にその起源を有する人間的事実である。実に人の創意は、専有の事実を欲するままに修正するように、この事実に対し過去において働いたのであり、現在働きつつあり、また働くであろう。社会の成立の当初においては分業を行った人々の間の物の専有すなわち社会的富の分配は、合理的条件を全く離れて行われたのではないにせよ、おおむね力に制せられ、策略に制せられ、偶然に制せられて行われた。最も大胆[#「大胆」は底本では「大謄」]な者、最も強い者、最も巧妙な者、最も好運な者が最もよい分け前を得、他の者はその残部を、すなわち僅少な物を得たか、またはほとんど全く何ものも得ていなかったのである。しかし政治と同じように所有権もまた、当初の無秩序な事実から、秩序ある最後の原理へと、徐々に進んできた。要するに自然は専有せられ得る状態を作ったのに止り、専有の状態を作ったのは人間である。
 三六 かつまた、人間による物の専有すなわち社会の人々の間における社会的富の分配は、道徳的事実であって、産業的事実ではない。人格と人格との関係である。


 これはワルラスの著書「純粋経済学要論」の一部だが、赤文字の部分でデカルトと同じく心身二元論を採用して経済学と自然科学を分離している。

 精神に関するものも昔はこの立場に立ったものが主な立場を占め、精神医学を自然科学から分離するということを本当に行ったのだ。

 ワルラスの法則に話を戻すと、この法則は、「すべての市場の超過需要の和はゼロになる」というものであるが、需要と供給が太陽や海、大気の活動、人の考え、以前の行動に従属していなければいえる机上の数式上の法則であってほとんどすべてがよく見ると例外になるのではないかと考えられ、実際世界でほかの現象にまぎれずに観測された事例がざっと見た感じではほとんどない。

 感じがあっているようではあっても、やはり実際にワルラスは確かめて書いたわけではなかったようなので、これが事実であるとするのは間違いで、ある特殊な状況でそのように動くのではないかという説であると本当は考えなければならなかったように思う。

 経済学を実際にあわせるより、この法則が働く特殊な状況に経済を変えていったほうが楽なのかもしれずそういう人もいるにはいるようだ。

 


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