小倉百人一首シリーズ、第2弾。
今回は持統天皇。
春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天のかぐやま。
奈良に行く前に、「持統天皇 ゆかりの地」でググってみたら
あるもんですねぇ。
持統天皇 所縁の地はここをクリック
素直にこのコースをたどってみました。(^_^;)。
新幹線で京都まで行き、そのまま、出口を出て正面にある近鉄へ乗り継いだんですが
近鉄特急の特急券は、スマホの近鉄のアプリで事前に確保してあったんで
乗り継ぎ時間を心配する事無しに、余裕のよっちゃんでホームでたたずむことができました。
ありがとう、近鉄さん。
名古屋から近鉄、京都から近鉄、どちらがどれくらい金と時間が違うのか次回は調べてみたいな。
でも、新幹線名古屋駅から近鉄って、結構歩かされるイメージがあるんです。(あくまでイメージ)
さて京都駅から大和八木駅まで1時間ほど。
ウトウトしながら…ほどなく…って感じで大和八木駅に到着。
下調べしてあったとおり、駅南でレンタサイクルで自転車を拝借。(1,000円/1日/電動)
生まれて初めて乗る電動自転車に感動。
そうかあ。
こんなふうに動く物なんだ。
確かに、出だしは、速度が早く、軽い抵抗で動くんで戸惑うなあ。
で…ここで、さらに戸惑いまして。
いつもは歩きで探索していく俺ですから
自転車の速度の頭がついていかなくて周囲の風景の流れる速度に目が回る。
だいたい、どちらに進めばいいのか?
方向はあってるのか?
地図を見ながら走るわけにもいかず、うーむと思案。。
思いついたのが、GOOGLEのナビ。
音声で右だ左だとか言ってくれるんで、重宝しました。
次回はスマホを自転車のハンドルにはさんでおけるようなグッズを持って行こうかな。
なかなか片手に持って運転するというのは結構危なかしくて。
でも、バッテリーの減り方が気になってしょうがないんだけどね。
下つ道
下つ道?…さあ、わかんねぇ。笑。
そもそも、聞いたことの無い言葉だし。しらんもん。
とりあえず、道なりに自転車をけったくって
交差点で…お?
「下つ道」って記された石発見。
上でリンクしているサイトから引用
「大和盆地を縦断する道で、
藤原京の造営が進む中、持統女帝が視察した大路は、この下ツ道であると考えられています。
下ツ道や横大路は藤原京設計の基準線となっただけでなく、
都の幹線道路として重要な役割を果たしました。
藤原京は奈良盆地を東西・南北に縦断する古道によって周辺地域とつながっていたのです。
下ツ道は平城京の朱雀大路へもつながり、平城宮朱雀門にまで至ります。
現在も橿原市に残る古道です。」
ってことは、持統天皇は、藤原京の前の都に住んでいたわけで…
藤原京の前の都はなんだっけ?
ググってみました。
643年 飛鳥板葺宮 皇極天皇
645年 難波長柄豊崎宮 孝徳天皇
655年 飛鳥宮 斉明天皇(皇極天皇)
667年 近江大津宮 天智天皇
672年 飛鳥浄御原宮 天武天皇
694年 藤原京 持統天皇
710年 平城京 元明天皇
740~745年 恭仁京、難波宮、紫香楽宮、平城京 聖武天皇
784年 長岡京 桓武天皇
794年 平安京 桓武天皇
なるほど、
飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや、あすかきよみがはらのみや)なわけか。
持統天皇は、この飛鳥浄御原宮で藤原京ができるのを楽しみにしていたわけだね。
そういや、ロードオブザリングで「中つ国」って言葉でてきたし
山岸凉子さんの銀の三角でも、「富める中つ国」ってでてこなかったっけ?
あれ?それって萩尾望都さんの「11人いる!」だっけ?
この場合の「つ」って「の」なんだろうね。
下ツ道が、いまひとつ、実感できないまま、それはそれでいいとして、次。
本薬師寺に向かいます。
方向に自信のないまま、ひたすら、自転車をけったくって、行きつ戻りつを繰り返し…
そして訪ねてみると、医王院(白鳳山醫王院)が、本薬師寺跡にありました。
いや、もしかしたら、本薬師寺跡が医王院(白鳳山醫王院)の
境内にあるというのが正解かもしれません。
本薬師寺跡…以下、「かしはら探訪ナビ」から引用。
「現在奈良市の西の京にある薬師寺(やくしじ)の前身にあたる寺です。
天武(てんむ)天皇が後の持統(じとう)天皇である皇后の病気平癒のため祈願して、
天武9年(680年)に薬師如来を本尊とする寺の建立に着手。
完成しないうちに天武天皇が崩御したので、持統天皇がその遺志を継いで完成させました。
当時は、金堂や東西に二つの塔がありました。
平城遷都に伴って寺は伽藍ともども西の京へ移築されたと言われていましたが、
別々に造られたという説が有力です。
それ以来、この寺は本薬師寺(もとやくしじ)と呼ばれるようになりました。
いま、寺には小堂が建っているばかりですが、
前庭にあたる跡地には金堂の礎石や東西両塔の上壇、塔の心礎などが残されています。
現在、その背景には畝傍山(うねびやま)が望めますが
その光景はいかにも天皇が発願した官寺跡にふさわしいものです。」
とのこと。
夫が妻の病平癒のために建立しちゃったお寺さんが薬師寺だったんだ。
完成する前に、その夫が没しちゃって、
病気から平癒した妻が完成させたっていうから、なんだかすごい。(^_^;)
花吹雪の中、しばし時間が経つのを忘れ、頬を撫ぜる風に古(いにしえ)を偲びました。
さ、次は…と。
示されたコースでは、藤原宮となんたら神社だったんですが、
まず先に持統天皇陵を見たいと思い立ち
通り道にある「藤原京朱雀大路跡」を拝見。
例によって、ここも「跡」なんで、「跡」しかありません。
「跡形もない」よりはいいってもんです。
ここに、其の昔、大路があって、それが平城京まで伸びていて
いろんな人が行き来して…と想像々々…想像で楽しみました。
道路を挟んで、金網フェンスの向う側に
「藤原の 古りにし里の 秋萩は 咲きて散りにき 君待ちかねて」の歌碑がありましたが、
さりげなく存在していて、かつ、傷みが結構来ていて、目につきにくいかもしれません。
さ。
自転車で東進。
地図で見ると目の前にあるのが、あの「天の香具山」のはず。
衣を干すという「天の香具山」。
夏、この山の周囲で、白っぽい衣を干していたんでしょうねぇ…。
春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天のかぐやま
春過ぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天のかぐやま
香具山へ登ってみようかと思ったんですが、さすがに時間が許してくれそうにもありませんし
持統天皇も、山頂からあの歌を歌ったわけでもないようですから、今回はパス。
自転車を進め、「雷」という交差点に到着。
何やら、謂れがありそうな…。
ほどなく、ルートにあった石神遺跡に到着…でも、びっくりするくらいちゃちぃ。
説明板の上の四角で囲まれたところが遺跡らしいです。
ひぃぃぃぃ。
でも、上でリンクしているサイトには
「 迎賓館の跡で、噴水機能をもつ須弥山石や石人像といった石造物が、この遺跡の一角から掘り出されています。
斉明女帝の時代には、東北に住む蝦夷や南九州に住む隼人、また外国使節を迎え、
饗応するためにつくられたと考えられ、
女帝が目指した国づくりや都づくりの象徴でもありました。
持統朝では武器庫があったとの説もあります。」
と記されていて、いよいよ、空想力を試される状況になってきました。
あの四角から迎賓館を想像しなくてはならないのは、きつい。笑。
隣接していた道の駅みたいなところでお弁当を購入。
んでもって、持統天皇のお父さんの天智天皇が置いたという水時計の「跡」も鑑賞。
腹も朽ちたことだし、さらに自転車をけったくります。
途中、真っ赤な花が咲いていたんですが、これも桜なんでしょうか???
さあ、天皇陵までもう少し…のはず。
坂を下ったところに天皇陵がありました。
天武天皇と持統天皇は一緒にいらっしゃるとのことで
夫婦で眠っているってことになります。
んでもって、持統天皇は、初めて火葬された天皇だそうです。
さあ、ここからは戻り道。
さっき下ってきた坂を上らなきゃなりません。
電動自転車、頑張れ。
藤原京跡に行く前に
ちょっと迂回して
前から見たかった、巨石遺跡を経由することにしました。
「亀石」
「石舞台」
「酒舟石」
その昔、マンガの「三つ目がとおる」で描かれてました。
浪漫です。
「亀石」、立ち寄りました。
あれまあ、こんなにも唐突に
普通に民家の横に存在してるんだ。
不思議。
自転車を進ませて、川原寺跡。
また、「跡」。(^_^;)
「川原寺は、飛鳥寺、薬師寺、大官大寺と並ぶ飛鳥の四大寺に数えられ、
7世紀半ばの天智天皇の時代に建立されたものと思われるが、
正史『日本書紀』にはこの寺の創建に関する記述がない。
そのため創建の時期や事情については長年議論され、さまざまな説があり、「謎の大寺」とも言われている。
平城京遷都とともに他の三大寺(飛鳥寺、薬師寺、大官大寺)は
その本拠を平城京へ移したが、川原寺は移転せず、飛鳥の地にとどまった」
「」内は、Wikipediaからの引用です。
基礎だけ残るのが、川原寺跡。
上の説明だと、飛鳥四大寺のひとつ。
川原寺跡のお向かいにある橘寺へ。
桜が見事でした。
「橘寺(たちばなでら)は、奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺院。
正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、 本尊は聖徳太子・如意輪観音。
橘寺という名は、垂仁天皇の命により
不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。
橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、
寺院は聖徳太子建立七大寺の1つとされている。
太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。」
「」内はWikipediaからの引用です。
お爺ちゃんがお孫さんと桜の木の下で自撮りしていたり
キャラクター物のコスプレ?をした人を桜の木の下で写真を撮っていたりと
桜、満開!
橘寺の遠景です。
さあ、ここから石舞台に向かいます。
石舞台は、一説には蘇我馬子のお墓であると言われているようです。
なぜ、この墓石?が
いつのまにやら
剥き出しになって
かつ
今まで残されてきたのか。
桜に囲まれた石舞台古墳。
しっかり入場料を取られます。
石舞台の下にも入れます。
石はつるつる。
ここに蘇我馬子が葬られていたんですねぇ…。
石舞台古墳は、人がいっぱいでにぎやかでした。
駐車場も満車で、
交通整理されている方も四苦八苦しているようでした。
石舞台古墳から、
ちゃりんこをゆるりと走らせて10分程度でしょうか。
飛鳥板蓋宮跡に到着です。
調べてみると、
同じ場所に飛鳥浄御原宮もあったようです。
中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を殺めた、
大化の改新(最近じゃ、乙巳の変と言うらしい。)が勃発したのもこの辺りだそうです。
道ながら
自転車を10ほど走らせて、酒舟石。
住宅街を抜けた山の中、階段をかけあがること1分。
ぜぇぜぇ…。
巨石遺跡って、どうして唐突にあるんでしょうかねぇ。
ロマンです。
夏にここに来ると
たぶん、ヤブ蚊がいっぱいだろうなあ。
春で良かった。
酒舟石を後にして、次は、飛鳥寺。
飛鳥大仏を拝してきました。
大仏様の写真もOKだったようなんですが、畏れ多くて撮りませんでした。
門前にあった土産物屋さんで。軽めの昼食。
「酥」を試食することができました。
土産に買いたかったけど、要冷蔵だったんで無理。
チーズのような…うん、奈良時代の貴族の気分に浸れました。
藤原京までの帰り道の地図を見ると、大官大寺「跡」も寄れそうです。
飛鳥寺、薬師寺、川原寺と並ぶ「飛鳥の四大寺」のひとつだったそうで
せっかくなんで、4つとも訪れてやろうと思い、行ってみました。
で、行ってみてびっくり。
跡形もありませんでした。笑。
でもまあ、ここにお寺があったんだと思えばいいし。
見事に周囲は畑ばかり。
次は、畝尾都多本神社。
うっかりすると通り過ぎてしまうくらいの控えめな神社の入り口。
車の通りが激しくてなかなか神社側に渡れなかったです。
天武天皇の息子で、政治を牽引した高市皇子。
その妃である檜隈女王が夫の延命を願ったとのいわれがある神社です。
檜隈女王が、
「哭澤の 神社(もり)に神酒据(みわす)ゑ 祈れども 我が大君は 高日(たかひ)知らしぬ」
と詠んだといわれる万葉歌碑が境内にあります。
とサイトにあったんですが
持統天皇との所縁がよくわかりませんでした。
勉強不足ですいません。
で、最後の目的地、「藤原京跡」。
田んぼのような畑のような公園のような…。
車がいっぱい停まっていました。
むぅ。
ここに持統天皇が都を作ったんですねぇ…。
朱色の柱群。
公園になっているようでした。
さ、近鉄に乗って京都に行きます。
京の宿は、例によって、ここ。
ネットで宿泊予約をするとカレーをくださるキャンペーン中でした。
今回も、コンビニ飯。
独りで飲み屋に行けたらいいんですが
基本、人間苦手な俺ですんで。苦笑。
ふぅ。
おやすみなさい。