ワクチンが無かったら、
もうとっくに即死しているはずの者として
死ぬのはどういうことかについて
我流の所見をまとめてみることにした。
私は死への恐怖が無い。
恐怖より、死後残った者が背負う手続きなどが
煩わしいだろうと思う程度だ。
私が死んだら、夫が真っ先に困る。
私は死、そのものから分離されてしまっているが、
残った夫が私の死100%を背負うことになる。
死体の処理、役所の手続き、
警察の死因調査、遺品の処理、
銀行や各種アカウントの管理など、
全てを終えるまで悲しむ暇も無いだろう。
死は生きている間、
恐怖に怯えるだろうが、
ゆっくり構えるだろうが、結果は同じなのである。
お金持ちも貧乏も同じ結果でおしまいになる。
平等そのものなのだ。
なんていうか、私は自分に飽きてしまっているから、
自分に疲れを感じる時が多い。
そんな疲れがくる時は、坐禅をして、
バブルのような思案を鎮める。
言えば、死について冷笑的かもしれない。
コロナの症状で何十分間、
激しい咳込みをしている時、
死ぬ、死なない境界線があまりにも薄いことに驚いた。
息ができない、コントロール不可能な咳込みの中、
なにかの力で生かされていることに気がついた。
私を死なせないその力は、
ワクチンだったかもしれないし、
与えられた寿命だったかもしれない。
逆に、夫には私がまだ必要だったからかもしれない。
かと言って、私は、自殺願望や鬱は全く無い。
でも生きようとすがりついたことも無い。
死はただ自分という自我観念が消滅し、
一人の人体が死体になることである。
炭素から起因して、炭素に還元する。
炭素から始まり、炭素に帰化する、
それだけのことである。
補足など:
今回の記事に対する対訳は
コロナ完全回復したらアップする予定です。
英訳を意識しないで、
思ったことを自由に書けるのって
本当に気楽ですね。
今までは、自分が書きたいことも英訳を意識し、
頭の中で編集していたかもしれません。
書きながら母国語の韓国語とのバランスも
全く計算しなかったし、
頭に浮かぶことだけに集中できました。
コロナで皮肉にも
人の温もりを感じたことは予想外でしたね。
また、コロナで死も味わえたし、
生かされていることに感激、感謝することもできました。
不思議な世の中ですね。