少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

自分を見る

2005-02-28 23:11:41 | 哲学
人は自分を見ることが出来ない。

鏡に映った姿はあくまでも虚像だ。本当の自分を見ることは出来ない。

自分と一番近くにいるのに、自分自身を見ることは出来ない、誰も。

それは体を見ることが出来ないというだけのことではない。

自分の性格や自分のしていること、そういう全ての自分のことを知ることも出来ないのだ。

でも、他人のことは見ることができる。なぜか他の人の行動は落ち着いて見ていられるのだ。

だから、自分を知ろうと思ったら、他人に働きかけるべきである。

人の忠告に目を向けよう。自分への批判を正面から受け止めよう。

そうすれば他人の目を通して自分を見つけることが出来るかもしれない。

多分、それは他人でなくてもいい。自然であっても仕事であっても、自分の外へのアプローチは自分を知るためのプロセスだ。

自分の外へのアプローチを続けていくとだんだん見えてくるに違いない。

自分の内と外は実は同じだということに。

全ては溶融して一つになっていく。善も悪もそこにはない。

身の回りのあちこちに自分はある。

夜空に輝く星の中にも自分はある。

全ては一つに。一つは全てに。

本当かなあ。。

シルビF2.8(続き)

2005-02-27 20:13:38 | 写真
シルビで撮った写真を焼き付けた。キャビネサイズで焼いたものはとてもはっきりしていて良い出来だ。このくらい写れば十分だろう。

6切りに引き伸ばすと、やや周辺の像が崩れた感じがする。

通常の現像条件で現像したが、結構濃いネガになった。6つ切りではF8,13秒くらいの露光量になった。まだ、つめ切れていない条件がたくさんあるに違いない。写真を撮るときから、最後に焼付けをするまで心身がピシッとしていないと上手くいかない。どこか一点でも欠けると思い通りの写真はできないのだ。

グレーカードを使っての実験もしたが、時間切れで今週は焼付けは出来ず。また今度ということで。

シルビF2.8

2005-02-26 21:32:15 | 写真
クラッセがいなくなって、知り合い(正確には部下)からシルビF2.8を借りて使ってみた。

38mmの焦点距離になれていたせいか、24mmという広角レンズはとても新鮮だった。これじゃ入らないなあと思ってファインダーをのぞくと、楽勝でフレームに収まってくれる。すごく気持ちがいい。わいわいやっているときにスナップをパシャパシャやるには最適の焦点距離だと思う。

ズームも50mmまであるが、どうも単焦点のカメラばかり使っていたせいか、ウイーってレンズが動くとデジカメっぽい感じがしてしまう。まあ好き好きの問題だけど。

小さなボディでちょっとかばんに入れておいて毎日気に入った写真を撮るにはとてもいいカメラだ。

ただ、ボディの裏面はちょっとチープな感じの液晶画面、そして色気も何もないファインダー。まあ3万円しないカメラだから、機能重視にあるのは仕方がないところだろう。エレガントさをこのカメラに求めるのは酷というものなのはよく分かっているのだが。あっ、もう一つ。フォーカスロックがいつかかったがよくわからないのも今ひとつかなあ。

まだ、ナチュラのモニタは送ってこないけど、ヨドバシで見たときナチュラのファインダーの華奢さがやっぱり気になった。

たしか、ライカとかのレンジファインダーでは外ツケのいろんなファインダーがあったと思う。昔はそんなのぞき窓どうでもいいと思っていたのに、今はファインダーにこだわる人たちの気持ちがよく分かる。きりっとした抜けの良い視界のファインダーはとても大切だと思う。ファインダーの視野にフレームとかが全く何もないのはまずけど、だからといってゴテゴテと数字だらけもいただけない。

今日、フィルムの現像だけやった。明日印画紙に焼き付けてみるつもり。細かい描写はどうだろう。楽しみだ。

何かを言うこと

2005-02-25 23:27:59 | 哲学
何かを言うこと。

それがいいことでも悪いことでも。

何かを言うこと。

たとえば「この花は美しい」

といえば、「この花は美しくない」

という表現が必然的に生まれる。

どんなに最もなことでも、必ずその反対の言葉が存在する。

ある瞬間には、その言葉が絶対正しいと思っても、世界はいつも変化しているから、その反対の言葉が正しいと言えるときが必ず来る。

何かを言うこと。それは、いつか必ず否定される運命にあるのだ。

そのことが分かってもなお、何かを言わなければならないのだろうか。

何も言わなければ、何もしなくてもすむ。誰も傷つけなくてもすむ。

いや、そうではない。何も言わないこと、それ自身が実は表現なのだ。

黙っていても、何かを言っているのと同じことなのだ。

表現することは生きることと同じなのかもしれない。

それが無駄と分かっていても、必死に演技をし続ける。それが人生を美しく彩るのだろう。

美しく生きることはそれほど大事なことなのだろうか。

こんなにつらくても生き続けなければいけないのだろうか。

理科の授業

2005-02-24 21:00:00 | その他
今日は、都内のある区の中学校の理科の先生たちに一時間ほど話をした。

一応技術屋なので、そこそこの話はできるつもりだ。まあ、楽しんでもらえるくらいの話にはなったと思う。

理科の教材の話になったとき、機材を買う基準は何かという話になった。言われてみれば当たりまえ何だけど、先生はこの機材で何時間の授業が出来るかということを考えるらしい。

もちろん、いろんなことが出来ればそれに越したことはないのだけれど、先生も少ない人数であれやこれややっているわけで、自分で新しい実験を考えている暇はなかなかないらしいのだ。

好奇心をくすぐりながら、なんとなく分かった気にさせてくれるような機材、あるいはコンテンツが求められている。

今ある教材というのは、何と言うか教科書的で、やる前から答えが分かっているようなものばかりだ。そういう教材は、教える方は楽かもしれないけど、はっきり言ってつまらない。

答えなんか出なくても、へーーーって感じの実験がいいんじゃないかなあ。

実際の技術開発は、まさにへーーーの連続だ。これをちょっとでも教育に向けてあげれば、きっと理科離れなんてどっかへ飛んでいてつぃまうと思う。

ちょっと何か作ってみようかなあ。

スケッチと翻訳の関係

2005-02-23 23:12:42 | 哲学
昨日スケッチの2つのモードについて書いた。

後から考えると、あの話って他のいろんなこととも同じだなあと思えるようになった。

たとえば翻訳。

翻訳をするときには一文一文の内容をきちんと訳していくことが大切に違いない。それは、単に訳があっているというだけではだめで、a や the といった指示代名詞の使い方一つにまで注意をいきわたらせないと、作者の意図はきちんと伝わらない。

しかし、一方では作品全体を流れるストーリーというか流れを意識しなければ、これまたバランスの悪い翻訳になるだろう。

スケッチと全く同じ構造がここにある。平均値と3シグマの外みたいな関係といってもいいかもしれない。どちら片方だけでは現象の全てを語ることは出来ないのだ。

クレーターのスケッチ

2005-02-22 22:15:36 | 天体観測
しばらく天気が悪く観測できなかったが、久しぶりに満月に近い月を観測した。今日見たのはバイイという南東部にある大きなクレーター。海と言ってもいいくらいの立派な大きさだ。

スケッチをするときに今日考えたことは「認識」について。

望遠鏡でクレーターをスケッチするときの仕方には2種類あるような気がする。一つは機械的に見えた構造を書き写していく作業。もう一つは見た図形を解釈して3次元の地形として認識してから描いていく方法。

前者の描き方は、ちょっと見るときちんと書き写して行くから間違いがないように思えるが、実際のところ大局的なバランスがだんだん崩れて最終的にはおかしなスケッチになってしまうような気がする。後者はちょっと時間はかかるけど出来上がりはこっちが数段いい。

目に入ってきた情報を出来るだけ先入観を捨てて描いていく。丸いクレーターも良く見るとちょっといびつになっていたり、一部に切れ間があったりする。ちょっと気を抜くと頭は「あっ、それは丸いクレーターね」見たいな認識をしてそれ以上の情報の取り込みをやめてしまう。丸いと思った外輪山にも良く見ると細かい構造が見えてくるのだ。中途半端に認識して言葉に置き換えてはいけない。どこまでも小さい構造に意識を向ける。

対象を3次元的に認識してから描くことと、どこまでもディテールまで観察して描くことはお互いに矛盾した話だ。地形を地形として認識した瞬間に、それ以上の詮索は行われなくなるからだ。どこまでもどこまでも観察を続け、どうにもならなくなったところで認識を行う。そういうプロセスを進めていく。

でも、全体のバランスいうか大きな構造の形も実は大切だ。部品の寄せ集めではいいスケッチにはならない。少なくとも後で「いいなあ」と思えるスケッチにはならない。

たかがスケッチ、されどスケッチ。なかなか難しいけど、楽しいね。

アレニウスと対数正規分布

2005-02-21 22:28:40 | その他
相変わらずアレニウスの式と格闘している。

インターネットで調べてみてもアレニウスの式についての記事は、どれも同じようなものばかり。その式のもっと踏み込んだ議論はさっぱり見つからない。まあ、案外インターネットというのは資料集めには役に立たないことが多いものだけど。それって、すぐ書き換えが出来るというコンピュータならではの特性に起因すると思う。

それはともかく、アレニウスプロットの意味とは、どうも「少数意見の尊重」ということらしいことが見えてきた。多数の意見は割り引いて、少数意見をかさ上げする。それがこの分析のココロだ。

温度が高い時、温度が高いだけに個々の分子のエネルギーはいろいろな値をとりうる。分子のエネルギーの平均値としての温度の信憑性はそれだけ低いことになる。それに対して温度の低いときは、分子のエネルギーも大体似たような低い値をとる。だからその温度の意味もそれだけ濃厚になるのだ。

温度が低いときの分子のエネルギー分布は狭く、温度が高くなると分子のエネルギー分布は広くなる。こういうときに分子のエネルギー分布は対数正規分布になるはずだ。対数正規分布とアレニウスの式が、だんだんつながってきた。面白い。

写真における意味のループ

2005-02-20 20:48:06 | 写真
今回、18%グレーカードからスタートして、印画紙に18%グレーを再現するまでのプロセスを行った。その間には温度や時間、かき混ぜ方、しぼりやフィルタ番号などたくさんのパラメータが存在する。

もともとそれらのパラメータは、現像するときに適当に決めることのできる独立したものであった。しかし、今18%グレーカードという基準を導入することによって、全てのプロセスが輪になってつながり始めた。その輪はゴムのようにまだふにゃふにゃしているが、以前のように全く自由に決めることは出来ない。

同じ結果を得るために相互のパラメータは依存し、ある制限の中でしか変化することは出来ない。いや、もちろん勝手に決めようと思えば決められるが、僕の中では輪につながっている。だから勝手に決めることは出来ないのだ。

全てのパラメータはもはやただの数字ではない。輪になってつながることによって、それらは意味を持ってくる。意味を持つためにはループを作る必要がある。

現像実験

2005-02-20 20:34:34 | 写真
フジのNEOPAN400で18%グレーシートを-4段から+5段まで露出を変えて撮影した。ISO感度は200として一段の減感。

現像はD76(1:1)で22℃、7分30秒。1分攪拌の後、30秒毎に7秒攪拌。パッケージのレシピでは8分15秒だから、1割弱の減感になる。

ちょうど適正露出に設定したコマのプリントが18%グレーカードと比べながら同じ濃度になるように印画紙の焼付け条件を選ぶ。今回はキャビネサイズでF11、フィルター#2、露出2.6秒となった。
ちょっと短めかな。

写真のような諧調の結果が得られた。(デジカメではダーク部の諧調がつぶれています)たったこれだけの結果を得るために丸2日かかった。

出来上がったプリントを露出計で注意深く計測するとゾーン2からゾーン8くらいまではほぼ1段づつのコントラストが得られていることが分かった。トータルで7段強くらいの諧調ということになる。

結構いい線いっていると思うが、ダーク部もハイライト部ももう少し延びて欲しいところだろう。焼付け時間も少し短いから、もうちょっと現像時間を長くしてネガ濃度を全体に上げ、焼付け時間ももう少し長くなればコントラストの良いプリントが出来ると思う。

前回、同じ条件で現像を行ったとき、非常に薄いネガになってしまった。原因をあれこれ考えたが、もしかすると停止液と定着液の温度管理をきちんとしていなかった(というか全然していなかった)ことがあるかと思い、今回はきちんと温度を測ってやった。だんだん細かいことが大切になってくる。使っている温度計も2本あるのだが、何と1度もずれていることも判明。まだ先は長い。