少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

身の回りでおこること

2006-05-31 22:10:47 | 哲学
身の回りで、思うに任せないことが起こる。

なんだかイライラすることが起こる。

それらにはもちろん、それなりの理由がある。僕のせいじゃない。

でも、そういうイライラすることというのは、自分がイライラすることだと思うからイライラするのである。イライラすることの根本的な原因は、実は自分の心の中にある。

と、毎日言い聞かせて生きている。目の前に展開されていることは、客観的事実でもなんでもない。自分の心の投影なのだと。

落ち着きを取り戻し、冷静に目の前を見ることによって、そういうイライラは消えていく。(はずだ)

でも、それは本当に僕のせいではないのか?本当に?

自分のどこが悪いと言うのだ。もう一人の自分は、いつもそうつぶやいている。

そんなバカなことを自分が原因で起こすわけがないじゃないかって。

そんな揺らぎの中に今日も時間が過ぎていく。

コケットリー;coquetterie

2006-05-30 22:25:01 | 哲学
コケティッシュと言う言葉のほうがポピュラーかもしれない。

辞書では

女性が見せる、なまめかしい物腰。媚(こび)。媚態(びたい)。

ということらしい。これは、山田登世子氏の本の中で何度も出てきた言葉である。この本によればコケットリーと言うのは隠すことによって中身を見せる(想像させる)ようなファッションのことである。ちょっと言葉が足りないのだけれど、それは中身としての女性の体に対峙する表面としてのファッションという考え方ではなくて、表と裏が表裏一体となった、クラインのつぼみたいなどっちともとれるような、とれないような微妙な絡み合いをさすのだと思う。

隠すことによって見せる。あるいは見せることによって隠す。そんな微妙なバランスの中に女性の美しさは光を帯びてくるのだろう。

そういうファッションと言うのは、ひと時も安定しない。いつもユラユラと揺らめいている。揺らぎの中の瞬間の輝きこそが大事なのだ。いや、揺らいでいるからこそ、光は輝きを増すに違いない。あまりにもろく、たちまち光を失っていくからこそ、その光は輝きを増す。美しさというのは、本質的にそういうものだと。

リアルとイマジナリーのせめぎあい。そこに美は宿る。

これ、いろんなことに応用できそうな話だと思う。ウェブページの作り方、商品のプロモーションの仕方、プロジェクトの進め方、きっとみんな同じだ。

印画紙のISOspeedとISOrange

2006-05-30 22:05:52 | 写真
印画紙を変えたらなんだかプリントがおかしくなってしまったので、二つの印画紙のパラメータを比較してみた。

富士バリグレード ISOspeed=P125-500 ISOrange=R60-130
三菱月光 MD-F ISOspeed=P200-640 ISOrange=R60-110

ということで、同じRCマルチグレードの紙でも特性はだいぶ違っていることが判明した。ものの本によるとISOspeedというのは、紙の露光感度のようなもので大きいほど感度が高い。フィルムのspeedと同じ。それからISOrangeは白から黒に焼き付けられる露光幅で、数が少ないほど幅が少なく硬調な紙ということになる。

そう思ってデータを見てみると、富士の紙は月光よりも1段分くらい暗いことがわかる。絞りを一段近く開けてやらないと同じ濃さの写真にならないわけだ。

また、露光幅の方も富士の低い号数ではやや幅が広く軟調な傾向があるようだ。号数が高くなるとどちらもR60で一緒と言うことになる。

もし、二つの印画紙の差がspeedだけなら、焼付けの時の露光量を加減すればいいはずである。真っ黒になる最短時間をきちんと計れば問題は解決する。しかし、rangeの方はそうは行かない。紙が軟調になるとすると、ネガの濃度幅も広くしないと、紙のダイナミックレンジを全て使えないことになってしまうからだ。ということは、このデータから行くとネガの濃度をあげてコントラストのはっきりしネガにしたほうがいいということになる。

現像したときは、もっとネガを薄くしてハイライトが伸びるように使用と思ったのだが、この分析では逆と出た。うーむ。難しい。

印画紙焼付けの時の露光時間が全然たりていないということかもしれないなあ。
そう思って露光量を比べてみたら、なんと感度が高い富士の方が露光量を一段絞って焼き付けていた。もっともっと光を当てないとダメなのに、ネガが薄くて上手くいっていないということか。やはりネガの現像量をあげるということか。


この調節が上手くいけば、富士のほうがダークに伸びのある写真が出来るはずである。その辺も注目してみたいな。

印画紙の感度差

2006-05-29 22:19:21 | 写真
製造中止になった三菱の月光を使っていたが、ついになくなってしまったので富士のバリグレードを買ってきた。両方ともRCペーパーだ。週末はその印画紙でいろいろと条件だしをやってみたが、どうも調子が出ない。

月光よりも富士はやや冷黒調の印象を受ける。それはいいとしても、プリントに深みが感じられない。ダークにしまりがないというか、ハイライトがすとんと真っ白になるというか、良く分からないけどモノクロ写真らしい深みが足りないのだ。

ブローニーフィルムでのゾーン諧調を調べてみると、ハイライトが飛んでしまっている。なんか、闇の中に入ってしまった感じ。メーカーのデータでもみてみようかな。

ファッションの技法

2006-05-29 22:07:17 | 哲学
山田登世子氏のファッションの技法と言う本を読んでいる。この本によると、ファッションと言うのは没個性と差別化という二つの矛盾した側面の狭間に存在するものだと言う。

モード(流行)を人々が追いかける。それは流行におくれず他の人と同じカッコウをしたい(没個性)という気持ちの表れである。そして、その流行は、毎年変わる。去年の服なんて流行遅れなのである。それはその変化ゆえに自らを主張する。つまり空間的には没個性であり、時間的には差別化という様相をファッションは持っているのだという。

そして、そうした没個性のモードの中においても、個人は完全にはその流行には一致しない。多少の時間遅れや先取り、によって個人は自己を主張する。それは流行と言う制服があるからこそ、可能な個性の主張なのだ。

うーむ。チョウ面白い。平均化と差別化、その二つの矛盾と、その狭間に存在する揺らぎ。それこそが「美」の本質だと。

まだ、本は半分ほどしか読んでいない。残りの半分が楽しみだ。しばらくファッションに注目してみたいと思う。そういや、僕は何本ネクタイもってたっけか?

ゆらぎ

2006-05-28 21:18:23 | 写真
35mmフィルムでかなりいい感じの現像条件を出すことができたので、今度はブローニーも同じ条件で現像をした。が、なんだかネガが濃すぎる感じ。

ちょうど古い液を10回使ったので新しいものに変えたばかりだったからかもしれないが、どうも35mmの時の条件では上手くいかない。ハイライトが完全に飛んでしまった感じだ。

ここぞと思った条件も、液やフィルムサイズが変わるとゆらゆらと揺らめいてしまう。ここにも揺らぎが表れる。こうすればいいという絶対的なレシピは存在しないのだ。いろいろな条件が重なって、それを完全にコントロールする事は出来ないのだ。

ここで如何に上手くネガをコントロールできるかが勝負だ。どうもブローニーはフィルムが高いので、実験が進まない。せっかくハッセルあるのになあ。


事実について

2006-05-27 07:56:55 | 哲学
先日テレビにもよく出演している寺島実郎氏の講演を聴く機会があった。経済に関する話で、聞き手を引き込む話術に1時間の講演はあっという間に終わってしまった。

その中身はここでは繰り返すまい。だが、寺島氏の描く世界経済の”事実”とはいったいなにかということが気になった。

世界には何十億と言う人々が様々な経済活動をしている。それらの総体は、言ってみればカオスである。ぐちゃぐちゃの雑音みたいなものだろう。

その雑音に、寺島氏はあるストーリーが進行中だと見る。それが事実だと。実際、盛んにデータをもとに客観的な分析に基づいた議論を展開していた。どの分析も言われてみれば、なるほどね、という感じの話だ。

人はなぜ氏の話を信じるのか。それは、かれがたくさんテレビに出て、大手商社の役員であり、世界中の有名経済人と交流があるからではないだろうか。そういう人の話が、間違っているはずがないではないか。

しかし、僕は思う。世界の実相が混沌だとすれば、どんな理論であってもそれを混沌に当てはめることは可能なはずである。それは、1億人の携帯電話の電波がまさに混沌とした雑音であるにもかかわらず、それぞれの電話機が、そのなかからちゃんと人の会話を抽出できるようなものである。雑音を情報と見るか、ただの雑音と見るかは、その電磁波のもともとの性質というよりも、受け取り手の問題なのである。

世界の経済と言う雑音の塊の中に寺島氏と言う人間をとおして抽出された情報が、彼の描く21世紀の世界経済の潮流なのだ。

そして、それは彼の自信によって裏打ちされている。彼のこれまでの実績と経験が、彼をしてその理論を事実に近づける。そして、その話を信じた多くの聴衆によって、さらにそれは事実になっていく。

事実とはそう言うものである。客観的な絶対的な存在などと言うものはお話に過ぎない。その時々の力のある人々の発言が、徐々に固まっていって「事実」になっていく。

2006-05-26 23:06:11 | 写真
ちょっと前にとったトレビ100Cのフィルムの現像が上がってきた。
中望遠でとった花の写真、例えばチュウリップやスミレ。

久しぶりのポジだったが、思わず綺麗な絵が撮れていてビックリした。何枚かをプリントして飾ることにしよう。

何枚かの写真が、露出オーバーでだめだった。あんなにいろいろ露出に気を使ってモノクロ写真をとっているのに。

なぜ露出を失敗したのだろう。もっとそこに踏み込みたい。

意味を考える。

2006-05-26 23:00:02 | 哲学
仕事でも趣味でも、思うに任せないことは良く起こる。いやほとんどがそうだろう。

それをいやなこととしていらだったり、がっかりしたりする。もちろんだ。

でも、その失敗には何かの意味があるはずだ。失敗した理由が。

それを考えたい、意味を考えたい。

写真を撮るとき、やっぱ現像したフィルムの条件を記録して、なぜ上手くいかなかったことを振り返りたい。一度しか使えないフィルムを使ったことへの罪滅ぼしに。それこそがフィルムへの愛情だ。

仕事もそう。なぜ上手くいかないのか。そもそも何を求めてやっていたのか。そしてその結果はなぜ生まれたのか。落ち着いて考えなかればいけない。

そしてほとんどの場合、その意味はディテールに宿っている。ささいなことに。

勝どき橋

2006-05-25 22:39:22 | 写真
今日は一日浜松町でコンファレンスに参加した。
午前中最後のセッションをさぼって、地下鉄で勝鬨橋に行った。昼間の勝鬨橋は銀色に塗料を塗られてピーカンの青空の下、たくさんの人や車を運んでいた。

NOKTON 40mm,F1.4をBESSAにつけて写真を撮った。家に帰って現像したが、なかなかいい感じに取れていた。あの橋のクラシックな形、いいなあ。以前からそのうち写真を撮りに行こうと思っていた。橋の上ばかりだとコントラストがあまりない写真になってしまうので、橋の下の暗い部分を織り交ぜながら、何枚かをフィルムに収めた。

そういえば、仕事に戻る途中に築地の場外市場を通った。たくさんの屋台のような見せの周りに、たくさんの人が群がって昼飯を食べる店を探して歩いていた。ここもまた写真にしたらいい感じの場所だった。今度はお腹をすかしてから行こうかな。

週末のプリントが楽しみだ。