大きな地震が発生すれば地震の専門家がテレビで解説をし、経済が低迷すると経済学の専門家が今後の株価の見通しについて解説をする。そりゃあ、我々シロウトには何が起こっているのかさっぱりわからないので、その道のプロにご意見を伺うのはもっとなことなのだろう。これが病気のことになると尚更だ。ある特定の疾患に関する専門医が登場して、可能性のある病気について詳しく説明したりする。極めて多岐にわたる疾病について一人の医者が全てを診断できるはずもなく、その道を究めた専門医が様々なデータをもとに診断を下していくのだ。こういう傾向は会社においても同じことである。ありとあらゆる業務は細分化され高度化されてきている。そして、プロの世界にいい加減は許されないのだから、その道の専門家と言われる人が極めて狭い分野について専門的業務を遂行する。社内に専門家がいなければ外部に委託をする。世の中専門家だらけと言ってもいいかもしれない。
すでにどこかで書いた気もするのだが、そういう専門家の発言に「きちんと対応することが肝心ですね。」とか「しっかりと全てを精査すべきです。」といったフレーズが多いことが気になって仕方がなかった。もちろん、全てをきちんと精査してきちんと対応することができれば良いに決まっているのだが、そんなことは専門家でなくてもわかったことではないかと思えたのだ。
そういう専門性に関して、前回のコラムでも紹介した参考文献の中に、次のような記述を見つけた。
「プロフェッショナルがその専門性を十分に活かすためには、専門領域の知識だけではどうにもならないということだ。なぜなら、一つの専門性は他の専門性とうまく編まれることがないと、現実の世界でみずからの専門性を全うすることができないからである。」
また、こうとも言っている。
「専門知というのは、それが適用される現場で、いつでも棚上げできる用意がなければ、プロの知とはいえないものである。専門知は、現時点で何が確実に言えて、何が言えないか、その限界を正確に掴んでいなければならない。」
そうだよなあと思う。残念ながら「きちんと対応することが肝心ですね。」という発言には、自らの専門性の限界は見えない。つまり、目の前に起こっている事柄は自分の専門性の傘の中に納まっているという立場とは言えないだろうか。
じゃあ、どうすればいいんだろうという話になる。それに対しては、次のような記述を見つけた。
「みずからの専門領域の内輪の符丁で相手を抑え込もうとするひとは、そもそもプロフェッショナルとして失格なのである。」
「「どんな専門家がいい専門家ですか?」返ってきた答えはごくシンプルで、高度な知識をもっているひとでも、責任をとってくれるひとでもなく、「いっしょに考えてくれるひと」というものだった。」
何だか引用だらけになってしまったが、こういうことってすごく大事なことではないかと思う。そういえば最近NHKのテレビに「総合診療医ドクターG」という番組がある。総合診療医というのは、特定の疾患に対する専門医の対極にあって、患者の訴えに耳を傾けて疾患の本質を見抜く医師だ。正しく診断を下した後は、専門医にバトンタッチして治療を行うわけだが、そうした専門医の隙間をうめる総合診療医のような立ち位置こそが、これからの時代に求められる専門家の一つの姿ではないかと思う。
参考文献:鷲田精一、しんがりの思想(反リーダーシップ論)2015年、角川文庫