後世物語聞書
ちかごろ浄土宗の善知識を訪ねて、京都東山のあたりにある念仏道場に参ってみますと、京都中の念仏者、畿内や全国各地の後世往生を願う者たち、おのおの真面目に、「衣は心と同じように染め、体は世俗とともに捨てましたよ」と見受けられる人々ばかり十四~五人が居並び、「どのようにしてこのたび往生の望みを遂げるべきか」と、このことを「私も、私も」と思い思いに尋ねていたちょうどそのとき、参り会って、さいわいに日ごろの不審をことごとく明らかにわからせてもらうことができました。その趣旨をすぐさま記録して、田舎の在家無智の人々のために執筆するつもりです。よくよく心を静めてご覧になってください。
ある人が質問していいました。「このようなあさましい無智の者も、念仏すれば極楽に生まれるとうかがって、それから一筋に念仏するのですが、ほんとうにそうである(極楽に生まれる)と思い定めることがないのですが、どうすればいいのでしょうか」
師が答えていいました。「念仏往生は、もともと戒を破り知恵のない者のためのものです。もし知恵が広くあって戒を完全に保つ身であれば、どの教えでも修行して、生死の苦しみを離れて悟りを得ることができるでしょう。それが我が身には不可能なのだからこそ、いま念仏して往生を願いなさい」
【1】 ちかごろ浄土宗の明師をたづねて、洛陽東山の辺にまします禅坊にまゐりてみれば、一京九重の念仏者、五畿七道の後世者たち、おのおのまめやかに、衣はこころとともに染め、身は世とともにすてたるよとみゆるひとびとのかぎり、十四五人ばかりならび居て、いかにしてかこのたび往生ののぞみをとぐべきと、これをわれもわれもとおもひおもひにたづねまうししときしも、まゐりあひて、さいはひに日ごろの不審ことごとくあきらめたり。そのおもむきたちどころにしるして、ゐなかの在家無智のひとびとのためにくだすなり。よくよくこころをしづめて御覧ずべし。
ちかごろ浄土宗の善知識を訪ねて、京都東山のあたりにある念仏道場に参ってみますと、京都中の念仏者、畿内や全国各地の後世往生を願う者たち、おのおの真面目に、「衣は心と同じように染め、体は世俗とともに捨てましたよ」と見受けられる人々ばかり十四~五人が居並び、「どのようにしてこのたび往生の望みを遂げるべきか」と、このことを「私も、私も」と思い思いに尋ねていたちょうどそのとき、参り会って、さいわいに日ごろの不審をことごとく明らかにわからせてもらうことができました。その趣旨をすぐさま記録して、田舎の在家無智の人々のために執筆するつもりです。よくよく心を静めてご覧になってください。
【2】 あるひと問うていはく、かかるあさましき無智のものも、念仏すれば極楽に生ずとうけたまはりて、そののちひとすぢに念仏すれども、まことしくさもありぬべしともおもひさだめたることも候はぬをば、いかがつかまつるべき。
師答へていはく、念仏往生はもとより破戒無智のもののためなり。もし智慧もひろく戒をもまつたくたもつ身ならば、いづれの教法なりとも修行して、生死をはなれ菩提を得べきなり。それがわが身にあたはねばこそ、いま念仏して往生をばねがへ。
ある人が質問していいました。「このようなあさましい無智の者も、念仏すれば極楽に生まれるとうかがって、それから一筋に念仏するのですが、ほんとうにそうである(極楽に生まれる)と思い定めることがないのですが、どうすればいいのでしょうか」
師が答えていいました。「念仏往生は、もともと戒を破り知恵のない者のためのものです。もし知恵が広くあって戒を完全に保つ身であれば、どの教えでも修行して、生死の苦しみを離れて悟りを得ることができるでしょう。それが我が身には不可能なのだからこそ、いま念仏して往生を願いなさい」
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