妄念の凡夫

日々是称名

TINTINの映画、見るべきか?

2011-11-29 00:49:17 | 日記・エッセイ・コラム
私「TINTINの今度の映画見に行こうよ」
配「いや」
私「なんで?」
配「二次元のマンガやったらかわいく見えるけど、CG実写はキモイ。ディズニーのBoltはかわいかったけど」
私「そうかあ。でもスピルバーグやでえ」
配「でも、キモイ。ロードショーで見る必要ないんとちゃうん。いずれDVD出るわ」
私「……」

Photo_2 25年前くらいにTINTINのイラストがプリントされたTシャツが流行っていて、ご多分にもれず、私も粋がって着ていた。グレーの生地にカラーのcartoonがすごく格好良かった。アレは正規ものだったのかどうか、現物がなくなったいまでは定かではない。そのあと福音館から出ているマンガ絵本をいくつか読んで、TINTINだと思っていたイヌが実はSNOWYで、前髪をちょっとだけ立ててほとんど刈り上げのサッパリした少年がTINTINだということを知った。
 さあてどうしよう。大劇場で見るべきか、DVD化を待つか……。

 ちなみに、TINTINはベルギー(フランス語圏)作家の作品なので「タンタン」。ところが、今度の映画は英語! ということは……。劇中でも主人公が、「I'm Tintin.」と英語でのたまう台詞があるらしい。
 ……すみません。小学生みたいなオチで。






悪食(あくじき)

2011-11-26 01:47:14 | 日記・エッセイ・コラム
4

↑「私、落ちている物を拾うだけですけど、それが何か?」




 ルパン(8歳)は、落ちている物をなんでも咥える。熟しすぎた柿、マクドナルドの袋、ボール、木の枝、他のイヌの糞、石、コンクリートの塊……。
「コラッ!」とリードをひっぱても後の祭り。取り上げようとすると、意地になって歯を食いしばる。

 今朝は困った。私がよそ見しているすきに路上の食らいついた獲物は、なんとネズミの死骸。
 口元からネズミの尻尾が垂れているではないか。以前、死んだ動物の骨を咥えて帰ってきたので、力尽くで取り上げたことがある。その晩、私は嘔吐が止まらなかった。緑色の液体まで口から出てきた。ノロウイルスにやられたのだ。ルパンはケロッとしてたのに……。
 そんな体験の再現はごめんだ。ルパンをなだめすかしたり、棒きれを揮わしたりして気を引きながら、なんとかネズミの死骸を取り上げ、空き地の向こうへ放り投げた。
 それから丸一日経ったが、何ともないようだ。とりあえずホッとする。明日腹痛で目が覚めたりして……>*0*<




信心決定とはなにか?

2011-11-24 01:26:11 | 仏教
 昨日の義秀先生による「正信偈」法座より。道綽襌師のところ。いままで漫然と読んできて、意味がよくわからなかった部分である。

三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引


三不三信の誨(おしえ)、慇懃にして、像末・法滅同じく非引す

三不信と三信の教えを、丁寧に諭され、三信の教えは、像法の世でも、末法の世でも、法が滅した世でも常に大きな慈悲で導いてくださることを明かされた。


 「三不信」とは自力の信である。なぜなら3つの特徴があるから。
1 信心不淳 → 信心があつくない。あるような、ないような…。
2 信心不一 → 信心が一つに定まっていない。疑心がある。
3 信心不相続→ 信心が続かない。余念が混じっている。

 それに対し、他力の信は「三信」である。 なぜなら3つの特徴があるから。
1 淳心   → 素直で心があつく、まことである信心。
2 一心   → 二心がない、ただ一つに定まった心。
3 相続心  → 疑いの心がなく、断絶することなく続く心。

 つまり、信心決定とは、どこまでいっても「三不信」の凡夫が、仏から「三信」の心を同時にいただくことなのだ。
 すなおに、二心なく一つに定まった、断絶することのない心にさせていただく……それらを一つに備えているのが、称えるように勧められた円満徳号「南無阿弥陀仏」なのである(円満徳号勧専称)。

↓曇鸞讃より
不如実修行といへること 鸞師釈してのたまはく

一者信心あつからず 若存若亡するゆゑに

二者信心一ならず 決定なきゆゑなれば

三者信心相続せず 余念間故とのべたまふ

三信展転相成す 行者こころにとどむべし

信心あつからざるゆゑに 決定の信なかりけり

決定の信なきゆゑに 念相続せざるなり

念相続せざるゆゑ 決定の信をえざるなり

決定の信えざるゆゑ 信心不純とのべたまふ

如実修行相応は 信心ひとつにさだめたり


↓現代語訳
 不如実修行(念仏をしているのに心が晴れないこと)といわれることを、曇鸞師は仰られた。
1つには、信心があつくない。ふらふらするからである。
2つには、信心は一つでない。決定していないからである。
3つには、信心が続かない。自力の心、疑いの心が混じるからである。

 三信(他力の信)は、(淳心と一心と相続心が)互いにはたらいて一つになるのである。

 念仏者は心にとどめなさい。

◇信心が素直でないから、定まった信心がないのである。
◇定まった信心がないから、念仏が続かないのである。
◇念仏が続かないから、定まった信心が得られないのである。
◇定まった信心が得られていないから、信心が不純であるといわれるのだ。

 それらに対し、如実修行相応(南無阿弥陀仏と申すところに私の迷いがたちまちに絶ち切られ、心が晴れて喜びの心にあふれていくこと)は、信心を一つに定めているのである。


南無阿弥陀仏


 





東京国立博物館 法然・親鸞展

2011-11-23 02:39:03 | 仏教
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 法然上人800回忌・親鸞聖人750回忌 特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」を見てきた。会社を休んで。
 平日なのにすごい人。これだけ集まるんだったら、日本の浄土門は安泰……かな。
 一番印象に残ったのが、親鸞聖人直筆の「浄肉文」(どういう内容かはコチラ)。肉食妻帯で知られる親鸞聖人だが、なんの懺悔もなく口にされたわけではないことがうかがわれる、いわばメモ書き。かなりの葛藤がおありになったのではないだろうか。
 午後からは場所を変えて、義秀先生の正信偈講座。道綽襌師のところ。私としては新たな発見があったのだが、それについては次回に。もう眠いので……。
 ともあれ、ご一緒していただいた方々、ありがとうございました。



収穫

2011-11-20 19:48:12 | 日記・エッセイ・コラム
実るほど頭を垂れる稲穂かな

芭蕉の句だったか(注:詠み人知らずでした)。しかし、空っぽでスカスカ頭のこの私が、ただただ頭を下げるしかなかった。

「世間で負け組やから、信心いただいて勝ち組になろうなんてムシがよすぎる」

「人生の悩みやつらさを抱えたまま、聞いてくださいというてるんや」

参りました。

……関係ないが、近鉄京都駅内にできたうどんやは、安くてうまかった。2玉入ったジャンボうどんが450円! 大きなお揚げも載っかっているのに。やわいうどんだがちゃんと腰があり、出汁も薄口。お気に入りの昼飯ポイントとしてブックマークしよう。